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 投稿番号:100243 投稿日:2002年03月07日 21時54分48秒  パスワード
 お名前:平田
平田篤胤

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

こんばんは!!
実は気になることが、また一つ出てきました。
平田篤胤という国学者は、備中国(岡山県)松山藩士・平田篤穏(あつやす)の養子
だったそうですが、この松山藩士の平田家は、平氏と関係があるのでしょうか。

この人の写真は
http://www.michinoku-yume.net/myn/db/db01-m003-t002.php3
で見ることが出来ますが、服についている家紋がよく見えないのです。

もしお分かりになるようでしたら、教えてください。
よろしくお願いします!!

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年03月07日 23時02分58秒 ) パスワード
  

弥高神社に問い合わせのお手紙を書いたら良いと思います。
返信用の封筒を同封すれば教えて下さいますよ。


この絵からでは分かりませんね。
それも2つ描いてあるみたいですね。
普通は1個と思いますが・・・
何故でしょうね。


もとは出羽国佐竹藩(秋田)の大和田さち胤の子供だったのが
備中国松山藩平田篤穏の養子になったそうですね。


この場合秋田県教育委員会と岡山県教育委員会に問い合わせが出来ますね。
返信用封筒を入れたら親切に教えて下さいますよ。
今はメールという手もあるかと思いますが。


傾倒したのが本居宣長というのもオカルトじみていますね。
平田篤胤はそういう傾向があったそうですが。
本居宣長が伊勢の人だからでしょうかね?
なにか平田篤胤の心の中が分かる気がします。


実はUCLAで医者をしている日本人が菅原氏ご出身で秋田出身だと聞いています。
平田篤胤のご実家大和田家と繋がりがあるのかな?なんて思ってしまいました。
凄い学者の家だと聞いてたので。
教えてくれたのは息子さんなんですけどね。
[2]たまねこさんからのコメント(2003年06月04日 02時19分31秒 ) パスワード
  

突然、平田篤胤が気になって検索したら、なぜか、ここに
来てしまいました(笑)。

備中国(岡山県)松山藩士・平田氏と秋田藩士・大和田氏
の関係が妙に気になったものですから。

平田篤胤の家紋は、丸に隅立四目結だったと思います。

家紋の本には、「秋田藩士に常陸国行方群大和田(北浦町)
発祥の大和田近江守重清の名があり、大和田祚胤の第四子が
国学者平田篤胤である」とあります。家紋は九曜紋。

大和田氏は平将門の子孫だということで、
篤胤は将門を奉っていました。
[3]そりちゃんさんからのコメント(2003年06月04日 10時35分36秒 ) パスワード
  

明子さん、おかえりなさ〜い!
他のスレで見ましたが、
ギャンブラーとしてデビューなさったのですか?
本場で凄く腕が磨かれそう、がんばってください!

ところで、いま「将門」について調べたことをまとめている
最中だったので、将門の子孫のお話しが出てきて
びっくりしています。

将門の子孫って他にもいるのでしょうか?
[4]そりちゃんさんからのコメント(2003年06月04日 11時18分54秒 ) パスワード
  

私がしっているのは、
将門流相馬氏、佐倉氏。

HP日本の苗字七千傑の姓氏類別大観によると、
他に信田氏、矢木氏、戸張氏、三田氏、師岡氏、千葉氏。

将門の曾孫の貞元が九州にいっているので、貞元の後裔も
いるのでしょうね。
他にも落人となった子孫がたくさんいそう〜。
[5]たまねこさんからのコメント(2003年06月04日 22時33分22秒 ) パスワード
  

>HP日本の苗字七千傑の姓氏類別大観によると、
他に信田氏、矢木氏、戸張氏、三田氏、師岡氏、千葉氏。

矢木、戸張、三田、師岡姓は秋田県内では稀少な姓です。
信田=信太氏は、平将門一族が逃れて来た土地、将門系
相馬一族の伝承があります。家紋は丸に隅立四目結、他。

千葉姓は、秋田県ランク38位の多姓で、県内分布は、
大曲・仙北41%です。
大和田氏は名前からして、頼朝の挙兵を助けた千葉常胤
の流れなのでしょうか?家紋も九曜紋ですし。

平田篤胤の実家の大和田氏は平氏で、将門を信奉していた
のは確かですが、松山藩士の平田氏が平氏だったかどうか
は定かではありません。

私の曽祖父の平田は、この系統なのかどうか、妙に気になる点が
あるので、調べてみようと思っているところです。
[6]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月05日 01時12分34秒 ) パスワード
  

そりちゃん
たまねこさん

平田姓が平氏だろうというのは分かり易いですね。
私の「心の父」の平田家継は平家ですから平氏ですし。

でも「平らな田んぼを作ってた家」という意味では日本全国に満ちてるでしょうから
各姓に存在するでしょうね。


江戸時代に「武士だった=姓を登録してた」という家は分かり易くていいですね。
公式に名乗れなかった家は言い伝えに頼るしかないですから気の毒です。
今となっては移動が大き過ぎて遡るのはホントに大変!
[7]太郎さんからのコメント(2003年06月05日 03時20分02秒 ) パスワード
  

ギャンブラーさんが平田家継を「心の父」とするのはなぜですか?
興味ありますね〜

そうそう、平田家継はものによって書かれ方が違うようですね。

@肥後守貞能の伯父平田入道定次 「高野本」 
A家貞の長子、貞能の兄平田冠者家次 「尊卑文脈」
B家継法師 「玉葉」
C平田入道(貞能兄) 「山かい記」
D貞能カ兄平田入道 「延喜本」
E貞能舎弟平田入道 「四部合戦状本」
F源平盛衰記では 貞継?

家貞の子として本などで見たことがある名前は、今のところ、家長、家継、貞能の三つくらいですが、平氏の系図には貞能しか載ってないのも謎ですね??
[8]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月05日 06時36分51秒 ) パスワード
  

太郎さんへ

昔、私がまだ平家にはそんなに関心が無く、平家の落人伝説の1つを読んでた時
服部家次という人が(元は平家に仕えていた武士の)宇都宮氏を頼って落ちて行ったけれど
断られて更なる山奥に落ちて行った
というお話を読みました。

宇都宮氏の主人であった平貞能が宇都宮氏を頼って落ちて行ったというのは
平家物語にも書かれています。
ですから貞能のお話は知っていました。

それでこの服部家次という人は貞能ゆかりの人だろうと想像しました。
この時点では何も感じませんでした。
そういう人がいて落人伝説を残したという理解でした。


この後、平貞能の兄弟に「家継」という人がいたというのを知って何やら不思議な感じを受けました。
昔はテキトーに漢字を使用しましたから同一人物か別人か親子か一族かその辺りの人物(たち?)だろうと思いました。


この人の名が平田家継というのを知ってすごく気になり
三重県の地図で「平田」という場所が見つけて以来オカルトの世界になりました。
その後この平田という場所がその地図の上に載ってないようになり更に不思議な気分になりました。
あとはもう、この平田家継という名を見るたびに涙の連続になりました。

7月生まれの男性の誕生日を聞くとなんか不思議な気分になって
誰でも平田家継の命日(7月19日あたり)に結びついてしまいました。
いつの間にやら私の記憶では全ての7月生まれの男性の誕生日は7月19日になって行きました。


いろいろ調べていく内に、平田家継は私にとって特別な人だったらしいと思うようになり
私に前世があったなら、私の父は平田家継なんだろう、と。

もうかなり消化されたお話なのですが(あちこちで書いていますから)
やっぱり平田家継という名を見たり、こうして書いたりすると涙で一杯になります。
何故平田家継という人が私にとってのトラウマ(涙の理由)なのか
それは私が死ぬ時に分かるのだろうと思います。


>家貞の子として本などで見たことがある名前は、
>今のところ、家長、家継、貞能の三つくらいですが、平氏の系図には貞能しか載ってないのも謎ですね??

これは要するに
平家の家貞の直系または嫡男が貞能だったという事だと思います。
そして貞能の子孫は後世に日本史に大きく関与するから特に記されるのだと思います。


家貞は長生きし
平家に6代に亘って仕えたそうで(それで平家最後の主人が家貞によって「六代さま」と呼ばれました)

貞能は家貞の跡を継いで平家の家老となり
平家の都落ちの時は京の都に戻って平家3代の墓から骨を取り出して荼毘に付し高野山に納め
宇都宮氏を頼って落ちて行ったそうです。

長生きした家貞には男子がたくさん生まれ
嫡男の貞能は平家を継ぎ
次男の家継は平田家に養子に行き
6男の家長は服部家を相続した
という訳で平家の苗字を持つのは貞能ということになります。


昔は家督相続をする嫡男は別に長男とは限らないのです。
母親が正室の場合、弟でも嫡男として家督相続をします。
長男に生まれても母親が正室でない場合は長子と呼ばれるそうです。

ですから
貞能と家継はどっちが先に生まれたか
数ヶ月違いだったかも知れないし
同じ日に生まれたかも知れないし。


太郎さんの御先祖さまの戸籍謄本を取り寄せますと
明治から太郎さんに至る6代前後の御先祖さま達の秘密が読めますよ。

太郎さんのお家に家系書が伝わっていましたら是非お読みになってください。
私の先祖も長子だったのに家督相続を9番目の弟に取られてしまったり
物凄いプライバシーにかかわる事が書かれていたり(その時代の不条理ですが)
とても涙無くして読めない秘密を知りました。


1から7の記事はとても重要なので他のスレッドにも転載させて頂きますね。
(いつも事後承諾)
[9]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月05日 07時16分36秒 ) パスワード
  

<さだつぐ>と<いえつぐ>の名の違い:


昔は漢字をテキトーに使用したので定だったり貞だったり、継だったり次だったり
あんまり意味は無いのです。

私の母方の姓も平家物語の中で「河野」だったり「川野」だったりテキトーに書かれています。
また私の祖母も名前を名乗る時
「河野」と名乗って(え?)という顔をされると「川野です」と名乗ってました。
(教育漢字制定以前の人だから)


名前が<さだつぐ>なのか<いえつぐ>なのかも
昔はテキトーに機会ある度に名を変えました。
厄落としだったり拝領したり。

私達がコテハンを変えるみたいに。


平家の武門を担っていた藤原=平=伊藤5の忠清も途中から忠清に変えたのです。
ですから忠清の若い頃の話を書くとしますと昔の名前を探して来ないといけません。
(私がどこかに書いてます)
確か清盛と義兄弟になった時に忠清と名乗ったと記憶しています。
忠盛さまと清盛さまのお名前を1字ずつ拝領したのでしょうね。
つまり平家にとって命を懸けてるというのが忠清の名から窺えますね。
[10]そりちゃんさんからのコメント(2003年06月05日 08時18分34秒 ) パスワード
  

たまねこさん

>信田=信太氏は、平将門一族が逃れて来た土地、将門系
>相馬一族の伝承があります。家紋は丸に隅立四目結、他。

ということは、平氏の一族で「隅立四目結」を家紋として
使用していた家がある、ということですか!

