[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月09日 14時30分02秒 ) | パスワード |
川口氏の書き込み転載:
「江戸参府旅行日記」(ケペルン著・斎藤信訳:平凡社刊)と言う本がある。
これはオランダ東インド会社の長崎出島・商館長が毎年江戸に行き将軍に拝謁する時
(この旅行は元禄4・5年)
に随行したオランダ医師ケペルンが旅の様子を日記にしたものです。
まず長崎から彼杵を経て、嬉野領に入り、小田、佐賀、田代、飯塚を経て小倉に着く。小倉から下関は海上三里。引島または彦島と呼ばれる島と豊前国の間の海峡(関門海峡)を通り大阪まで行く。
下関滞在中、下関についての様子が書かれている。
当時(元禄4・5年)の下関は400から500戸の町で非常に長い通りと何本かの短い横丁や裏通りに家が建っている。翌日出立の日だったが、逆風のため延期され、その間に近くの阿弥陀時(今の赤間神宮)に詣で、水死なさった皇子(安徳幼帝)に敬意を表し、お布施(一分金・2.5ターレル)をあげたとある。外人がお参りするなんて嬉しい限りであります。
下関からは平家縁りの瀬戸内海を進み、大阪に至る。大阪からは陸路で京都を通り四日市まで。桑名の記述もある。当時入り江になっていて、佐屋川を渡り同じ名前の佐屋村がある。港は浅く沼のような浅瀬で大きな船は通れないので小さな船に乗り換えて宮までゆく。
東海道を行く時、吉良家の一行が追い越していったとある。また、掛川を通過する時に火災があり町の半分の約200戸が焼失したなどとある。
江戸に入り将軍に拝謁し、のち江戸在番であった川口攝津守宗恒の屋敷を訪ね
しばし懇談したとある。
江戸への往来についてはケペルン一行は29日を費やしている。長崎奉行についてはほぼ十万石程度の大名行列に匹敵するとされており、行程は若干短縮されていると思われる。
長崎奉行の任期はだいたい4年ぐらいで、江戸初期の馬場三郎左衛門のように14年間が最長で、次いで川口攝津守宗恒の13年間などがある。その間6回にわたり江戸・長崎を往復し、長崎には都合滞在8年間に及ぶ。
同書によればケペルンの川口攝津守の人物像については、
温厚で優しい人であるが、職務については厳しい人だったとある。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月09日 14時43分33秒 ) | パスワード |
シーボルトは日本の地図を持ち出そうとして事件を起こしたので日本史上で「有名」になりましたから知っていますが、ケペルンは知らなかったです。
後に吉良公が暗殺された事を知ったのでしょうか?
面白いですね。
いろいろ思う所があったでしょうね。
朝鮮からの通信使節の将軍お目見えの行列も大変なお金が掛かったそうで
新井白石が廃止にしたんでしたっけ?
そんな話を読んだ記憶です。
ケペルンが江戸に行った時は日本史上有名なバブル時(元禄時代)ですから
派手にお金を掛けたのでしょうね。
江戸幕府時代1番バブルの時代を目にしてケペルンがどう思ったか
それも書かれているのでしょうね。
貴重な資料のご紹介をありがとうございました。
ご先祖さま関係でなかったらご紹介頂けませんでしたね。
縁とは不思議ですね。
[3] | 川口 信さんからのコメント(2002年03月09日 15時34分47秒 ) | パスワード |
新しいスレッドを立ててもらいまして有難うございます。
私が文中、「ケペルン」と書きましたが実際は「ケンぺル」でした。あわてもので間違っていました。誠に申し訳ないのですが、タイトルの変更をお願い申しあげます。(ペコリ)
[4] | 川口 信さんからのコメント(2002年03月11日 12時56分09秒 ) | パスワード |
オランダ医師ケンペルと書きましたが、服部明子さんからドイツ人でないかとのご指摘を受けました。他スレッドと重複しますが、重要なことなので。
指摘のようにケンペルはドイツ・ウエストファーレン地方のレムゴーで誕生しました。彼は若い時から旅が好きで十七歳のときオランダに小旅行を試みております。旅行で自分の知識をふやし、後に「廻国奇観」を著作し、その中で、「日本の疝気療法としての鍼術、モグサ」など、当時の日本文化、風俗、習慣などについて膨大な記録を残し、ヨーロッパに紹介しています。
語学においても、ギリシャ、ラテン語の学術語ばかりでなく、フランス、ポルトガル、オランダ語など、大抵のヨーロッパの言語、後にはアラビア、ペルシャ、マレー語、いくつかのインド、シャム語および日本語などを理解したと言われております。
なぜドイツ人なのにオランダ人と言ってたか(廻国奇観ではオランダ人と述べている)これは当時日本は1639年(寛永16)以後、オランダ人以外のヨーロッパ人の来航を禁止したが、ウエストファリア条約(1648年)まではオランダが国際法の上では神聖ローマ・ドイツ帝国の一部と見なされていたため、その後、多くのドイツ人がオランダ東インド会社の関係者として来日していた。幕府の鎖国令を思いはばかりオランダ医師としていた訳ではないかと思われます。
1990年(平成2年)ケンペルが来日してから300年に当たるのを、記念して「ドイツ人の見た元禄時代・ケンペル展」が各地で開催され、私も東京・赤坂のサントリー美術館で開催(約1ヶ月間)され、見学に行き、先祖と親交のあった人物・ケンペルの実筆の絵や関係品を見ながら感無量の時間を過ごしたのを記憶しております。
シーボルトに先立つこと135年前、日本をヨーロッパに紹介した本「日本誌」は英訳に続き、仏語、独語、蘭語で相次いで出され以後十九世紀末ば日本が開国する頃までヨーロッパの知識人の日本理解の手頃な典拠となった書物である。
今でも日本人は旅好きですが、ケンペルが参府旅行の時も多くの庶民とすれ違い日本人は最大の旅人国家だと述べております。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月13日 14時14分54秒 ) | パスワード |
>今でも日本人は旅好きですが、
>ケンペルが参府旅行の時も多くの庶民とすれ違い日本人は最大の旅人国家だと
>述べております。
面白い記述ですね。
ヨーロッパやアメリカに人に言わせると旅行の出来る人は「余裕がある」とか「金持ち」
なので、びっくりしたでしょうね。
当時はバブルだったし。
世相が現在の日本にも合いますね。
[6] | 川口 信さんからのコメント(2002年03月18日 13時09分49秒 ) | パスワード |
たまには童謡でも歌って、休息を取って!!
