くりらじ 近藤栄次朗 新風会(アーツ)
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 投稿番号:100236 投稿日:2002年03月01日 11時44分05秒  パスワード
 お名前:服部 明子
太宰府天満宮と平家:鐘ヶ江氏・垪和氏

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

http://www.dazaifutenmangu.or.jp/
092-922-8225

菅原道真公御神忌1100年だそうです。
903年に亡くなったので。

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年03月01日 11時47分55秒 ) パスワード
  

日本経済新聞2002年2月25日夕刊によると
この日が菅原道真公1100年忌だったそうです。

この日のPR広告によると

「太宰府天満宮の宝物殿に平 重盛奉納の太刀が飾られている」とあります。
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年03月01日 11時54分16秒 ) パスワード
  

このPR記事で
平家物語に「安楽寺を目指して落ちにけり」というのが
天満宮と平家の関わりを示している
とあります。

そうなの?
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年03月01日 12時00分19秒 ) パスワード
  

平家との関わりが出来たのは重盛の祖父・忠盛の代で、
当時(平安末期)荘園の少なかった天満宮は有明海沿いの荘園を通して
海外貿易を行っていたそうで

それを知った忠盛が天満宮に近づき
清盛も太宰?大宰?大弐になって太宰府を重要拠点とし
天満宮と平家の関わりは平家が滅びる迄蜜月が続いた

とあります。
[4]さんからのコメント(2002年03月01日 12時02分51秒 ) パスワード
  

安楽寺は、大宰府天満宮の中にあったお寺です。
明治時代の神仏分離令によって、安楽寺は無くなりました。

つまり、ここでは安楽寺=大宰府天満宮と考えていいと思います。
[5]服部 明子さんからのコメント(2002年03月01日 12時06分48秒 ) パスワード
  

天満宮は平家の没落で鎌倉政権から冷遇されたが

鎌倉時代末期の蒙古襲来で鎌倉幕府が衰退し
大宰府政庁も同じく終焉を迎えることになり

主な駐屯地が太宰府から海の近くに移り
博多が中心地となった。

元寇の役で諸豪族に土地が分け与えられたが
あまりにも小さく
また領地にするには遠すぎる
ということで価値が無く

ために、いっそ神社に奉納しようということで天満宮の荘園が増え
南北朝の頃には九州最大の荘園領主になった
そうです。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年03月01日 12時11分37秒 ) パスワード
  

戦国武将で天神さまを信仰したのが

斎藤道三
小早川隆景←←←天満宮本殿再建
秀吉←←←←←←500石寄進
加賀の前田家←←菅原氏出身

だそうです。
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年03月01日 12時18分06秒 ) パスワード
  

小倉に左遷された鴎外は関門海峡を渡って初めて道真公の心境に触れ
歴史小説に目覚めたと言われています。

そうして書かれた最初の時代小説が道真公左遷をモチーフとした「山椒大夫」だそうです。



このPR紙には他にも面白いお話が出ています。
[8]川口 信さんからのコメント(2002年03月01日 17時13分42秒 ) パスワード
  

[「平家物語」巻第八に「大宰府落」という項があります。これと関係しているのではないでしょうか。

 「山椒大夫」の元話というのが古川古松軒著「東遊雑記」の文中にあります。
岩木山は弘前より麓まで二里半八町、岩木山に権現と称す小社あり。安寿姫、津志王丸を祭る。丹後の山荘大夫に売られて・・・このゆえ丹後の人、津軽の地にいれば災いあり、一人も來ず。

 これは川口久助恒久が東北、松前の巡検使となって行った時に随行した古川古松軒が書いたもので、川口家の家臣に丹後の出身がいたため、出発にあたり、お供の一行から丹後の人を除いたと、妄説のことなれど大勢に手なしと、是非もなきことなりとあります。これも面白い話でしょう。

 

[9]服部 明子さんからのコメント(2002年03月02日 00時00分14秒 ) パスワード
  

隈さん、川口さん、貴重な情報をありがとうございます。
ぺこり
[10]皇竹さんからのコメント(2002年03月04日 17時36分15秒 ) パスワード
  

太宰府が出てきましたね
平家の太宰府軍事政権でのこと書きます
[11]皇竹さんからのコメント(2002年03月04日 17時41分23秒 ) パスワード
  

清盛は太宰府で平氏による軍事政権・九州独立国家構想を
夢見ていたのではないだろうか。
このことは宇佐家伝承・「古伝が語る古代史」の中で宇佐公康さん、
「源平の盛衰」で上横手雅敬さんも云っておられる。
太宰府(原田種直)、安芸の厳島神社(佐伯景弘)、
宇佐神宮(宇佐公通)の平氏枢軸である。
(宇佐公通の妻は清盛の娘浄子、その息子公仲は安徳天皇の身代わりに立っている。)

盛子の死後その領地を院に没収されるや、清盛は法皇を幽閉し、
藤原抵抗勢力を排除(治承のク−デタ−)、新人事を断行する。
当初清盛は都で平家軍事政権を構想していたかも知れないが、
福原遷都が失敗に帰してもう諦めざるを得なかった。
500年も続いた頑強な藤原官僚システムは腐りきっている。
もうこんな連中とはやってられない。
宋貿易をもっと拡大し、九州で自分の夢をかなえたい。
その時清盛の頭に浮かんだのは平泉で独自の国家を形成している
奥州藤原氏のことである。
幸い宋貿易で奥州の金を輸出していて、
奥州藤原氏とは藤原長成を通じて密接な関係が出来ている。
いうまでもなく清盛は常磐御前を間に長成とは義兄弟(不適切?)である。
又長成は従兄弟にあたる藤原基成の娘が藤原秀衡の妻になっている。
従がって清盛には充分平泉の情報が入っていた筈である。
「よし、わいもやったるぜ」と思っても不思議はない。

