[1] | 川口 信さんからのコメント(2002年04月28日 09時12分35秒 ) | パスワード |
高田さん、初めまして。
平氏小松姓で検索しました。下記がみつかりました。
土佐国安芸郡の小松氏は小松殿といわれた平重盛の子孫といわれている。重盛は清盛の長男だっだが、40歳で父より先に死去し、その子維盛が源平合戦後、屋島から逃れて小松氏の祖となったという。現在でも安芸市では人口の6分の1が小松姓である。
出羽の小松氏は置賜郡小松村(山形県川西町)発祥。安倍貞任の弟正任の子孫という。
薩摩藩の家老にも小松氏がある。桓武平氏を称す。幕末小松清廉は家老となって国事に奔走し、明治29年孫の帯刀が伯爵を授けられた。
明治43年北白川宮能久親王の子輝久が独立して一家を興し、小松氏を賜って侯爵を授けられた。
男爵の小松氏は公家の石井氏の分家。桓武平氏高棟流。石井行弘の三男行敏が一家を興して小松氏を称し、明治18年男爵を授けられた。
現在は秋田県、長野県、高知県に多い。
また、甲州の小松家については「苗字のいわれ」にありました。
http://www.him.ne.jp/channel/knowledge/surname/index.html
菊紋を使用した件は皇室から賜ったものではなく、私的に用いたものではないかと思われます。
が「応仁後記」に斯波今川於(二)遠州(一)軍事の条に、三河臥蝶の住人大河内備前守欠綱が遠参両国の武士を味方に引き入れて党を結び、その家紋に十六の菊を用いたことから、菊一揆と言われた。と記されているが宗良親王とその子孫に関係のあった大河内家(十六葉菊)、四家七苗字党の真野家(葉割菊)、川村家(十六葉)、服部家(菊窠内十二菊)などを見るとあながちそうとも言えない気もするのですが。ちなみに宗良親王の末裔が入った大橋家の一族川口家(十二葉菊)を使用していたことがあります。
以上ざっと解かっていることを書きましたが他スレッドを見ると何かヒントを得ると思います。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月28日 10時42分33秒 ) | パスワード |
>昔、信濃の国大河内に宗良親王が住んでいたということで、
>その血筋の方と縁組があったと憶測しています。
>(宗良親王は北畠氏とも密接だったということで)
まさに伊勢尾張の南朝方で反信長のお家ですね。
浪合記など読まれるといいですよ。
大橋家(川口さまのお家)とか我が家と共に信濃まで転戦し
その後一向一揆(伊勢長島の戦い)でご一緒したというお家ですね。
川越の服部民俗資料館の服部氏の系統は武田家に仕えていました。
もし何か思い出したりお聞きになった事がございましたら
どうぞお書きになって下さいね。
[3] | 高田晃次さんからのコメント(2002年04月28日 12時15分40秒 ) | パスワード |
服部さん、川口さん有難う御座います。
あとからネットで調べてわかったことですが、小松式部が移り住んだ勝間村の隣村の
現在長谷村の浦という集落は昔から平家落人で知られ、ここの小松姓は平重盛系であるということでした。
式部の子の代に高遠城主仁科五郎盛信公が織田軍に攻められたとき、仁科に味方し戦っています。文献によると幕に菖蒲の印をつけ旗に裏菊の紋をかかげ、しろやまというところに陣を張ったとあります。結局、高遠城は落城してしまいその後仁科公の遺体を皆で近くの川原で荼毘に付し、現在五郎山といわれている山に埋葬したとあります。親子二代に渡り織田と戦うとは何かの因縁でしょうか。
ちなみに明治維新前の戊辰戦争のときは高遠藩士として新政府側につき、越後に参戦し、お殿様から紋付の同腹を賜っています。これは高遠の家に伝わる唯一の先祖の遺品です。何か悲しいですね。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月28日 13時00分32秒 ) | パスワード |
>何か悲しいですね。
分かる気がします・・・
[5] | たまねこさんからのコメント(2002年07月19日 18時58分05秒 ) | パスワード |
上横手雅敬氏の「源平争乱と平家物語」には、平維盛は3人の従者を連れて、密かに屋島を抜け出したのではなく、30艘の船を率いて、堂々と分派行動に出たことがかかれています。
法王に助命を乞うて、頼朝が鎌倉下向を望んだが、途中の相模国で病没したとされていますが…相模国のどのあたりだったのでしょう?箱根?小田原?
