小川もこ 株式会社 エミ 大阪屋
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 投稿番号:100242 投稿日:2002年03月07日 09時08分15秒  パスワード
 お名前:平田
平田姓の家紋:平田家継:明昌寺:平田城

コメントの種類 :その他
本人によりコメントは削除されました。 2003年04月11日 19時34分15秒
[1]服部 明子さんからのコメント(2002年03月07日 10時07分51秒 ) パスワード
  

平田さん

初めまして!
仕事から戻ったところです。
メールにしようかと思いましたが、こちらに書き込みます。

家紋と姓氏はイコールではありません。


平氏系で藤紋を使用している代表例は
長井・大場・遠藤・湯浅・南条・真野・坂本・原田・堺・五十嵐・町野さんです。


源氏系では
山本・向井・鈴木・久保田・島田・小宮山・小川・安藤・内藤・倉地・米倉・仁賀保・古橋・山田・窪田・伊丹・小長谷・尾崎・石川・中島・柴田・八重盛・依田・黒田・吉田・近藤さんです。


私の親戚の藤○氏は家紋が服部家の代表紋である「並び矢」なのでビックリしました。
普通「藤紋」を考えますでしょ?


確かに伊勢の平家の代表紋は「揚羽蝶」なんですが
私の先祖は六条院の弓のコンペで優勝して車一杯の矢を拝領したことから
「並び矢+車」の紋に替えました。


普通服部姓ですとこの紋になりますが
矢は武士の大切な武器ですから源氏系でも藤原氏系でも使用します。


藤も蔓って強固でしょ。
切っろうとしてもなかなか切れないから
矢張り武士には力強いイメージとして家紋に使うのです。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年03月07日 10時30分26秒 ) パスワード
  

さて「平氏系平田さん」でしたら

伊賀の大山田村の平田のご出身の平田さんでは?と思います。

平 貞盛の子孫が伊勢・伊賀に移って平家となって栄え
清盛の家の家老だった家貞の次男?が平田を相続して平田姓を名乗ったそうです。

家貞の長男は貞能で、清盛の嫡男の家の家老となっています。
家貞は6代に渡って仕えたとか。
それで5代目・維盛の嫡男の名前が「六代」とか。
家貞は80いくつで亡くなってると思います。
清盛の祖父の代から仕えてるのです。


清盛の次男の家は「藤原姓伊藤氏」が家老になっていますが
若くして亡くなってしまいました。その子が行盛です。


清盛の6男が家長なんでしょうかね?彼は平六と呼ばれてましたから。
この人は清盛の4男の知盛をお預かりして最期に一緒に入水したとありますね。
私は家長の嫡男と知盛さまが一緒に入水したと思ってますけど。



ですから2男の平田家継は京都にはいず、
伊賀を父親から譲られて守ってたと思います。
それで名字を平田にしたと思います。

今でも平田農協とかバス停もあります。
昔の平田城の跡は土塁が残っていて明昌寺の1部になっています。
スレッドが立ててありますから参照なさって下さい。


この平田家継という人物の年齢が分かりませんが
平家が滅びた時はかなりの年齢だったと推測しています。

平家が滅びて伊賀で藤原忠清と平 信兼と一緒に蜂起してるので
60代か、ひょっとするともっと年を取ってたかも知れません。


私は平田家継は忠清か信兼のどちらかと婚姻で結ばれてると思ってます。
実際忠清は清盛とは親戚関係だそうです。
昔は妻が何人もいたのでよく分からないので知ってる方から教えて頂きたいのですが
平田家継という人の資料がなかなか無いのです。


源平盛衰記とか佐々木盛綱あたりの話には書かれているのではないか?と思ってます。
[3]川口 信さんからのコメント(2002年03月07日 10時32分21秒 ) パスワード
  