私は平氏にはないだろうと思っていました・・・。
 
うちの現在の家紋の前に使用していたもともとの
紋が、「隅立四目結」です。
でも、私の中で平氏と結びつかず、宇多源氏の佐々木氏の
関係かとばかり思っていました。
ですが、どうもその先に進めないので、おかしいな〜と
思っておりました。

もう一度調べなおします(^^)
[11]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月05日 08時25分15秒 ) パスワード
  

そりちゃんさん

面白い展開になって来ましたね。
これでまた平氏に戻る?
むむ・・・
[12]takahiroさんからのコメント(2003年06月05日 10時21分47秒 ) パスワード
  

『隅立四目結』と平家について

平清盛流知盛末裔の家譜を有す対馬の「宗氏」が、平家の中では隅立四目結の
使用家として有名であるようです。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sou_k.html

上記URLでは、宗氏の平家末裔説には懐疑的な記述が見られますが、角田文衛氏
の「平家後抄」では、平家末裔説は肯定的に取上げられています。


またこちらに「相馬氏」の詳細な系図が記載されていました。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/souma_k.html
[13]takahiroさんからのコメント(2003年06月05日 11時01分48秒 ) パスワード
  

また、平田篤胤の生家「大和田家」、養家「平田家」については、ともに桓武
平氏であるとの記述がありました。

『もともと、平田家は兵学、大和田家は医学を中心にして、ともに儒学の家系
であり 、家柄をたどれば「桓武平氏」の流れにあるから、まさに同族感覚、似
たものどうし といってよかった。』

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4669/2eskamijp3.html
[14]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月05日 13時12分32秒 ) パスワード
  

takahiroさま

では平田篤胤の平田家は平家の「平田」氏の流れかも知れませんね。
でしたら伊勢・伊賀国=平家の本貫地=平氏ですから
本居宣長が好きなのは、平家仲間?の血が騒いだのかも。
[15]takahiroさんからのコメント(2003年06月05日 13時52分05秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年06月05日 14時43分40秒
[16]takahiroさんからのコメント(2003年06月05日 13時57分54秒 ) パスワード
  

本居氏(宣長)の系譜
 
 平頼盛六代の後胤・本居県判官平建郷、其の子本居兵部大輔武遠、
 其の子同兵部大輔武秀、其の子同左馬助直武、始めて伊勢国司顕
 能卿に仕え、直武の子同民部小輔武基、其の子同和泉守武久、其
 の子同左馬亮武貞、其の子同左衛門尉武延、其の子同左馬亮武重、
 其の子同兵部大輔武利、其の子同惣助武連なり。左馬助主より此
 の惣助武連まで八世相継いで北畠殿に奉仕せらる。かくて武連主
 の世にありて、天正四年に北畠殿亡び給いたりき。

 さて此の惣助武連に二男あり。長男、正右衛門延基(大阿坂住)
 ー庄右衛門ー新兵衛ー新右衛門ー林之右衛門(絶家)にして、
 次男、左兵衛武秀(号道観)は後に蒲生氏郷に属し、奥羽九戸の
 戦に討死し、妻は懐妊の身にて、伊勢の一志郡小津村油屋源右衛
 門に身を寄せ、小津七右衛門(号道印)を生む。道印小津源右衛
 門の女を娶り、三郎右衛門と喜兵衛とを生み、喜兵衛の男定治・
 三郎右衛門の後を継ぎ、その養子道樹定利(実は小津源右衛門の
 男)は即ち宣長たる也。

 (宣長は二十三歳の時、姓を先祖の本居姓に戻している。)
[17]さちこさんからのコメント(2003年06月05日 14時16分51秒 ) パスワード
  

明子さんお引越しお疲れ様でした。
後も色々大変だと思います。

余談になるかもしれませんが、
本居宣長の門人、服部中庸もお忘れなく。

以前北畠氏の調査が服部哲雄氏を中心に行われると書きましたが、
この服部氏、やはり服部中庸の御子孫だそうです。

[18]takahiroさんからのコメント(2003年06月05日 14時50分19秒 ) パスワード
  

服部明子様

 ロサンジェルスからラスベガスへのお引越し、お疲れ様でした。

 また上記[8]、平田家継公に関する詳細な記述、興味深く拝読しました。これ
 までより以上に家継公について理解できました。

 平田篤胤の養家「平田家」が桓武平姓ということは、やはり伊勢・伊賀系の
 平田氏につながる可能性は高く思えます。

 また、本居宣長が自身の出自「平家」を意識していたことは、ほぼ確実なよ
 うです。

  敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜かな(本居宣長)

  さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな(平忠度)

 宣長の上記歌は、平忠度を意識して作られたとも云われています。
[19]太郎さんからのコメント(2003年06月05日 16時07分09秒 ) パスワード
  

いろいろと勉強になるなあ。
[20]太郎さんからのコメント(2003年06月05日 16時10分12秒 ) パスワード
  

ちなみに、角田文衛氏の「平家後抄」、私も買ってみましたが、分厚い文庫本な上に上下に分かれているので、平田家継の記述は見つけられましたが、平田篤胤の記述はまだ見つかりません。
時間をかけて読もうと思います。
[21]たまねこさんからのコメント(2003年06月05日 21時44分42秒 ) パスワード
  

なんだか、凄いことになっている(笑)。
毎回、皆様の情報・知識の量に圧倒されっぱなしです。

>「平らな田んぼを作ってた家」という意味では日本全国に満ちてるでしょうから
各姓に存在するでしょうね。

そうなんですよね。ちょっと前まで、私の先祖の"平田"も田んぼを
耕していたのだろうと、気にも留めていない名前でした。

幼少の頃、母に向かって「うちの先祖は何をやっている人だったの?」
と尋ねたところ、「広島は海と山に囲まれているから、漁師か山賊だった
んじゃないのー」と言われ、ずっと今まで本気にしていました(笑)。
父は「先祖は平氏だ」と、真面目に答えてくれたのですけれど(笑)。
うちは、ちょっと遡ると、両親とも庄屋か士族の家系ということで、
山賊ではありませんでした(ちょっと残念)。
姉弟揃って未だに、怖くて、うちにある刀の由来を誰も聞くことが
できません(笑)。

数日前、図書館で本を眺めていたところ、『平田篤胤』の本が目に
入ってきて、昔の国学者なんて興味ないから、絶対読まんぞと抵抗した
のですが、どうしても「読め!」と言う天の声?に逆らえなくて(笑)。

いきなり、採寸して描いたという自画像を見てしまい、ゲッときました。
父親にそっくりだったので。いやだなぁ、どこの生まれの人だろうと、
読んでいるうちに、実家は秋田藩士とわかり、これは東北系の顔なのか
と納得。大和田氏の分布状況からして、父方と婚姻関係があっても
おかしくない。医者の系なら尚更です。しかも、養子先の平田氏は
岡山の藩士だなんて。
さらに、将門を奉り、天狗について研究していた。(霊能者の方々は、
なぜか必ず、私を見ると、天狗の話をしたがるのですよ)
これは、何か因縁があるのかも?勝手にそう思ってしまった次第です。

それに、前々から、本居宣長と平田篤胤の関係が気になっていたので、
これでスッキリできそうです。
平田篤胤と家継が繋がれば、ますます面白いのですけれど。

そりちゃんへ

秋田の「長田」姓も将門伝承があって、家紋が隅立四目結です。
でも、この名前は系図には出ていなかったのでしたっけ?
[22]さちこさんからのコメント(2003年06月05日 22時00分37秒 ) パスワード
  

本居宣長は確か三重県の今の松阪市の木綿問屋の息子だったと。

 松阪市は、5世紀頃、大陸から渡来した漢織(あやはとり)、
 呉織(くれはとり)が定住するなど、
 古くから紡績の中心地でした。
 現在も、伊勢神宮に納める麻と絹を織る「機殿(はたどの)」があり、
 多くの人の信仰を集めています。
 松阪木綿は、安南(今のベトナム)から渡ってきた「柳条布」をもとに、
 松阪に受け継がれてきた技術と、
 松阪の女性の高い美意識によって織り出された言われています。
 洗うほどに深みを増す藍の青さと縞模様が大きな魅力で、
 松阪商人によって売り出された松阪木綿は、
 粋好みの江戸っ子たちに多いに受け入れられました。

 旧三井家跡にある「松阪もめん手織りセンター」には、
 手織り木綿の普及と伝承を続ける女性グループの工房があるほか、
 松阪木綿グッズの購入や、手織り木綿づくりの体験などをすることができます。

http://www.cbr.mlit.go.jp/tokai/pr30/report03/


三井家と服部家、そして秦氏気になりますが。
余談すぎてごめんなさい。
おいしい牛肉と秦氏。
何か関係ありそうなので。(笑)

三重県で平田といえば鈴鹿の平田町?