しかし全国的にも反平家のム−ドはたかまって来ていて、
九州の情勢も逼迫していた。
緒方惟栄が暴れまわって、目代を襲撃し宇佐神宮を焼き討ちした。
宇佐から救援要請があったが、清盛は動けなかった。
理由は治承のク−デタ−でそれどころではなかったのだ。
結果的にはこれが都落ち後の平家に大きなダメ−ジを与えることになった。

1181年2月4日、夢半ばにして清盛没す。

都落ちか篭城か、二派に分かれて議論されたのであろうが、
その日の内に都落ちを決めたのは下地として
この太宰府独立政権構想があったからだ。
(先ず大宰府に安徳天皇の行在所をつくったことでもうなづける)
平家は一門の屋敷20数ケ所、民家5万軒を焼いて都を離脱した。
都にはもう戻らぬという相当の覚悟の都落ちである。

太宰府独立政権構想には官僚の大物平時忠が大きく関わっていたのでは?と思う。
平家物語「文之沙汰」に出てくる義経に押収された機密の文書、
鎌倉の頼朝に見られては一門の生存に係わる丸秘文書とは?。
その文書にはこの太宰府独立政権構想が書かれていたのではないだろうか。

以上私の独断と偏見で勝手に推測してみました。
間違いのご指摘、その他ご意見大歓迎。
いろいろ情報の書き込み期待してます。
[12]服部 明子さんからのコメント(2002年03月04日 23時01分16秒 ) パスワード
  

なるほど、それで都落ちした平家一行は九州を目指したのですか。
太宰府とはここにスレッドを立てた以上に平家にとっては意味があったのでしょうね。

頼朝が京都から離れて鎌倉に幕府を置いたより前に
清盛は京都から離れなくては、と思っていたのでしょうね。


ありがとうございました。
[13]源三さんからのコメント(2002年10月26日 13時12分38秒 ) パスワード
  

服部さん、隈さんはじめ皆さんこんにちは、僕も中世から戦国期の太宰府(安楽寺)や宇佐神宮
の歴史経過に興味があります。平家や源氏政権、室町、戦国期のそれぞれの中央政権との関係や
九州の武家などとの関係にも。やはり時代か下るうちに次第に武士化してしていったようですね。
領地もかなり広大にもつようになり、特に福岡南部の筑後地方の三瀦あたりでは子孫が多くすみ
武士化して割拠していたようです。菅原道真の子孫は。小鳥居氏はじめ、菅氏、酒見氏、安武氏
などあげれば枚挙にいとまがないくらいです。当然のこと周辺の有力豪族との間に婚姻関係を有する
こととなり、龍造寺氏など多くの大名、小名に菅原道真の血を伝えた。隈氏などにも入ってるかも
隈氏も高良山社家として有名ですから。いろんな武家と婚姻関係をもったことでしょう。戦国末期
から江戸期には筑後の大友一門・堤家の庶家・大庄屋・大石家から高良山の隈氏に嫁が嫁いで
いますし。堤家は元寇に際して九州豊後に下向してきた鎌倉御家人で鎌倉方武士の総大将として
同じ鎮西奉行の少弐氏と共に勇猛に戦った大友能直の孫で三代目惣領・大友頼泰を先祖にいただく家系を有しており、そいいう意味で隈氏も大友氏の血が流れていることに歴史のロマンを感じます。

☆大宰府天満宮はもと安楽寺といい、別当が置かれて、⇒菅原道具の子孫が代々これを継承した
。中世になって天満宮が営まれ、社家としての大鳥居氏、小鳥居氏、池之坊氏が生まれ、これまた
菅原姓である。安楽寺別当については、「尊卑し分脈」「群書類従」「菅原氏系図」に少なからずみえ「更級日記」の作者女流歌人 菅原孝標女(むすめ)の兄弟・基円もまた安楽寺別当である。西高辻信貞氏蔵本「西高辻家系図」(片山直義・恵良宏共編「筑後永田荘、広川荘史料」所収による)によると■菅原道具-高規-雅規-資忠-孝標-定義-(唐橋)在良-善弘-●善昇(以上「尊卑分脈」同じ)とあって善昇に注して「筑前国太宰府安楽寺天満宮別当に補す。子孫その職を世襲して※筑後国水田庄に住む。祝髪して名を●大鳥居信貞と改むるなり」とあり、その長子・信証(初め信昇という)-信寛-★信実 以下歴代の系図となっている。そして信証の弟・信実★を「◆小鳥居祖」、その弟・浦次郎を「■浦之坊祖」と記している。「天満宮安楽寺草創日記」による安楽寺別当次第を見ると、●善昇以後の別当の名が右の「西高辻家系図」には全くないから別当は世襲職ではなく社務を●大鳥居氏が世襲したのであることがわかる。⇒戦国時代には小鳥居氏と共に武士♪としても活動している。なお大鳥居氏は明治になって西高辻家を改めたのである。

途中の(唐橋)在良の兄・(高辻)是綱から安武氏が出てるんですね。
そして資忠の弟・薫忠-持賢-永頼-知善から美作の大族の菅家党が派生した。
→★★さて龍造寺康家の妻は太宰府の●小鳥居信元の娘で七人の子女がありました。
長子・家弘(与賀龍造寺祖)、二子は内田家昌の室、三子は家和(家員、村中龍造寺祖)、
四子は澄覚法印、五子は大炊助、六子が龍造寺中興の祖の家兼(剛忠公、★水ヶ江龍造寺祖)
家純、家門、周家の父。ということは佐賀の龍造寺の血を受けた人たちの大半は■菅原道具公の血を受け継いだ子孫達なのですね。何か嬉しいな、僕達が天神様、菅原道具の子孫なんてなんかわくわくします。皆さんはわくわくしませんか、多くの佐賀や福岡人の中に天神様の血が脈々と受け継がれているのですから。のちの龍造寺家兼・その子・家門(堤貞元妻の父)孫の隆信や鍋島直茂(母が龍造寺家出身)の活躍の非凡さは何か納得
です。

