[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月25日 23時47分51秒 ) | パスワード |
狩野城跡には修善寺からバスで行きます。
三島の南。
韮山(昔の北条)の南の伊豆半島の中ほどに
南に流れる?大きな狩野川というのがあって、この支流が西に流れています。
これが柿木川で
バス停留所も柿木橋と言ったと思います。
バス停前に山があって、停留所の所に案内板が立ってます。
車で行く場合は
国道136線で
これは途中で西に曲がって土肥に行きます。
その手前2qぐらいのところで狩野川が柿木川という支流を作ってます。
この支流にお寺があって、
お寺は法泉寺というのが城跡のすぐ目の前にあります。
ただ、この近所の人は「源氏びいき」なので気をつけて下さい。
平家とは言わない方がいいです。
ふふふ
そうそう修善寺からバスに乗った時
2種類バス会社?がありましたっけ。
だから聞いた方がいいですよ。
修善寺駅にバス会社の建物がありましたけど
そこのバスじゃなかったです。
同じターミナルから出てるからややこしかっただけですが。
私でも行けましたから大丈夫です。
[2] | いつも通りさんからのコメント(2002年03月26日 02時31分20秒 ) | パスワード |
> 2種類バス会社?がありましたっけ。
本柿木 法泉寺/静岡県の主な桜の見所
http://kankou.pref.shizuoka.jp/zoom/tokushu/sakura/toubu04.html
によると 伊豆箱根鉄道「修善寺駅」より東海バスで「柿木橋」バス停下車
とあります。
東海バス 時刻運賃表
http://www.izu-station.com/sub/jikoku/f-rosen-shuzenjieki-kakikibashi.htm
彼女(かのじょ)じゃなかった(汗)
狩野城 http://homepage3.nifty.com/houzyou-kotaro/A2-sizuoka-kanou.htm
http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/kanousizuoka.htm
http://www28.tok2.com/home/ap/02-history/p-rekishi-all-2.html
http://www28.tok2.com/home/ap/02-history/linkkanojoshi.html
別名は柿木ノ城と言うんですね。
それにしても静岡には城が一杯ありますね。
静岡県の城郭 http://homepage3.nifty.com/houzyou-kotaro/I-9-siro2-sizuoka.htm
歴史と文化史跡 http://www.nwo.go.jp/digital/data/contents/kano_21.html
静岡県のお城・城跡 http://www.shizuoka.com/ns20/siroat.htm
愛知県秦荘町の浅井氏配下狩野氏居城「狩野城」は蚊野となっていますね。
早雲が土豪(三津松下氏・江梨鈴木氏・土肥富永氏)等を味方につけて狩野城を攻撃したわけですね。して1499年、伊豆手中に...。
伊東一族系図 http://www28.tok2.com/home/ap/02-history/link-keizu-ito.html
人名辞典 http://www28.tok2.com/home/ap/02-history/linkjinmei.html
(なかなか面白いHPもあります。ゆっくりどうぞ。大河ドラマより面白い)
[3] | いつも通りさんからのコメント(2002年03月26日 02時33分03秒 ) | パスワード |
もう、ひとつのバス会社は 「伊豆箱根登山鉄道バス」でしょ?
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月26日 03時04分27秒 ) | パスワード |
ありがとうございました。
私が狩野城跡に行った時も狩野城跡にたくさん植えられた桜が満開でした。
お城跡に登る坂道から見渡す北の風景が最高でした。
目の下にか柿木川が流れてましたし。
風光明媚!