岐阜県にも平田町があります。
平田町、南濃町、海津町。
三つの町が合併するそううです。
新しい市の名前でもめてます(笑)

平田町の=平(ひら)
南濃町の=南(な)
海津町の=海(み)

と読んで。。。

「ひらなみ市」

と決めたそうですが、
住民の反発があるそうです。
地名には歴史が残ってる、
ひらがな等による安易な地名のつけ方は反対だと。
私も賛成です。

海津町の下は長島ですが、
この間に昔は楠村がありました。

 平田
 ↓
 海津(高須藩のあった所)
 ↓
 楠
 ↓
 長島(一向一揆で信長に対立してた所)

三重県の事しか判らなくてごめんなさい。


余談になりすぎ(笑)ごめんなさい。

伊賀市(予定)にさきがけて、
甲賀市(こうかし)発足、決定です。


[23]takahiroさんからのコメント(2003年06月05日 22時29分27秒 ) パスワード
  

本居宣長の出自については、こちらに判り易い記述がありましたので追記します。

 http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/ienomukasi.html
[24]takahiroさんからのコメント(2003年06月05日 23時09分16秒 ) パスワード
  

『国学系図』によると、

 国学中興の祖が荷田春満であり、
 荷田春満の門下が賀茂真淵、
 賀茂真淵の門下が本居宣長、
 本居宣長の門下が平田篤胤と繋がっており、

 本居宣長の門下には他に、

 服部中庸
 服部敏夏
 三井高蔭 等の名が見えます。

また『神道系図』においては、

 「垂加神道」の項に

 山崎暗斎の門下に浅見安正が見え、
 浅見安正の門下に大和田玄胤の名が見え、
 後、大和田依胤-大和田祚胤-平田篤胤と続いています。

 また平田篤胤は、「唯一神道」の項にて、

 吉田兼倶の十三代孫吉田良長の門下としても記載され、

 また、「伯家神道」の項においても、

 花山天皇二代孫、延信王(賜源姓・神祇伯)の二十三代孫資顕王の
 門下としても記載があります。

 他に、「吉川神道」の項に、

 吉川従時の門下に服部安休の名が見えます。

 「伊勢神道」の項では、

 度会行忠-度会家行と続き、その門下に北畠親房の名が見えます。
[25]さちこさんからのコメント(2003年06月05日 23時16分48秒 ) パスワード
  

個人情報になるのであまり書いてはいけないと思いつつ。

以前、仕事である家の香典返しの宛名書きをしていて、
親戚リストに松坂市、多気郡に、
服部、本居家が数件ならんでました。

いまだに親戚関係の服部家と本居家があるか、
間接的に親戚関係があると思う。

依頼主のこの家が北勢の山奥で、
服部友貞の墓のある上相場の近くです。

依頼主はありふれた苗字なのですが、
田舎なのですぐわかってしまいそうなので遠慮します。
津島四家七苗字の一つというう事で。

これもな何か関係あるのかしら?
大橋、堀田、平野はちがいますよ〜。(判りますよね?)

わからない方ごめんなさい。
八咫烏を家紋にしてる家です。




[26]takahiroさんからのコメント(2003年06月06日 00時48分30秒 ) パスワード
  

http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku81.htm

上記URL、「平田氏」の項より、

◎平田篤胤の生家、出羽久保田藩・大和田氏は桓武平姓千葉一族であること

◎桓武平姓千葉一族には、支族として、八幡庄平田村(千葉県市川市平田町)
 を発祥の地とする「平田氏」があること

 の2点は理解できましたが、

◇上記千葉支族「平田氏」と、平田篤胤養家、備中松山藩「平田氏」の関係
 はよく理解できませんでした。
[27]そりちゃんさんからのコメント(2003年06月06日 10時11分25秒 ) パスワード
  

おおっ、ちょっと図書館に行っている間に
皆様のすごい情報が書き込まれていて・・・
追いつかなきゃ!

たまねこさん

>秋田の「長田」姓も将門伝承があって、家紋が隅立四目結です。
>でも、この名前は系図には出ていなかったのでしたっけ?

将門伝承のある長田姓がいるのですか?
しかも家紋が「隅立四目結」!!

図書館で「系図纂要」を見てきたのですが、
将門の後裔は相馬氏で、姓氏家系大辞典では将門の伯父にあたる
良茂の後裔が長田氏、
または良兼の後裔に長田氏といわれています。

これもどちらが正しいのか?なのですが、尾張の長田氏が
牛頭天皇を祀っていることから、将門の敵であった良兼が
将門と同じ神を祀ったとはおもえないので、(良兼は
妙見神を祀ったといわれている)
良茂が正当と思います。

長田氏が牛頭天皇を祀っていたことは宮城に戦乱を逃れて
移住してきた尾張長田氏の記述にあったのですが、
なぜ牛頭天皇を祀ったのか。

秋田の長田氏に将門伝承がある、ということで納得がいきました。
もしよろしければ、その記述のある本を教えてください。
よろしくお願いします。

最近とっても将門にはまっている私、
明子さんは恐がるかも?しれませんが、
そのうち将門伝説をまとめてHPにアップいたしますので、
遊びに来てくださいね〜(と、宣伝)。

[28]たまねこさんからのコメント(2003年06月06日 21時44分32秒 ) パスワード
  

そりちゃんへ

『秋田県の名字と家紋』で家紋を調べました。
この本には、長田(おさだ・ながた)氏も、大和田氏も
将門の子孫だとは書いてありません。
桓武平氏系とはありますが。別の本で見ました。

文中に、将門伝承がある家の名前がいくつか書かれていて、
そのうちの一つだったと思うのですが、いつも斜め読みする
ので、本のタイトルを覚えていない…。
こんなことでは、いけないっ。以後、書き留めておきます。

上記の家紋の本も、読まないと勿体無いので、そりちゃんの
ところに、ボチボチと、丸に隅立四目結紋情報を送ります。
[29]そりちゃんさんからのコメント(2003年06月06日 22時40分52秒 ) パスワード
  

たまねこさん

お忙しいところ本当にありがとうございます。
楽しみにしております。

本の方もチェックしてみます!!!
[30]太郎さんからのコメント(2003年06月07日 19時30分52秒 ) パスワード
  

ギャンブラーさんへ

上記[8]との関連

池宮彰一郎氏の「平家」を読んでる最中ですが、中巻の58ページに、
平家貞の子供たちの説明が出てきます。

家貞の死後「家督を継いだ家実や、別家を立てた家継は、一門の統制に当り、三弟の貞能と末弟の平六家長は常に清盛の身近に仕え、いずれも清盛の腹心として、忠節に励んでいる」

上の記述から、
@家貞の嫡男は家実であること、
A別家「平田家」を立てたのは家継であること、
B貞能が後に筑前守となったのは清盛に身近に仕えた結果であること、
C平六家長というからには家長は六男で、あと二人兄がいること、
などが考えられますね。

それにしても池宮さんは上の情報をどこで得たのだろう。系図のようなものがあったのかな。もしそうだとすると、あと二人の名前も載っていそうな気がしますね。
そのうち出てくるかは、読み進まないと分かりません。

(この話は家継と関係あると思うので、家継のスレッドにもコピーしておきますね)
[31]さちこさんからのコメント(2003年06月07日 22時52分49秒 ) パスワード
  

別スレで多分書いたと思ったので書きませんでしたが、
本居宣長の門人、服部中庸は、
家長の末裔、北畠氏の家臣の子孫としています。
[32]takahiroさんからのコメント(2003年06月09日 00時14分49秒 ) パスワード
  

http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku31.htm

上記URLに平田篤胤の生家、大和田家の由緒と系図との紹介がありました。

本貫地は、

下総国猿島郡大和田郷(茨城県猿島郡三和町大和田)
あるいは、
常陸国久慈郡大和田郷(茨城県日立市大和田町)

との記述があり、千葉常胤末裔、伊賀守家胤から8代孫祚胤の4男が篤胤。

常胤から家胤まで詳細は未詳のようですが、
[2]のたまねこさんの情報(大和田家は将門の系の子孫)と総合すると、
おそらく大和田家祖伊賀守家胤は、千葉常胤の3男師常の流れを汲むと推測
されます。(師常は良文流千葉氏より良将・将門流相馬氏への養子)

平田篤胤の養家、備中松山藩「平田氏」が、どの流れの桓武平姓を汲むのか
については、もう少し見てみます。
[33]takahiroさんからのコメント(2003年06月09日 00時52分41秒 ) パスワード
  

雑学ばかりになりますが、

平田篤胤の後は、平田篤胤-鐵胤-延胤-胤雄-盛胤 と続いています。

本居宣長の後は、本居宣長-大平-内遠-豊頴-清造 と続いています。

(国学系図より)
[34]太郎さんからのコメント(2003年06月09日 18時21分39秒 ) パスワード
  

染井霊園に、平田銕胤(=かねたね)という人のお墓があるようです。
平田篤胤の息子のようですが。。。
[35]takahiroさんからのコメント(2003年06月09日 19時01分15秒 ) パスワード
  

[33]の記述を訂正します。

平田篤胤の子は鐵胤ではなく銕胤でした。
太郎さん御教示ありがとうございました。

銕胤は新谷藩士碧川(みどりかわ)氏の子で、文政7年篤胤の養子となり、その長女
千枝と結婚とありました。

本居宣長の子、大平も養子縁組で本居家に入り、実は稲掛棟隆の子。
また大平の子、内遠も養子縁組で本居家に入り、実は浜田孝祖の子とあちます。

宣長と妻かつの実子は、春庭でしたが、眼病による失明のため本居家の家督は継がず、
門人の大平が継いだとのことです。
[36]太郎さんからのコメント(2003年06月09日 22時27分52秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年06月09日 23時10分14秒
[37]太郎さんからのコメント(2003年06月09日 23時12分40秒 ) パスワード
  

よくお調べになりましたね!
それにしても、養子縁組ってのは実に多いですねえ。

ところで、新しい情報です。
平田篤胤由来の神社が、代々木駅から歩いていけるところにあるようです。

http://www.fujiura.com/yoyogi/hiratajinja.htm

平田篤胤の息子のお墓にしても、平田篤胤の神社にしても、東京都内にあるんですねえ。平田篤胤の子孫は、岡山から東京都に移って来たということでしょうか。。。
[38]太郎さんからのコメント(2003年06月09日 23時24分05秒 ) パスワード
  

こんなページもありました。平田神社の雰囲気が感じられます。

http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/06_shibuya/6013.html
[39]takahiroさんからのコメント(2003年06月10日 04時30分55秒 ) パスワード
  

太郎さん、貴重なURLの紹介をありがとうございます。

>平田篤胤の子孫は、岡山から東京都に移って来たということでしょうか。。。

今手元に資料がないのではっきり記述できませんが、平田篤胤の養父、備中
松山藩士平田篤隠は、備中松山藩の江戸の藩邸に詰めており、江戸で篤胤を
養子にしています。おそらく篤胤が国学者として活動したのは江戸を拠点と
してであり、銕胤を養子にしたのも江戸においてであると思われます。篤胤
は晩年、幕府の禁忌に触れ、故郷(生家)秋田に追放されたようですが、子
銕胤は、篤胤を継ぎ、江戸において門下生を率いたようです。そのため銕胤
の墓は江戸(東京)にあるのだと思われます。

http://www8.plala.or.jp/tokugawa/akita3/hirata.htm

上記に篤胤の墓(秋田)の紹介がありました。
「遺体は遺言により,座棺・衣冠正座の姿で師本居宣長の眠る伊勢国に面し
 て葬れている。」とあります。
[40]takahiroさんからのコメント(2003年06月10日 04時38分36秒 ) パスワード
  

[39]訂正:篤隠→篤穏

養子縁組については、特に学者の家系の場合は、優秀な門下生を養子にして、
家と学問を継がすという形が多かったのかとも推測します。
[41]太郎さんからのコメント(2003年06月10日 15時54分56秒 ) パスワード
  

takahiroさん、なるほど徳川幕府の時代、各藩は江戸に藩邸を構えていましたね!!
篤胤が江戸から追放されたり、あとで江戸に神社が作られたり、銕胤の墓も江戸にあったりと、これらの疑問はそれですっきり解消しました!!