佐賀の牛島監物は真俊を名乗り祖先は滝口播磨守安綱の子・小太郎教正で筑後の人。橘・牛島氏とは別系統。詳しくは又。綱が付いてるから高辻流かな。教正は近衛天皇の仁平元年(1151)菅原道具の末孫と伝えられ肥前牛島に来住して牛島氏を名乗る。今の佐賀の牛島町に来たとき領地は養父郡山浦郷古野と巨勢庄牛島村にあり、牛島には祖神の牛島天神をまつり長徳寺を建て牛島氏の鎮護とした。
佐賀の江副新八郎信英の祖先は菅原道具で江副右近将監茂遠のとき蒙古合戦に出陣して、正応二年(1289)新庄郷内に十一町の加恩を授かる家柄である。のち一族は蛎久天満宮の神職が出た。この江副氏の通字の茂だから道具の長男・高規の弟・淳茂か兼茂の系統かな。調べねば。

佐賀の城下町の建設に尽力した右近刑部(おこぎょうぶ)菅原道具の子孫で、道具から六代の良政が北野天満宮(総本社)の神官を勤め右近を姓にした。その子・良清の時に姓を右近に改める。その嫡子・良遠が天永二年(1111)民部権大輔に任じられ肥前国川副庄土師の庄に下向して同地に土師天満を伝える。後に鍋島氏に仕え、子孫は蛎久天満宮の社職にもなる。

石動氏も菅原姓で系図には阿波守宇庭の子孫・左馬允成賢から始まる。肥前石動村は神崎郡東背振村石動(いしない)村を流れる石動川(田手川)の東岸に菅原道具をまつる天満宮が鎮座して、この石動村は太宰府の宝塔院に、勅旨で寄進された荘地。宝塔院は菅原道具を葬った安楽寺の塔頭の一寺である。寺領は約四十町、荘官から地頭に土着した石動氏の本拠地。
梅野氏も菅原姓。
大隈氏はだいたい九州に多い苗字であるが筑後、豊前には清和源氏・多田満仲五世の孫・大隈左兵衛孝弘を祖としその三世の孫・度定のころ筑後に移って代々三瀦郡大隈により、江戸の初め頼康のころ豊前宇佐郡に移った名族大隈氏の末がある。建武のころの三郎左衛門尉度実は足利尊氏の召しに応じて軍功があったらしい。
早稲田大学を創立した大隈重信の祖の大隈氏は肥後の豪族笠氏の系図によればその先は豊後に住んだ清原氏の末で、舎人親王から数えて二十二世の孫・采女正・親道は、実は★菅原道具十一世の孫・相模守道賢の実子で、母の懐胎中に、父の道賢が北国で討死にしたため、信濃守・清原道広が養子として家を継がせた。笠氏は親道四世の孫・尾張守惟光が、、天治元年(1124)六月祇園祭礼の勅使となった時、順徳天皇から装束と笠を頂いたため以来「衣笠」を家の号とし、更に「笠」の一字に改めたという。この系図中、右の道広の祖・道連の弟に※大隈太郎善春★が見える。豊後大隈氏(筑後大隈氏も同じ)がその家系を清原氏あるいは菅原氏と伝えるのは、上の事情によるものであろう。いずれにしても大江家と並び儒家として朝廷に仕えた名誉の家系で総理よりもむしろ早稲田の学祖にふさわしい。

[14]服部 明子さんからのコメント(2002年10月26日 14時07分54秒 ) パスワード
  

おやおや源三どの
お久し振りですね。

ネット出来るようになりましたか?

どんどん新しいスレッドを立てて行って下さいね。
[15]嘉村孝さんからのコメント(2003年01月09日 20時45分57秒 ) パスワード
  

 天満宮宝物殿で重盛の刀拝見してきました。安徳天皇を守った平家の家来、太宰の少弐・原田一族と天満宮との関係は極めて深いですしね。

 去年、天満宮にお坊さんがお経を上げられたそうですが、神仏分離以前の姿を見てみたいものです。
 
[16]服部 明子さんからのコメント(2003年01月10日 01時23分09秒 ) パスワード
  

>天満宮宝物殿で重盛の刀拝見してきました。

いいですねえ。
(羨)
重盛奉納の刀でしょうか?
保元の乱で使用した刀だったら尚良しですね。
[17]三浦義幸さんからのコメント(2003年01月10日 05時45分23秒 ) パスワード
  

平家の日宋貿易の独占が相当の、天皇家・公家・神社(寺)系・地方豪族の反発があったのでは? この辺の、大陸との交易をメスを入れると、もっと、現代的に、
解釈出来るのでは。 米より、銅貨へ、移行時期では。
日明の貿易を握った大内氏。やはり、大宰府を支配化に。
銀貨(大内)・金貨(徳川の崩壊)

独占的収益は、平家の勢力拡張ですから。会社の寿命が20年サイクルと良く言われますが、3代目が良く会社を潰すパターンに現在に通ずる様ですね。
[18]嘉村孝さんからのコメント(2003年01月10日 23時15分33秒 ) パスワード
  

 ちょうど今だけ宝物殿で、刀の展覧会中です。詳しい説明を見てこなかったのが悔やまれます。

 よく、山口は蚕。九州は蚕の葉っぱといわれますね。正に大内氏はその葉を食べようと博多を少弐、大友と争ったわけで、私は博多の歴史を知らずして日本の歴史は語れないと思っています。
 平家はそれで表と裏、つまり博多と佐賀に拠点を設けたわけで、太宰府の原田、遠賀川の山鹿秀遠はその家来の代表格。
 そういえば、大内の博多代官・仁保氏は山口の仁保からでて、本来三浦氏。山口県立博物館に相当量の三浦家文書があるそうです。
 その元は、横浜の平子(たいらこ)氏という三浦氏なので、横浜市立博物館にそのコーナーがあります。
 詳しくはまた。
[19]yさんからのコメント(2003年12月14日 19時43分51秒 ) パスワード
  

こんにちは。はじめまして。
母方のご先祖様一族が、石川県の山奥に住んでいたということです。
家紋は丸に梅鉢で、前田加賀藩主のご落胤を預かっていたということです。

前田家との関係については不明なのですが、言い伝えは
「名のあるものがおった。」
「平家の落人」
「他の血を混ぜないように」
など。
話し言葉は他の周辺地域の言葉とは違うゆっくりとしたおみやことばだったということです。

