[1] | 川口 信さんからのコメント(2002年04月16日 11時08分27秒 ) | パスワード |
平宗清の心情を熱く、詳しく述べて下さいまして、子孫の端くれとして名を連ねている者として、深く感謝申し上げます。
以前どこかで平宗清の気持ちが良く理解出来ないとのコメントがどこかでみかけましたが、自分が助けた頼朝公の天下になってしまって、平家の一門が滅亡したので責任を感じていたのではと理解すれば、鎌倉に行かず、また世に名を現わすを欲せず、固辞して伊賀の地に老休の場所として余生を送った気持ちも理解できます。主を見限ったのではなく、自己の主義主張(責任論・反骨精神)を通したのだと思います。
まあ、こうして平家、源氏の子孫達が 敵・味方なくスレッドで語りあえる事が出来るのもご先祖様があればこそで、人々が助け合って生きていく事が大事です。「平家物語を熱く語る・・」を知ってからつくづく感じます。
それにしても、主たる頼盛卿の御廟所が福井の武生市にあるのか分かりません。頼盛卿の夫人が卿を慕って行く途中、富山県の「親知らず・子知らず」の地で子供を亡くしたことは、色々なところで書かれておりますが。頼盛卿が領地の越後国蒲原・五百刈村へ隠れていたのでともありますが、どっちからどっちに行ったのでしょうかね?
[2] | 川口 信さんからのコメント(2002年04月19日 12時52分18秒 ) | パスワード |
頼朝が昔の恩を忘れず宗清に報いんとしたことは流石に立派である。然し頼盛が味方の戦列にも加わらず、敵側であるべき頼朝の招きに応じたのに反し、断固としてこれをしりぞけた宗清の態度は、武士として実に見上げたものと言うべきであろう。
上記文章は「柘植姓の研究」:柘植宗澄氏著の中に書かれてあるものです。
http://www.hi-ho.ne.jp/tsuge/link1.htm
これは平宗清の子孫の柘植姓のURLです。ご参考に。
[3] | 源三さんからのコメント(2002年10月26日 17時15分07秒 ) | パスワード |
たしか宗盛と宗清って泳ぎが達者のばかり壇の浦で生け捕りにされた方々
ですか?そして京都で橘公長に斬られた。
肥前には公長の子・公業にはじまる肥前橘一族が割拠しております。
源平の戦功の関係で肥前にかなりの領地をもらったそうです。
何かその戦功の陰で多くの平家の公達が命を落としていることに
何かやるせない歴史の因果を感ぜずにはいられません。
なむあみだぶつ・・・。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月27日 01時25分23秒 ) | パスワード |
宗盛は子息の清宗と一緒に捕らえられ
鎌倉に送られて
京に返されて途中で斬られました。
宗清は頼盛家の家老で
頼朝から鎌倉に来るよう招待されたけど行かなくて
平家の西海落ちに従い
平家滅亡後結局は伊賀で一生を終えました。
八女?あたりに宗清寺というのがあります。
[5] | 和上 創さんからのコメント(2008年01月30日 06時54分09秒 ) | パスワード |
URL=http://blogs.yahoo.co.jp/wajosou8044/MYBLOG/yblog.html?fid=0&m=l |
皆さん、はじめまして。
頼盛の末裔に当たる、山吉と申します。
山吉姓は世に少なく、ルーツを探っておりましたところ、頼盛に行き当たりました。
頼盛は母・池の禅尼におかげで、頼朝に助命され、旧領・越後国蒲原郡三条城を賜り、池姓を名乗ります。
頼盛より数えて6代目の頃(徳治2年=1307)山吉の地に新城を築き、山吉姓を名乗ったと伝えられます。
15代景長の弟、もしくは16代豊守の弟(どちらが正しいか判然としません)は、川中島の戦いで武勲を立て、謙信より鬼の一字を賜り、山吉鬼小次郎玄蕃親広と名乗りました。この鬼小次郎が私の先祖に当たります。
(参照:新潟三条市史・越後三条山吉家伝記の写し)
したがって、我が家では2月の節分に、「鬼は外」と叫んではいけないと、伝えられています。
赤穂浪士の討ち入りで知られた、吉良義周の付け人・山吉新八朗は15代豊守の末裔に当たり、やはり剣術の達人でした。
[6] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年01月30日 09時50分40秒 ) | パスワード |
和上 創さん
初めまして。
>頼盛は母・池の禅尼におかげで、頼朝に助命され、旧領・越後国蒲原郡三条城を賜り、池姓を名乗ります。
「相棒」という番組の最後のクレジットで「池 頼広」さんとおっしゃる方のお名前がありますが
やはり頼盛公関係のようですか。
>吉良義周の付け人・山吉新八朗は15代豊守の末裔
上杉家がらみでしょうか?
ふと思いました。笑
[7] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年01月30日 10時07分39秒 ) | パスワード |
播磨屋さんの「山吉姓」を見てきました。
戦国時代、長尾家上杉家の時代に山吉家は大活躍なさっていらっしゃるのですね。
失礼をば致しました。ぺこり
[8] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年01月31日 02時43分09秒 ) | パスワード |
<7>を書き込んで1時間後、
こちらのテレビでNHK歌謡コンサートの放送があり
島津亜矢が長編歌謡浪曲「元禄名槍譜 俵星玄蕃」を唄いました。
「名こそ惜しめ」
なんて台詞があって
トクな役回りに当たった人
ソンな役回りに当たった人
しみじみ考えてしまいました。
[9] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2008年02月01日 01時08分52秒 ) | パスワード |
2008年1月22日のニュースだそうですが戦国時代のおにぎりが発見されたそうです。
新潟県妙高市の鮫ヶ尾城は、1579年の「御館の乱」で、上杉景虎が最後に立てこもった末に落城、自害した地と文献に伝えられている。
放射線を使った年代分析でも、「おにぎり」は「御館の乱」と時期が重なる結果が出ている。
上杉謙信亡き後
景勝と三郎景虎が跡目を争って景虎が敗れて自刃した事件です。
播磨屋さんのサイトで(ふ〜ん)なんて読み流してたのに
今朝のNYからのニュースで知って
なにか御先祖さまから「もっと興味を持ってよ!」とパワーが来てるのかな?と思います。
不思議な偶然です。
[10] | 和上 創さんからのコメント(2010年04月27日 08時12分04秒 ) | パスワード |
URL=http://members.jcom.home.ne.jp/wajosou/ |
私は、本名を山吉といいます。
私は本当に、ご先祖様からメッセージを貰い、山吉姓を調べ始めたのです。
それまでは、歴史など、全く興味がありませんでした。まして歴史上に山吉の名前が残っているなど、全く知らなかったのです。
10年ほど前のことです。朝の4時半、知り合いの霊能師の電話でたたき起こされました。
「たいへんだよ!私の枕元に神様みたいな若い男が立ってさ、あんたを自分の所に来させろって、告げたんだ!」
私は、寝起きの頭で、「ばかばかしい!!」としか思わなかったのですが、敬虔な家内の薦めもあり、その名前も知らない信州の小さな神社へ出かけたのです。その折になんとなく願をかけたところ、その願がかなって大金が手に入りました。そこでその神社の由来を調べましたところ、どうやら吉良義周の付け人・山吉新八郎がお百度を踏んだ神社と分かりました。
そこから、山吉新八郎の墓を米沢に訪ね、「山吉家譜」なるものをてに入れ、
越後三条に現存する山吉家の史跡を訪ねました。
面白いでしょう?先祖のお告げって本当にあるんですよ!
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.20 by Rapha. WEB design Rapha. |