なるほど、学者の家系は血筋よりも学問の筋のよさを重大視したと、大いに考えられますね。


ちなみに!!
とても気になったので、わたしは染井霊園にあるという平田銕胤のお墓まで行ってきてしまいました!!
すると前面には
「平田」と書いてあったり、
「平田氏先祖代代及親族之墓」と書いてあったりしましたが、背面には
「弘化三年六月五日 平銕胤」と書いてあるではありませんか!!
名字は平田でも、姓は平。これはもう、間違いなく平氏の流れを汲んでいるということですね(どの流れかはまだ分かりませんが)

しかも、命日が六月五日だとしたら、ついこの間だったんですねえ。
道理で平田篤胤系の話題が盛り上がっていたような??
こういうことって、あるんですねえ。
[42]takahiroさんからのコメント(2003年06月10日 19時18分45秒 ) パスワード
  

>弘化三年六月五日 平銕胤

太郎さん、平田銕胤(平田家)のお墓に実際にいかれたのですね。
貴重な情報をありがとうございます。

上記太郎さんの情報と私の資料をまとめてみます。

○平田篤胤
 安永5年8月24日(1776年10月6日)生
 天保14年閏9月11日(1843年11月2日)没

○平田銕胤
 寛政11年(1799年)生
 明治13年10月5日(1880年10月5日)没

上記よりおそらく、墓碑の「弘化三年六月五日 平銕胤」という記載は、お墓の建立
日の可能性が高いと思われます。
篤胤が天保14年(1843)に没し、弘化3年(1846)に、子息銕胤が江戸の染井霊園に
平田家の墓を建立したのだと思われます。

しかし確かに、平田篤胤家のお墓の建立日に、平田篤胤の話題が盛上っているという
のは、太郎さんの仰るように不思議な気がします。

また、「平銕胤」という記載にも、桓武平姓の重みを感じます。

なお平田銕胤は、明治維新後、
 神祇事務局判事
 内国事務局判事
 明治天皇侍講
 大学大博士
 大教正(教導職の最高位)
と、明治政府により重職に任命されています。
[43]太郎さんからのコメント(2003年06月10日 21時21分12秒 ) パスワード
  

なるほど、六月五日は平田篤胤家のお墓の建立日でしょうね。

ちなみに今、数えてみたのですが、六月五日は一日で六人の人が十九ものコメントを載せています。
これは偶然だとしても、最高の供養と言えそうですね!(あるいは、各人の霊感が強く働いたのだったりして?)

平田銕胤は相当重く用いられたのですね。
平田家の熱烈な尊王思想からすれば、当然といえるのかも知れませんが。
[44]たまねこさんからのコメント(2003年06月10日 21時40分25秒 ) パスワード
  

takahiroさん、太郎さん。

大変、勉強になりました。ありがとうございます。

昔の養子縁組というものは、「家」の存続や発展
のために欠かせないものだったのだと思います。

商家でも、跡取り息子に限らず、優秀な番頭さんがいれば、
養子にするなり、娘婿にするなりして、家業を優先させて
いたようです。
今でこそ、日本では「個」が重要視されるようになりましたが、
昔は「家」を存続させることの方が、大切だったのですよね。

そうそう、平田篤胤といえば、"トンデモの元祖"みたいな扱い
を受けることもあるようですが、数々の誤解について、
子孫の方が弁明している本もありました(笑)。
本当は、全然、苦労人じゃなかった、等々。
[45]takahiroさんからのコメント(2003年06月11日 00時22分54秒 ) パスワード
  

当スレッドは、2002年3月に「平田」さんが立てられたスレッドに、
たまねこさんが約1週間前の6月4日に書込みをされ、瞬く間に40以上
のコメントが書き連ねられているのですね。

「平田」さんの当スレッドへの問い掛け、
『松山藩士の平田家は、平氏と関係があるのでしょうか』
については、当平田家は桓武平姓であるとまでは判明しましたが、

◎下総国八幡庄平田村 発祥の桓武平氏 平田氏
◎伊賀国山田郡平田村 発祥の桓武平氏 平田氏
◎あるいは他の出自の桓武平姓

何れかは未だ不明です。

以下、平田篤胤の養父『平田藤兵衛篤穏』について確かな事項を列挙します。

◇備中松山藩士
 (江戸藩邸詰め・篤穏の4代前より松山藩主板倉氏に仕える)
◇山鹿素行流兵学者
◇平田家の出自は桓武平姓
◇家の通字は「篤」の字
[46]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月11日 02時21分02秒 ) パスワード
  

takahiroさま
ありがとうございました。


◎桓武平姓千葉一族には、支族として、八幡庄平田村(千葉県市川市平田町)
 を発祥の地とする「平田氏」があること

◎下総国八幡庄平田村 発祥の桓武平氏 平田氏
◎伊賀国山田郡平田村 発祥の桓武平氏 平田氏


平家の平氏は上総国から伊賀伊勢国に転府してきたのですから
もとは下総国八幡庄平田村(千葉県市川市平田町)が名前の由来でしょうね。

伊賀の山田郡に引っ越して来た人が平田を名乗ったのでしょう。
どうして山田郡で「平田」なのか?長い間疑問でした。


太郎さん
平家物語に書かれている屋島の合戦の「扇の的」で
那須与一の見事な弓技を称え舞を舞った平家の老武士を与一は射殺しますが
この人は「家員(いえかず)」という名で
家長の弟だそうです。
[47]takahiroさんからのコメント(2003年06月12日 05時51分41秒 ) パスワード
  

服部明子様

 地名と名字の関係は、

 ○元からある地名を、そこに居住した一族が名字に採用する
 ○ある名字の一族が居住したので、その一族の名字が地名になる

 の2通りの可能性があるのですね。
[48]太郎さんからのコメント(2003年06月12日 14時30分06秒 ) パスワード
  

ギャンブラーさん

池宮「平家」では、上記[30]でも述べたように、家永は「末弟の平六家長」とあり、それ以上は弟がいないような書き方です。
家員という弟がいたというとのは、どの本に載っていたのでしょう?
[49]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月12日 15時52分20秒 ) パスワード
  

記憶では「平家物語」の註に出てました。
年代としては50代ぐらいだったかしら。
[50]太郎さんからのコメント(2003年06月12日 16時15分41秒 ) パスワード
  

残念ながら、わたしのもっている「平家物語」の註には載っていませんでした。
講談社学術文庫です。
[51]takahiroさんからのコメント(2003年06月12日 16時55分01秒 ) パスワード
  

角川ソフィア文庫版『平家物語』下巻・巻十一の六「弓流しの事」の項に、

「五十ばかりなる男」についての注釈に、

『平家の侍に伊賀平内左衛門尉が弟に十兵衛尉家員という者あり』と記載
 されています。
 
 この注釈の原典は、『源平盛衰記』と記されています。

(上記文庫本、186〜187ページ)

[52]takahiroさんからのコメント(2003年06月12日 16時56分56秒 ) パスワード
  

訂正:十兵衛尉家員→十郎兵衛尉家員
[53]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月13日 03時51分31秒 ) パスワード
  

takahiroさま

ありがとうございました。
10郎兵衛尉
でございますか。

という事は、家員は10男あたりだったのかも、でございますね。


確か「忠盛殿中に昇る」は6男の家長が数えで16歳。
パパの家貞は30代半ば。

という事は家貞パパは家長の下に兄弟姉妹をまだまだ生産してた頃でしょうね。


現代でも時々70代の男性に子供が出来たなんて話がありますから
例えば上原謙(加山雄三のパパ)は70代で娘をもうけてますよね。


家貞パパは80代で亡くなってますから
子供の総数は一体何十人いたか分かりませんよね。

後醍醐天皇が50数人
徳川家斉も50数人

家貞パパも50人ぐらいいたかも知れませんよね。


昔は夭逝したり怪我や事故で死んだり
それに
歴史の場合は重要でない人物は生まれていても記録から抹殺されますから存在しなかったという事になります。


私の疑問は家貞の子供が「家」と「貞」を通字とする中で「家」の字の子供が多いらしいという事。
これは何だったのかな?と。
要するに戦いに直接加わった「武門」担当系の子供の名が残ったという事なのか?と。


貞能が貞を通字としてるのは生母の身分高くなかったのかな?と。
たまたま平家の嫡流の家で働いてて長兄が死んでしまった為
平家(小松家)の家老職が貞能に転がり込んで来たという事だったのかしら?と。

だから平家都落ちの時
貞能は(忠盛・清盛・重盛の)骨を荼毘に付して高野山に届け
自分は宇都宮氏を頼って落ちて行ったのかしら?と。


う〜む、謎が謎を呼ぶ・・・
[54]takahiroさんからのコメント(2003年06月13日 16時18分49秒 ) パスワード
  

[51]追記
「平家物語を熱く語る」内のスレッド『電子図書:源平盛衰記全48巻』
 http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100377_51.html
 の[44]の項目に、源平盛衰記の十郎兵衛尉家員に関する原文の記載と、
 服部明子様の解説がありました。

 服部様の言われるように、早世せず歴史に名を残した家貞の子息が、
 貞能、家継、家長、家員の4氏であったのでしょうね。

 せめて平家一門自身が作成した「平家一門系図」が残存していれば、
 家貞の子息についてももう少し詳細に判明したと思われるのですが、
 壇の浦の敗戦によりそうした文書・史料も四散してしまっているよう
 です。

 都落ちを離脱した頼盛一族には、鎌倉初期頃までは「平家記」という
 一門の記録文書が存在したようなのですが、この文書も現在には伝わ
 っていません。(九条道家の日記より文書の存在は確認できます。)

 平家側の著した文書・史料の今後の発見に期待するしかないのでしょ
 うか。
[55]川口 信さんからのコメント(2003年06月13日 17時13分49秒 ) パスワード
  

平田篤胤とは直接関係はないと思いますが、同じ桓武平氏なので。

 下記の様なURLがありました。
 武家家伝 薩摩平田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/s_hirata.html

 名称不詳*(桓武平氏宗盛流)
  *宝暦の治水の指揮を執った家老
  平田靫負の使用した家紋。とあります。

 これは薩摩とありますので、takahiro様のお得意の分野ですね。
あとはお任せ。
[56]takahiroさんからのコメント(2003年06月13日 19時21分59秒 ) パスワード
  