前田家との関係など、わからないでしょうか…。
[20]川口 信さんからのコメント(2003年12月14日 20時29分41秒 ) パスワード
  

他スレ「抱茗荷の服部家」の方に書き込みましたのがもしかして関係があるかとおもいますが。(前田さんのお尋ねに対してのものですが。)

>だが、気になる前田家が能登国鳳至郡六郷木村(門前町)の草分けに前田氏があ
>る。平安期の寿永年間、倶利伽羅峠の戦いに敗れた平氏の残党といわれ、前田助左>衛門らが村の草分けと伝えるとあります。(姓氏家系大辞典)
[21]井舞さんからのコメント(2003年12月14日 21時21分02秒 ) パスワード
  

長門本より 「太宰府」に関する場面です。

同十七日、平家筑前国御笠郡太宰府につき給へり、
都はすでに雲のよそにぞなりにける、はるばる来に
けりと思すにも、いとど古郷こそ恋しく思召されけ
れ、

今の伊能はかの大太が五代の孫にて、心猛く
恐ろしき者にて有けるが、院宣を下さるる上は、興に
入て九国二島の武勇の輩をかり催して、数万騎の兵
を引率して、太宰府へ発向しければ、九国の者ども
皆平家を背きて伊能に随ひけり、平家の人々此一両
月は少しおちゐて、今は所をしめ跡を留めて、内裏
をも作り家々をも作りしかば、いかがして源氏をほ
ろぼして都へ帰り上るべき、さまざまのはかりごと
を廻らして、寄合寄合評定しける所に、かかる事を
聞てさこそ浅ましく思されけめ、

春は越路にかへる雁、秋は燕(つばめ)の古郷へかへるを羨み、
夜はなぎさの千鳥と共になき明し、昼は磯辺の波に
袖をぬらし、海人のたくもの夕煙、むせびもあへず、
筑前国太宰府とかやに落着て候しかば、近きは夷ど
も皆まいり、遠きは使を参らせて、いまだ参らず、
[22]さんからのコメント(2003年12月15日 22時37分12秒 ) パスワード
  

川口さん、ありがとうございます。

一族の住んでいた集落は能登ではありませんが、母が調べて集落の名字の付け方が能登の地名に似ているので、能登にいたのではないかと言っていたことがありました。

また「名を変え、隠れ住んでいた。」という言い伝えもあります。

明治以前から名字の持っていたのは、「竹中、辻、大屋、下(霜?)」だそうです。
そのうち3軒は家紋が丸に梅鉢で、1軒は五三の桐だそうです。

石川県には梅紋が少ないと聞きましたが、何軒くらいあるのでしょうか。
また、記録には残っていませんが、加賀藩主のご落胤は何人も預かっていたらしいです。




[23]さんからのコメント(2003年12月16日 20時20分59秒 ) パスワード
  

訂正です。
母に確認したところ「竹中、辻、梨木、坂」だそうです。

一族の集落には抱き茗荷の家紋もあったそうです。

[24]さんからのコメント(2003年12月20日 14時58分41秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年12月20日 15時00分10秒
[25]さんからのコメント(2003年12月20日 15時05分07秒 ) パスワード
  

集落は他の名字もたくさんあり、というか一軒一軒違います。親子、兄弟。他の集落もそうなのでしょうか。
母の持論としては、元々能登に住んでいたが浄土信仰が強く、織田信長から逃れるために隠れていた前田家の一族ではないか、ということです。
風貌や性質的にも前田家や天皇家に似ているような気がします。
[26]川口 信さんからのコメント(2003年12月20日 15時36分13秒 ) パスワード
  

まず石川県で梅鉢紋を使用している家は前田本藩・支藩の前田家等で花芯をちょっとバリエーションを持たせております。また前田姓を使用している、年寄2家(万石以上)、人持10家(最高で7000石、最低で2400石)と思われます。(いずれも前田家出身・一族)

あと氏族は分かりませんが、梅や菅原のつく家などを含め、53家が梅鉢・または丸に梅鉢紋。
 あとは剣梅鉢、星梅鉢、梅の花、丸に向こう梅、捻じ梅、三つ割り梅、雪輪に向こう梅など他県に比べ梅関係が多いみたいです。

 辻、坂、竹中家等は加賀藩士に数多く見出せますが、竹内姓は能登国珠洲郡南方村(珠洲市)に、旧家があるみたいです。何れも(石川県姓氏歴史人物大辞典より)

 
[27]さんからのコメント(2003年12月20日 18時48分47秒 ) パスワード
  

情報をありがとうございました。
「名を変え…」という言い伝えがあるというのでこれらの名字が本当のものなかはっきりわからないのですが、菩提寺に問い合わせて知らせてもらったものらしいです。
また母に確認したところ、寺から知らせてきた名字にはやはり「下(霜)」もあり、ここが五三の桐だそうです。
寺からは、「土着の人々ではないということは言語丁寧で、この地方の言葉ではないことからわかります。合戦のため何処からか来られたと思います。北条…の開基である当寺とは織田信長の時代からのもの云々。」という手紙を頂いているということです。

竹内という姓はありませんが、梨木のことでしょうか。
[28]川口 信さんからのコメント(2003年12月20日 19時54分48秒 ) パスワード
  

 スミマセン、タイプミスでした。竹中家でした。

 梨木家の名前はみいだせませんでした。梅鉢紋を使用している家の名前は、上記本を1月初旬まで図書館で借りてきておりますので全部わかりますが。
 
 それと「坂梨」と言う名字は平家関係で前も登場しておりますが(坂がないという意味で「平(たいら)」)で平家を名乗れなかったのでそう名乗ったと言われております。梨木姓は記載がありませんでしたが。梨子村家がありましたが。
 