# てんてん手鞠 てん手鞠・・♪♭
2番
おもての行列 なんじゃいな 紀州の殿さま お国入り 金紋(きんもん)先箱 供(とも)ぞろい 毛槍(けやり)をふりふり やっこらせのやっこらせ(西条八十作詞・中山晋平作曲)
ケンペルが江戸から長崎に向け帰国の際、紀州の殿様に出会った記述がある。
これは国下がりの一行だが歌の文句と同様の事が書かれている。
夜明けから一時間経て戸塚を出発した。まず、紀伊候の前駆と、すべて将軍家の金色の紋章の付いた荷駄に、それから昼の頃大磯の手前で行列の本隊に出会った。覆いした銃をかついだ約二十人の士卒が次々と進み、それから大きな弓・矢を持った同じくらいの人員が、また同じ人数の長い棒を持った隊が続き、その間に銃や刀を入れた漆塗りの箱や槍を持った人々がいた。それから四頭の馬が続いたが、最後の馬の黒い座席の上には、槍先にあるような二本の羽根飾りを後ろにさした黒い色の椅子が置いてあった。・・中略・・それから間もなく一二人の先触れと藩候ご自身が乗物で続かれた。我々は礼儀上、馬から下りて帽子をぬいで、立っていたら、すこし手前で乗物を止めさせ、戸を開いてゆっくりと我々の側を進ませ、我々が通詞を介して手短な挨拶をしたので、それに答えて候もたいへん丁重に親しみをこめて対応して下さったとある。
歩いている者だけでほとんど一千人に達しており、それが一つの集団をなして、進むのだが非常に静々と続いてゆくとある。
大名行列も派手に行われていたバブルの元禄時代のひとこまです。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2002年03月18日 23時23分16秒 ) | パスワード |
凄いですね。
お共が1000人ですか。
どこやらの殿さまはお風呂の水まで行列と一緒に運んだって聞いてます。
貴重な書き込みをありがとうございました。
[8] | 川口 信さんからのコメント(2002年04月16日 12時17分07秒 ) | パスワード |
他スレッドより
>異国人は「汚れ」とみなされ
>みだりに国土を旅行する事は禁ずる習慣がある。
まさにこれです。ケンペルが旅行する時も護衛と称する役人が同行するが、実際は意図はまったく別で、道中の際にスパイやキリスト教など布教させないために監視していたのです。
鎖国中の江戸幕府の耳と目になっていたのが長崎奉行です。職制上からは、老中直轄の遠国奉行の一つで、「他の奉行と違い、交易の事を専要にして、其余の事は枝葉の如し」『翁草』。外敵の侵入に際しては福岡、佐賀両藩を始め、近隣諸大名を指揮してこれを防衛するとある。寛永18年になってオランダ商館を平戸から長崎に移転させ鎖国体制を完成した。寛文年間から長崎奉行は徐々に経済官僚へと変化していった。
禁教時代に入ると宣教師。キリシタン取締りに辣腕を振るうが、その範囲は単に長崎だけでなく、西国一般に及んだ。
長崎奉行の転職者の最上位に江戸町奉行と大目付であるとしている。前者に川口攝津守・丹羽遠江守ら五人、そして後者は近藤備中守・三宅周防守ら三人が就任した。
オランダはわが国と貿易独占権を維持する代わり、幕府の命に服従し「阿蘭陀風説書」(おらんだふうせつがき)を作成した。内容はヨーロッパのほか、ジャカルタおよびインド、さらには中国などについて風説を拡大した。寛永18年から安政6年(1859)までの218年間(一部伝来しないものもあるが、オランダ船の入港しなかった10年間を除いた、195年分の「風説書」が今日残っている。)にわたって提出された。そして幕府はこうした海外情報を独占したのである。情報はだいたい翌年にわが国にもたらされるが、フランス革命などは、その第一報は5年目にもたらせられたとある。(「長崎奉行」:中公新書・外山幹夫著)
現代においてはライブで情報を見聞でき、政治、経済に影響を与えるが、その頃においては一般庶民が見聞きしても何もメリットがなかったのが実情である。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月16日 21時56分13秒 ) | パスワード |
>現代においてはライブで情報を見聞でき、政治、経済に影響を与えるが、
>その頃においては一般庶民が見聞きしても何もメリットがなかったのが実情である。
現代は情報過多で、犯罪など良くない方向の事はすぐに伝播しますよね。
江戸幕府にすればフランス革命など我が国に真似されては大変!という思いがあり
「民には知らしめない」方針を貫いた、と思いますね。
ちょっと納得なんぞしてしまいました。
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