[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 10時32分43秒 ) | パスワード |
人間関係がごちゃごちゃですぐに訳が分からなくなります。
[上巻・第一章…後白河院御即位の事]
鳥羽法皇:
保安四年(1123年)一月二十八日、御年二十一歳にして御位をお退きになって、
第一皇子崇徳院に御譲位なさった。
保延五年(1139年)五月十八日、美福門院様腹に皇子がご誕生なさったので、
(鳥羽)上皇は特にお喜びになって、同年八月十七日、東宮にお立てになった。
永治元年(1141年)十二月七日、近衛天皇三歳で即位。
鳥羽法皇 vs 崇徳上皇
崇徳上皇は重仁親王を御位につけ申し上げようとお思いになったのであろうか
ところが久寿二年(1155年)の夏頃より、近衛天皇のご病気が激しくなっていったのが、
ついに七月二十三日にご崩御。御年十七歳。
鳥羽法皇や美福門院のお嘆きは果てしないものであった。
崇徳上皇は重仁親王に天皇位を継がせたかった。
しかし鳥羽法皇と美福門院は故待賢門院様の御腹の第四皇子・
後白河天皇を位におつけなさった。
美福門院が思うに近衛天皇が早世したのは、崇徳院が呪い申し上げなさったからだろうと。
この第四皇子の即位によって、崇徳院はお恨みを、ひとしお強めなさったのも道理である。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 10時39分20秒 ) | パスワード |
第二章:法皇熊野御参詣の事、ならびに御託宣の事
法皇は「来年の秋頃、必ず崩御するだろう」。
その後、世の中は乱れるであろう。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 10時44分52秒 ) | パスワード |
[上巻・第三章…後白河院御即位の事]
1156年7月2日、ついに鳥羽法皇はご崩御あそばした、
ご享年五十四歳。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 11時15分17秒 ) | パスワード |
上巻・第四章…新院が御謀叛を思い立たれる
翌日には崇徳上皇のご謀反が発覚?
頼長 vs 忠通の兄弟喧嘩
ここら辺りからついて行けないです。
実際はもっと複雑な争いが背景にあって
保元の乱のそもそもの始まりは
白河上皇が父の後三条上皇の遺志に背いて自分の子の善仁親王(堀河天皇)に位を譲った時に始まるそうです。
そして白河上皇は実権を握る為に源平両武士を北面の武士として雇ったという
後々の争いの種も蒔いた。
そして
白河上皇と堀河天皇という2人の権力者の併存という矛盾。
堀河天皇が崩御すると白河上皇が孫の鳥羽天皇を即位させて操る。
さらに関白藤原忠通と頼長の兄弟争い。
崇徳上皇の実の父は白河上皇で
白河上皇は鳥羽天皇をだまして崇徳上皇を天皇にしてしまった。
崇徳天皇が10歳の時に白河上皇が崩御して
それまで悔しい思いをしていた鳥羽法皇が実力を握って崇徳に復讐する。
崇徳は自分の子供を天皇にしたかったのにコトゴトク鳥羽法皇に邪魔をされる。
最初は近衛天皇に皇位を盗まれ次は後白河に盗まれ崇徳上皇は腹に据える物があった。
あ〜、ややこしい。。。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 22時21分55秒 ) | パスワード |
[上巻・第五章 … 官軍方々手分けの事]
ここに清盛次男の基盛の活躍が出ています。
同五日、召集されて参内する武士は
下野守(源)義朝、
陸奥新判官(足利)義康、
安芸判官(平)基盛、
周防判官(源)季実、
隠岐判官(平)惟重〔惟繁〕、
平判官実俊、
新藤判官助経〔源資経?〕、
(これらの者たちが)軍兵を雲霞のように召し連れて、高松殿に参内した。
以下17歳の基盛の雄姿が描かれています。
清盛がその将来に期待していたというのが分かります。
(ただの贔屓の引き倒し?)
明くる六日、検非違使たちが各関所へ通っていったが、基盛は宇治路へと向かうのに、白襖(しらあお)の狩衣に、浅黄糸の鎧を着けて、上折りした烏帽子のうえに、白星の兜をかぶり、切り符の矢に二所籐の弓をもって、黒馬に黒い鞍を置いて乗っていた。その軍勢は百騎ほどで、基盛が大和路を南に向かうと、法性寺の一の橋のあたりで、馬上十騎ほど、全員鎧兜に身を固め、武器をもった兵士二十数人、身分の高いもの低いものあわせて三十数人が、都へと打ち上った〔上ろうとしていた〕。基盛が「これはどこの国のどちらへ参上する人か」と尋ねさせたところ、「このほど京中で不穏なことがあるとお聞きしますが、その仔細をお聞きしようと思って、近隣の国におります者が上洛し申し上げているのです」と答える。基盛が向かって申したには、「鳥羽院が御崩御なさって後、武士たちが入洛していることが天皇のお耳に入り、各関所をかために参るのである。内裏に参上する人であれば、宣旨のご使者について参内なさりなさい。そうでないのであればお通しできない。このように申し上げるのは桓武天皇の十代の末裔、刑部卿〔平〕忠盛の孫で、安芸守清盛の次男、安芸判官基盛、生まれて十七歳である」と名乗った。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 22時27分17秒 ) | パスワード |
[上巻・第六章 … 親治らが生け捕られる事]
基盛どの正四位下を賜わる。
基盛が下知されたので、
伊藤氏や斎藤氏が左右から馳せ寄って、
敵一騎に対して五、六騎、七、八騎がうち重なったので、
親治は勇ましかったが、力なく、自害にも及べずに、生け捕られてしまった。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 22時29分55秒 ) | パスワード |
あらら・・・↓・・・
事実としては、平基盛は保元の乱の功績により、乱後の9月4日に侍中に補され、同17日に従五位下に叙された。
それゆえ、正四位下というのは、4階級も実際より上位の記述ということになる。
だそうです。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 22時41分03秒 ) | パスワード |
[上巻・第七章 … 新院御謀反露顕の事、ならびに調伏の事、
付・内大臣がご意見される事]
この政治劇のドタバタは全然分かりません。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 22時54分23秒 ) | パスワード |
[上巻・第八章 … 新院が為義をお召しになられる事、付・名刀鵜丸の事]
源氏に代々伝わる8領の鎧の話が面白かったです。
「八幡に参籠し申し上げましたところ、お告げがごさいました。
またその後の夢にも、何代も(源氏に)相伝申し上げてます
月数、日数、源太が生衣(うぶぎぬ)、八龍、澤潟(おもだか)、薄金、楯無、膝丸
と申す八領の鎧がございますが、
辻風に吹かれて四方へと散ると見ましたので、いずれにせよ憚られてございます。」
為義はこのたびが最期の合戦と思ったので、代々相伝してきた鎧を一領ずつ五人の子どもに着せ、自分は薄金を着けた。源太が生衣と膝丸とは、嫡子に代々伝わるものであるので、雑色の花澤に、下野守(義朝)のもとへと遣わした。為朝冠者は体格も人並み優れて、普通の鎧は体に合わなかったので着なかった。この膝丸と申す鎧は、牛千頭の膝の皮を取ってとじ合わせたので、牛の精が入ったのだろうか、常に現れて着る者を嫌ったのだそうだ。そうであるから塵などを払おうとしても、精進潔斎して取り出したとかいう。このような稀代の重宝を、敵となるわが子のもとに遣わした、親の心がしみじみとしたものである。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 23時10分32秒 ) | パスワード |
[上巻・第九章 … 左大臣殿上洛の事、付・到着の事]
新院のお味方に参上した人々には、
左大臣頼長公、
左京大夫(藤原)教長卿、