 下禰(しもね)という名字は記載があります。やはり能登国珠洲郡巻村(珠洲市)の草分け七軒のうちにありましたが。霜はどう読めばよいのでしょうか。
[29]さんからのコメント(2003年12月20日 22時09分17秒 ) パスワード
  

またありがとうございます。
霜は「しも」なんですが…。

もうひとつ、明治以降(?)はそれらの名字は継いでいないようです。
例えば梨木は西谷となり、坂は大屋となり、竹中は田と中村になり、家紋は丸に梅鉢を継いでいるということですが、なぜだかわかりません。
[30]さんからのコメント(2003年12月20日 23時08分56秒 ) パスワード
  

前田家の御落胤も預かってきているということで、やはり前田家の関係なのかとも思うのですが、わかりません。
前田利家も元は能登に繋がりのある平家出身ではないかと母は言います。
だから能登を与えられたと。
[31]鐘ケ江保俊さんからのコメント(2004年01月31日 15時07分33秒 ) パスワード
  

はじめまして、

源三さんのコメントを興味を持って読ませて頂きました。
そこで、少々お尋ねしたく メールアドレスにメールしました
が残念乍ら届きませんでしたので 若しお差し支え無ければ
誠に申し訳在りませんが 此方にメール頂けませんでしょうか?
勝手ながら 宜しくお願いいたします。

鐘ケ江
[33]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年01月31日 16時01分31秒 ) パスワード
  

鐘ケ江保俊さま

初めまして。
源三どのに呼び掛けのスレッドを立たせて頂きました。
[34]あれちゃんさんからのコメント(2004年02月08日 11時28分41秒 ) パスワード
  

太宰府の梅情報の検索をしていて偶然このサイトに来ました。親からうちの先祖は菅原道真だと教えられて育ちました。美作の粟井姓で家紋は梅鉢、鎌倉時代頃は淡相(あわい)城城主だそうで現在は道真を祀った神社の神主の家系です。鎌倉辺りからの家系図はありますが、道真から鎌倉までが空白で、知りたいとずっと思っていました。ご存知なら是非教えて頂きたい。
[35]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月08日 12時38分44秒 ) パスワード
  

初めまして。


http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/100612_23.html
の「原田姓」の<16>の書き込みを参照なさってください。


「あれちゃんさん」のお宅も南朝方だったと言い伝えがありますか?
岡山の東は菅家党が勢力を握っていたようですね。
<菅家末流、垪和氏より別れ, 粟井近江守景盛が淡相城に居るようになり粟井を称した>


地元の教育委員会がいろいろ調べていますから系図の切れてる部分は埋まると思いますよ。
また地元の図書館にも資料があると思います。
[36]川口 信さんからのコメント(2004年02月08日 12時54分49秒 ) パスワード
  

こんなurlがありました。

 美作菅家党(みまさかかんとう)

 http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/kanke.htm

 また、日本姓氏家系総覧(歴史読本辞典シリーズ)には菅原氏の系図が記載されておりますが、それによれば「高辻」梅鉢紋・「五条」三階松紋・「東坊城」梅鉢紋・「唐橋家」梅鉢紋など名家が分かれ出たとありました。

 
[37]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月08日 13時13分38秒 ) パスワード
  

ハガというのは読める人はいないでしょうね。
[38]鐘ケ江さんからのコメント(2004年02月09日 03時13分12秒 ) パスワード
  

まれちゃんさん はめまして、

菅原家の子孫で 美作の流れと言う事ですね。

宮廷公家系図の菅原系図には 道真ー高視-薫宣ー持賢-詠頼ー知頼 [修理進、子孫住
美作国 美作菅党祖]と有ります、多分美作菅党系図が出てくると簡単に貴方の所持
する家系図に繋がると思います。 高辻系になると思います。

実は私も菅家ー唐橋/小倉の流れですが 貴方と同じく始祖 菅原の教綱から鐘ケ江
長門守菅原家続迄の資料を探して居ますが 中々見つかりません。
現在色々と手を尽くして居る所です。

又何か見つかりましたら お知らせします。
[39]あれちゃんさんからのコメント(2004年02月09日 10時51分50秒 ) パスワード
  

早速に菅家の情報を有難うございます。父などは『美作太平記』にこう書いてあったとか資料を読んでいるらしいですが、私は言い伝えを信じるしかなく”道真の子孫だなんて本当かなあ..”と思い半信半疑でした。

ところで暇潰しギャンブラーさんが教えて下さったサイト「原田姓」の16を読んでみましたら『児島高徳』という名前がポッと載っていて驚きました。母から「うちの先祖は児島高徳」と聞いていましたので。児島高徳は吉備津ひこのみこ(字を知らない。岡山の吉備津神社に祀られている人。桃太郎のモデル)の子孫だと母は言うのですが定かでしょうか。村史によると百済の皇子という説も有って、はっきりしません。この際両親からの言い伝えのアウトラインを知りたいなと思います。ご存知の方教えて戴けますか。
[40]ときおさんからのコメント(2004年02月09日 12時27分57秒 ) パスワード
  

鐘ケ江様 あれちゃん様

  垪和氏のはが、は岡山県久米郡に地名が在ります。山の中です。
 
 ここには、垪の竹内氏が存在して居ます。たけうちと読まず、「たけのうち」です。もちろん、古武術の竹内流です。時代劇の捕り物でよく登場する名前です。この流派の影響を受けない流ははまず在りません。この本部道場がと本部道場を補佐する分家道場が現存しています。
 
 この一族が確か垪和氏の流れだったと思います。もちろん京都の公家の「たけのうち家」の分流です。
 
 ここの垪和氏が姓の漢字を変更せず各地に存在しているようです。


今、職場なので、帰ってから書き込みます。
 


[41]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月09日 15時05分08秒 ) パスワード
  

『児島高徳』でしたらバリバリの南朝方ですね。


吉備津ひこのみこって吉備津彦神社の方かしら?鳴釜神社じゃない方。
ここの神さまは孝霊天皇で私の母方の先祖で母方も(源氏方→南朝方)だったんですが

いやあ〜
もうビックリ。
日本人って本当に何重にも関わりがあるんですねえ。
[42]ときおさんからのコメント(2004年02月10日 00時01分27秒 ) パスワード
  

