[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月13日 12時22分06秒 ) | パスワード |
鹿ケ谷の陰謀を行綱が清盛に密告して以降のお話です。
行綱が密告したのがバレれば行綱は仲間から恨まれるだろうから
それをどう処理するか、という座に家貞の3人の息子達が呼ばれた、
訳です。
清盛:バレたら行綱の身が危なかろう
家実:一味と同じ罪を与え、その上で配流先に手心を加えれば良い
清盛:どうかな?望みの配流先はあるか?
行綱:良い所がございましょうか?
家継:安芸の国はいかがでございましょう
清盛:行綱には宮島に住居を与え厳島内侍を相手に1〜2年遊んで来ては?
というような経緯が書かれています。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月13日 12時32分47秒 ) | パスワード |
この3兄弟についてこのような説明がありました:
この3兄弟は清盛の祖父・正盛の頃より父・忠盛、清盛と3代にわたって忠勤に励んだ
家貞の子である。
家貞は常に忠盛にこしょうして離れず護衛を務め
保元・平治の乱では清盛の謀将として活躍し
その賞として平姓を許され筑後守に任ぜられた。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月13日 12時37分15秒 ) | パスワード |
<続き>
家実・家継・貞能の3兄弟は青年に達すると父と共に清盛の側近となり
枢機の事に当り、仁安2年(1167)家貞が86歳で天寿を全うした後も
3人りく力協心して清盛に仕え二となき信頼を得ている。
りく=殺りくのリク
[4] | 川口 信さんからのコメント(2002年04月19日 09時20分57秒 ) | パスワード |
ちょっと関係した文。
壇ノ浦合戦は文治元年(1185)3月24日のことですが、平家の水軍は松浦党や山鹿秀遠の船が先陣を承り、緒戦は平家軍有利に展開しました。当時の潮流は午前中は西から東へ入り込み、午後三時頃から逆に東から西へと変わりました。一斉に動き出した源氏の水軍は相手の船頭や漕ぎ手をねらったと言います。安徳帝以下、二位尼、建札門院徳子らは、入水、平知盛ら多くの武将は戦死、入水、また行方知れずとなりました。漕ぎ手を失った兵船は漂流を余儀なくされますが、ここから落人伝説が始まるのです。
『玉葉』(九条兼定日記)や『吾妻鏡』(鎌倉幕府編纂)には、「帝は浮かばしめ給わず」「御事分明ならず」として生死を明記していません。筑後地方はもともと平家の息のかかったところで、平家の家人が筑後守に任ぜられました。日向道良の乱を鎮めた平家貞やその子貞能は、筑後・肥後守として菊池隆直らと戦いました。
筑後はこのように壇ノ浦合戦後も親平家とは名乗れずとも平家に心を寄せる人々は多くいたと推察されます。安徳天皇の潜行伝説では「宗像郡鐘崎を経て対馬に渡り宗氏となる」との伝説もありますが、一方「筑前から筑後に入り久留米市周辺で隠棲され、28歳まで生きられた」とする伝説もあります。
『久留米市史第5巻』では、
・立石家据置記(佐賀県馬栖市下野・立石光雄家古文書)−下野潜入−
・久留米市長門石町の伝承(執行萬造家旧記)−長門石潜行−
・朝日寺縁起(久留米市大善寺町夜明・朝日寺縁起抄録)−高僧神子栄 尊禅師出生譚−
等が記されていますが、安徳帝の下野から長門石へ、さらに大善寺へ移られ28歳(または25歳説や27歳説もある)で薨ぜられたことが述べられています。筑後将士軍談の著者、矢野一貞も「下村(白口地区)は皆安徳氏なり、是は相伝えて云う、安徳帝は当村にて崩じ、其の子孫也」と記しています。
上記文はURL平家落人伝説の中「平家落人の潜行経路」に記載されています。
http://www.kyushuotani.ac.jp/js/sotsuron/1998/ushijima/heike.html
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月19日 11時30分40秒 ) | パスワード |
安徳天皇入水説は平家物語の話であって実際は「わからない」という事のようですね。
>『玉葉』(九条兼定日記)や『吾妻鏡』(鎌倉幕府編纂)には、
>「帝は浮かばしめ給わず」「御事分明ならず」として生死を明記していません。
いよいよ謎ですね。
[6] | 川口 信さんからのコメント(2002年11月05日 12時22分43秒 ) | パスワード |
三兄弟が正盛、忠盛との関係の一端を現した文章がありました。