近江中将(源)成雅、
四位少納言(藤原)成隆、
山城前司(藤原)頼資〔頼輔〕、
美濃前司(藤原)泰成〔保成〕、
備後権守(源)俊通、
皇后宮権大夫〔侍従〕(源)師光、
右馬権頭(藤原)実清、
式部大輔(藤原)盛憲、
蔵人大夫(藤原)経憲、
皇后宮亮〔大進〕(藤原)憲親、
能登守(藤原)家長、
信濃守行通、
左衛門佐宗康、
勘解由次官助憲、
桃園蔵人頼綱、
下野判官代(平)正弘、その子の左〔右〕衛門太夫〔大夫〕(平)家弘、
右衛門太夫〔左衛門尉〕(平)頼弘
大炊助(平)度弘、
右〔左〕兵衛尉(平)時弘、
文章生(平)安弘〔康弘〕、
中宮侍長(平)光弘、
左〔右〕衛門尉(平)盛弘、
平(右)馬助忠正、その子院蔵人(平)長盛、次男〔三男〕
皇后宮侍長〔皇后宮侍〕(平)忠綱、三男〔次男〕左大臣匂当(平)正綱、四男平九郎通正
村上判官代基国、
六条判官(源)為義、
左衛門尉(源)頼賢をはじめとして父子七人、
都合その軍勢は一千余騎と記録されている。
まず、左大臣頼長の縁者たち。源成雅(頼長の義兄)、源師光(猶子)。
次いで頼長の家人たち。藤原成雅(家司・近習)、藤原憲親(家人・職事)、藤原俊通(前駆)、藤原家長(前駆)。
崇徳院側近とその縁者など。藤原教長、藤原頼輔(教長弟)、藤原保成(崇徳院乳母子)。
[12] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 23時23分01秒 ) | パスワード |
[上巻・第十章 … 官軍召集される事]
菅軍についた人々:
(源)義朝、
(足利)義康、
(源)頼政、
(源)季実、
(源)重成、
(平)維繁〔惟繁〕、
(平)実俊、
(源)資経、
(平)信兼、
(土岐)光信〔光基?〕などである。
安芸守(平)清盛は多勢を率いる者であるので、もっとも召集すべき人であるが、
皇太子重仁親王は、(清盛の父)故刑部卿忠盛が養った君でいらっしゃるので、
清盛は乳母兄弟にあたり、
故上皇は気にとめなさって、ご遺戒にも入れられなかったのを、
美福門院はお謀りになって、
「故上皇のご遺戒に従って、内裏を守護しなさい」と(清盛に)お使いを送られたので、
清盛は兄弟、子らを引き連れて参内した。
諸国を預かる役人たち、諸衛府の官人たち、六衛府の判官たちが、皆おのおの兵杖を帯びてお控えした。
公家には関白殿下、内大臣(藤原)実能、左衛門督(近衛)基実、伏見源中将師仲などが参内なさった。
[13] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 23時25分11秒 ) | パスワード |
美福門院
この人物は・・・
[14] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 12時18分46秒 ) | パスワード |
[上巻・第十一章 … 新院が御所各門を固められる事、付・軍評定の事]
負けた理由ですね。折角の為朝の献言を無にした有名なシーン。
新院は斎院御所から北殿に御移りになられる。
南の大炊御門前に、東西に門が二つあり
・東の門を平馬助忠正が父子五人で
・西の門を六条判官為義父子六人で固めた。
為朝は1人で1番危うい所を守りたいと申し出た。
そのため西河原面の門を固めた。
北の春日面の門を、(平)左衛門太夫家弘が承って、子どもたちを引き連れて固めた。
その軍勢は百五十騎とかいう。
為朝は、左の腕、右腕よりも四寸長く、
父から鎮西へ追放され、
豊後国に居住し、
尾張権守家遠をおもり役として、
肥後国の阿曾にいる平四郎忠景の子、三郎忠国の婿になって、暴れ回った。
忠国だけを案内役として、十三歳の年の三月末から、十五歳の年の十月まで、
危険な戦をするのが数十箇所、三年の間に九州をみな攻め落とした。
左大臣殿はすぐ、「合戦の次第を計画せよ」と仰ったので、
為朝は畏まって「為朝は長い間鎮西に居住し申し上げて、
すべて有利になるのは夜討にまさるものはございません」
ところが左大臣殿は「為朝が申すところは、もってのほかの乱暴である。
夜討などという事は、お前たちの(武士)同士の戦や、十騎や二十騎の私戦である。
主上と上皇との御国を巡る争いに、源平が総力で両軍にあって勝負を決しようというのに、
むやみとそのように(夜討など)してはならないのだ。」
[15] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 12時25分23秒 ) | パスワード |
[上巻・第十二章 … 将軍塚鳴動、ならびに彗星が現れる事]
つまらなかった。
みもすそ川とは伊勢神宮の五十鈴川の事だったとは。
[16] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 12時34分02秒 ) | パスワード |
[上巻・第十三章 … 主上が三条殿に御幸される事、付・官軍勢揃いの事]
主上側勢揃いの巻:
十一日の寅の刻に、官軍はもう御所へ押し寄せる。
義朝に従う武士は多かった。
まず鎌田次郎正清をはじめとして、後藤兵衛実基、近江国からは佐々木源三(秀義)、八島冠者、美濃国には平野大夫、吉野太郎、尾張国からは舅熱田大宮司
(季範)が差し上げた家子郎等、三河国からはしだ良、中条、遠江国からは横地、勝俣、井の八郎、駿河国からは入江右馬允、高階十郎、息津四郎、神原五郎、伊豆からは狩野工藤四郎親光、同五郎親成、相模からは大庭平太景吉〔景義〕、同三郎景親、山内須藤〔首藤〕刑部丞俊通、その子滝口俊綱、海老名源八季定〔季貞〕、秦野二郎延景、荻野四郎忠義、安房からは、安西、金餘、沼平太、丸太郎、武蔵からは豊島四郎、中条新五、新六、成田太郎、箱田次郎、河上三郎、別府次郎、奈良三郎、玉井四郎、長井斎藤別当実盛、同三郎実員、横山(党)から悪次、悪五、平山(党)から相模、児玉(党)から庄太郎、同次郎、猪俣(党)から岡部六弥太(忠澄・忠純)、村山(党)から金子十郎家忠、山口十郎、仙波七郎、由緒ある武家では河越、師岡、秩父の武士たち、上総からは上総介八郎弘経〔広常〕、下総からは千葉介経胤〔常胤〕、上野からは瀬下次郎、物射五郎、岡本介、名波太郎、下野からは八田四郎、足利太郎(俊綱)、常陸からは中宮三郎、関次郎、甲斐には塩見五郎、同六郎、信濃には海野、望月、諏訪、蒔、桑原、安藤、木曽中太、弥中太、根井大矢太、根津神平、静妻小次郎、方切小八郎大夫、熊坂四郎をはじめとして、三百騎以上と記された。
清盛に従う人々には、
弟の常陸守頼盛、淡路守教盛、大夫経盛、嫡子中務少輔重盛、次男安芸判官基盛、郎等では筑後左衛門(平)家貞、その子左兵衛尉貞能、与三兵衛景安、民部大輔為長、その子太郎為憲、河内国からは草刈部十郎太夫定直、(蓮池)滝口家綱、同滝口太郎家次、伊勢国からは古市伊藤武者景綱、同伊藤五郎忠清、伊藤六忠直、伊賀国からは山田小三郎伊行、備前国の住人難波三郎経房、備中国の住人瀬尾太郎兼康をはじめとして六百騎以上と記された。
兵庫頭頼政に従う武士は誰であろう。
まず渡辺党の省播磨次郎、授播磨兵衛、連源太、与右馬允、競滝口、丁七唱をはじめとして二百騎ほどである。
佐渡式部大輔重成百騎、
陸奥新判官義康百騎、
出羽判官(源)光信百騎、
周防判官(源)季実五十騎、
隠岐判官(平)維繁七十騎、
平判官実俊六十騎、
進藤判官助経五十騎以上、
和泉左衛門尉(平)信兼八十騎以上、
合計一千七百騎以上と記された。
[17] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 13時40分46秒 ) | パスワード |
[上巻・第十二章 … 白河殿に義朝が夜討する事]
私が1番好きな1幕です。
為朝大活躍の巻:天下の英雄達為朝に歯が立たず
有名なシーンが盛り沢山描かれています。
義朝と鎌田正清のシーン
為朝 vs 古市の伊藤武者景綱+息子達(伊藤5忠清と伊藤6忠直)
山田小三郎伊行とその従者の最期