上記の著書には、最初から平家は九州を目指していた、貞義は九州に留まって出家した、熊谷直実の息子・小次郎は生きていたなど、史実に基づいた興味深い話が書かれています。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月21日 01時17分11秒 ) | パスワード |
高田さん
勝手にスレッドのタイトルを変えさせて頂きました。
>小松式部が移り住んだ勝間村の隣村の現在長谷村の浦という集落は
>昔から平家落人で知られ、
>ここの小松姓は平重盛系であるということでした。
そうなりますとご親戚ですね。
伊勢はもともと平家の父祖の土地ですから
何かあれば伊勢(や伊賀)に戻ったと思いますよ。
それに凄い山々がありますから隠れ住むのに適していたと思います。
皇竹さんのHPも参考になると思いますよ。
[7] | 皇竹さんからのコメント(2002年08月04日 17時45分20秒 ) | パスワード |
皆さん。お久しぶりです。ずいぶんご無沙汰していました。
その間大発展、 私など入る余地がないほどレベルアップ、浦島太郎の心境です。
ご無沙汰の理由:
というのもWin・XPに買い換え、デ−タ−を移しかえたら、そのソフトやデ−タ−が
XPのご機嫌をそこねてしまったらしいのです。
修復しては壊れの繰り返しで、しばらくNETは中断しておりました。
といって、そうこうもしておれないので、XPの方は現在入院治療に出し、
旧機器を納屋から出しでやっと再開いたしました。
で、どこから入ろうかと悩みましたが、伊勢に関連する話がでましたので、
ここから入ります。
高田晃次さん
>小松式部が移り住んだ勝間村の隣村の
>現在長谷村の浦という集落は昔から平家落人で知られ、
>ここの小松姓は平重盛系であるということでした。
手持ちの私の「小松寺資料(大沢利之氏)」に次のように紹介されてます。
長久寺:長野県上伊那郡長谷村浦
小松氏の先祖である平家の落人がこの地に入って、
天台宗忠海山長久寺を開いた。その後元和元年勝間の竜勝寺の末となる
ここに位牌が伝わる。碑文に
「国家一翁常夏信士・建保二年甲戊」とある。
この小松氏先祖については説があり、重盛本人説、その嫡子是維盛説、
末裔の小松右京太夫重森などがあり、はっきりしない。
またこの集落の中ほどに維盛の墳墓というものが残されている。
以上です。
又この近く塩見岳への入り口大鹿村にも維盛の伝説が残っていると聞いています。
>私の母方の祖母の旧姓は小松といい、文献では平維盛の子孫であると・・・
>・・・文献では伊勢の河内谷というところに代々隠れ住んだといいます。
たぶん落合と言われている平家部落(落合姓多い)のことと思いますが、
そこに維盛のまつられている成覚寺(JYOUKAKUJI)というお寺があり、
このお寺の住職さんは平維盛の子孫で小松氏を名乗っておられます。
ところが故あってお寺は他人に譲ったが、本当の後継は私だという人が
愛知県にいらっしゃいます。
その故をお聞きしたいなと思っていますが、まだお会いしていません。
高田さんのほうもいろいろと由緒がおありだと思います。
お差し支えなければ発表していただければ勉強になります。
成覚寺につきましては私のHPに少し出しております。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2002年08月04日 21時09分09秒 ) | パスワード |
皇竹さま
お久し振りでございます。
XPは確かに頭痛の種のようでございますね。
夫も同じ悩みがありました。
これからも新しいスレッドにて書き込みをお願い致します。
[9] | 高田さんからのコメント(2002年08月08日 22時44分43秒 ) | パスワード |
皇竹さん貴重な情報有難う御座います。長谷村の浦ですが、今年の5月に大鹿村とセットで言って参りました。大鹿村に行った理由はわが小松家のお墓の1つに十六弁菊の紋がついたものがあり、これは江戸時代に合祀され立てられその墓石の側面には長々と漢文で小松但馬(式部)の息子の三右衛門の家系であること、菊紋の持ち主である人物を「久四郎君」と記しています。このことで、宗良親王と関係があるのでないかという気がしたからです。長谷村には浦の集落を見に行きました。重盛の墓があるというのは行く前は知りませんでしたが、カーナビ頼りに浦の入り口まで行くと
重盛の墓と書いてある古びた小さな看板を見つけその先を進むと民家の庭先のようなところにある御墓を発見しました。正に偶然!そのときは何かのお導きかなと思いました。そのお墓は墓石自体そんなに古くないようですが(小ぶりで長方形で正面に法名が刻まれているので様式から江戸以降ではないかと)土台になっている鏡餅のような形の二段の石は苔も深くかなり古そうでした。お墓石の脇に長谷村教育委員会の立てた説明書きには小松氏の先祖は重盛であるか維盛であるかまた、重清であるかわからないとか、浦の名の由来は壇ノ浦からきているとか今ひとつ解らない感じでした。
これからも個人的に何度か訪れて調べていきたいと思います。
皇竹さんには後ほどわが小松家の江戸時代に書かれた文献のことなどお聞きしたいこともありますのでメールいたしますのでよろしくお願いいたします。
[10] | 皇竹さんからのコメント(2002年08月09日 15時51分05秒 ) | パスワード |
高田さん
やっぱり行かれましたか。
偶然に何か大発見する!
