[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月15日 00時10分07秒 ) | パスワード |
このシーンは清盛が後白河法皇に福原御幸をお願いするシーンです。
「福原に出向けというのか?何の為だ」
「実は福原に宋人が参っております」
「宋人?商人が畿内に入っているというのか?」
法皇は顔色を変えた。
異国人は「汚れ」とみなされ
みだりに国土を旅行する事は禁ずる習慣がある。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月15日 00時22分05秒 ) | パスワード |
>異国人は「汚れ」とみなされ
>みだりに国土を旅行する事は禁ずる習慣がある。
この説明を池宮彰一郎がしています。
西暦907年唐が滅亡した。
それまでの日本は遣唐使を派遣してその文明を取り入れることに熱意を示した。
日本に入ってくるモノは珍重された。
活発に国際交流を行ない国際貿易も行ない日本には思いも及ばぬ唐からの
文明・文化は日本にとっては憧れであったから
当時の日本には唐との交流に「汚れ」意識は無かった。
それが唐に次いで新羅やボツ海が次々と滅びた。
極東の地は動乱が続発しその伝播を恐れた日本は事実上鎖国時代に入り
その公式的見解は宋日貿易が始まっても変わらなかった。
大陸の動乱を恐れる余り「汚れ」となった。
宋の時代に交易が始まると、その優れた文物に対する憧れが汚れと同居するようになった。
鎖国の理由は人種差別であり蔑視である、と池宮氏は書いています。
異国は汚れであり異国人との交際はタブーとされた、と。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月15日 00時28分34秒 ) | パスワード |
<続き>
鳥羽院の時代に日宋貿易は最盛期を迎え
我が国の貿易は大宰府を中心に行なわれた。
大宰府の外港・博多津に在留する宋商人の居宅は1600軒に及んだ
と記録にあるそうです。
藤原忠通が大宰府を知行した頃
孔雀や雄武を鳥羽法皇に献上して大いに珍重された、
とあるそうです。
でも<汚れ>は残った、と。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月15日 00時31分46秒 ) | パスワード |
なるほどね。
外国人に対する<漠然とした>恐怖とか不信感というのはあったろうとは思いましたが
背景には唐や新羅やボツ海の滅亡というのがあって<現実>の影響や迷惑というのがあった
のですねぇ。
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