下野守義朝は(開戦の合図の)矢合で郎等を射られて、癪にさわると思ったので、さあ駆けようとしなさると、鎌田次郎正清が轡に取り付いて、「今は大将がお駆け入りになるようなところではございません。千騎のうちの百騎、百騎のうちの十騎になってから、お駆け出しください」と申したけれども、それでもやはり駆け入ろうとなさったので、徒歩の武士たちが八十数名いたのを呼んで、このことを言い含めて、大将を守護させ、正清は馬に乗って、真っ先に進んでいった。
安芸守(清盛)は、二条川原の川より東、堤の西を、北に向かって待機した。
その軍勢の中から五十騎ほどが、先陣に進んで押し寄せた。
「ここを固めなさるのはどなたか、お名乗りください。
このように申すのは安芸守(清盛)殿の郎等で、
伊勢国の住人、古市の伊藤武者景綱、
同じく伊藤五(忠清)、伊藤六(忠直)」と名乗った。
景綱は、「昔から源平両氏は天下の武将として、勅命に背いた奴らを討つ際に、両氏の郎等が大将を射ることは互いにある。同じ郎等ではあるが、(私は)公家にも知られ申している身である。そのわけは、伊勢国鈴鹿山の強盗の張本人、小野の七郎をからめとり申し上げ、副将軍の宣旨をお受けしたのが(この)景
綱であるからだ。下郎の射る矢が、(あなたのような大将に)立つか立たないかご覧になるがいい」といって、よく引いて射たけれども、為朝はこれをものともしないで、「物足りない敵だとは思うが、お前の言葉の風流さに、矢を一つ下そう、受けて見るがいい。一方では今生の面目、また一方では後生の思い出にもしろ」といって、三年竹の節が寄っているのを少し押しみがいて、山鳥の尾でもって作ったの〔弓?〕に、七寸五分の丸根の、矢柄の中ほど過ぎて鏃が差し込まれたもの〔矢〕をついで、しばらくためてからひょうと射る。真っ先に進んでいる伊藤六(忠直)の胸板を射とおして、(勢い)余る矢が伊藤五(忠清)の射向けの袖に、裏をかいて立った。伊藤六(忠直)はやにわに落ちて死んでしまった。
伊藤五(忠清)はこの矢を折りかけて、大将(である安芸守清盛)の前に参って、「八郎御曹司(為朝)の矢を御覧下さいませ。凡夫のやったこととも思われません。六郎(忠直)はすでに死にました」と申し上げると、安芸守(清盛)をはじめとして、この矢を見る武士たちは、皆大変驚き入って恐れた。景綱が申し上げるには、「彼の先祖八幡殿は、後三年の合戦の際に、出羽国金沢の城で、(清原)武則が申したには『あなたの(射る)矢に当たる者は、鎧、兜を射通されないという事はない。あなたの弓の勢いを、確かに拝見したいものだ』と望んだところ、義家はよい革の鎧を三領重ねて、木の枝に懸けて、裏表六重に射通しなさると、鬼神の変化かと恐れられたそうです。これ以来武士たちはいよいよ帰服したとか、申し伝えて聞くほどである。眼前にこのような弓の力量がございますとは。ああ恐ろしいことだ」と怖気づく。
ここに安芸守(清盛)の郎等に、伊賀国の住人、山田小三郎伊行という者は、またとない剛の者で、無分別な猪武者であるが、大将(清盛)が引き退きなさるのを見て、「そうだからといって矢一本を恐れて、向かっていった陣を引くようなことがあるだろうか。たとえ筑紫の八郎(為朝)の矢であるといっても、伊行の鎧にはまさか通りはしまい。五代にわたって軍に参加すること十五回、私の手にとっても何度も矢を受けたが、いまだ裏まで射通した者はないのに。人々よ見るがいい。八郎殿の矢を一つ受けて、語るものとしよう」と言って駆け出すと、「有象無象の高名立てはしないにこした事はないぞ。無益なことだ」と、同僚たちは制したけれども、もともと言った言葉を翻さない男で、「夜が明けて後に友軍に、八郎の、矢傷をさあ見せてくれと言われたら、なんと答えるのだ。そうであれば、日頃の武名も、消えてしまうだろう事は無念なので、たとえ人は続かなくとも、自分が証人となるのだ」と言って、下人一人を引き連れて、黒革威しの鎧に、同じ毛の五枚兜を猪頚に着けて、十八指の染羽の矢を背負い、塗籠籐の弓を持って、鹿毛の馬に黒鞍を置いて乗った。
門前に馬で懸けて行き、「たいした者ではないが、安芸守(清盛)の郎等、伊賀国の住人山田小三郎伊行、生まれて二十八歳、堀河院の御治世の、嘉承三(1108)年一月二十六日、対馬守(源)義親追討の時、故備前守(平正盛)の先陣を駆けて、公家にも知られ申す山田庄司行末の孫である。山賊、強盗をからめ取ったことは数知れず、合戦の場にもたびたび出陣し、武名をあげたものである。お聞きに及ぶ八郎御曹司(為朝)を、一目見申し上げたいぞ」と申したので、為朝は「きっと奴は(弓を)引いて狙っているに違いない。一の矢を射させよう。二の矢をつごうというところを射落とそう。同じようには矢を耐えられないところを、私の弓の力量を敵に見せてやろう」と仰って、白葦毛の馬に、黄覆輪の鞍を置いて乗って、かけ出して、「鎮西八郎(為朝)はここにあり」と名乗りなさるところを、もともと引き絞って狙っていた矢であるので、弦音高く切って放つ。御曹司の左の草摺を縫いざまに射きった。一の矢を射損じて、二の矢をつがえようというところを、為朝はよく引いてひょうと射る。山田小三郎(伊行)の鞍の前輪から、鎧の前後の草摺を尻輪にかけて、矢先三寸ほど射通した。しばらくは矢に支えられて、耐えているように見えたが、すぐに左のほうへまっさかさまに落ちたので、鏃は鞍にとどまって、馬は川原へと走ってゆくので、(山田伊行の)下人(註5)がつっと走りより、主人を肩に引っ掛けて、味方の陣へと帰っていった。寄せ手の武士たちはこれを見て、ますますこの門に向かう者はなかった。
註5<下人>とは
『新大系』版では山田伊行の下人(舎人男)は「どこまでも(主人の)お供をする」と言って、伊行より先に長刀をうちふりながら八郎(為朝)の部下たちの中に切り込んでゆき、消息不明となっている。
[18] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 13時48分29秒 ) | パスワード |
[上巻・第十五章 … 白河殿を攻め落とす事]
為朝方劣勢に。
為朝の家来が次々に討たれます。
[19] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 21時57分27秒 ) | パスワード |
[上巻・第十六章 … 新院・左大臣殿が落ち延びられる事]
戦い終わって逃げるシーン。
敗軍の惨めさ。
[20] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 22時04分08秒 ) | パスワード |
[上巻・第十七章 … 新院が御出家される事]
新院は為義をはじめとして、家弘、光弘、武者所季能などをお供として、
如意山へお入りになる。
あちこち彷徨の末行く所が無い。
崇徳上皇は出家。
為義・忠正は三井寺方向に落ちて行った。
[21] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 22時07分55秒 ) | パスワード |
ここから下巻です。
[下巻・第一章 … 朝敵の宿所を焼き払う事]
新院と左大臣どのの行方が分からない、という
勝った方の記録。
[22] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 22時13分18秒 ) | パスワード |
[下巻・第二章 … 関白殿本官に復帰なさる事、付・武士に勧賞を行われる事]
こうしているところに、宇治入道大相国(忠実)は、
新院がお負けになったと耳にして、
左大臣の子どもたち三人を連れて南都へ落ち延びた。
義朝は論功行賞に不満の事。
[23] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 22時20分03秒 ) | パスワード |
[下巻・第三章 … 左大臣殿最期、付・大相国お嘆きの事]
流れ矢に当って左大臣が死。
この章は人間関係が(名前が分からないから)さっぱり分からない。
[24] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 22時29分46秒 ) | パスワード |
[下巻・第四章 … 勅命を奉じて重成が新院を守護し申し上げる事]
新院は仁和寺を頼みにしなさってお入りになったけれども、