ギャンブラー様

この前、横文字のメールが来まして・・・添付が無かったので大丈夫とは思い即削除しました。「コングヮッチェレーション」は分かったのですが・・・。てな事もあり少し不安に成って、この名前で出ています。時忠様の「とき」や当方に「とき」の付くゆかりの土地や神社が在りまして、少し「とき」にこだわって居ります(^_^;) m(_ _)m。
  

「平熱」です。・平判官資行 様 が配流になりましたのが、この「垪和」郷の大蔵でした。資行の子孫は大倉(蔵)氏として存在して居られるようです。
・下記の粟井氏の所の垪和郷内の地名「和田」は美作の守護和田義盛の館から和田の地名に成ったとのことです。
・秦氏の根拠地の一つでもありますよ。もちろん久米宿弥の根拠地も在りますよ。

「はが氏」は  
 以外と複雑でした。同名で姓を異にする関係者が同一地域に存在し血縁関係を幾重にも組んで同族に成って居るように書かれている本も有ります。


◎ あれちゃん 様  下記に書き込みしましたが、お家に伝わる事柄も大切して、その伝承を詳しく調べたらと思います。というのも、ギャンブラー様の受け売り・・・(^_^;)。大発見や真実が証明されるかも!!。
        

「従三位弾正大弼為縁」の子供二人が垪和に移住
   「源経基」の流れに成っています。
    清和天皇17代が豊治の弟為治は越後守護芳賀入道膳可高名の五代目の孫従三位弾正大弼為縁
*可高名(かたかな)は下野国芳賀郡の豪族の出自と記述されています。 
・兄の「垪和八郎為長」の後は各「竹内氏」

・弟の「杉山備中守為就」の後は「柔術の竹内氏」や各「杉山氏」
         *柔術の初代久盛は
娘聟の作州原田氏の館で生涯を閉じています。


【粟井氏】について
粟井氏は作陽誌を基に補遺の形で作成された「東作誌」に記載されています。
其祖祐房は和田北村鶴田(たずた)の城主云々、菅承廿代羽賀美濃守祐房作州久米北条郡和田北村鶴田城主  

菅公廿代 ・・・☆羽賀美濃守祐房・・・★垪和美作守「助盛」 ・・・・淡相筑後守貞盛
  ・

  ・・・粟井伊予守祐賢




「下は菅家(有元)の流れとして書かれているものです。」

 佐弘 ← は有元氏(元弘3年に南朝方として京都の六波羅攻め「猪熊戦」で壮絶な戦死をした人です。)
 佐延 (芳賀太郎 《芳賀氏ヲ嗣ク》久米郡北分垪和郷ニ住居シ赤松氏に属ス法名寿光院殿)
 佐保 (芳賀治郎 又祐保垪和郷和田南城主法名清光院殿)
 佐房 (芳賀二郎 久米郡北分垪和郷鶴田城主法名元賀) 正平六年1351年播州美作境の杉坂で高師泰の軍に惨敗(太平記に詳しい)
★佐盛 (又ハ「助盛」芳賀八郎美作守初メ赤松氏エ属シ後山名伊豆守エ属ス初メ鶴田城主後英田郡粟井庄ニ移り淡相城主トナル)(太平記に詳しい)
 貞盛  (筑後守【粟井氏祖】赤松氏ニ属シ淡相城ニ居ル始メテ『在名以テ氏トス』)

垪和氏が文献で出てくるのは
・元弘3年ですね後醍醐天皇の「船上山」へ駆けつけた菅家一党とともに美作の衆として登場します。そして、千種忠顕に伴い京都で活躍をして居ます。
[43]ときおさんからのコメント(2004年02月10日 00時11分47秒 ) パスワード
  


「淡相筑後守貞盛」と「粟井伊予守祐賢」がずれていました。兄弟です。


・・・・淡相筑後守貞盛


・・・粟井伊予守祐賢
[44]田中愛造さんからのコメント(2004年02月10日 00時32分19秒 ) パスワード
  

姓氏家系大辞典によると、美作国久米郡垪和庄より起きる。
有元菅四郎佐弘ー羽賀太郎佐延(久米郡垪和邑住)−垪和二郎佐保ー孫・羽賀八郎佐盛(粟井城主也)。粟井系図には「菅丞相二十代羽賀美作守祐房(一に美濃守、久米北条和田北村鶴田城主、羽賀を領す)−垪和美作守助盛(吉野郡粟井城に居る)ー淡相筑後守貞盛。とあり。
系図研究基礎や公家系図を総合して見ると。
道真(右大臣・太宰権帥)ー高視(大学頭・山城守)ー雅規(文章博士・山城守)ー薫宣(弟、皇太后宮権大進・紀伊守)ー持賢(大学助・大蔵丞)−永頼(内匠助)−知頼(修理進・美作菅党の祖)−真兼(直兼、美作押領使)−尚忠(尚恕、是宗、長宗、菅原冠者)ー仲頼ー満佐(満資)−忠勝(有元筑後守)と繋がる。
然るに、粟井を見ると。
菅丞相20代羽賀美作守祐房ー垪和美作守助盛ー淡相筑後守貞盛(粟井城主・赤松氏に従う)−粟井伊予守祐賢ー和泉守景盛(文明7年1475山名に属し将軍義尚に仕う・中村城主・淡相山城主)−備前守休盛(中村城)−近江守晴盛(中村城)=晴景(安東徳兵衛2男、毛利氏に仕え3千石)とある。
然るに。民部尚忠(是宗)の子は有元三郎仲頼(有元に住み領有す)これを追って見ると、その子菅四郎頼勝ー筑前守頼資ー有元左京進佐時ー菅兵衛尉佐盛ー菅四郎佐弘ー和泉守佐久ー佐久ー佐国ー佐氏ー佐房(戸川菅四郎)−略す。頼資の子満資(満佐
・兼真、「その子、有元氏・植月氏・広戸氏・福光氏・鷹取氏・?原田氏・江見氏」菅党七氏については疑問が多い。
因みに、原田氏は。尚忠(是宗)ー原田二郎兼知(久米南條郡原田邑)−右馬允知貞ー右馬太郎知明ー刑部丞知佐ー三河守佐房ー佐秀ー佐政ー佐広ー佐治ー佐友ー利成(前田弥左衛門)−縫殿助利昌ー利家。
さて、菅家七党について有元左時の弟満資の子としているのが疑問点であるものの、
  有元筑後守忠勝
  広戸豊前守佐友
  福光伊賀守周長
  植月豊後守公興
  原田日向守忠門
  鷹取長門守佐利
  江見長門守資豊
と在るが、福光菅五資久や鷹取菅六佐定の名が無く、各人の実名も逸脱し時代も合わないのも確かである。又垪和は有元菅四郎佐弘の出とあるが、佐弘は建武1334赤松則村に属し、京四条で討死し垪和氏はそれ以前に出自していたとされる。又左馬允三男粟井三郎兵衛(安東改め粟井庄住・中村城主)
[45]ときおさんからのコメント(2004年02月10日 07時21分19秒 ) パスワード
  