空気も新鮮透明で、清澄って言うんですよね、
こういう所に住みたいと思いましたよ。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月26日 06時48分24秒 ) | パスワード |
http://www2u.biglobe.ne.jp/~ture/kanousizuoka.htm
これが非常に参考になると思います。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月26日 09時30分01秒 ) | パスワード |
http://www28.tok2.com/home/ap/02-history/link-keizu-ito.html
ここに整理されている「伊東家家系図」は面白いですよ。
狩野と伊東が分かれ
伊東が工藤と分かれ
伊東の長男が河津と姓を変え曽我兄弟が生まれ工藤を討つ。
伊東祐親の娘達も面白いです。
北条に嫁に行ってたり
三浦の嫁になってたり
工藤の嫁になってたのを離縁させて土肥に与えたり。
源 頼朝の子供を生んだ娘を引き離している父親でもありますから、あのオヤジさん面白い。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月26日 10時35分26秒 ) | パスワード |
http://www28.tok2.com/home/ap/02-history/linkjinmei.html
伊東祐親は「河津二郎」とも呼ばれていたのですってね。
それで長子が「河津三郎」になる訳ですか。
河津という場所は上記狩野城の南なのですよ。
土地鑑の無い私にはよく分かりませんが
狩野も伊東も工藤も河津もみんな親戚だったようですね。
[9] | 川口 信さんからのコメント(2002年03月26日 12時38分45秒 ) | パスワード |
下記のような伊藤/伊東系図のアドレスもありました。(もし繋がらない場合は「伊藤 伊東」で検索を。)
http://www2.ocn.ne.jp/~itoh/itoh.html
各地の伊藤・伊東姓、工藤、河津姓が網羅されてます。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月26日 22時10分55秒 ) | パスワード |
行って来ました。
でもこの系図によると
基景−基信−景綱┬忠清−忠光−景清
└景家−景高−兼高
景清は忠光の子供になってますね。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月27日 00時32分02秒 ) | パスワード |
上記の系図の景家以下は景綱の矢印にくっつけて下さい。
私のマシンからでは壊れてしまうのです。
[12] | 白尾四郎さんからのコメント(2002年03月27日 03時17分41秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2002年03月27日 03時20分56秒
[13] | 白尾四郎さんからのコメント(2002年03月27日 03時24分36秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2002年03月27日 10時33分41秒
[14] | 白尾四郎さんからのコメント(2002年03月27日 03時27分15秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2002年03月27日 10時28分00秒
[15] | 白尾四郎さんからのコメント(2002年03月27日 10時29分03秒 ) | パスワード |
狩野城行ったことあります。
狩野氏がところを変え、しなを変えながら抵抗しまくった話は結構多いですよ。
結局最後は今川領の安倍川と藁科川の間の何て事ない城なんですが(多分慈悲尾のあたりだと思うが、狩野橋なんてのもある所でして、いずれ踏査する必要がありますな)、
それもいわゆる狩野城でしてな。あまり知られてはおりませんが。
そこを落とされて以降は狩野家は武士らしい仕事を辞めまして、
やがて室町時代に細川家や足利家にすくい上げられるんですわ。
それがあんた狩野の正信といういわゆる天賦の才を持ったお方でな、
それから狩野派というおかかえ絵師の家系が出来るんです。ええ。
どんなに栄華を誇った武家も、
いずれはむなしく滅びる運命を背負っているのが
日本の歴史の繰り返しなんですが、
狩野家だけは明治のはじめまで、えんえん栄え続けるわけですよ。
それから伊東祐親が河津の次郎になったのは祖父祐隆が息女の連れ子祐継に
若死にした父(伊東家嫡)の所領(河津、久須見、宇佐見)を継がせてしまったのが原因で、最終的には曾我の仇討ち事件にまで発展するんですよん。
ただしあの仇討ち事件は本当に単なる私闘だったのかどうか、怪しい節があるそうなんですがね。
では。
伊豆工藤系掲示板をよろしく。
http://bbs12.otd.co.jp/1213621/bbs_plain
[16] | いつも通りさんからのコメント(2002年03月27日 12時06分33秒 ) | パスワード |
河津の歴史 http://www.izu-onsen.com/kawazu/rekishi/
>... 河津三郎の父伊東祐親が建てたもので、
> 後に源頼朝の妻となった北条政 子とその母、
> 曽我物語で有名な河津三郎の子五郎時致と十郎祐成がこの館で生まれている。
> 曽我物語のルーツはその頃の伊東の領地争いから始 まる ...
本堂家 http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/hondou.htm
千葉一族【い】その2(←これ白尾四郎さんの関係か?)
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku23.htm
伊東調査 (平成6年5月28日、29日)
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/itou.html
韮山の史跡ゆかりの人物
http://www6.shizuokanet.ne.jp/takan/who.htm
駄弁者雑記2
> 某市立図書館からのFAXである。「 大槻家の家紋を調べています。
> もと仙台藩家臣、藤原姓で伊東祐親の次男 祐清を祖とする
> …(中略)…16代目の清成が大槻家の初代だそうです ...
http://www.blk.mmtr.or.jp/~nabesan/daben2.htm
武家家伝_和賀氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/waga_k.html
武将の家紋-鎌倉編●3-
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/kamakura/html/kama04.html
三浦一族系図
http://popup2.tok2.com/home/kisoyoshinaka/miurakeizu.html
三浦党。三浦氏の庶流
http://www17.freeweb.ne.jp/area/bame/miurashoryu.htm
本堂氏
http://www.tanutanu.net/roots/database/h/hondou1.htm
[17] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月27日 13時54分51秒 ) | パスワード |
白尾さま
なるほど!
それで工藤家と伊東家が仲悪かったという事ですか!