門跡(覚性入道親王)のところにはお預け申し上げないで、
寛遍法務の坊にお入れ申し上げた。
門跡は第五皇子でいらっしゃったので、
主上にとっても新院にとっても弟でいらっしゃった。
このことを、第五皇子から内裏に申し上げたので、
佐渡式部大輔重成を参上させて、院を守護し申し上げた。
あまりの情けなさにか、お心がひかれたこともございますまいが、
このように思われて歌をお詠みになった。
思ひきや身をうき雲となしはててあらしの風にまかすべしとは
(この身は浮雲のようにつらくおちぶれ、嵐の中のようにどうなるかわからない)
うき事のまどろむ程はわすられてさむれば夢のここちこそすれ
(つらい事は眠れば忘れられるが、
目が醒めると
このつらい現実こそが夢なのではないか、と)
[25] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 22時39分04秒 ) | パスワード |
[下巻・第五章 … 謀叛人が各々召し捕られる事]
新院に近く仕えていた人々は、ある者は遠い国へ落ちゆき、ある者は深い山に逃げ隠れて、その行方がわからなかったので、はかりごとであろうか、少納言入道信西は、陣頭で、「その人はその国へ、あの人はあの国へ(流すこととしよう)」とお定めになったことを、披露したので、それならば命だけは助かるのだろうかと思ったのだろうか、皆出家した姿になって、あちらこちらから出てきた。
皇后宮権大夫師光入道、備後守俊通入道、能登守家長入道、式部大輔盛憲入道、その弟の蔵人大夫経憲入道を東三条院で尋問される。内裏から蔵人右少弁資長、権右少弁惟方、大外記師業、この三人が(勅命を)承って担当する。
中でも盛憲兄弟、先滝口の秦助安らを、靱負聴〔庁〕(ゆげいのちょう)で拷問された。この者たちは左大臣の外戚(註1)であったので、ことのおこりを知っているだろう。また近衛院と、美福門院を呪詛し申し上げ、徳大寺を焼き払った理由を問うのに、下部がまず(彼らの)衣装を剥ぎ取って、首に縄をつけたので、盛憲は下部に向かって手をあわせて、「これはどういうことか。私を助けろ」と言ったので、座につらなる官人たちは目も向けられなく思った。しかし刑法に決まりのあることなので、七十五回拷問をすると、はじめは声をあげて叫んでいたけれども、後々には息が絶え絶えになってものも言えない。日は七月十五日というのに、この日にこのような刑を行われるというのは罪作りなことである。そのうえ五位以上のものが、拷問されることは先例が稀なことである。
水尾〔清和〕天皇のご治世の、貞観十八(876)年閏三月十日の夜、応天門が焼けたのを、大納言伴善男卿が、故意の嫌疑があったので、使庁で拷問された例であるという。
[26] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 22時47分19秒 ) | パスワード |
[下巻・第七章 … 為義降参の事]
六条判官(為義)と、その子たちを捜索させるように、播磨守(清盛)にご命令がある。
為義の子どもたち6人は大原、志津原、芹生、鞍馬山の奥、貴船の方へと、思い思いこころごころに落ちて行った。
為義入道は、加茂川を渡り、糺の森から、雑色花澤を義朝のもとに遣わして、ここまで逃れて来たことを申しなさったので、左馬頭(義朝)は夜になって輿をさしあげ、ひそかに判官(為義)殿をお迎えなさった。
子ども六人とは、四郎左衛門尉頼賢、五郎掃部助頼仲、六郎為宗、八郎七郎為成、為朝、九郎為仲の六人。
[27] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月18日 22時54分21秒 ) | パスワード |
[下巻・第八章 … 忠正・正弘らが誅される事]
清盛がかねてより仲の悪かった叔父の忠正とその子達を処刑した話。
清盛が身内を処刑すれば義朝も父や弟達を処分するであろう、と。
平馬助忠正は、浄土の谷というところで出家して、深く隠れていたが、為義入道も降参してしまったと噂になったので、子どもたち四人を引き連れて、ひそかに甥の播磨守(清盛)を頼って出てきた。下野判官代正弘、その子の左衛門大夫家弘、家弘の子の文章生安弘、次男頼弘、三男光弘、以上五人を、蔵人判官義康が捕らえて、大江山で彼らを斬る。家弘の弟大炊助度弘を、和泉左衛門尉信兼が(ご命令を)承って、六条河原で斬った。平馬助忠正、その嫡子新院蔵人長盛、次男皇后宮侍長忠綱、三男左大臣匂当正綱、四男平九郎通正の五人を、清盛朝臣が承って、猿の刻ほどに、六条河原で斬る。平馬助(忠正)を、当時の別当花山院中納言忠雅と、同名ではまずいだろうと、忠員(ただかず)と改名された。この忠員と申す(忠正)は、桓武天皇の十一代の末裔で、平将軍貞盛の六代の孫で、讃岐守正盛の次男である。この人は戦いに敗れて後、出家入道して深く隠れていたが、清盛を頼みとして行ったのに、そうはいっても命だけは助けないことはまさかあるまいと思って、降参したのであった。実際は助けようとすればこのようにはならなかったのに、叔父と甥の間柄が不仲であったうえ、自分が忠正を切ったならば、きっと義朝に父を斬らせられるだろう。たとえ宥恕を申し出ても、このことを理由に阻止しようと、腹黒く思われたのは実に恐ろしいことである。
[28] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月19日 11時33分00秒 ) | パスワード |
今日読んだ池宮「平家」では為義の子供の数は1説に40人だとか。
顔の知らない子供が日本のあちこちに生まれてたらしいです。
[29] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月20日 11時16分55秒 ) | パスワード |
義朝が父を殺せと命令が下りました。
父を殺して、たいした褒美も貰えず、そして間もなく義朝も滅んでしまいました。
作者は朝廷にも義朝にも批判的です。
下巻・第九章 … 為義最期の事
為義法師の首を刎ねなければならないと、左馬頭(義朝)に(ご命令が)下った。
ご赦免されるように、さまざまに二度まで奏聞なさったのだけれども、主上の逆鱗に触れた。
鎌田正清が義朝の命を受けて為義をだまして殺そうとしたのを秦野次郎延景が、鎌田に向かって申したのは、「あなたのご計画は誤りでしょう。人間は人生の最期が一番大事です。それをだましだまし殺し申そうというのは情けないことでございます。ただあるがままにお知らせして、最期のご念仏もすすめ申し上げ、また言い残されることも、どうしてないでしょうか」と言うので、(鎌田)正清は、「それももっともなことだ。余計なことをわずらわすまいと思って、このように計画したのだが、本当に私の誤りだ」と申したので、
(秦野)延景が(入道為義殿のもとに)参って、「本当は関東ご下向ではございません。左馬頭殿が宣旨を承って、正清を太刀取りとして(入道殿を)お討ち申し上げようということなのでございます。(殿は)再三お嘆き申しなさったのですが、勅命が重くございまして、力及ばずご命令なさいました。心しずかにご念仏なさいませ」と申したので、「悔しい事だ。為義くらいの者を、騙さずに討てばよいのに。たとえ陛下のお言葉が重くて、助けることが叶わなくとも、どうしてありのままに知らせないのか。また心底助けようというのであれば、自分の身に替えても、どうしてご赦免を申し受けないのか。義朝が(私)入道を頼って来たならば、為義の命にかえても助けたろう」
為義は思い人も多かったので、ほうぼうに男女の子ども四十二人とかいた。
まことに国に死刑を行うと、(かえって)天下に謀叛人が絶えないと申すのに、多くの人を誅殺なさったことは驚くべき事だ。実に弘仁元年に、仲成が誅されてから、帝王二十六代、年にして三百四十七年、絶えていた死刑を行ったのはひどいことだった。
その中でも義朝に父を斬らせたことは、前代未聞のことではないだろうか。一方では朝廷のご判断の誤りであるし、また他方では(義朝)自身の不覚である。