何か起こりそうな予感がしますね。
[12] | 現代平家さんからのコメント(2011年04月29日 03時36分28秒 ) | パスワード |
小松暁夫氏の「信州小松氏の物語」を読みましたところ、長野県長谷村の「浦」のことが詳しく書かれていました。小松暁夫氏によれば、紀州の那智に潜伏した平維盛が、その後、家臣団とともに信州の「浦」に移住したのであろう、と推論されています。「浦」の地名については、どううね ひろこさんの「花林 〜小枝の音色に誘はれて〜」というブログの中で、「紀州の色川にて大変御世話になりました、色川出張所の浦さん。浦さんは、水口家より繋がる御家の御方…つまりは、維盛様の御後裔という事で、現代に続く平家御一門の御1人なので御座いますね〜!」と紹介されており、紀州色川村の、維盛の子孫と伝える「浦」氏と関わりがありそうな気がします。つまり、維盛の子孫の一族である「浦」氏が鎌倉時代のいつの頃かに、信州に移住し、「浦」という集落のもとを作ったのではないだろうか、と考えられます。なお、どううね ひろこさんの、このブログには、「どううね」さんが、実際に訪ねた色川村の現在の様子が写真や文章で、詳しく紹介されています。また、維盛以来の家系図(色川系図)の写真も載せられています。
[13] | 小松の衆さんからのコメント(2011年06月02日 14時30分29秒 ) |
URL=http://aries1978411@yahoo.co.jp |
本人によりコメントは削除されました。 2012年01月22日 01時52分53秒
[14] | 吉田さんからのコメント(2011年07月13日 14時10分11秒 ) | パスワード |
私も平家、重盛公の末裔になります。と申しましても私の御先祖は重盛公の御隠子上総太郎と申しまして、源平の戦い少し前に重盛公のお言いつけで大宋国霊隠寺へ使わされ珊光国師を伴い帰国した折りには源平の戦い終わり更に海上難風に遭い今の岩県県北へ漂着、その地で荘園経営をしながら上洛の機会をうかがえども果たせずに・・と言った記録が残っている家です。珊光國師が開いたお寺や年号記載の石碑なども残り歴史学者からも間違いないと言われ、私の家は江戸後期に藩命で別れたとは言え当地初代から数えれば38代という年月が判る状態で、本家当主は37代を数えています。長い歴史のなせる技で源氏である南部氏により当初客将として平氏で在りながら迎えられ君臣の約を結び今日まで500年に及ぶ関係も維持しております。
当地には上総の太郎と共に行動を共にした弟相模次郎を祖とした大澤家も連綿と続いています。
[15] | 小松靖幸さんからのコメント(2012年02月15日 21時04分13秒 ) | パスワード |
私の名も小松と言います。
正に土佐郡安芸に爺さんまでは居たようです。爺さんが事業を始め、一昨年死去した親父が県庁に勤めるに至っては現在の高知市に移っておりましたが。今でも安芸に行くと小松姓が多くて配達のアルバイトは難儀している事でしょう(笑)
仙台に観光に行った際、定規如来に立ち寄り親父が良く口にしていた平の重盛の歴史に少し触れました。名字、歴史・・・感慨深いものがありますよね。
[16] | サニーさんからのコメント(2012年02月27日 03時35分21秒 ) | パスワード |
URL=http://www.goody1317@gmail.com |
平家の真の姿は大国主によって歪められているのではないでしょうか。
http://outfromu.blog9.fc2.com
http://cloudbe13.blogspot.com/
大国主=地獄の存在が
瀬織津姫の振りをして
自分を増々確立し悪しき陰陽を根づかせようと企んでいる。
それは平家にとっては最も腹立たしいことであると思っています。
平家はユダヤであるからこそ
イシスの真の裏のない正義と真理の象徴として宮島を建設したのではないだろうか。
そこに裏も表だという陰陽をベースとした大国主が入り込み
法華経すら無惨に真理をはぎ取られ大国主の日蓮聖人によって
全く異質な真逆のものと化している。
加害者が被害者の振りをしてヒーローと化している日本。
歴史の上で加害者とよばれたのはじつは卑怯な大国主によって
嵌められた一族で被害者かもしれない。と思っています。
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