平田さん初めまして。

 平田姓について

 伊賀山田郡平田村発祥の桓武平氏、伊勢にも同族。尾張春日郡平田村発祥の清和源氏足利族。薩摩・大隈の大族で、島津家の重臣と知られる平田氏は桓武平氏高棟流。その他幕臣に藤原氏がある。
 ホームぺージにある平田家は家紋「矢筈」で上杉家臣とある。(平田 家紋)で検索。
 藤紋の使用頻度は家紋中4位です。平氏であれば、藤紋にした何か特別な理由があったと思われます。縁戚関係とか。拝領とか。もっと詳しいことが解明されるといいですね。
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年03月08日 02時35分13秒 ) パスワード
  

家紋の本で「平田」氏を捜してみましたが

たった1つ出てたのは「銀杏紋」で藤原系平田氏が使用との事。

家紋のお話は難しいですね。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年03月08日 02時43分41秒 ) パスワード
  

奥井氏から教えて頂いた「明昌寺」の場所は
スレッドをあっちこっちするのは面倒なのでこちらに書き直します:


明昌寺というお寺は、大山田村平田にありますが、
もし行かれるのでしたら

名阪中瀬IC→R163→7km・・・コスモGSとアニーズの信号交差点から150mです。
コスモGSで道が聞けると思います。

ちなみにTelは0595-46-1528です。



・:*:・`☆、。・:*:・`★   .。・:*:・`☆、。・:*:・`★
  .。・:*:・`☆、。・:*:・`★   .。・:*:・`☆
   ・・・奥井 板金店 ・・・奥井 勇・・・
mailto:okui@pastel.ocn.ne.jp (mailto:isamuokui@hotmail.com)


。・:*:・`☆、。・:*:・`★   .。・:*:・`☆、。・:*:・`★
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年04月07日 23時53分30秒 ) パスワード
  

いつもさんから頂いたURLです。
今から出勤なので整理してる暇もこのURLの方にご挨拶する時間もなくて
帰宅後連絡しようと思っています。
ごめんなさい。
いつもさん、いつもながら、感謝です。



http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3299/tsutsui1/chap2/igaheishi.html

正慶の末孫になる正盛の頃には伊賀領内に随分領土を拡め
たが、永年元年(一〇九六)その子忠盛の生まれた頃には山田郡平田
がその根拠となっていたらしい。

上皇の専制君主ぶりを充分知って如才なかった彼は直ちに亡き女院
の菩提を弔う為と称して父祖代々の所領の中から伊賀阿拝郡鞆田村と
山田郡山田村の田畑と屋敷地を併せた計二十町を思いきって六條院に
寄進した。

伊勢平氏の開祖である維衝の嫡流があるかないかの存在となってい
るのに比べて末子の正盛の子孫がこのような栄達を得ているのは二十
余年前に伊賀の荘園を六條女院に献じたのが転機である。
 
従って正盛以後は伊賀平氏と称したほうが適切で今や忠盛は桓武平
氏の棟梁とも云うべき地位に立ち源氏を圧さえて武門のトップを占め
た。

伊賀山田郡平田を本拠とする平貞光の嫡流である家貞、服部郷の季
宗、伊勢関を本拠とする信兼、安濃津の貞清ら一門の家の子郎党をか
き集めてもその兵力は源氏の一割にも満たなかったと思われる。

平氏系図にもある通り家貞は忠盛には伯父系の一族であるが、この
時代にはその一の郎党として根拠地である伊賀国山田郡平田郷に代官
として住み、阿拝郡柘植郷に常駐する一族の季宗らと共に伊賀平氏の
武士団を編成し忠盛の両腕となった。
[8]服部 明子さんからのコメント(2002年04月08日 13時47分48秒 ) パスワード
  

下のも驚きでした:

http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3299/tsutsui1/chap2/hushicho.html

志田義広は義仲と共に芋洗を守ったものゝ
敗戦後は各地を転々として機を狙い、

一方伊賀一円でも平家の都落ち後も山田郡平田、服部や阿拝郡柘植、
壬生野、名張郡黒田庄にまで多数の平氏一族が情勢を待って
息を秘そめていた。

 その棟梁は平田入道家継と伊勢関を根拠とする出羽守信兼で、かね
てより彼らは池ノ大納言頼盛が一族と行を共にせず都に残って頼朝に
招かれ、三十余カ所の本領を安緒された上に馬10頭に砂金や絹等を貰
って帰ったのを知り大いに憤慨して途上で襲わんとした。