我が身を捨てても、どうして父を救わないだろうか。他人に(処刑が)命令されたのであれば力及ばないことである。ほんとうに義に背いたために、並ぶもののない大忠であったけれども、とりたてて恩賞があるわけでもなく、結局いくばくもしないで、その身を滅ぼしたことこそ呆れてしまう事である。
[30] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月20日 11時24分42秒 ) | パスワード |
下巻・第十章 … 義朝の弟たちが誅される事
左馬頭(義朝)に重ねて宣旨が下って、「お前の弟たちを、みな捜して連れて来い。とくに為朝とかいう奴は、(主上のお乗りになる)鸞輦に矢を放とうなどと申した不届きな奴である。捕らえて誅せよ」とある。義朝は畏まって、ほうぼうに武士を遣わして捜されたので、ここそこから(弟たちを)捜し出した。為朝は敵が寄せて来ると見たので、(寄せ手を)破ってどちらともなく失踪した。四郎左衛門頼賢、掃部助頼仲、六郎為宗、七郎為成、九郎為仲、以上の五人の人たち(を捕らえたが)、都の中には入れてはいけないとご命令なので、すぐに舟岡山へ連れて行った。五人みなで馬から下りて並んでいた。末期の水を与えると、おのおの畳紙(たとうがみ)でこれを受けた。
頼仲が「(冥界の)六道のちまたで必ずお会いいたしましょう」と申して、直垂の紐を解いて、首を延ばして斬られた。その後四人みな斬られた。みな立派に(最期を遂げたと)見えた。次の日に陣へと(首実験のため)持たせて差し上げた。左衛門尉信忠がこれを実験する。獄門にはかけられないで、穀倉院の南にある池のほとりに捨てられた。
[31] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月20日 11時42分20秒 ) | パスワード |
涙なくしては読めない章です。
為義の幼い4人の子供達の内しっかり者は乙若13歳。
4人の子供達のおもり役達は腹を切って後を追いました。
家来2人も差し違えて死にました。
下巻・第十一章 … 義朝の幼少の弟たちが一人残らず失われる事
内裏からすぐに義朝をお呼びになり、蔵人右少弁資長朝臣を通じてご命令なさるには、「おまえの弟たちがまだ多くいるのを、たとえ幼くても、女子のほかは皆捜し出して命をとれ」とある。宿所に帰って、秦野次郎(延景)をお呼びになって(義朝が)おっしゃるには、「あまりに不憫であるが、勅命であるからには仕方ない。母や乳母が抱いて、山林に逃れたらばどうしようか。六条堀河の宿所にいる本妻から生まれた四人を、なだめすかして出して、しっかりと気をつけてどうなるかを知らせずに、船岡で殺せ」とおっしゃる。
母上はちょうどどこかに参詣しているところである。お子たちは皆いらっしゃる。兄は乙若といって十三歳、次の子が亀若といって十一歳、鶴若は九歳、天王は七歳である。この方々は延景を見つけて、嬉しげにいらっしゃった。秦野次郎は「(六条判官)入道(為義)殿のお使いに参ってございます。殿は十七日に、比叡山でご出家なさって、(左馬)頭(義朝)殿のもとにいらっしゃったのを、世間をまだ憚られるとおっしゃって、北山雲林院と申すところにお忍びでお移りになられますが、お子様たちのことが心配でいらっしゃるので、お目にかけ申そうと、(お子様たちを)お連れ申そうと、お迎えにあがりました」
このお子様たちにはおのおの一人ずつ、おもり役たちがついていた。内記平太は天王殿のおもり、吉田次郎は亀若殿の、佐野源八は鶴若殿の、原後藤次は乙若殿のおもり役である。さしよって髪を結い上げ、汗を拭ったりなどしていたが、長い間の主従関係も、明け暮れに大切にお育て申して、ただ今を限りに(終ってしまう)と思った心が悲しかった。だから声をあげて、嗚咽するだけであったのに、幼い方々を泣かせまいと、おさえる袖の下から、あまる涙の色は深く、隠す様子もあらわれて、思いやる心が哀れである。乙若は延景に向かって、「私が先にと思うのだが、弟たちが幼心に恐れるのも可哀想である。また言いたいこともあるので、弟たちを先にしてくれ」とおっしゃるので、秦野次郎は太刀を抜いて、後ろにまわったので、おもり役たちは、「目をおとじください」と申して皆退いた。すぐに三人の首が、前に落ちた。
乙若はこれを見て、少しも騒がず、「美しくし遂げたものだなあ。私をもこのように斬って欲しい。それであれはどうだ」とおっしゃるので、行器を持たせて(弟たちの亡骸のもとに)参らせた。手ずからこの首の血がついているのを押し拭って、髪をかきなで、「あわれ可哀想な者たちだ。これほどに果報も少なく生まれてしまったとは。ただ今死ぬ命よりも、母上がお聞きになってお嘆きになることを、あらためて思うと言いようもない。乙若は命を惜しんでか、後に斬られたと人はいうだろうか。まったくそんなつもりはない。このようなことを言っても、また私が斬られるのを見るにしても、留まった幼い子たちが、また泣くのも心苦しいので言わないのだ。母上は今朝八幡へ詣でなさるのに、私も(一緒に)参りますと申すと、皆参りますというので、連れて行けば皆連れて行かねばならないし、連れて行かないならば一人も連れて行かないことにしないと、恨みができるといって、私たちが寝ているあいだに詣でなさったのが、今はお帰りになって(私たちの居所を)尋ねなさっているだろう。私たちはこんなふうになろうとは知らなかったので、思うことも言い残せず、形見も差し上げられず、ただ入道殿がお呼びになっていると聞いた嬉しさに、急いで輿に乗っただけである。だからこれを形見に(母上に)差し上げてくれ」といって、弟たちの額髪を切って、自分の髪を添えて、もしや紛れもしようと、別々に包み分けて、おのおのその名を書き付けて、秦野次郎にお与えになった。「また(形見だけでなく)言葉もお伝えしてほしいものだな。今朝(母上の)お供に参ったならば、ついには斬られますといっても、最期のありさまを、互いに見たり見られたりしたいものですが、かえって互いに心苦しく思うこともありましょう。(母上が)お留守(の間)にお別れ申したのも、ひとつの幸いであったのでしょう。この十年ほどの間は、ちょっとの間も(お側を)離れたこともございませんのに、最期の時だけお目にかからないのは、さぞお心にかかっていらっしゃるでしょうが、八幡様のお計らいかとお思いになって、いたくお嘆きになられますな。親子は一世の契りと申しますが、来世は必ずひとつの蓮の上にお会いできますようにご念仏くださいませ」とおっしゃって、「今はこいらが待ち遠しくしているだろう、早く(斬れ)」とおっしゃって、三人の亡骸のあいだにわけ入って、西に向かって念仏を三十遍ほど唱えたところ、(斬られて)首は前に落ちた。四人のもり役たちは急いで走り寄って、首もない体を抱きながら、天をあおぎ地に伏して、嗚咽するのも道理である。本当に涙と血とがあいともなって、流れるのもを見る悲しみである。
内記の平太が直垂の紐を解いて、天王殿の骸を自分の肌にあてて申したには、「この君をお育てし申してから後、一日も片時すらもお放れしたこともない。自分の身が年をとることも思わず、はやく成人なさいませと、明け暮れ思いお育て申し、月や日のように仰ぎましたのに、今このような目にあうという残念さよ。いつもならば私の膝の上にいらっしゃって、(私の)髭を撫でて、いつか成人して、国も荘園も手に入れて、お前に治めさせようとおっしゃっていて、うたたねの目覚めにも、内記よ内記よと呼ぶお声が、耳の底に留まり、今のお姿が幻にちらつくので、決して忘れるとも思われない。これから帰って生き(続け)ても、千万年も経ることができるだろうか。死出の山、三途の川を、誰がお世話するだろうか。恐ろしくお思いになったらば、(天王殿は)まず私をお捜しになるだろう。生きて(天王殿のことを)思うのも苦しいのだ、主のお供を申し上げよう」と言い終わらぬうちに、腰の刀を抜いてそのまま、腹をかき切って死んだ。残りのもり役たちもこれを見て、自分も劣るまいと、皆腹を切って死んでしまった。恪勤の侍たちが二人いたのも、「幼くいらっしゃったが、情深くいらっしゃったのに、これから誰を主人と頼みにするだろうか」といって、刺し違えて二人とも死んでしまった。これら六人の志、比類ないと申した。同じく死ぬ道ではあるが、合戦の場に出て、主君とともに討死をして、腹を切るのはよくあることだが、このようなことは今までなかったと、褒めない人はいなかった。これらの首を渡すには及ばない。あまりに父を恋しがっていたというので、円覚寺に送って、入道の墓のかたわらに埋めた。