川口信さま

いつもながら貴重な情報の御教示、ありがとうございます。

薩摩藩・桓武平姓平田氏についても、平田篤胤の養家との関連がないか、今後見て
いこうと思います。

いつも私が利用しています「薩摩の姓字」は、現在手元にない為、次回閲覧します際
に平田姓の項を見て参り、何か判明すれば当スレッドに記載致します。
(「薩摩の姓字」閲覧される方は、京都府立図書館に所蔵されています。)
[57]takahiroさんからのコメント(2003年06月13日 19時42分31秒 ) パスワード
  

川口信さま 2

 直接当スレッドとは関係ないですが、上記「四目結紋」について調べていますと、
 使用家として「桓武平姓 川口氏」との記述もありました。

 出典は「昭文社 家系家紋事典」です。
[58]さちこさんからのコメント(2003年06月13日 23時00分23秒 ) パスワード
  

川口様。

ありがとうございます。
巡り巡って宝暦の治水工事ですか?
やはりオカルトがかってる(笑)

多分、他のスレッドで書いたと思います。

弥富の重文の服部家が、
御育てした万弥さま、
後の尾張藩徳川家の八代目徳川宗勝公です。
この時代に宝暦の治水工事が行われたのです。

宗勝公、
高須藩の養子ですが実は尾張二代目藩主、
徳川光友の孫になるのです。

宝暦の治水、
長島や弥富に住んでいた者にとっては、
大変な恩恵を受けたのです。

工事が難航し多数の犠牲者もでました。
幕府からの待遇が悪く病死した人もいました。
平田靫負は責任をとって自害したそうです。

江戸時代には幕府に遠慮して治水工事で亡くなった人を、
公には供養出来なかったそうです。
でもずっと人々が感謝し言い伝えていたのです。
明治になって慰霊碑も出来ました。
今では先人を供養しテレビなどでも毎年話題になります。

薩摩藩が何故こに地の治水工事に?
外様だったから?

今の段階ではよく判らない、
でも江戸時代にも何か身分を越えたつながりがあった。
うちの寺、桑名長禅寺にもこの治水工事で亡くなった薩摩義士のお墓が残ってます。
[59]さちこさんからのコメント(2003年06月13日 23時14分38秒 ) パスワード
  

リンクをしようと検索しましたが、
多すぎてなんだか判らなくなりました。

薩摩義士で調べて頂くといいと思います。

[60]川口 信さんからのコメント(2003年06月13日 23時26分26秒 ) パスワード
  

何の気なしにコメントをしたのですが、さちこさんのお役に立って嬉しいです。

 シンデレラ姫のお時間がもう直ぐなので私がカボチャの馬車になってお送りいたしますと言いたいのですが、じつは土手カボチャでして。

 変わりに。

 伏見大黒寺は、薩摩藩の罪人の祈願所であり、上意討ちに遭った寺田屋事件の死者は、ここに埋葬された。大国寺には宝暦治水で引責切腹した平田靫負の墓もある。下記URLに記述してありました。
 http://www1.odn.ne.jp/~aaa57280/Keihanshin/fushimi.htm (伏見)

 http://www.satsuma.ne.jp/myhome/kawamoto/ka_bunka/bunka1_10.html
   (鹿児島県文化財)
 
 上記URLに平田靫負の屋敷跡がのってあります。

[61]さちこさんからのコメント(2003年06月13日 23時47分37秒 ) パスワード
  

少し言葉が足りませんでしたが、
薩摩に治水工事をさせたのはあくまでも幕府です。(ホンヤさんではないです)

尾張藩との関係は、
前、尾張藩主宗春や紀州との関係も考慮しなくてはいけないので、
服部家関係の、宗勝公が治水工事を望んでいた可能性はありますが。
とにかくこの治水工事は現在に至るまで語り継がれてます。

あくまでも個人的見解でトンでもですが、
幕府が薩摩(平田家)と服部家との関係を嫌ったせいかも?
[62]さちこさんからのコメント(2003年06月14日 00時02分50秒 ) パスワード
  

カボチャになりけて、
ぼやぼやしてたらなんか川口さんから先に凄いコメントが!

ありがとうございます。

平家から新撰組!
一揆(注)にいきますか。

薩摩と服部家はバリバリ関係ありですよ。多分。

カボチャは、
冬至に食べるといいのです。

シンデレラも12時過ぎても賞味期限大丈夫です。(笑)
[63]川口 信さんからのコメント(2003年06月14日 17時20分10秒 ) パスワード
  

もう一つ、さちこさんが喜びそうなURLがありました。

 http://www.hirata-jp.com/index.html

 なんと家紋が「矢筈」の平田家でした。


 食べて美味しい、土手カボチャより。
[64]太郎さんからのコメント(2003年06月14日 18時11分08秒 ) パスワード
  

takahiroさんへ

上記[51]、ありがとうございます。
同じ「平家物語」でも、出版社によって注釈の内容が異なってくるので、そういう意味では一つの出版社のをそろえたからといって、安心できないようなところがありますね。
それにしても「源平盛衰記」、あなどれないですね〜。確かにいろいろな情報が載っているようです!
本屋できいたら、現代語に訳したものは出ていないようで、残念です。。。
[65]takahiroさんからのコメント(2003年06月14日 19時32分19秒 ) パスワード
  

薩摩藩・桓武平氏平田氏の苗字発祥の地は、「薩摩国日置郡伊作郷平田村」でした。

太郎さん、もし何かの都合で近くまで行かれる機会がありましたなら、また染井霊園
さんに御迷惑でなければ、染井霊園の「平銕胤」墓碑に記されています家紋を確認頂
いてもよろしいでしょうか。本当に何かついでがあればでいいですので。

源平盛衰記につきましては、
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100377_51.html
を参考にされることをお薦めします。
[66]さちこさんからのコメント(2003年06月14日 21時55分39秒 ) パスワード
  

薩摩平田氏について、
薩摩平田氏

名称不詳*(桓武平氏宗盛流)
*宝暦の治水の指揮を執った家老
 平田靫負の使用した家紋。


 桓武天皇の十三代内大臣宗盛の三男宗正の子大炊介信宗の後裔、
新左衛門親宗入道玄親に始まる。
親宗は島津氏久に仕えた。
孫の重宗は島津久豊に仕え、以来代々大隅国肝属郡串良を領して岩弘に住した。
氏宗は島津忠国の家老、
兼宗は島津立久の家老を務めた。
昌宗の代に島津勝久が没落して大隅国曽於郡末吉の平田出羽守宗仍を頼んで末吉に住んだ。
 天文末年に島津貴久に召し出されて家老を務め、
大隅国始羅郡帖佐郷の地頭となった。
光宗は、庶流平田備中守の二男に生まれ、
嫡流を継いだ。天正元年(1573)早崎営をまもり、
同六年石城攻め、同十一年堅志田攻め、同十二年島原合戦などに戦功を挙げる。
天正五年より十五年まで、島津貴久・義久の家老を務め、下郡山に住み、帖佐・肥後国八代の地頭となった。 子の歳宗は、天正年中より義久・義弘の老中、慶長三年の慶長の役にて病没。その子増宗は島津義久の家老を務めたが不臣として誅されて、
平田氏嫡流は増宗の代で断絶した。
島津氏家中には庶流平田氏が多く仕えていた。
二代重宗の次男宗保から分かれた平田氏は、天正十六年、
豊前守宗祇のとき島津義久の上洛に従い、
同十八年ころ薩摩国指宿郡揖宿郷の地頭となった。 
その子の宗正は慶長四年戦死している。
 三代氏宗の次男宗勝に始まる平田氏は、
出羽守宗仍が日向国末吉郷の地頭となり、
永禄元年豊州島津家の家臣を引き連れて常吉宮ケ原の合戦に参陣し、
子の新左衛門宗徳とともに戦死した。宗徳の子宗応は、
のちに鹿児島に住み、関ヶ原の戦で戦死した。
この流れから、宝暦の木曽川治水工事の総奉行を務めた平田靫負正輔が出た。
正輔は、宝暦の治水工事の完成後、
工事費の超過や多くの犠牲者を出したことの責任をとって自刃した。
正輔を始め工事に従事した薩摩武士は、「薩摩義士」として今も尊敬されている。

 薩摩平田氏には、桓武平氏高棟流の家があり、
薩摩国谷山郷山田村の平田から興る。高棟の子孫良西が薩摩国に下向し、薩摩国始羅郡帖佐郷の地頭となり、その子信宗が帖佐から平田に移って平田氏を称した。
その子孫にあたる重宗は島津元久・久豊の国老を務めた

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/s_hirata.html

平田靫負の家紋は丸に郵便局のマークを逆さにしたみたいな感じです。
上記のURLに載ってます。

明治時代になって服部辰次郎なる人物が、
江戸時代には公に出来なかった薩摩義士の偉功を全国に伝え、
服部翁として治水神社に像がたっているそうですが。

このあたりは服部が多いので偶然なのか、
服部家と薩摩、平田氏の関係が残っていたのかよく判りません。

島津義久に仕え、戦国時代薩摩に移り、
国分煙草の栽培を始めた、
伊賀の服部左近衛門宗重の名があります。

薩摩の平田氏も宗を通字にしてるので気になりますが。
偶然でしょうか?