 その頃、志田義広は醍醐寺の山伏達にかくまわれていたがそれを知
ると彼らに頼って伊賀に入り山田郡千度の金峰神社に潜伏し時節を待
っていたらしい。

 然しそれを知った元は平家の郎党であった服部平六正綱が何とか手
柄をたてゝ鎌倉殿の目に止まり没収された父祖伝来の本領を安緒され
んものと、隙を狙い、この春頼朝から伊賀守護に任じられた大内惟
義、伊勢守護山内首藤らの援兵を受け二百余騎で千度山を襲ったので
ある。

 不意を突かれた義広は六十の老躯で必死に戦い寄手多数を倒したも
のゝ力尽きて社に火をかけ自刃した。夏と云うのに冬小袖に大口袴を
はき黄金造りの太刀で美事に切腹していたと云われ、さすが為義の子
らしい最後であった。

 それを知った平田家継らは平六の裏切りに大いに怒り六月十八日、
大内惟義の守護館を襲い留守を守る郎党八十余人を討取って高らかに
凱歌を奏すると壬生野平田城で軍議を開いた。

 伊賀一円を征したものゝ今後どうするかで協議の末、進ノ次郎能盛
の意見を容れ「伊賀で戦っては百姓達の難儀、むしろ近江に進み鈴鹿
山を背後にして戦い、敵弱くば都を望み戦い利なくば山に籠りて長期
戦を展開せん。」と決め三百余騎を率いて柘植の与野から甲賀に進ん
だ。

 それを知った近江守護の佐々木秀義は宇治川先陣で武名を挙げた子
の高綱らが範頼軍に従って西国に出陣して行った後だけに、急ぎ国中
の兵をかき集め老躯に鞭打って大原ノ庄油日明神の下野に陣をしき川
をへだてゝ対戦した。

 黒田庄の下司職紀七景時を先峰とする平家勢はこの一戦に一族の運
命をかけて必死の奮戦を見せ、その勢に源氏方は浮足立ち敗色に覆わ
れるのを見た総大将の秀義は
「平家はもはや運つきて西海に落ちたり、その僅かな残党共でどうし
て武運にめぐまれたる源氏を倒せよう、たゞひたすらに追い崩せ!」
と先陣に立った。

 それを見た進ノ次郎能盛は得意の強弓を引絞って狙い射ち、たまら
ず落馬する処を追いかけて首を取った。けれども源氏の郎党達は主の
仇をこのまゝ見逃しては武夫の面目が立たぬと反って奮い立ち、その
凄しい反撃に小勢の平家は次第に押され始める。

 何と云っても伊賀平氏の主力は平内左衛門家長、筑前守貞能、弥兵
衛宗清らと共に西海に在り、伊賀に残っていたのは老若の兵が多かっ
た為にひとたび崩れ立つと案外にもろく、総大将家継以下主だった部
将八十余人が次々に討死して総崩れとなり鈴鹿山中に散り散りとなっ
てしまった。

 乱軍の中で辛うじて落ち延び洛中に潜伏して再挙を計っていた関東
兼の子兼ら三人は義経配下の検非違使庁の兵に捕えられて無念の最後
をとげる。

 伊勢の関城に落ちた信兼は頼みとする息子達が悉く先立ったのを知
るやその死場所を伊勢滝野城に求めて力戦し、伊勢守護から援軍を求
められた義経は元暦元念八月半ば精兵数百を率いて伊勢に向ったが、
その軍中には恐らく弁慶や伊勢ノ三郎ら名ある郎党もすべて勇姿を見
せていたに違いない。

 滝野城−現在の飯南郡粥見町有馬野−に籠った平家勢は今日が最後
の戦いと覚悟を決め、折から猛暑の最中だけに鎧を捨てゝ素裸となり
必死の坑戦を続けたが衆寡敵せず、主将信兼以下その大半が討死して
平家相伝の郎党としての名をかざった。