永長2年(1097)、隠岐守平正盛は、伊賀国東大寺領玉滝荘と関係の深い阿拝郡鞆田村・同柘植村・山田郡山田村に散在する家地・田畠二十町を六条院領に寄進し、鞆田荘を成立させた。同荘には、在地に政所があって沙汰人がおり、そのもとに鞆田荘司・山田荘司などの荘官がいた。その沙汰人として最初に鞆田荘にあらわれるのが家貞である。彼は、保延3年の平忠盛の下文に「下 家貞所」と宛てられている人物である。「保元物語」などに平氏第一の郎等として活躍する筑後守家貞のことと見られる。家貞には家継、家実、貞能の少なくとも三人の子息がいた。
家継は「平田入道」「平田冠者」など地名の平田を冠して名乗っている事からして、弟の家実とともに鞆田荘の地において北伊賀地方の平氏勢力の中核に位置し、いわゆる三日平氏の乱の際、その中心にいたことにより端的に示されている。鞆田荘の沙汰人職は、家貞のあと家継、家実らの一統に相伝されていたものと考えられる。
平貞能は、平清盛の「専一腹心者」といわれ活躍し尾張大橋家の先祖となっている。また三兄弟の従兄弟に平宗清がいる。この関係から推量して大橋家から宗清の子孫と称している川口家の養子に入ったのも納得できるもので、両家にはその関係が言い伝えられていたのかも知れません。(参考:平氏政権の研究・田中文英著)
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2002年11月07日 10時27分19秒 ) | パスワード |
川口さま
ありがとうございました。
平田家継には何か分かりませんが非常に心を引かれるのです。
血を分けた父娘のように。
[8] | 川口 信さんからのコメント(2002年12月03日 08時44分11秒 ) | パスワード |
[6]の続き
「源平盛衰記」(巻第一)五節の夜の闇討ちの条によれば、家貞の祖父平貞光は、もと平氏の「御一門ノ末」であったが「正盛ノ時始テ郎等職」になったという。このばあい、「源平盛衰記」という史料からあまり字句を詮索することは疑問であるが、「郎等職」とは、郎等という人格的な従属関係をしめす身分呼称と、沙汰人職のような荘園制所職との二つが、混合して表現したものであろう。したがって、このような一統の地位からすると、「御一門ノ末」から「郎等職」になるということは、鞆田荘の沙汰人となることを意味したのではなかろうか。とすれば鞆田荘における代官支配の体制は、すでに正盛・貞光のときに形成されたものと推測される。
藤井荘(大和国山辺郡)保元の乱後、藤原頼長の所職は没官されて後院領(後白河天皇)となり、やがて蓮華王院領になるが源俊通の領家職は変動しなかった。この荘園は名張川をへだてて伊賀国西境の山地をしめていた。院領になって左兵衛尉平康忠・左兵衛尉平宗清が相次いで領所に補任された。
「源平盛衰記」の巻1
S0102 五節夜闇打附五節始竝周成王臣下事
〔加様に〕忠盛、佛智に叶程の寺を造進したりければ、禪定法皇叡感に堪させ給はず、被下遷任之上、当座に刑部卿になさる、内の被免昇殿。昇殿は是象外の選なれば、俗骨望事なし。就中先祖高見王より、其跡久く絶たりし、忠盛三十六にして被免けり。院の殿上すら難上、況や内の昇殿に於てをや。当時の面目、子孫の繁昌と覚たり。法皇常の仰には、忠盛なからましかば、誰か朕をば佛に成べきとて、或時は御剣御衣、或時は紗金錦絹を、得長壽院へ可奉廻向とて下賜ひけり。其上闕國のあれかし、庄園のあけかし、重々もたばんと思召しければ、雲の上人嘲憤て、同年十一月の五節、二十三日の豊明節会の夜、闇打にせんと支度あり。忠盛此事風聞て、我右筆の身に非、武勇の家に生て、今此恥にあはん事、為身為家、心うかるべし、又此事を聞ながら、出仕(有朋上P005)を留めんも云甲斐なし、所詮身を全して君に仕るは、忠臣の法と云事ありと云て、内々有用意。爰に忠盛朝臣の郎等に、進三郎大夫季房子、左兵衛尉平家貞と云者あり。本は忠盛の父正盛の一門たりしが、正盛の時始て郎等職と成りたりし、木工右馬允平貞光が孫也。備前守の許に参て申けるは、今夜五節の御出仕には、僻事いでくべき由承候、但祖父貞光は、乍恐御一門の末にて侍りけるが、故入道殿の御時に、始て郎等に罷成候けりと承、貞光には孫也、季房には子也、親祖父に勝るべきならねば、其振舞を仕る、殿中の人々、我も\と思輩は、かず多くこそ侍らめども、加様の實の詮にあひ奉らん者は、類少こそ候らめ、御伴には家貞参べし、無御憚可有御出仕と申ければ、忠盛然べしとて召具す。家貞は布衣下に、萌黄の腹巻衛府の太刀佩、烏帽子引入袖纈て、殿上の小庭にあり。子息平六家長は歳十七、長高骨太して剛者、度々はがねを顕して逞き者、これも布衣下に、紫威の腹巻著て、赤銅造の太刀佩て、無官なれば徐々として、左右の手を土につきて、犬居に居て、雲透に殿上の方を伺見て、親の家貞あゝといはば、子息の家長も、つと可打入支度也。