やっと分かりましたよぉ〜。
ありがとうございました。
それで伊東祐親は河津の次郎という名があるのですか。
相続した土地争いって、何のことやら要領を得なくて
>伊東祐親が河津の次郎になったのは
>祖父祐隆が息女の連れ子祐継に
>若死にした父(伊東家嫡)の所領(河津、久須見、宇佐見)を継がせてしまったのが原因で、
>最終的には曾我の仇討ち事件にまで発展するんですよん。
これで「じいちゃんが原因を作った」ってハッキリしましたね。
工藤家にすれば「いいがかり」とはどこかで読みましたけど
もう1度系図をよく見て整理してみますね。
[18] | 白尾四郎さんからのコメント(2002年03月27日 14時04分53秒 ) | パスワード |
すいません 息女でなく側女でした。
なんか昨日は間違いばかりですみません。
[19] | いつも通りさんからのコメント(2002年03月27日 14時21分29秒 ) | パスワード |
> 藤原秀郷が平貞盛に力を貸し、その従兄弟である平将門を倒して後、子孫が...
どーも、古くはうちと御親戚のよーで 将門の亡霊には悩まされそー
うちの一族は、頭目の戦死で没落。備中備後あたりで再興したよーですが
[20] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月27日 14時37分34秒 ) | パスワード |
白尾さまの書き込みといつもさんのいつも通りの沢山のご紹介とをもっと整理して
新しいスレッドをいろいろ立てなくてはいけませんね。
三浦氏のスレッドもそろそろ立てないと・・・
三浦一族も面白い人物がたくさんいらっしゃいますし。
「血は水より濃い」と「兄弟は他人の始まり」という格言が行き来します。
扇のように末広がりに子孫が増えて利害関係が生じて意地でも対抗する人間像に何故か惹かれます。
伊東のオヤジさんはホントに面白い。
こんな人が私の父親だったら迷惑ですが。
でも憎めない。
最期があの人らしい意地を通したというか
意地を通したりして馬鹿ね、というには武士として頑張ったというか
な〜んか気持ちが分かるような気がして好きなのですよ。
腹切って死んでカカカと笑ってる気がするのです。
[21] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月29日 23時41分22秒 ) | パスワード |
メールを頂きました:
ハーイ、明子さん、伊豆へ行ってきましたよ〜。
初日は雨、2日めは快晴でした。
初日は熱海、伊東から修善寺、湯が島を経由して、河津へ。
大室山に行く予定は中止しましたが、伊豆の山の特徴がわかって好かったです。
伊豆の山は急峻なんです。
高さが1000mぐらいのがざらなの。
だから、山の高きにはいつも雲がかかってて、綿菓子みたいなんです。
対する三浦は最高峰230m、
房総は400mですから、いかに伊豆の山が高いかわかりますね。
2日目は、河津川に沿って下り、曽我兄弟の尊父「河津三郎」を祀った河津神社を見る。
どってことない小さい神社でした。
そして下田へと南下。
快晴ゆえの絶景に感嘆。
爪木崎、下田湾周遊フェリー、石廊崎と巡遊して、最後、猿の自生地を見に行きました。
伊豆はおもしろい処です。また行ってみたいですね。
[22] | 教えてください。さんからのコメント(2006年12月06日 20時35分46秒 ) | パスワード |
なぜか我が家の敷地にはお墓があります。それには「伊東修理大夫祐慶父追腹米良勘之助」「柴山長英居士」「寛永十三年六月初四日」と書いてあります。昔のお墓と言うのは分かるのですが。いったい誰のなのかわかりません。何か伊東家と関係のある方のお墓なのでしょうか?
[23] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月07日 00時01分53秒 ) | パスワード |
調べてきました
(ただしココはちょっと信用が出来ないということでも知られてますから詳しくは御自分で)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊東 祐慶(いとう すけのり)
天正17年6月13日(1589年7月25日) - 寛永13年4月4日(1636年5月8日))は伊東祐兵の嫡男。
飫肥藩の2代藩主。
伊東氏の十二代当主。母は正室・伊東義益の娘。
1600年、関ヶ原の戦いが起こると、父の祐兵は大坂で重病の床に臥していたため、代わって軍勢を率い、日向国で唯一東軍に与した。西軍・高橋元種の持ち城である宮崎城などを攻めて軍功を上げた。しかし高橋氏が関ヶ原の合戦前に東軍に寝返ったため、この功績は無効となるが、黒田官兵衛の軍使が遣わされていた為、戦後、徳川家康より所領を安堵された。
しかし同年のうちに父・祐兵が大坂にて病死したため、家督を継いで当主となった。一般的には祐兵が当主の際に所領を安堵されたため飫肥藩の初代藩主となっているが、実質的には祐慶が初代藩主と言える。
[24] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月07日 00時07分45秒 ) | パスワード |
米良さんは
平知盛さまの子孫やら
菊池系やら
日向系やら
いろいろいらっしゃるようですよ。
よく分かりませんが
御主君?の伊東修理大夫祐慶の没後に追い腹を切った?
または伊東修理大夫祐慶のお父上?