 口さがない都の京雀は義経の勝利をたゝえ「三日平氏の乱」と呼ん
で笑ったが、そんな中で再挙を期した八人の勇士が、必死で滝野城か
ら伊賀六箇山領下に逃れて来ると名張郡滝野原に潜んで血盟を誓い合
った。

 こゝは亡き池ノ禅尼の所領を子の頼盛が相続したもので鎌倉御家人
の手の及ばぬ土地柄だったのも彼らの潜むには好適だった。池ノ禅尼
が藤原宗子と云ったのにちなみ八人それぞれ藤の字の入った姓に変え
て山野を開墾し、水銀等の鉱物を掘って食いつなぎながら武技を練
り、同志を求めて再挙の旗挙げの一日も早からん事を神仏に祈願した
らしい。

 山中にはさゝやかな尼堂が建てられて池ノ禅尼の墓趾も残されてい
る、歴史上では池の禅尼が何時何処で没したかは明らかでないが、忠
盛の後妻だけに彼が久寿元年(一一五四)58才で没した時50才だとす
ると頼朝の挙兵時は76才で其頃こゝに陰居していて没したとしても不
思議ではない。

 滝野原に潜んだ彼らの苦斗を知らず「城は落ち、信兼以下悉く討
死」の悲報が屋島の平家本陣に入ったのは元暦元年の秋で一の谷で大
敗後、何とかして再建をと懸命に九州、四国で奮戦していた知盛の腹
心平内左衛門家長以下一騎当千の伊賀兵士団はそれを知ってみな鎧の
袖を絞ったに違いない。

 「歴史は小説よりも奇なり」との言葉通り、平家物語の説く処はあ
くまでフィクションでしかなく、平治の乱以来二十余年、天下に君臨
した清盛の厳しい遺言を胸に刻んだ平家一門の勇将や「天下の三兵
衛」と称された郎党らがそんなにもろくも壊滅する訳はない。

 「このまゝでは如何にも無念じゃ」と腰抜けの宗盛父子を除く知盛
らは壇ノ浦から兵船に乗じて秘そかに九州、四国、熊野の各地へ再挙
を誓って散っていった。

 その軍師役を演じたのは清盛の義弟平時忠で先の皇后徳子と三種の
神器の中でも「伝国の玉爾」と云われる曲玉を義経に渡す代りに
 「帝以下の平家一族の生存権を認めさせた」らしいのは現に時忠が
能登の地で富強、長寿を全うしている事でも判る。

 そして平家戦力の中心となったものが、伊賀忍法の祖と云われる平
内左衛門家長以下の伊賀軍団であったろう。

 現在、全国に安徳天皇の御陵と伝えられるものが、知盛の子孫とい
う対馬や五島福江の領主宋一族の墓碑に囲まれている他にも、四国祖
父谷、熊野の平治川らに伝承されるし、平家落人の里と云われる地は
九州椎葉、伊勢、伊賀、志摩、十津川の各地に数限りもない。

家長らの船団は不幸にして嵐に襲われ、山陰沿岸に漂着したも
のゝ、元平家領の但馬を中心に各地に據点を設けて再挙の機会を待
ち、彼は惜しくも世を去るが、今も兵庫県香住町には彼を祭神と仰ぐ
平内神社が信仰を集めて居りその子孫と云われる人々も健在であるよ
うだ。

 現に「平家物語」でさえ「三日平氏の乱」と嘆きながらも壇ノ浦後
二十五年をへた建仁三年(一二〇三)二代将軍頼家の世に、恩師文覚
が世を去るや「待っていた」と云う風に出家していた維盛の嫡男六代
が斬られたのを知った伊賀、伊勢の平家勢は伊勢守護の山内首藤を襲
って忽ちにして両国を征圧した事件を語る。

 驚いた鎌倉幕府は平賀朝雅に追討させてはいるが、吾妻鏡は尚も
「伊賀伊勢らに平氏の残党多く重ねて討つべきなり」と記している。
 北伊賀に性を服部と改め、二本矢の紋所に変えた一門の将士が盛ん
に武を練り始めているのを始め、黒田、名張の南伊には大江一族が頭
角を現わす。