殿上の人々怪をなしければ、頭左中辨師俊朝臣、蔵人判官平時信を召て、宇津保柱より内に、布衣の者候ぬるは何者ぞ、事の體狼籍也、罷出(有朋上P006)挿絵(有朋上P007)挿絵(有朋上P008)よといはせたりければ、家貞は、主君備前守今夜闇打にせらるべき由承ればなり、果給はん様、奉見べければとて畏つて候ければ、事の様、實に主ことにあはば、堂上までも可切上頬魂なりける上に、忠盛朝臣黒鞘巻を装束の上に横たへ、指して支度計なき體にて、腰の程を差くつろげたる様にして、柄を人にぞ見せける。人々事がら尤しとや被思合けん、其夜の闇打はなかりけり。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2002年12月03日 10時14分40秒 ) | パスワード |
川口さま
ありがとうございました。
>御伴には家貞参べし、無御憚可有御出仕と申ければ、
>忠盛然べしとて召具す。家貞は布衣下に、萌黄の腹巻衛府の太刀佩、
>烏帽子引入袖纈て、殿上の小庭にあり。子息平六家長は歳十七、
>長高骨太して剛者、度々はがねを顕して逞き者、これも布衣下に、紫威の腹巻著て、
>赤銅造の太刀佩て、無官なれば徐々として、左右の手を土につきて、犬居に居て、
>雲透に、上の方を伺見て、親の家貞あゝといはば、子息の家長も、つと可打入支度也。
6男の家長17歳
家貞50歳だったそうでございますから
やはり嫡男は貞能だったのでございましょうね。
[10] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月05日 06時39分21秒 ) | パスワード |
太郎さんの書き込みより:
そうそう、平田家継はものによって書かれ方が違うようですね。
@肥後守貞能の伯父平田入道定次 「高野本」
A家貞の長子、貞能の兄平田冠者家次 「尊卑文脈」
B家継法師 「玉葉」
C平田入道(貞能兄) 「山かい記」
D貞能カ兄平田入道 「延喜本」
E貞能舎弟平田入道 「四部合戦状本」
F源平盛衰記では 貞継?
[11] | 太郎さんからのコメント(2003年06月07日 19時39分00秒 ) | パスワード |
<平家貞の息子たちについて>
池宮彰一郎氏の「平家」を読んでる最中ですが、中巻の58ページに、
平家貞の息子たちの説明が出てきます。
家貞の死後「家督を継いだ家実や、別家を立てた家継は、一門の統制に当り、三弟の貞能と末弟の平六家長は常に清盛の身近に仕え、いずれも清盛の腹心として、忠節に励んでいる」
上の記述から、
@家貞の嫡男は家実であること、
A別家「平田家」を立てたのは家継であること、
B貞能が後に筑前守となったのは清盛に身近に仕えた結果であること、
C平六家長というからには家長は六男で、あと二人兄がいること、
などが考えられますね。
それにしても池宮さんは上の情報をどこで得たのだろう。系図のようなものがあったのかな。もしそうだとすると、あと二人の名前も載っていそうな気がしますね。
そのうち出てくるかは、読み進まないと分かりません。
[12] | 太郎さんからのコメント(2003年06月28日 17時05分56秒 ) | パスワード |
池宮平家の下巻に、家貞関係の系図が載っていることをひそかに楽しみにしていたわたしでしたが、残念ながら載っていませんでした。
[13] | 平 隆二さんからのコメント(2003年07月08日 01時28分07秒 ) | パスワード |
苗字が平です。4代前の出身地が仙台です。定義山の伝説が気になります。
[14] | 川口 信さんからのコメント(2003年07月08日 14時03分02秒 ) | パスワード |
平 隆二さん 初めまして、向こうのスレに書き込んでおきましたが
定義山の事大変興味深く読んでみました。貞能の名前が上がっておりますね。
大橋家系図にも平家没落す時に貞能東国に下向し宇都宮を頼て常州に有したが其後又三河国に往きて暫く居住し亦尾州熱田に立越すなどとありますので、伝説というより真実または伝承とおもわれますが。
平 隆二さん におかれましても、何かご存知の事が御座いましたらドンドンとコメントください。
太郎さん、私もやっと昨日本を手に入れ、読み始めたところです。家継が活躍するところまで来てホットし眠気が、先が思いやられます(涙)。
大橋家系図では家貞から貞能と一本で他の兄弟については記載がありません。(但し是は一本系図で)本当は嫡流がちゃんと書き込んでおると思いますが。
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.20 by Rapha. WEB design Rapha. |