[32] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月20日 11時57分32秒 ) | パスワード |
下巻・第十二章 … 為義の北の方が身を投げなさる事
秦野次郎(延景)はすぐに六条堀河に参ると、(子らの)母はまだお戻りではない。そのため八幡の方へと馳せてゆくと、赤井河原のあたりで行き逢った。延景は馬から飛び降りて、輿の長柄に取り付いたので、すぐに輿をかき据えた。
「(六条)判官(為義)殿は比叡山で出家なさって、十七日の明け方に、(左馬)頭(義朝)殿のもとへお移りなさっていたのを、隠しおき申して、さまざまに(助命を)申し上げましたが、主上はついにお許しにならず、昨日の早朝、七条朱雀でお命を頂戴いたしました。五人のお子様たちも、昨日の暮れごろに、北山船岡と申すところで皆お斬り申しました。六条殿にお移りになっていらっしゃった四人のお子様たちも、舟岡山で今お命を頂戴いたしました。これは乙若御前の、最期の形見でございます」と申して、例の髪を取り出して、その(最期の)ありさまを詳しく語り申す。
「それでは船岡に」とおっしゃって、桂川を上って北山をさして行くうちに、五条の末のあたりに、岸が高く水が深そうなところで、輿を止めさせ、石で塔を組み、入道殿をはじめとして、四人のお子たちのために回向をして、懐や袂に石を入れ、(石を抱いているような、)そんなそぶりも見せないで、「入道殿が亡くなったところに行ったけれども、声がすることもなく、目に見えるものもない。また船岡に行っても、同じことだろう。私は長年観音様をお頼み申して、毎日普門品三十三巻、阿弥陀様のお名前を一万遍唱え申しているが、今日はご参詣にまだ参っていない。館に帰ったならば、幼い子たちの玩具を見るにつけても、ここではこうしていた、ああしていたなどと思うと、心乱れてお勤めもできないだろうから、ここで満足して、聖霊たちにも回向しよう」とおっしゃって、そのまま石塔を組みなさるかと思ったところ、岸から下に身を投げて、ついに亡くなってしまわれた。もり役の女房はこれを見て、一緒に河に入った。供の者たちはこれを見て、慌て騒いで(河の中に)入って捜したけれども、石を多く袂に入れなさっていたせいか、すぐに沈んでおみえにならない。しばらくしてはるか下流で取り上げて、二人ともその晩に、鳥部山の煙とし申して、遺骨を円覚寺に納めた。今朝舟岡山で、(お子様たち)主従十人、朝露と消えると、今夜は桂川で、二人の女房が、晩の煙と立ち上る。生死は無常であるということわりだが、哀れなことである。
[33] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月20日 12時01分34秒 ) | パスワード |
源 義朝という人物に人気が無いのがちょっと分かった気がしました。
[34] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月20日 23時01分30秒 ) | パスワード |
下巻・第十三章 … 左大臣殿の御遺体実験の事
死体を掘り返すところが気色悪かった。
忠実も孫には優しい?
[35] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月20日 23時24分39秒 ) | パスワード |
下巻・第十四章 … 新院御遷幸の事、ならびに重仁親王の事
新院御遷幸とは崇徳天皇が讃岐に島流しの刑になった、ということ
重仁親王の仁和寺押し込みは寛暁上人には迷惑な様子。
この戦いは兄弟親子が争って前代未聞と作者は呆れている。
そもそもいけないのは院と皇后が勝手に継承者をごり押ししたからいけないのだ、と批判。
[36] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月20日 23時35分24秒 ) | パスワード |
下巻・第十五章 … 無塩君の事
斉の国に婦人がいて、無塩と名づけられた。容貌は醜く色が浅黒かった。
ある時宣王の宮殿に(無塩が)参内して申すには、「危ういことだなあ、危ういことだなあ」と四度申した。王はすぐさま漸台を壊し、彫琢をやめさせ、へつらう臣を退け、賢者を招き、女や音楽を遠ざけ、深い酔いを禁じ、とうとう太子をも選び、この無塩君を拝して后と定められたので、斉国は大いに安楽となった。これは醜女の功績であるといわれている。
それに対して今ただ容貌のよさに溺れ、寵愛を先にして後宮(の愛妃)が多いために、国が乱れるのである。
だから周の幽王は褒□(女偏に似・ホウジ)を愛して、もともとの后である申后と、その間に生まれた太子を捨て、褒□を后として、その間に生まれた皇子伯服を太子にしたので、申后が怒って、□綵(糸偏に曾・ソウサイ)を西の異民族犬戎に与えて、幽王の都を攻めさせたので、狼煙火をあげても軍隊が参上せずに、幽王は討たれなさって、周国は亡んでしまった。
すべて天下の乱れや、政道が逸れるのは、後宮から出るのである。だけれども、婦人を近づけて、その進言を用いると、必ず禍や乱が起こるものである。だから婦人は政治に参加することはない。政治に参加すれば、乱はここから起こるというのである。史記には、「牝鶏が朝を告げるときは、その地は必ず亡ぶ」という。雌鶏が時を告げるのは、その地の奇怪事で、その地域が滅びるように、婦人が政治に口出しすることがあれば、国は必ず乱れるという。
それなのに鳥羽院は、美福門院のご配慮にまかせて、差し障りのあられたわけでもない崇徳院をご退位においこまれて、近衛院をご即位させ、また嫡孫をさしおいて、第四皇子の今上天皇をご即位させたために、この乱が起こったのであ
る。嫡流をさしおきなさったのは、故上皇のお間違いではないだろうか。しかし天皇のご一統は、かたじけない天照大神から始まって、今まで絶えることがないので、昔からこのご希望があった君も、一人もご本意をとげられたことはない。しかしお間違いのためだろうか、ここから世の乱れが始まって、公家はたちまちに衰え、朝廷の儀礼も廃れてしまった。洛中での兵乱は、これが始めと申すのである。
[37] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月21日 00時32分54秒 ) | パスワード |
下巻・第十六章 左大臣殿のお子様たち並びに謀叛人が
おのおの遠流された事
二十五日、人々遠流のことが宣下される。左京大夫入道(教長卿)は常陸国へ、近江中将成雅は越後国へ、盛憲入道は佐渡国へ、正弘入道は陸奥国へということである。
太政官符 左京職
以下ノモノノ位階ヲ剥奪スルモノデアル。
正二位藤原朝臣兼長 出雲国
従二位藤原朝臣師長 土佐国
正三位藤原朝臣教長 常陸国
以上ノコトヲ正三位行権中納言兼左兵衛督藤原朝臣忠雅ガ宣告シ、勅命ヲ奉ジテ、以上ノ官等ノ者ヲ以上ノ国ニ配流スル。当該職ニ命ジテ位階ヲ剥奪サセルモノデアル。職ハ承知ノコトトスル。宣告ニヨッテ当該処分ヲ執行スルモノデアル。符ガ到達次第執行セヨ。
保元元年八月三日
修理左宮城使正五位下行左大史兼算博士
左弁官正五位下藤原朝臣 判
太政官符 治部省
大法師範長ヲ還俗サセルコトヲ命ズ。
以上ノコトヲ正三位行権中納言左兵衛督藤原朝臣忠雅ガ宣告シ、勅命ヲ奉ジテ、以上ノ範長ヲ安芸国ニ配流スル。当該省ニ命ジテ還俗サセルモノデアル。省ハ承知ノコトトスル。宣告ニヨッテ当該処分ヲ執行スルモノデアル。符ガ到達次第執行セヨ。
修理左宮城使正五位下行左大史兼算博士
左弁官正五位下藤原朝臣 判
[38] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月21日 00時48分19秒 ) | パスワード |
これまた人間関係がゴチャゴチャになって訳が分からなくなってしまいました。
頼長とその兄(関白)の確執に父親の忠実(84歳)は頼長の味方だった?!