京都山城、伏見の薩摩藩邸留守居役、
世々服部氏が世襲勤務せしり。

とあります。
気になります。

 
[67]takahiroさんからのコメント(2003年06月14日 23時27分43秒 ) パスワード
  

http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100354_16.html

少し平田氏から離れますが、上記スレッドに薩摩藩と服部氏に関する記載が
ありますので、参考にこちらにも転載します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

『戦国期、江戸期の薩摩藩島津家家臣(国分郷)服部家』

<戦国期>
○服部左近衛門宗重:島津義久家臣。伊賀国移住。

<江戸期>
○服部久兵衛宗俊 :国分衆中(元和五年 国分諸士起請文に記名)
○服部茂左衛門安村:国分衆中(同上)

○服部笑太夫   :国分衆中(寛政六年 同郷与頭)
○服部休左衛門  :国分衆中(文化五年 同郷郷士年寄)
○服部休兵衛   :国分衆中(文政六年 同郷郷士年寄助)
○服部孝兵衛   :国分衆中(文久元年 同郷下井村庄屋)
○服部権次郎   :国分衆中(文久三年 同郷横目)

また薩摩藩谷山郷には、

『当地北西部の丘陵突端は南北朝時代懐良親王が征西大将軍としてとどまった
 地といわれる御所ヶ原で、隣接丘陵には菊池武光が同親王に従って居城した
 と伝える菊池城跡がある。』(角川日本地名辞典・鹿児島県より)

とあります。

南北朝期当時、南九州における南朝方の拠点であった谷山には、南朝方の武士
が、懐良親王に従い多数入っていたようです。

あるいは、服部宗重、服部宗俊とは、その後裔なのでしょうか。

また、

懐良親王の一子に雅良王があり、雅良王は上記菊池武光の妹を生母としていま
す。この雅良王は後、源姓を賜り、後醍院越後守源良宗を名乗り、後醍醐源氏
「後醍院氏」の祖となっています。

そしてこの後醍院良宗から六代孫、宗重は、島津義弘に仕えます。

上記、服部宗重が仕えていたのも島津義弘であり、宗が通字というのは南朝方
服部一族である可能性も推測できます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

上記、後醍院氏について述べていましたが、後醍院宗重の末裔、後醍院真柱は
平田篤胤の門下生であり、おそらく名の「真柱」は、篤胤の著書「霊能真柱」
からとられていると思われます。
[68]takahiroさんからのコメント(2003年06月14日 23時52分15秒 ) パスワード
  

また、さちこさんの投稿と重なりますが、

薩摩藩桓武平姓・平田氏には、

○桓武平姓 高望王流 平宗盛末裔平田氏(薩摩国日置郡伊作郷平田村発祥)
○桓武平姓 高棟王流 平田氏(薩摩国谷山郷山田村発祥)

の2系統と、さらに別系統、高望王流平維盛末裔を伝える平田氏も存在します。

以下、「薩摩の姓字」より。

『桓武平性平維盛の子、資宗は、河辺郡七島の宝島(鹿児島郡十島村)に遁れ
 て宝島郡司となり、その孫宗広に至って平を憚り平田と称する。資宗-宗衡-
 宗広…宗重…宗継…宗熊と続く。<略>宗衡の弟宗行は河辺郡坊津居住、
 坊津平田氏祖。』

更に薩摩藩には藤原姓平田氏も伝えられています。
[69]takahiroさんからのコメント(2003年06月14日 23時57分00秒 ) パスワード
  

[68]訂正

 薩摩国谷山郷山田村発祥→薩摩国谷山郷山田村平田発祥
[70]太郎さんからのコメント(2003年06月15日 00時54分18秒 ) パスワード
  

takahiroさん

染井霊園に行ったとき、わたしも家紋がないかと、墓石のまわりをぐるぐる回りましたが、どこにもありませんでした。
お墓にあれば、一番確実だったのですが。。。
[71]takahiroさんからのコメント(2003年06月15日 01時23分44秒 ) パスワード
  

太郎様 確かに墓碑に家紋があれば既に太郎さんが報告されていますね。
気付かず失礼致しました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

平田篤胤門下生、「後醍院真柱」および「後醍院氏」につき、もう少し詳細に
紹介します。

以下、『さつまの姓字』(川崎大十著)より

後醍院:本姓後醍醐源姓。

○嫡流

 征西将軍懐良親王は菊池武重の娘を娶り良宗を生む。良宗は源姓を賜り後醍
 院氏を称する。六代良任に至り天正九年肥後国八代(熊本県八代市)から薩
 摩郡入来院市比野(薩摩郡樋脇町)に移り五〇〇石を領する。その子宗重は
 島津義弘に仕え、姶良郡帖佐町(姶良郡姶良町)を経て鹿児島に移住。
     
 良宗━良忠━宗親━良春━宗能━良任━宗重━頼次(不家督)━頼輔(山岡
 景治子)…半右兵衛門…頼貫━頼直と続く。

 七代宗重の子頼次は高橋氏を称し、因幡鳥取(鳥取県)松平氏の家臣となり
 子孫はかの地にある。

○義信流 

 嫡家七代宗重の二男義信の後で、鹿児島居住。

 義信━宗恒━良乙━良政━良張━良音━良陽━良経━良智━良顕━良弼━正
 六(栃内茂吉二男)と続く。四代良政は高崎地頭等を歴任。

○良以流

 義信流初代義信の二男良以は、寛文五年分家。鹿児島居住。七代真柱に至り
 国学者として著明、家名大いに挙がる。

 良以━良致━良金━良意━良憲━良次━真柱(大河平隆陳二男)━良茂━良
 秋(良茂弟良望三男)と続く。七代真柱は国学者、造士館訓導師、皇学所・
 大学所御用掛、教部大録、備中国(岡山県)吉備津神社宮司等を歴任。八代
 良茂の弟良望は分家、国学者・歌人。
[72]太郎さんからのコメント(2003年06月16日 23時09分53秒 ) パスワード
  

takahiroさんへ
本屋に「江戸開府400周年記念」の大きな一万円くらいの本が置いてあって、その中に平田篤胤の絵が何枚か載っていました。
そしてその中の一枚、夢の中で本居宣長に会っている場面で、篤胤は紋付を着ていました。
その絵自体がわりと小さいので、はっきりとは見えないのですが、紋付についている家紋は、「立ち沢潟」のように見えました。
[73]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月17日 00時41分47秒 ) パスワード
  

家紋は1家に複数あるのが普通だと思っています。
いろいろな理由で複数になってしまうのです。
拝領の紋だとか別家を立てた時の紋とか。


私の母方も表紋が複数あります。
伊予国河野氏本来の「折敷3文字紋」はとうとう江戸時代末期にも許可が下りなくて
大坂の陣で負けた時に替えた「松皮菱の尻合わせ」を今でも使用しています。
南朝方当時は楠正成配下にあったので「菊水紋」も使用してました。

母方の裏紋は「覗き菊」です。
これは女性がお嫁に行く時の実家の紋という事です。
私も着物の紋は「覗き菊」使用です。


姓も苗字も紋も変遷するので
どれを使用するか
アイデンティティの問題ですね。


>「四目結紋」「立ち沢潟」
どんな背景があったのでしょうね?

佐々成政が秀吉から死を賜った時に
母親が?おばさん?が
「誇り高き<四目結紋>でなんとかかんとか」と語ってました。
名とか紋とか日本人の誇りだったんだとつくづく思いました。
[74]たまねこさんからのコメント(2003年06月17日 01時00分38秒 ) パスワード
  

太郎さんへ

お墓に家紋が入ってなかったのですか??

私も、紋付を来た肖像画を見て「丸に隅立四目結」と記憶していた
のですが…、

http://images-jp.amazon.com/images/P/4846001814.09.LZZZZZZZ.jpg

おかしい、この家紋じゃなかったぞっ(笑)。
この本の中の肖像画の紋は、表紙の紋とは違っていた!と思うので、
図書館で確認しておきます。
それとも、複数の紋付を着るということが、有り得るのでしょうか?

夢の中で、平田篤胤と会って確認したと申しているわけでは
ございませんので、白い目で見ないで下さいますよう…。

かぼちゃの馬車は腐ってしまったので、今日は歩いて帰ります。
しくしく。
[75]たまねこさんからのコメント(2003年06月17日 01時18分31秒 ) パスワード
  

>家紋は1家に複数あるのが普通だと思っています。

良かった。救われました(笑)。

しかし、どんな理由があって、使い分けたのでしょう?
今日は、この紋を着る気分…なんて、ファッションの一部
になっていた?
その日、会う人に合わせて、都合の良い紋を選んでいた?

この時代の「家紋」のあり方について、少々、考えさせられました。

今は、自分の家の家紋を知らない人の方が多いかもしれませんね。
[76]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月17日 01時47分45秒 ) パスワード
  

>その日、会う人に合わせて、都合の良い紋を選んでいた?

はい。

例えば徳川家から紋を頂いた場合
殿様から頂いた場合
身分高い人から頂いた場合

秀吉なんて足利家の桐紋を信長から貰ってますし
結局はこれが豊臣家の正式紋になってますね。


天皇でも外国の国王から勲章を頂くと
次回の訪問の時にはそれを持って行かないと失礼なんですよ。
(晩餐会の時にはちゃんと首に懸けてないと)


平田君の場合
生家の紋と
養家の紋と
どなたから頂いた紋と
その他
いろいろあったと思います。


我が家の場合は家書に経緯が書かれているので紋の変遷が分かりますが
伝わってない家はレンタルの着物で平気でしょうね。
私にはとてもレンタルの着物は着られません。
[77]takahiroさんからのコメント(2003年06月17日 07時24分28秒 ) パスワード
  

墓碑の家紋の確認をお願いしましたのは、たまねこさんの情報「丸に隅立四目
結」を疑ったのではなく、ギャンブラーさんの記述のように、もし平田篤胤家
が複数の紋を使用していて、他の手掛かりが判明すればと思ったからでした。

[74]にて紹介して頂いた画像の篤胤の紋は「卍紋の変種」のようですが、[37]
にて紹介頂いている「平田神社」の御神紋とも同じですので、この「卍紋の変
種」紋が、最も公的な平田篤胤家の家紋なのかとも推測します。

また[72]太郎さんの情報、「立ち沢潟」紋については、戦国期における中国地
方の有力名門、毛利家が「沢潟」紋を使用していますので、備中松山藩士平田
家とは何らかの関係があったのでしょうか。

また当スレッド冒頭に紹介されている画像では、篤胤の差す刀の柄の部分に
「四巴」紋が見えますが、これは備中松山藩主板倉候の「三巴」紋との関連で
しょうか。

平田篤胤くらいに大事を為した人物となると、ギャンブラーさんの言われるよ
うに、複数の紋を拝賜していてもおかしくなく思えます。
[78]太郎さんからのコメント(2003年06月17日 22時50分43秒 ) パスワード
  

平田神社に電話で聞いてみました!
すると卍の家紋は、「捻じ万字(ねじまんじ)」と言うそうです。
この家紋は図書館においてある分厚い家紋の本にも載っていました!