 南北朝時代に入ると河内の楠木と協力して活躍した観世一門を始め
次々に精強な伊賀忍者軍団が誕生する。

 そして戦国乱世の中にも独り伊賀だけは「五百年不乱にして神仏崇
拝の霊地」を誇っている史実を見ても正に「不死鳥」と賛えても過言
ではあるまい。
[9]服部 明子さんからのコメント(2002年04月08日 13時58分09秒 ) パスワード
  

あまりにもショックで・・・
頭の中が整理できません。

(7)と(8)はその内削除します。
今は私のメモ代わりに載せておきます。

今日は日経新聞の「平家」でも家継の名が出てました。
家貞の次男として鹿ケ谷の謀議の処分をどうするか、というエピソードで。

この新聞を手に入れた経緯もちょっとオカルトかかってて
私の前世の父が家継だったようにいよいよ確信してしまいました。
伊賀に残っていたのは老若だけ、というところで
まだ20歳ぐらいの若武者の顔が浮かんだのですけど

私のイメージの家継は非常に若く実際の家継はかなりの老齢だから
親子か祖父と孫の関係だったような。

これも頭が整理出来てから削除します。
[11]服部 明子さんからのコメント(2002年04月08日 14時54分42秒 ) パスワード
  

http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3299/tsutsui1/chap2/igaheishi.html
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3299/tsutsui1/chap2/hushicho.html

是非是非上記URLにて「伊賀平氏」の興亡を参照なさって下さい。


上記URLの方にご連絡したいと思いましたが
どうやってご挨拶するのか
いろいろやって見ましたが見つかりませんでした。

とても感謝しております。
[12]いつも通りさんからのコメント(2002年04月08日 22時22分41秒 ) パスワード
  

> 上記URLの方にご連絡したいと思いましたが
こちらでしょう。 ao3299@geocities.co.jp
igarashiさんなんでしょうか?現在存在するかどーかはわかりません。
そしてこちらが全文
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3299/gg.html
編集後記があります。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3299/others.html
[13]たまねこさんからのコメント(2002年04月09日 01時22分53秒 ) パスワード
  

服部さんも思い出しましたか?
それにしても、上記のURLは核心をついているというか、痒いところに手が届く?ことが書かれていますね。

どのような方が書かれたのでしょう?平家の好きな方なのでしょうか?
[15]近江の佐々木一族の平田さんからのコメント(2011年02月14日 13時38分21秒 ) パスワード

近江の佐々木一族の平田です・
先祖の事について調べています・
家紋は藤の家紋と
違い山型の家紋です・
戦後時代に足利とつながりがあったと考えています・
その関係で細川に士官したり、明智光秀との関係がありました・
本能寺の変では明智光秀の加勢をしたと言う説があります・
九州には佐々木一族が
移り住んだ事実があるそうです・
鹿児島の平田宗保も
同じ近江々木一族と考えられてます・
情報交換をお願いします・
[16]ちょっと参加さんからのコメント(2011年05月14日 22時22分04秒 ) パスワード
URL=http://hattori.tosalog.com

土佐の平田氏についてお伺いします。
確か平重盛(小松内府とも呼ばれる)の家人の
平田俊遠(兄)・平田経遠(弟)兄弟が
鹿ヶ谷事件関係で伊勢国から土佐に移住して
活動するようになったらしいです。
もちろん平重盛の指令です。
平田というのは現地の高知県宿毛市にもありますが
移住前の伊勢国の三重県辺りの地名の平田とも考えられます。
兄の俊遠は挙兵した源頼朝の弟の希義を1181年に
蓮池家綱(「あ~う~」の大平正芳首相の先祖)と共に
殺害し、希義は希義で弟の経遠の娘の元に通い
子供の八郎希望をもうける為の子作りをするというわけです。
というわけで、平田家というのは清盛流の平家と
どの辺りで分家になったのかわかりませんが、詳しくわかる現地の
三重県の方はいませんか。
ちなみに弟の経遠の末子は大高坂五郎経興と改名し
大高坂城(今の高知城のある山城)に住むようになりました。
[17]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月15日 01時41分32秒 ) パスワード

ちょっと参加さん

初めまして。


全然分からないのですが
1番良いのは高知県教育委員会や高知市教育委員会編纂の史料をいただくことと思います。

そこに必ず平家時代や南北朝時代の御先祖さまのことが書かれているはずです。
断言!


