[1] | 川口 信さんからのコメント(2002年04月15日 13時43分10秒 ) | パスワード |
『吾妻鏡索引』の文治6年の記述に「大河兼任の乱」に関する文があります。
1月6日 辛酉
奥州の故泰衡郎従大河の次郎兼任以下、去年窮冬以来叛逆を企て、或いは伊豫の守義経と号し出羽の国海辺庄に出て、或いは左馬の頭義仲嫡男朝日の冠者と称し同国山北郡に起ち、各々逆党を結ぶ。遂に兼任嫡子鶴太郎・次男畿内の次郎並びに七千余騎の凶徒を相具し、鎌倉方に向かい首途せしむ。その路河北・秋田城等を歴て、大関山を越え、多賀の国府に出んと擬す。而るに秋田大方に於いて、志加の渡を打ち融るの間、氷俄に消えて五千余人忽ち以て溺死しをはんぬ。天の譴を蒙るか。爰に兼任使者を由利の中八維平の許に送りて云く、古今の間、六親若くは夫婦怨敵の者に報ずるは尋常の事なり。未だ主人の敵を討つの例有らず。兼任独りその例を始めんが為、鎌倉に赴く所なりてえり。仍って維平小鹿嶋大社山毛々佐田の辺に馳せ向かい、防戦両時に及ぶ。維平討ち取られをはんぬ。兼任また千福山本の方に向かい、津軽に到り、重ねて 合戦し、宇佐美の平次以下の御家人及び雑色澤安等を殺戮すと。これに依って在国の御家人等面々飛脚を進し、事の由を言上すと。
1月7日 壬戌
去年の奥州の囚人二籐次忠季は、大河の次郎兼任の弟なり。頗る物儀に背かざるの間、すでに御家人と為す。仍って仰せ付けらるる事有り、奥州に下向す。途中に於いて兼任叛逆の事を聞き、今日帰参する所なり。これ兄弟たりと雖も、全く同意せざるの由貞心を顕わさんが為と。殊に御感有り。早く奥州に馳せ向かい、兼任を追討すべきの旨仰せ含めらると。忠季兄新田の三郎入道、同じく兼任に背き参上すと。彼等参上の今、始めてこれを聞こし食し驚くに依って、軍勢を発遣せらるべきの由その沙汰に及ぶ。盛時・行政等召文を書く。相模の国以西の御家人に下さるべし。征伐の用意を存じ参上すべきの趣なり。
1月8日 癸亥
奥州叛逆の事に依って軍兵を分ち遣わさる。海道の大将軍は千葉の介常胤、山道は比企の籐四郎能員なり。而るに東海道岩崎の輩、常胤を相待たずと雖も、先登に進むべきの由申請するの間、神妙の旨仰せ下さる。仍って彼の輩は、奥州の住人たりと雖も、貳を存ぜざるか。各々隔心無くこれを相具し、合戦を遂ぐべきの趣、今日飛脚に付け、奥州守護の御家人等の許に仰せ遣わさる。この外近国の御家人結城の七郎朝光以下、奥州に所領在るの輩に於いては、一族等に同道すべきの旨を存ぜず、面々急ぎ下向すべきの由仰せ遣わさると。
参考に。
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.20 by Rapha. WEB design Rapha. |