そして平田篤胤の本を何冊か見ていたら、確かにこの家紋の紋付を着ている肖像画がありました!
平田篤胤家の最も公的な家紋は、この「捻じ万字」なのかもしれませんね!
[79]太郎さんからのコメント(2003年06月17日 22時57分37秒 ) パスワード
  

たまねこさんへ

はい、お墓に家紋はありませんでした。でも、造り自体が一般的なお墓と違うので、家紋がなくても不自然ではありませんでしたよ。
むしろ家紋がないことによって、より厳粛な雰囲気が漂っている、という感じもしました。
[80]さちこさんからのコメント(2003年06月17日 23時43分51秒 ) パスワード
  

太郎さん。

万字紋、
ナチスの紋に似てるお寺の印ですね。

少し話題がずれるので憚れる事もありますが。
一考一揆の黒宮家が使用してました。

忍者の手裏剣にも似てますよね。(笑)

宝暦の治水工事、

尾張八代藩主、宗勝の娘との縁談を薩摩が破断した事が、
発端になったというう説があります。
宗勝公を育てたのが弥富の重文の服部家です。

是非ご参照下さい。

http://www.mirai.ne.jp/~tuyoshi/matome.html

尾張と伊勢は難しいのです(笑い)
[81]さちこさんからのコメント(2003年06月17日 23時51分35秒 ) パスワード
  

訂正。

一考一揆>一向一揆です。

勿論、服部家がこの件に関与していたという記録はありません。
[82]たまねこさんからのコメント(2003年06月18日 20時32分09秒 ) パスワード
  

あの家紋は、「捻じ万字(ねじまんじ)」という名称でしたか。
また一つ、勉強になりました。

何と呼んでいいのかわからなかったので、
勝手に「手裏剣紋」と命名していました(笑)。

一向一揆の黒宮家が使用していたのですか。
他には、どこのお宅で使われていたのか、
どういった経緯、由来の家紋なのか、うーむ。


[83]川口 信さんからのコメント(2003年06月18日 21時39分31秒 ) パスワード
  

卍 紋について

 卍(万字)は、バビロンやアッシリアなどで、太陽の表象として用いられていたという。インドのバラモンに用いられ、仏教に転用され、吉祥の相、端祥の意義があるとされ、寺院で用いていたのが、家紋に転用されたと言われている。

 卍紋は、小野氏の流れの横山氏の代表的な家紋となっている。出自を異にする家でも、横山を苗字とするところでは、この紋を用いることが多い。松平(大給)・蜂須賀・津軽氏をはじめ、旗本の六十家余が、卍紋を使用している。
 弘前市の紋は卍(お殿様の紋が由来)
 
 図案としては、左・右卍のほかに、捻卍丸・隅立左卍・隅立卍崩・剣先左卍・左卍菱・二重卍(卍筋)・待合卍(四卍)・桔梗卍などが作られている。(歴読:日本の紋章辞典)より。

 土手かぼちゃ&(アンド)星くずの王子様のなれの果てより。それとまだ何かありましたっけ?。

 [63]の矢筈の平田家も茗荷紋の平田家もありますよ。
[84]さちこさんからのコメント(2003年06月18日 21時52分18秒 ) パスワード
  

黒宮家は捻じ万字ではなく、
普通の万字です。卍。

言葉が足りませんでした。

黒宮家には左右どちら回りもあるみたい。
右万字と左万字。
蜂須賀家が使用してます。

えっ?
検索しててこんなの出ました。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/manzi.html

 マンジ紋にひかれる人は多い。
 一度ひかれると、なかなかこの呪符から逃れ難いという。
 ふつう寺のマークとして この印を地図で見ることが多い。
 また、第二次世界大戦の当時のドイツナチスの党章として、
 このマークを記憶しているひとも多い。
 さらには古代(新石器時代)の壷にもつけられていた。
 このように、卍印は人類発生以来、
 世界中でこのシンボルが使われていたようだ。(丸に万字)


 原形は左マンジと右マンジがある。また先端の尖った鎌マンジもある。
 中国の則天武后がインドからきたこのシンボルを見て「なんのシルシか?」
「総て が叶う、めでたい印です」「さらば以後、萬字(万字)と申せ」といった。
 こうして日本でも、万字の文字を用いるようになった。
 源氏系では、蜂須賀小六の蜂須賀氏をはじめ伊丹、小田切、多田、朝日の諸氏。
 平家系では上坂、小野氏。藤原氏系では、津軽、鳥居、朝比奈、万年の諸氏が使用 している。
 他にも、小野氏系の岡部氏、服部氏系の服部氏などが用いている。

蜂須賀家が秦氏臭いとは思ってましたが。。。
少しトンでもなのでこの件は秦熱に引っ越したほうがいいかも知れません。

しかし不思議だ!

 
[85]さちこさんからのコメント(2003年06月18日 22時17分51秒 ) パスワード
  

七夕も近いので、
シンデレラ卒業して星屑の織姫シリーズにしましょうか?

もたもた調べてるうちにいつも彦星様に先を越されてしまうわ。

織姫はシンデレラと違って早ね早起き!
生活習慣改めます。
[86]太郎さんからのコメント(2003年06月20日 00時04分59秒 ) パスワード
  

さちこさんへ

読みましたよ、[80]にのってたURLのページ。
ものすごいイジメみたいなことを徳川幕府はしていたのですね。
なんかびっくりしたなあ。
[87]ひにゃさんからのコメント(2003年06月20日 20時16分23秒 ) パスワード
  

こんにちはー。

他スレには書き込みさせていただいたんですが、
図々しくこちらのほうにまで顔を出してしまいました(汗)。
すみません…。

卍の紋についてのお話、面白いですね。
いま、二ナ貝の民俗(?)みたいなものについて調べています。
二ナ貝は神宮皇后の伝説などにも登場しますし、
二ナのつく木というのが境内に生えている神社があり、
そこのニナを借りてきて口の中に入れると歯痛が治まるという話があったり、
中津の古要神社では、ほうじょうえの時に、海の中にニナを撒くそうです。

それはなぜかというと、
ニナ貝は巻貝なので、その渦巻きの部分に、
生命のエネルギー(?)のようなものを感じていたからだということです。

卍が太陽の象徴として用いられていたというのと
ちょっと似たような印象をうけてしまったんですが、
…よく考えたらあまり似ていませんね(汗)
すみません〜
[88]さちこさんからのコメント(2003年06月20日 22時40分17秒 ) パスワード
  

太郎さんありがとうございます。

薩摩側というか、
これは明治になって徳川幕府が滅んで(?)から伝えたの話なので、
一方的な部分もあるとあると思います。
幕府側には幕府なりの考えがあったのだと思います。

宝暦の治水工事その頃のうちはどうだったのか全く判りません。
輪中地帯、海抜より低く堤防に囲まれた土地です。

昔うちが住んでいた木曽岬はこの治水工事の後干拓された土地です。
この工事のことは、
詳しくではないけれど伝えられてきました。

http://www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/chisui.htm


.顕彰者を「顕彰する」記念碑

戦後に建てられた記念碑の中で特に目を引くものは、
「薩摩義士」を顕彰した人物を顕彰した記念碑・人物像などが見られることである。
例えば、治水神社内に建てられている、「服部辰次郎翁之像」と「菱田尚一氏像」、「伊藤光好氏像」である。それぞれの記念碑によれば、服部像は1955年10月17日、
薩摩義士200年祭を機に建てられた。島津忠承の書による。
菱田像は1967年10月に建てられ、伊藤像は1990年4月25日に建てられた。
特に伊藤の場合は興味深く、
町長在職中に鹿児島県からこの胸像が贈られたようである。

それぞれの人物はどのような顕彰活動を行ったのだろうか。
服部は全国各地をまわり、
「薩摩義士」の顕彰活動をした人物である。
菱田は地元の社会資本整備で活躍した人物であり、
「薩摩義士」の顕彰活動にも尽力した。
服部・菱田とも治水神社建立に力を尽くしたと記念碑の中で称えられている。
もうひとり、伊藤は地元海津町長であり、
宝暦治水史蹟保存会長として、
顕彰事業に力を尽くしたようである。
3人ともそれぞれ、
服部辰次郎顕彰会・菱田尚一翁顕彰会・顕彰会なるものが組織され、
その顕彰会によって記念碑が建てられている。
「薩摩義士」を顕彰した人物を顕彰する会が組織されるというのは興味深い。
そして、
治水神社内における戦後建てられた記念碑はほとんどこの、
顕彰者を「顕彰する」記念碑の類なのである。
今回調査した記念碑の中で、特に戦後のものに限れば、
「薩摩義士」を直接顕彰したものよりも、
顕彰者を「顕彰する」記念碑の方がはるかに数が多い。
岐阜県においては、
戦後は宝暦治水を直接顕彰することが少なくなったように感じる。
なぜだろうか?
戦前で、「薩摩義士」への顕彰がある程度終わったと考えられたのだろうか。
いずれにせよ、
戦後は「薩摩義士」という、「郷土の名誉ある」歴史の中で埋もれていたものを、
掘り起こした人物が顕彰されるという特徴を持っている。
郷土史の掘り起こしへの顕彰だろうか。

難しい話しです。(、、?)

服部辰次郎に関してはよく判りません。。
でも平田家と服部家に関しては理屈を越えたご縁を感じます。

三重県の北の鈴鹿山脈のふもとの町に菰野町というのがあります。
この町は、
二十人程の町議員のうち、
服部さん2人、秦さん1人、
そして町長が服部さんという、
コテコテの町です。

ここに服部組というのがあります。
泣く子も黙る服部組。。。
。。。ではなくて、土木関係の会社です。(ご安心を)
この辺りの有力者です。

おなじみ民主党の岡田克也幹事長、
四日市の出身で次の選挙に備え、
も〜いいや、という位、今あちこちにポスター貼られてます。

岡田氏に対抗し、
参議院をやめ出馬を決めたのがのが、
自民党の平田耕一氏。

この菰野の服部組の前を前を通ったら、
平田氏のポスターがバ〜ンと貼られてました。

岡田氏がもし源氏なら、
平成の三日平氏の乱ですね。(まだ負けたと決まったわけではないけど)

「返らじと兼ねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」

なぜか楠木正行と重なります。











[89]さちこさんからのコメント(2003年06月20日 22時58分58秒 ) パスワード
  

ひにゃさん。
はじめまして。

貝の話は好きです。
二ナ貝はよく知りませんが、
巻貝を耳にあてると海の音がする。

そんな話はよく教えて貰いました。

その手は桑名の焼き蛤とか、
桑名の殿様シグレで茶々漬けという土地柄なので。

(88)誤字多すぎ。。。すみませんいつもながら。
[90]さちこさんからのコメント(2003年06月21日 12時57分17秒 ) パスワード
  

古墳時代、弥生時代の出土品、巴形銅器。
手裏剣に似てると思うのです。

http://www.maibun.com/collec/open/tomo.html

巴形銅器の意味
 スイジ貝起源説をもつ巴形銅器は、
 その個性的な脚部に呪力(じゅりょく)をもつ
 宝器(ほうき)・祭器(さいき)と考えられています。
 古墳時代には、
 楯(たて)や靭(ゆぎ)の飾り金具(かざりかなぐ)に使用されます。

画像を探してみても見つからなかったのですが、
古墳時代のものには四脚の巴形銅器があるそうです。
捻子万字にそっくりなのでは?

手裏剣も実際に武器としては実用的ではないと思うのです。
もしかしたら何か呪術的な意味があったのかも?