現代語訳で読んで来た筈だったのに、それでもこんがらがってました。
下巻・第十七章 大相国ご上洛の事
八月八日、宇治の大相国(忠実)が、富家殿にお帰りになって住まわれたいことを、内々に申し上げなさったけれども、主上はお許しになられない。そのうえ南都で僧兵たちを募りなさった(のは罪である)と、配所へ流されるように宣下なさったので、信西が、関白殿のもとへ参ってこのことを申し上げると、殿下は、父を配所に流して、その子が摂政をお勤め申し上げるのは、面目ないとおっしゃったので、信西はこのことを(主上に)奏上した。
「関白がそのように申すのであれば、そのようにせよ」と(主上が)おっしゃったので、禅閤(忠実)はこのことをお聞きになって、「関白が、入道(した私)のことをこれほどに思ってくれていたのに、何のせいでいつもこころよくなく(関白のことを)思っていたのだろうか」と、ご後悔なさった。しかしまだ世間を憚られて、内裏に申し上げさせなさるには、「もし朝廷に対して(私の)野心がございましたらば、現世では天神地祇の神罰を受け、来世では三世の諸仏の利益から漏れることになりましょう」とご誓書なさる。南都にいらっしゃっては悪いだろうと、関白殿からお迎えに人を参上させたところ、ご病気といって(大相国は)お出でにならない、まだ世間を憚られていらっしゃるためである。そのため関白殿下から、ご子息の左衛門督基実をお使いに、詳しく(事情を大相国に)申し上げなさったので、ようやく入道殿は南都をお出になって、知足院にお住まいになられる。お年八十四歳ということである。
[39] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月21日 01時02分21秒 ) | パスワード |
崇徳院の書いたお経さえ都に置かれるのを拒まれ
崇徳院は嘆きの内に死んでしまう。
ところが崇徳院の生きている内に平治の乱が起き
義朝の死はその報い、と。
更に「保元物語」では清盛のあっち死は崇徳院お呪いのせい、と。
下巻・第十八章 … 新院お経沈めの事、付・崩御の事
新院は八月十日に(配所に)ご到着なさった。
四方に築垣を築き、ただ一箇所だけ出口を開けて、日に三度のお世話のほかには、訪れる人もいない。
私は、すでに三十八年を送った。
どのような前世の宿業のために、このような(配流の)嘆きに沈むのであろう。
ひとえに後世のために、五部の大乗経を、三年ほどご自筆で写経して、(寺で用いる)法螺貝や鉦の音も聞こえないところに、お置きになるのも不憫である。八幡山か高野山か、もしお許しがあれば鳥羽の安楽寿院の故(鳥羽)上皇のご墓所に置き申したいということを、平治元(1159)年の春の頃、仁和寺の御室へ申されたので、第五皇子(覚性入道親王)からも、関白殿にこのことが伝え申された。
(関白)殿下からよいようにとりなし奏上なさったのだが、主上はついに許されず、お経はすぐに(新院のもとへ)返却され、御室からは、「(主上の)おとがめが(新院には)重くございますので、ご手跡であっても、都の近くには置くことができないということを承りまして、力及ばず(お返しいたします)」とご返事があったので、新院はこのことをお聞きになって、「くやしいなあ。我が国だけでなく、インドや中国でも、国をめぐり位を争って、伯父と甥が叛乱し、兄弟が合戦をすることもないわけではない。私はこのことを後悔して、悪心懺悔のためにこの経を写経したのである。だのに筆跡すら、都に置かないと
いうまでのことでは力なく、(それならばいっそ)この経を魔道に回向して、魔縁となって遺恨を晴らそう」とおっしゃったので、このことは都でも風評となり、ご様子を見て参れと、康頼をご使者として遣わされたが、参ってお会い申すと、柿色のお衣がすすけているのに、長頭巾を巻いて、ご自身の血を出して、大乗経の奥に誓書なさって、千尋もの(深い)底へ沈めなさった。その後は爪もお切りにならず、髪もお剃りにならないで、身をやつして、悪念に沈みなさったのは恐ろしいことである。
こうして八年いらっしゃって、長寛二(1164)年八月二十六日に、享年四十六歳で、志戸というところで、ご崩御なさったのを、白峯というところで煙にし申す。この君は怨念によって、生きながら天狗の姿になられなさったが、そのせいか、中二年あって、平治元年十二月九日、信頼卿にかたらわれて義朝が大内裏に立て籠もり、三条殿を焼き払い、院〔後白河院〕や、主上〔二条天皇〕をも押し込め申し、信西入道の一派を滅ぼし、掘り埋めた信西入道の亡骸を掘り起こし、首を大路にさらした。絶えて久しかった死罪を執行し、左大臣殿の亡骸を辱めたりするなど、あまりなことを処断されたせいである。(ちなみに)去る保元三(1158)年八月二十三日に、(主上は)春宮にご譲位なさる、二条院がこれである。(ここで)院と申し上げたのは後白河のことである。信頼もたちまちに滅びてしまう。義朝も平氏に打ち負かされ落ち行くが、尾張の国で相伝の家人、長田庄司忠致に討たれて、子供たちは皆死刑流罪にされる。本当に乙若がおっしゃった通りである。栴檀は二葉より芳しく、迦陵頻迦は卵の中から妙なる声でさえずるように、乙若は幼いけれども、武士の家に生まれて、武士としての道義を知っていたことはあわれである。
この反乱〔平治の乱〕は讃岐院〔新院〕がまだご在世の間に、直接ご怨念が引き起こしたものと、人は申したものである。
治承元(1177)年六月二十九日、追号を定めて崇徳院と申し上げた。
このように宥め申し上げたけれども、それでも(新院の)ご憤懣は晴らされなかったのだろうか、同三(1179)年十一月十四日に、清盛が朝廷を恨も申して、上皇〔後白河院〕を鳥羽の離宮に押し籠め申して、太政大臣以下四十三人の官職を留め、関白殿を太宰権帥に左遷し申した。これはただ事ではなく、崇徳院の祟りであると申した。その後人の夢に、讃岐院〔新院〕をお輿に乗せ申し上げ、為義判官が子供たちを引き連れて先陣をお勤めし、平馬助忠正が後陣で、法住寺殿へお移りになられるのに、西の門から入られようとするところ、為義が申し上げるには、「この門を不動明王、大威徳(明王)が守っていらっしゃるので入れません」と申すので、(新院が)「それならば清盛のところに入ろう」とおっしゃるので、西八条におなりになって、造作もなくうちへお入りになった。本当に(その夢から)どれほどもなくて、清盛公がものぐるわしくなりなさる。これは讃岐院の怨霊であるといって、宥め申し上げるために、かつて合戦があった大炊御門の末の御所跡に社を作り、崇徳院と祝い申して、ならびに左大臣殿の贈官贈位を行う。少納言維基が勅使として、そのご墓所に向かって、太政大臣正一位の位記を読んだ。亡魂もそれは嬉しいと思ったろう。
[40] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月21日 10時14分56秒 ) | パスワード |
下巻・第十九章 … 為朝が生け捕りにされ流罪に処される事
八郎(為朝)は近江国輪田というところに隠れて、郎等を一人法師にして、乞食をさせて日を過していた。