米良家は伊東家関係と分かりますね。
ですから
飫肥の伊東家を調べたら出て来ると思います。
身分としてはかなり高い人物だった?
家老とか。
一族でしょうね。
「父」というのが分からないです。
どういう父なのか
どういう関係なのか?
[25] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月07日 00時34分57秒 ) | パスワード |
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/hyuuga/itokasin.htm
に伊東氏と米良家の主従関係がちょっと見られます。
一族なんでしょうけど
どういう関係の一族かは分からないですね。
[26] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年12月07日 00時42分37秒 ) | パスワード |
米良さんについて
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kik_mera.html
これによると南朝方?
[27] | Guess_whoさんからのコメント(2007年11月28日 07時53分56秒 ) | パスワード |
藤原為憲の母親が平将門の伯母(叔母?)にあたります
将門系図(「写真で追う平将門」HPより)
http://www3.ocn.ne.jp/~thirao/familytree.htm
[28] | Guess_whoさんからのコメント(2007年12月01日 13時28分32秒 ) | パスワード |
建久四年(1193)、頼朝は狩場巡りをする旨、東国諸国にふれさせ、諸国の侍たちを引き連れて狩りに出発する(『吾妻鏡』)。
頼朝一行は、まず平将門の乱の平定者・俵藤太藤原秀郷ゆかりの地、武蔵国関戸の宿(現・東京都多摩市)に泊まる。ここでも頼朝を警護する武士たちの警戒は厳しい。
次の日は入間川の近く、入間川の宿で「追鳥狩(おいとりがり)」が行われる。
続く、大倉の宿、児玉の宿、山名 板鼻 松井田の宿、沓掛の宿でも頼朝に対する警護は厳重であったという。
狩野氏・伊東氏・頼朝の系図(伊東氏の歴史館HPより)
http://www12.ocn.ne.jp/~n2003ito/itohinseki2.html
[29] | Guess_whoさんからのコメント(2007年12月02日 12時17分43秒 ) | パスワード |
頼朝の狩場巡りには「名誉譚(めいよたん)」が盛り込まれているのが知られる。
一行は次いで三原・長倉の狩りを終え、頼朝は世に聞く「那須野(なすの)の狩場」を見たいと言い出し、下野国・宇都宮朝綱に一行を迎える準備をするよう命ずる。
朝綱の女房は、急な要望にもかかわらず見事な屋形を造営し、頼朝から自分の妻・政子より優っているという最高の賞賛を受ける。(『吾妻鏡』)
当初の鎌倉幕府の政庁は「大蔵幕府」であるが、後の嘉禄元年(1225)、北条政子の死去により、北条泰時は幕府の政庁を「宇都宮辻子」に移す。
この名「宇都宮」とは宇都宮朝綱の鎌倉での邸宅が付近にあったことに由来する。
[30] | Guess_whoさんからのコメント(2007年12月02日 12時40分35秒 ) | パスワード |
国政の庁舎を宇都宮辻子へ遷移した理由は、宇都宮朝綱の妻「名誉譚(めいよたん)」に拠るのではなく、この地が鎌倉の中心に位置し、東は滑川(青竜)、西は若宮大路(白虎)、 南は海(朱雀)、北は鶴岡(玄武)の四神を配した地だったからと考えられる。
これは古くは平将門が葬られた地、武蔵国柴崎村(現・皇居内・東京都)もまた「四神相応の地」であるといわれる事に一致する。
[31] | Guess_whoさんからのコメント(2007年12月31日 21時00分49秒 ) | パスワード |
幼い頃から母(狩野茂光孫女)に隠れて敵討ちの相談に明け暮れていた曽我兄弟もやがて元服を迎える年頃となる。(『曽我物語』)
まず一万(幼名)が「十三」歳の十一月半ば、継父祐信の名前の緯字「祐」をもらい元服。曽我十郎祐成を名乗る。
一方、同じ兄弟の箱王(幼名)は一万元服の翌月、「十一歳」の十一月半ば、母から亡き父の供養と母の極楽往生のため寺入りして僧侶の修行を積むよう涙ながらに説得される。
以上、『曽我物語』。
祐信は元暦元年の秋、平家追討軍(源義経軍)の一員として西海に下っていた記述が他にみられるので、それから判断すると、その十月、烏帽子親の祐信不在のまま一万の元服が行われたとは考えにくい。元服は平家壇ノ浦後の元暦二年、祐信の帰郷を待って一万十四歳の十月に行われたとするべき事実。
箱王の寺入りも祐信の帰郷後、箱王十二歳の元暦二年に行われたとみるべきであるが、これでは、『曽我物語』の他の箇所に頻出する奇数表現(聖数表現)と調和不足。物語作者は年齢を一歳減じ、「十三」歳、「十一」歳という叙述をした?
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