もし東京近辺にお住まいでしたら国会図書館というテがありますね。


もし教育委員会の敷居が高いなら高知県立図書館で読めると思います。


高知の古くからの本屋さんなら置いているでしょうし
この本屋さんから地元の歴史家を紹介して頂いたら良いし。

地元の歴史研究家の方達もたくさん歴史史料を編纂なさっていらっしゃいますしね。


ちょっと参加さんにはかなり歴史が近いと思いますよ。
レスに書かれた情報だけで手がかりが成立していますもの。


平田という地名は日本人なら憧れの田んぼとして日本中に名付けていると思います。

でも、そちらは伊勢伊賀の平家がらみの、平田家継の、関係者のようですね。
蓮池さんというのは拉致事件でもお名前が出てますが
旧越前あたりに多いようですね。ここも平家がらみですし。



南北朝時代は南朝方だったし。

延元3年(1338年):後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎える。
とありますから南北朝時代の歴史も県や市の教育委員会に史料がありますよ。
[18]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月15日 02時13分33秒 ) パスワード

7000傑さんの系図を参考になさってくださいね。


以下はワタクシのアンチョコから写してちょっと考えてみます。


桓武天皇
  略
平貞盛
  略
維衡(伊勢国へ)
子の正度
その男子5名から平家一族が発展。



駿河守維盛   駿河守貞季  下総守秀(季?)衡   左衛門じょう貞衡   出羽守正衡


この5人の男子から平家一族は栄えに栄えました。  


  ***平家一門というと九州の原田家とか岡山の瀬尾家とか三重の伊藤家とかの豪族も含むから御注意を***



清盛一家は   出羽守の正衡 →    正盛 → 忠盛 → 清盛の流れです。


平田一家は   秀(季)衡  →    盛光 → 貞光 → 家房  → 家貞と流れて



家貞は清盛のお祖父さまの代から仕えてて
嫡男貞能が清盛家の家老となり
その他の子供達が伊賀の服部とか平田とかの名字を名乗りました。

以下は<2>を読んでください。



平田俊遠(兄)・平田経遠(弟)兄弟は本姓平・俗姓平田家継の子供達か関係者でしょう。
実子かも知れないし、養子かも知れないし、猶子かも知れないし。

「遠」という通字を使っていることから関係者がハッキリするかも。

俊も経も平家に関係者がいるから平家の一族と分かりますが「遠」という字は誰が使っていたのか分かるとなにか人物が浮かんで来るのでは、と思います。

誰だろね?


ま、土佐に下向ということで
伊賀伊勢から遠くなったということで「遠」という漢字を使ったのかも知れないですしね。


とにかく高知の歴史史料が手に入ると良いですね。
[19]ちょっと参加さんからのコメント(2011年05月15日 04時14分36秒 ) パスワード
URL=http://hattori.tosalog.com

空の青海のあをさん、どうもありがとう。
高知県には住んでいる事は住んでいます。
東京に住んだのは浪人の1年間だけです。

蓮池家綱というのは、静岡県辺りに住んでいた
近藤某という藤原秀郷の流れを汲む武士が
高知県の土佐市蓮池(蓮池城という城もある)に平安時代末期に
平重盛の家人になって移住するにあたり
蓮池と改名したらしいです。
戦国時代に長宗我部元親が四国統一する過程で
隣の香川県に逃亡しています。
大平正芳元首相の先祖です。

ちなみに源希義の育て親も鎌田正清で藤原秀郷流の
首藤氏でなかったでしょうか。
蓮池とは近い血筋でしょう。
鎌田正清は、尾張の知多半島で
源義朝と共に殺害されています。
義経を鞍馬山に探しに行ったのは子供の鎌田正近ですね。