筑紫へと下るための準備をしていたが、平家の家人筑後守家貞が、大勢を率いて上洛したという噂だったので、そのあいだ昼は深い山の中に入って身を隠し、夜は人里に出てきて食事をしていたが、悩みのある身であるので病にかかり、灸治などを多く施して、温めなければならないということであったので、古い湯屋を借りて、いつも居湯をしていた。ここに佐渡兵衛重貞という者が、宣旨を受けて、国中に(為朝を)捜索しているところで、ある者が申したには、「このごろ、この湯屋に入る者が不審です。大男のおそろしそうなので、立派そうです。年は二十ほどで、額に傷があります。たいそう人を忍ぶように思われます」と語るので、九月二日に(為朝が)湯屋に居る時に、三十数騎で押し寄せた。為朝は真っ裸で、合木でたくさんの者を打ち据えたが、大勢に取り囲まれて、どうしようもなく捕らえられた。
季実判官が受け取って、二条を西へ護送する。白い水干、袴に赤い帷子を着せて、髻に白い櫛を挿していた。
北の陣で主上がご覧になった。公卿、殿上人は申すに及ばず、見物のものが市をなした。顔の傷は、合戦の日に、正清に射られたという。すでに(為朝は)誅されるべきであったが、以前のことは合戦の折のことなので仕方ない。事はすでに時期を逸している。いまだご覧になったこともないような者の様子である。そのうえ末代には珍しい勇者である。とりあえずは命を助け遠流にするべきである、と議定があったので、流罪と決まった。ただし、健康であっては後に災いとなるであろうと、肘を外して、伊豆大島へと流刑にした。こうして五十数日して、肩が治って後には、少し弱くはなったけれども、矢を引くことは、もう二伏多くひけるようになったので、物を射切ることは昔に変わらない。
為朝がおっしゃるには、「私は清和天皇の末裔で、八幡太郎の孫である、どうして先祖を失うだろうか。こここそが公家衆からいただいた(私の)領地だ」といって、大島を支配するだけでなく、すべて五島を従えた。ここは伊豆国の住人狩野介茂光の領地であったけれども、少しも年貢を出さない。(そのうえに為朝は)島の代官三郎大夫忠重という者の婿となった。茂光は、「上等な婿をとって、私が追われても(何も)しない」と忠重を恨んだので、(忠重は密かに)こうして(年貢を)運送しているのを、為朝は聞きつけて、舅の忠重を呼び寄せて、「このことはおかしいではないか」と言って、(忠重は)勇者なので、後に自分のために悪いだろうと思ったのか、(忠重の)左右の手の指を三つずつ切り捨ててしまった。そのほか弓矢をとって焼き捨てた。すべて島中に自分の郎等の(もつものの)ほかには、弓矢を置かなかった。昔の(郎等であった)武士たちが訪ねてきて付き従ったので、威勢は次第に盛んとなり、(そのようにして)過ぎて行くうちに、
[41] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月21日 10時39分37秒 ) | パスワード |
下巻・第二十章 … 為朝が鬼が島に渡ること、ならびに最期の事
(流されて)十年にあたる永万元(1165)年に、磯に出て行楽していると、白鷺、青鷺が二羽連れ立って、沖のほうへと飛んで行くのを見て、「(強そうな)鷲ですら休まずには千里(ようやく)飛ぶというのに、ましてや鷺は一、二里は過ぎるまい。この鳥の飛ぶ先には、きっと島でもあるのだろう。追ってみよう」と言うままに、もう舟に乗って追いかけてゆくと、日も暮れて夜になったので、月をかがり火(代わり)に漕ぎ行くと、明け方にはもう島影が見えた。
ただ今(この島に)来たしるしとして、例の大男を一人連れて帰りなさる。
大島の者たちは、(為朝が)あまりに乱暴に振舞いなさるので、龍神や八部衆に捕まって、なくなってしまったのだろうと喜んでいたが、何事もなくお帰りになっただけでなく、そのうえ恐ろしげな鬼を連れてきたので、国人たちはいよいよ恐れる。この鬼の様子を人に見せようと、普段から伊豆の国府になんということもなく遣わした。そのため国人たちは、鬼神の島に渡り、鬼を捕らえて郎等とし、人を食い殺させようとするのだろうと、怖れるのは並々ならない。それで為朝もやはりおごる心が出てきたのだろうか。そのようなので国人たちも、「このようではどのような謀叛を起こしなさるだろうか」と申していたのを、狩野介が伝え聞いて、高倉天皇のご治世の、嘉応二(1170)年の春に上洛して、このことを奏上し、茂光の領地をことごとく横領し、そのうえ鬼が島に渡り、鬼神を奴隷として召使い、人民を虐げていることを訴え申したので、後白河上皇は驚きなさって、当(伊豆)国ならびに武蔵、相模の軍勢を募って、出発するように、院宣を下しなさったので、茂光に従ったのは以下の者たちであった。伊藤、北条、宇佐美平太、同じく平次、加藤太、同じく加藤次、最六郎、新田四郎、藤内遠景をはじめとして五百騎以上、兵船二十艘以上で、嘉応二年の四月下旬に、大島の(為朝の)館へと押し寄せた。
御曹司(為朝)は「思いもよらず、沖のほうから船の音がしたのは何の船か、見て参れ」とおっしゃる。「商船ではないでしょうか、多く連れ立ってございます」と申すと、「まさかそんなことはあるまい。私に討ち手が向かっているのだろうか」とおっしゃると、案の定兵船である。
「このうえは武士たちは一人も残るな。みな落ち逃れてゆけ。武具もすべて龍神に差し上げよ」といって、落ち逃れる者たちにそれぞれ形見を与え、島の冠者為頼といって、九歳になっていたのを呼び寄せて刺し殺す。これを見て、五つになる男子、二つになる女子を、母が抱いていなくなっしてましったので仕方ない。
「そうとはいえ、一矢射てから腹も切ろう」と、立ち向かいなさるが、最期の矢をどうでもよく射るのも、無念であると考えなさったところに、一陣の船に、屈強の武士たち三百数名が、射向けの袖をさしかざして、船を傾けて、三町ほど渚近くに押し寄せた。御曹司は矢の射るところとして少し遠いけれども、例の大鏑を取ってつがえ、小肘のまわるくらい引き寄せてひょうと放つ。水際から五寸ほどおいて、大舟の腹を向こうへとつっと射通したので、両方の矢の穴から水が入って、舟は水底へと舞い入った。水心がある武士たちは、楯や掻楯に乗って漂うところを、櫓や櫂、弓のはずに取り付いて、周りの舟に乗り移って助かった。為朝はこれをご覧になって、「保元の昔には、矢一筋で二人の武者を射殺した。嘉応の今は、一矢で多くの武士を殺しおわった。南無阿弥陀仏」と申された。今はもう思うこともないと内に入り、家の柱を後ろにして、腹をかき切っていらっしゃる。
まったく官軍の臆病であるというわけではなく、ただ日頃人ごとに(為朝について)怖れていたせいであるのだ。このように随分の勇者たちも、気後れして
先に進めないで、ただ外壁を取り囲むだけである。ここに加藤次景廉が、自害したと見極めたのだろうか、薙刀をもって後ろから狙い寄って、御曹司(為朝)の首を打ち落とした。よってその日の功績の第一の筆に付いた。
首を同年五月に都へ上したので、(後白河)院は二条京極にお車を出してご覧になり、京中の貴賎道俗(を問わず人々)は群れ集まった。
この為朝は十三で筑紫へ下り、九州を三年で従え、六年支配して十八歳で都へ上洛し、保元の合戦で名を顕し、二十九歳で鬼が島へ渡り、鬼神を捕らえて奴隷とし、一国の者が恐れおののいたといっても、勅勘の身であったので、結局本意を遂げず、三十三歳で自害して、名を天下に広めた。「昔から今に至るまで、この為朝ほどの血気の勇者はいない」と人々は申した。
−完−
[42] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月21日 10時40分35秒 ) | パスワード |
保元物語一の英雄は為朝でしたか。
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