田中愛造様 
小林雅成様

菅家は大きな一大軍団に成っていますので、婚姻関係や養子縁組が幾重にもなされているのでしょうね。

 菅家七党で有名ですが、作州東部での当地では十一党だったでしょうか十・・流とかとも聞いたこともあります。七党ではすまそれそうにはないですね (^^;) 。
 
 田中愛造様の記述のように、疑問のことが多く在るようですね。


 垪和氏の末裔の「家紋」について

 末裔の竹内氏や杉山氏は古くからの一族の証として「抱き茗荷」を使用と言われています。梅鉢紋ではないようですね。小林雅成様どうなんでしょうか

 竹内(たけのうち)氏は、今は京都「竹内子爵家」と同じ「笹龍胆」に改めたとあります。確かに笹龍胆を使われていますね。繋がりありお墓参りをし、本部道場・分家道場にもお伺いしたことが有ります。
[46]あれちゃんさんからのコメント(2004年02月10日 10時52分03秒 ) パスワード
  

情報を寄せて下さった皆様、有難うございます。このページごと親に見せたい
くらいです。親もここまでは知らないのでは..と思う詳しさで、資料が有るという事だけでも驚きです。今まで系図と言い伝えだけで信じていいものか、う〜〜ん..と思っていたので裏付けを得たようで感慨深いです。

暇潰しギャンブラー様は先祖を同じくする遠い親戚なんですね。『孝霊天皇』の皇子ですから吉備津ひこのみこは。驚き!と言うか、道を歩けば子孫に当たる..ってくらい、先祖が同じ人は一杯いるでしょうね。





[47]よこおさんからのコメント(2004年02月11日 02時43分54秒 ) パスワード
  

道真を祭った祠が家の敷地内にあるのですが・・。
これって何かつながりがあったり・・しませんよね・・?
家紋も違いますし。遠いし。
[48]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月11日 05時40分38秒 ) パスワード
  

よこおさん

家紋は
分家だから替えたという事もありますし
諸般の事情で替えたということもありますし
家紋からはあんまり分からないですよ。
ですから諦めないで下さい。

>道真を祭った祠が家の敷地内にあるのですが・・。

理由が分かると良いですね。
何故屋敷の中に勧進したのか?
学問の家だったから?
一族だから?
やっぱり一族関連だからじゃないですか?


>これって何かつながりがあったり・・しませんよね・・?

今年のお彼岸やお盆にお年寄りの御親戚などにお訊になっては?
何か繋がりがあると思いますよ。
ちょっとやそっとの繋がりじゃないと思いますよ。
[49]鐘ケ江さんからのコメント(2004年02月13日 08時07分07秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラー 様

はじめまして、
源三さんへの呼び掛けスレッドを立ち上げて頂いたのにお礼を
言うのが遅くなって申し訳有りません、
改めてお礼申しあげます。

実は、私は カナダから色々と 鐘ケ江に関する情報を集めて居る関係上
彼方此方の掲示板にお世話に成っている次第です。
この掲示板も 大鳥居、小鳥居両家が 鐘ケ江の始祖 菅原の教綱の伯父に
当たりますので 何か情報を得られるのではと思い小鳥居家を検索し偶然
に此方に辿り着いた次第です。

驚く事に、此方には 源三さんを始め 田中愛造さん ときおさん等々
素晴らしい人が居られて ビックリ している所です。
[50]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月13日 15時13分57秒 ) パスワード
  

鐘ケ江さま


実は数年前、10年ぐらい前だったでしょうか?
雲仙岳でしたか?噴火してから後ですが

ロスの日系社会で「鐘ヶ江さん」とおっしゃる女性が
「うちの一族が市長?だかをしている」村長さんかしら?
とおっしゃってまして....


おやおやと思いました。


It's a small world!
[51]鐘ケ江さんからのコメント(2004年02月14日 02時49分48秒 ) パスワード
  

暇潰しのガンブラーさん、

Yes,I think so too. However it's a diferent story
to search out the historical documents on Kanegae.
.