スイジ貝はこんなのです。
   ↓
http://www.rakuten.co.jp/yakushima/428629/429260/

二ナ貝はどんな形ですか?
[91]川口 信さんからのコメント(2003年06月21日 13時57分47秒 ) パスワード
  

船場のイトハン、儲かりまっか?(真昼用で〜す)
 
 不思議ですね。巴形銅器、捻卍丸、まったく同じではないですか。それから家紋に変化したのかも。(独断的推察)

 >その個性的な脚部に呪力(じゅりょく)をもつ
 >宝器(ほうき)・祭器(さいき)と考えられています

 そうかも知れませんね。
 また、スイジ貝は形が漢字の「水」に似ているところから その名がつけられたそう。「水は火を消す」ということから かまどの向こう側に置いて火難よけにしていたり の意味も含まれているかも?

 ニナ貝の図は下記URLで。

http://www.sakanaya.cc/binbi2/nina.html
 
塩ゆでにして、食べたい!!。 


[92]さちこさんからのコメント(2003年06月21日 22時59分29秒 ) パスワード
  

>船場のイトハン、儲かりまっか?

あきまヘンな。ま〜ぼちぼち、でんがな。
彦星はんは、どうでっか?

こんなんありましたよ。


「忍者ってほんとうにいたんですか? 」
 
  ただ、漫画やアニメに出てくるような派手なものではなく、
  今風に言うとスパイとか各種工作員とか言うような性格のものでした。
  良く知られたものでは「草」と言われる忍は敵国に潜入した後その土地に馴染ん  で暮らし、
  その土地の娘を娶りながらもいつか来る(来ないかも知れない) 
  指令を待っていました。 
  そしてひとたび命が下ると普段馴染んで仲良くしていた人々を裏切り、  
  命に従って味方(土地の人にとっては敵)を導くのが役目でした。   
  情報工作員の性格も強く、  
  鈴虫売りやそのほか各種の行商人の多くは忍であり、
  行商人という名目で各地を旅する権利を手に入れて 
  様々な情報を集めて歩いていたとも言われます。

 またくのいちと言われる女忍者の役目は体で敵を籠絡し、
 情報を引き出したり相手を言うがままに操ったり味方の手引きをするというもので した。
 敵の本拠地に忍び込んで
 機密書類や証拠品を盗み出したりその構造を解析したりす る役目もありました。
(時には先に潜入させたくのいちの手引きを受けることもありました)
 一連のこれらは特に江戸時代に多かったものです。
  幕府の忍をおそれ嫌がった薩摩が人工的に方言を作り出し、 
 この方言を真似ることが難しかったことから
 「草」を潜入させてもすぐにばれてしまい、 
 情報収集がなかなか成功せず、
 それが功を奏して島津は幕府に知られずに莫大な資金を蓄えることが出来、
 それが明治維新に繋がったというのは有名な話です。

http://homepage2.nifty.com/osiete/s587.htm

↑に書いてあったけど。。。これ本当?

二ナ貝の映像を見たところサザエに似てる?
塩ゆでもも良いけど、少し醤油をたらして。。。

 酒もってこい!酒もってこい〜
 さけ〜持ってこ〜いよ、オラ〜!彦星。

FROM 織姫。
 
[93]ひにゃさんからのコメント(2003年06月21日 23時10分03秒 ) パスワード
  

ビールがおいしい季節ですね。
お酒をのんで帰ってきました(未成年)。

ニナ貝はありませんでしたが、
アロエの刺身があってびっくりしました。

さちこさん

「ごわす」とか「おいどん」とかは、
人工的につくられた言葉なんでしょうか?
[94]ひにゃさんからのコメント(2003年06月21日 23時17分32秒 ) パスワード
  

巴形銅器、すごいですね!
本当に手裏剣にそっくりですね〜

ずっと昔に、
吉野ヶ里遺跡で発掘された巴形銅器のレプリカを見たことがあります。

巴形銅器、太陽のモチーフにも見えるような気がします。
そういうところも卍に近いような…

[95]さちこさんからのコメント(2003年06月22日 18時47分33秒 ) パスワード
  

>「ごわす」とか「おいどん」とかは、
 人工的につくられた言葉なんでしょうか

ごめんなさい。わかりません。
でも、もしかしたら名古屋弁も?
インターネットではみゃ〜みゃ〜言ってますが、
発音は絶対真似できないです。
伊勢側の人間ばればれ(笑)

四脚の巴形銅器ありました。
    ↓
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/hiraosci/Hirao/mukai/13.htm

捻じ万字の家紋とそっくり!

万字紋のページ。茗荷紋も一緒にのってます。
     ↓
http://e-kamon.net/kamon179.html

卍形手裏剣なんていうのもあるみたいです。
どうしてなんでしょうか?

[96]川口 信さんからのコメント(2003年06月22日 20時59分40秒 ) パスワード
  

四脚の巴形銅器ありました。またまたすごい!!。こうゆうの好きです。有難うございます。
 
また盆提灯のところに、万字紋のページ。茗荷紋も一緒に載っているなんて、なんでかな〜。
 検索じゃ誰にも負けないと自負していたのですが、このところ、惨敗つづき、

 >船場のイトハン、儲かりまっか?

 こう景気わるおしたら、どないしたらよろしおまねんえ。ほな さいなら
 以上大阪弁になっているかな?
 大阪弁の練習をしていたら、夜になってしまい、彦星として登場。
  
 >酒もってこい!酒もってこい〜
  >さけ〜持ってこ〜いよ、オラ〜!
 
 船場のいとはんがおっしゃる言葉とは思えませんが。
 ちょっと悪酔いした。こいはんかしら?。

 とりあえず、薩摩弁の謎。
 http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-2.html
[97]さちこさんからのコメント(2003年06月22日 23時40分33秒 ) パスワード
  

言葉というのは本当に難しいのですが、
伊勢(三重県は)関西系になります。

木曽川を越えるとアクセントが逆になるのです。

山、橋、海。。。
う〜ん字では書けない(涙)

語尾もちがいます。
三重県側は。??考えていて判らなくなりました。
アクセントは確かに違うのだけど。。。

彦星様
だいぶ関西語が混乱したはります。

「こない景気わるおうしたら、どないしたらよろしいおすやろ」←京都

「この不景気、どないしてくれまんねん 。」←船場

「不景気やないケ、ワレ〜。小泉は何してけつかんねんワレ〜」←河内

あくまでも三重県人の関西語です(笑)
間違ってるかも?

言葉は難しい!

薩摩弁の謎、面白かったです。

九州、
宮崎、鹿児島は高千穂など天照系の伝承が多い所で、
神武天皇を祀る神社とかがありますが、
あまり古くからの仏教関係ものがないような。

一方、大分や福岡は朝鮮半島の影響が多い所です。
宇佐八幡宮や、国東半島の石仏など。
秦氏絡みの物が多いと思うのです。
言葉にどう関係しているのか。

でも島津家は秦氏だし。。。





            
[98]川口 信さんからのコメント(2003年06月23日 08時04分34秒 ) パスワード
  

さちこさん、関西弁の講座有難う御座います。
 
 関西弁が乱れているとのご指摘、そのとうりです。若い頃、京都、大阪、など良く出張に行って本当にお話したのは、京都の人だけ。大阪の人は、横浜から出向してた人とかで、生粋の浪速の人とはあまりお話したことがありませんので。

 平田篤胤様みたいに秋田、東京など神社の祭神として奉られている近世の人ではめずらしいのではないのですか(あくまでも私は狭い知識なので)。
 備中松山藩の方は如何ですか。

 先日、TVで女性だけが母から受け継ぐミトコンドリアについて2時間にわたり放映しておりました、愛知県の成田きんさんの家系で、きんさん、娘さん、お孫さん、玄孫さん皆同じ、D型(バイカル湖系の寒さに強い)のグループでした。

 元を辿れば遥か遠いアフリカの一人の女性(イブ)に世界中の人が行きつくそうです。1万年に1回ミトコンドリアが変異し、それで、ちょっとづつ、違いが出てくるそうです。
 だから日本人はアチコチの母から別れた、と言っても数十代前の母が違うだけだそうです。

 皆ともだちです。北方系、南方系、中国系、朝鮮系、モンゴロイド系、アフリカ系も出は同じです。皮膚の色の違いは住んでいるところが違かっただけで、数十代でもとに戻るそうです。何か見えたふうにおもえます。


 

 
[99]布袋竹さんからのコメント(2003年06月23日 08時05分37秒 ) パスワード
  

鹿児島は、江戸明治の廃仏毀釈でお寺関係はことごとく打ち壊され、
島津義弘「関ヶ原などの」公の菩提寺である、妙円寺でさえも徳重神社となり、
摩崖仏なども削られたり壊されたりしてます。
その代わり、神社関係は大事にした様です。
神武天皇の父君やおじいさん・曽祖父まで三代の墓は、宮内庁管轄で常時管理され
神話と呼ばれる世界まで「でも、記紀には場所・ほか書かれています」保護してます。
http://www3.ocn.ne.jp/~nansatu/rekisi.html

お寺の無い墓地「寺跡はある」が多く、そのかわり、いつ・どこの墓群に行っても
お花の供えて無い墓は無い」と言っても過言でないほど
お墓は綺麗です。毎日、盆正月、彼岸のようです。
[100]布袋竹さんからのコメント(2003年06月23日 15時20分34秒 ) パスワード
  

96のアドレス薩摩弁について・
確かに、一部には隠密に対するものというようなハナシもあります。
大筋では、96の通りですが、「記載されている言葉もあるし、違っても
すこししか違わないものもあります。
「よか」→よか 、「なんばしょっと」→ないをしごっと
「そがん」「そげん」→そげん
ひと山どころか、小川ひとつ隔てただけでも言葉の変わる土地です。
そして、士族・とか職業で変わる言葉・
謙譲語・尊敬語・丁寧語の使えなくなった「自分も含め」
若者の言葉は鹿児島ではもう、使える人がかなりの年寄りくらいでしょう。
また、薩摩の士族では、郷単位の集まりがあり、今のカブスカートとか
ボーイスカート、もっともっと厳しいもので、鍛練の場としても
活動されて、士族を教育するのは、そう言う意味ではやさしかったかもしれません。

あのアクセントも曲者でしょう。しかし、最近の若者の抑揚のおかしなこと・
最近の若者」が出ると年寄ですね。チョット前まで言われたほうだったのに・
ラジオ・テレビから変な鹿児島弁でないアクセントが氾濫
からいも方言とか言い、昔の綺麗な鹿児島弁はもう聞かれませんね。

だいぶ、本題から外れた様です。ごめんなさい
[101]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月23日 21時13分26秒 ) パスワード
  

<100>を超えましたので<その2>に行ってください。
レスが多くなって重くなりますと管理が大変のようですから。
お願いします。
ぺこり
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