小川もこ ひかりちゃんを救う会 新風会(アーツ)
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 投稿番号:100248 投稿日:2002年03月19日 14時21分13秒  パスワード
 お名前:服部 明子
堀川内記:安徳天皇主治医(祖谷伝説)

コメントの種類 :史蹟  パスワード

徳島県西祖谷山村は平家の落人伝説で有名な場所ですが
吉野川沿いの大歩危小歩危で有名なJR大歩危駅から東北に徒歩20分ほど離れた所に
または大歩危駅から村営バスかずら橋行き6分西岡下車のち徒歩2分の所に
「平家屋敷民俗資料館」というのがあり

これは安徳天皇の主治医だった堀川内記の子孫の家を資料館にしたものだそうです。

江戸時代以来の茅葺き家屋には平家ゆかりの生活用品や武具が展示されているそうです。


電話: 0883-84-1408
入館料:500円

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年03月19日 14時22分45秒 ) パスワード
  

堀川さま

見ていらっしゃいますか?
やはり平家とご関係がございましたのですねぇ
驚いております。
[2]川口 信さんからのコメント(2002年03月19日 17時24分45秒 ) パスワード
  

日本三大秘境という言葉がある。飛騨の白川郷と熊本の五箇荘、そして祖谷である。
 西祖谷と東祖谷を結ぶ、かずら橋は重要民俗資料として知られている。
 平家の落人伝説のある祖谷は絶好の隠れ場であった。屋島の戦いで志度浦に逃れた平家軍のうち、平国盛を始めとする安徳帝を奉じた一団は讃岐水石にしばらくの間、身をひそめていたが何時追手が来るかわからないので、やむなく三つのグループに分かれて安全な地を求めて逃避行を開始する。このうち平国盛と彼に従う一族郎党32名は吉野川を渡り、三好郡井内谷と東祖谷の境に聳える寒峰の嶮嶮を越え、東祖谷に至った。時に文治元年(1185)の十二月。一行は寒々とした岩窟で新年を迎えることとなった。門松を立てる松がなかったので檜を代用した。平国盛の子孫と伝えられる阿佐家では今でもそれを伝えている。阿佐家に伝わる系図では国盛は平教盛の子であると言われている。

 祖谷川の近くに栗枝渡という地名がある。そこの八幡神社が安徳帝崩御の地といわれ、安徳天皇御火葬場と称される清地がある。これも英雄不滅伝説と一言で片付けてしまうのは易い。だが、祖谷山中だけでなく安徳帝伝説は四国の各地にさまざまな形で残されている。とすれば四国各地の安徳帝伝説は何を意味するのか。これはとりもなおさず、平家落人伝説と結びつく。安徳帝は彼らにとって最大の大義名分であった。

 大義名分ということは、カムバックの指針を失うことである。再度の旗揚げは望むべくもなくなってしまう。安徳帝は絶対に死んではならない。帝は必ず生きている。やがて成人した帝のもとに結集して、平家一門の再興を願う、そう信じていたにちがいない。「歴史読本」(昭和44年十月号)より

 
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年03月20日 01時40分31秒 ) パスワード
  

ありがとうございました。

3大秘境ですか・・・

>祖谷川の近くに栗枝渡という地名がある。
>そこの八幡神社が安徳帝崩御の地といわれ、
>安徳天皇御火葬場と称される清地がある。


ロマンがありますね。

昔20年ぐらい前、「そこが知りたい」という番組で
倶利伽羅峠を守る責任者として江戸幕府によって任命された「士族・平の某」という人が
テレビに出てらっしゃいました。
当時で85歳前後でした。


平家ってロマンに満ちています。
[4]石川 英郎さんからのコメント(2017年10月18日 22時11分53秒 ) パスワード

西祖谷の安徳天皇の御典医だった堀川内記の子孫は、蜂須賀家が、阿波を統治し、統治が難しかった誇り高い平家の落人らが住む祖谷を制圧するため派兵をした際、祖谷軍と蜂須賀正規軍と戦となったが、(祖谷騒動と言われている)堀川内記の子孫は、祖谷軍に従軍し負傷兵の治療にあたったが、祖谷軍が敗北し捕われた。首謀者や参戦した多くの落人達は家族も含め次々漸殺され、堀川家も皆殺しを覚悟したが、「これからは、西岡の地(西祖谷村西岡)の名主として蜂須賀家にお仕え致します。」と言うと、命は助けられた。その時から堀川の名を捨て西岡と名を変え今日に至っている。その皆殺しを覚悟した時かどうか分からないが、西祖谷の堀川屋敷から平安時代から相伝の医術の全てを持って馬に乗り、山伝いに祖谷川を沿うように下り、三好市池田町川崎の地に逃れ、医業を代々勤めた堀川医院が、堀川内記の医術と堀川の名を現代まで継承した血脈です。大正時代の川崎の堀川医院には、馬を飼っており、祖谷の奥地までも平地なら人力車、山なら馬に乗り付き人が引き速足で急患に駆けつけたそうです。川崎の堀川医院の武家屋敷風の建物は崩れ、石垣が威風を残していますが、堀川医院は、三好市山城町上名の大歩危郵便局近くの32号線沿いに移転しましたが、堀川行康氏が、死去され後継者がおらず、平安時代から続いたギネスブック級の医者の系譜は途絶えましたが、御子息は千葉県に移られたとの事です。
[5]空の青海のあをさんからのコメント(2017年10月18日 22時58分56秒 ) パスワード

貴重なお話をありがとうございました。
[7]藤井毅彦さんからのコメント(2020年06月13日 11時51分49秒 ) パスワード
URL=http://blog.goo.ne.jp/h35p39

母の弟の嫁が旧姓堀川志津子といい、その娘が現在、東京で医師をしており、堀川内記御典医から何代かわかりません。その娘も息子も医師で医業に従事しています。したがって、氏名は変われど、堀川家は平安時代から営々と医業が続いたことになります。なお、堀川志津子氏は堀川行康氏の妹です。堀川家は、地元では平家医者と呼ばれていました。私も、堀川行康氏とお会いしたことがあります。昔、その兄弟の一人の医師が祖谷へバイクで往診に行く途中、祖谷川へ転落したと、聞いております。なお、私は藍住町に住んでいます。

[8]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月13日 14時59分18秒 ) パスワード

藤井毅彦さま

>堀川家は平安時代から営々と医業が続いたことになります

すごいですね。


安徳天皇と主治医だった堀川内記
お2人が  生き生きと蘇ったように  感じられます。
[10]空の青海のあをさんからのコメント(2020年06月17日 13時13分09秒 ) パスワード

https://vimeo.com/54660491
祖谷平家伝説「もうひとつの平家物語」本編
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