平田兄弟の土佐への移住後の伊賀では1203年に
三日平氏の乱が起こり山内首藤経俊が守護職か
何かで襲撃されています。
首藤山内氏も藤原秀郷流ですが
江戸時代に子孫の山内一豊が藩主になって
高知城に入城するわけです。
これも何かの縁です。

平田俊遠・経遠兄弟の伊勢国より土佐に移住後に
壇ノ浦の合戦が起こり安徳天皇と行動を共にした
平家が四国に大勢で移動して来て徳島県の祖谷とか
高知県の物部村とか越知町に御陵参考地みたいなのが
いっぱいできたわけです。
[20]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月15日 08時08分17秒 ) パスワード

>蓮池家綱というのは、
>静岡県辺りに住んでいた
>近藤某という藤原秀郷の流れを汲む武士が
>高知県の土佐市蓮池(蓮池城という城もある)に平安時代末期に
>平重盛の家人になって移住するにあたり
>蓮池と改名したらしいです。

では蓮池権守家綱の「家」の字はひょっとすると平家貞から貰ったかも知れないですね。

家貞は清盛の家の代々の家老ですから。
[21]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月15日 08時15分30秒 ) パスワード

で、あれ?と思ったのですが
家貞の娘の子かも知れないですしね。

それで平田兄弟と蓮池は従兄弟関係だったかも知れないし。
重盛の家人だった、というなら当然、この可能性がありますよね。


で、蓮池家綱の子孫が新潟や福井の方に移ったのかも知れないし。
      (蓮池さんは新潟でしたっけ?)
高知にいられなくなって。


ん〜
なんか平家のオカルト・パワーが来てる感じ。
[22]日本の苗字七千傑さんからのコメント(2011年05月15日 11時35分55秒 ) パスワード
URL=http://www.myj7000.jp-biz.net/index.htm

>蓮池家綱の子孫が新潟や福井の方に移ったのかも知れないし。
 
蓮池氏周辺については、宝池山光蓮寺住職家の蓮池系図がヒントになります。
系図によれば宇多源氏佐々木扶義の後裔で
六代盛綱の項に、
源頼朝に従い戦功あり、越後国守護。
七代成綱の項に、
木村兵庫頭成頼養子。近江国蒲生庄、後伊香郡谷口村に住す。
小松内大臣平重盛に仕う。
 
※蓮池姓を寺号に埋め込むなんてニクイね。
 
木村氏は下野紀氏から藤原氏秀郷流に代わり通字は綱を用いており、土佐国高岡郡蓮池邑の小松内府家人蓮池家綱も同族ということが伺える。
 
近江輿地志略によれば、
木村行定の母は紀下野守盛宗の女なるを以て、祖母の姓を称し木村権守紀道政といふ。
一時平家に諂諛し、寿永以後に、又源家に属し、西国討手の人数にあり、通盛を打取りし木村源五重章、同源三成綱、同三郎俊綱、みな此の木村が一族なり。
 
近江と下野は藤原秀郷で、近江と土佐はヤス(野洲と夜須)で繋がっている。
清和源氏木村氏は、はじめ服部氏、後に栗津、更に外家の号を冒して木村に改める。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2011年05月16日 12時53分37秒 ) パスワード

>一時平家に諂諛し

すっごい表現ですね。
憎しみが篭ってますね。
ま、頼朝の弟(それも同母弟)を殺したからでしょうけど。

ホントは一寸刻みの刑にしてやりたい、というのが篭っているような。


>清和源氏木村氏は、はじめ服部氏、後に栗津、更に外家の号を冒して木村に改める。


木村重成はこの人の子孫なんでしょうかねえ。
[25]ちょっと参加さんからのコメント(2011年05月25日 20時36分47秒 ) パスワード
URL=http://hattori.tosalog.com

http://www6.ocn.ne.jp/~arakida/index.html
こんな記事がありました。
三面記事なのでしょうか。
いけませんな。
[35]相良四郎さんからのコメント(2023年03月18日 18時15分32秒 ) パスワード


此方についてももういいのではと思っています。
ご迷惑をお掛け致しました。
歴史は多岐に渡るだけでなく必然もあるようです。

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