ロスには可成り大きな農園を経営している 鐘ケ江さんが居る様です。
シアトルにも数家有りますが このカナダには 私達家族ガ2家族ある
だけです。

随分前に 鐘ケ江の出自はおぼろげ乍ら公家の出で有る事は 司馬遼太郎
さんの記事で知って居りましたが 私の倅が子供が出来、又外国に住する
故か鐘ケ江の確かなる資料が欲しいから探して欲しいと言う事から始めた
次第です。 でも中々思う様には事は運ばず数年が過ぎた所です。

若し、どなたかお力添え願えたらと不躾にも参入した次第ですので
宜しくお願い致します。


[52]田中愛造さんからのコメント(2004年02月14日 03時39分36秒 ) パスワード
  

暇潰しのギャンブラーさん  先日は失礼致しました。又、嘉村先生には支離滅裂な質問致し御迷惑お掛け致しました。あのまま、朝一で国外に出て、書き捨ての様になり申し訳け有りませんでした。急いで居たとはいえ、お詫び申し上げます。  伏拝ときおさん  折角のコメント頂き御返事遅れ済みません。美作菅家氏流は132家有るそうです。更に縁故などを含めると美作の国は殆ど親戚かも?これからも宜敷くご指導下さい。
さて、    鐘ヶ江保俊さん
私は平熱新参者で、茲には名士有志の方々が大勢居られます。私はただの系図キチです。大変なご苦労成されて居られるご様子伺っています。然し私も同じで、何度も菅原氏の周辺を探って見るも、貴方と同じで、八院三郎教綱止まりです。
【宮廷公家系図集覧】【群書系図部集】でも同じですね。長門守家続は大内家浪人とか、同じ時寛勝・寛実兄弟討死など、八院合戦等など。外堀から埋めて見てはと思っていましたが、既に、大鳥居・小鳥居も調べられ、出る幕あrません。小倉冠者善弘の子善昇「筑前国大宰府安楽寺天満宮別当に補す。子孫筑後国水田庄住、祝髪して名を大鳥居信貞と改む、長男信證ー信寛ー信実、信證(弟・信実・小鳥居の祖)其の弟浦次郎(浦之坊の祖)とあり大鳥居氏は明治に西高辻家と改めたと。三潴郡には知っての通り、安武・岩長・野口・藤吉・田川・バラ津・春野と鐘ヶ江諸氏。又、鎮西要略に元3年1323八院八郎教宗采地倍封とあり、寛政譜に安楽寺の事も載せてます。尚早道は、元、島原市長で資料館長の鐘ヶ江管一氏に伺うのが一番でしょう。島原青年会議所・島原市高島2-7217,tel/0957-62-3621,fax/0957-62-3646です。余り力に成れず、薄学陳謝致します。御健闘祈ります。
[53]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月14日 04時08分42秒 ) パスワード
  

田中愛造さま
島原市長でしたか。
そうですね、こちらに問い合わせたりなさったら鐘ヶ江一族の資料が手に入るでしょうね。



鐘ヶ江さまも長崎県教育委員会や島原市教育委員会の歴史編纂課にお願いなさったら良いのですよ。
私も手紙を出しまくっていろいろ資料を送って頂いた経験があります。
たいした物でしたのよ。

送料としては日本の切手が良いですし(2〜3000円分)
そして
お礼の意味でカナダの切手もお入れになったら良いのではないでしょうか?


私の場合はアメリカの恐竜の切手を余分に入れました。
これは喜んで貰えますからね。
[54]鐘ケ江さんからのコメント(2004年02月16日 03時48分59秒 ) パスワード
  

田中 愛造 様

はじっめまして、

此の度は 色々と鐘ケ江に関してお調べ頂きまして有難う御座いました。
彼方此方と 手を尽くして居りますが 多分無理な事だろうと思う様に成り
ました。現在手持ちの資料で十分じゃ無いかと。

教綱が 三潴郡の八院に下ったのは推定 1130年頃で 竜造寺隆信が
鐘ケ江を攻めたのが 天正7年(1560年)其の時 只一人隆信に神文を
呈して降伏したのが 鐘ケ江長門守 菅原家続 で他は全て討死にの様です。
其の年の夏、鐘ケ江将監は隆信に従わないと言う事で野田九朗右衛門の兵
に依って討ち取られて居ります。
又鐘ケ江治部小輔寛勝と 弟佐馬介寛実は竜造寺との交戦にて下青木村の
城中に於いて戦死し家絶えたりと有りまして 多分この天正7年に鐘ケ江家
は完全に空中分解してしまったのではと考えて居ります。
この間が約400年、其の後は当然の如く領土を失い離散するに至った
事でしょうし其れゆえ 鐘ケ江家の書類等も其れに付随して消滅したのでは
思います。又鐘ケ江は当時大友の旗下であった事もその一因で有ったと
思われます。
只 不思議な事は 田中さんのメールの中に 長門守家続は 大内家の浪人と
有りましたが 此れは絶対に有り得ないとは思いますが 隆信に降伏した
家続が のちに大内家に移ったと言う事に成るのでしょうか?

昔の九州の豪族は余り争うような事は無く領地を守って来たような事を聞いた
事が有りますが 権力と領土欲に長けた武士の現れで混乱に巻き込まれ 負け組
は其の名声を失い 此れに依って 家系図等も破傷、短略されて来たのではと
思って居りますが 如何でしょうか?
[55]田中愛造さんからのコメント(2004年02月21日 04時17分12秒 ) パスワード
  

鐘ヶ江様   誠に曖昧な事柄を書き、申し訳け有りません。お侘びいたします。返信を早く致したかったのですが、四国に行ってまして遅くなり、済みませんでした。大内とは絶対に関係有りません。私の誤りです。
 関西で最大の大阪府立中央図書館が出来、数年になります。この当館に参り、徹底的に調べ上げましたが、鐘ヶ江の地名や名籍は出ますが、目新しい事跡が出ません。筑後・肥前の中世武家や、特に三潴郡諸氏に関して調べて見ましたが、婚姻・縁故の形跡すら残らず、延徳3年1491には其の存在は明らかなるものの、一族で最も顕著に現して居るのは大宰府の小鳥居氏で、千葉氏や龍造寺氏との婚姻し、大田落ちには竜造寺を助けたのも、両者の生き残る一因を作ったが、鐘ヶ江氏が同族の多い土地で在りながら、何故頼らず滅亡の一途を歩んだのか・・・同じ出の荊氏の裔、安武などは生き残りが賢明であり、疑問のみがのこり、資料だけが何の役にも立たない有様です。ただ、(筑後国豪族旧家系図・鶴久次郎著編)が見れず残念でした。
 中世から戦国期至り、非常な激戦地で文永・弘安の役後、肥前の国御家人に対する恩賞配分の対象とされた事により、矛盾が激化し、少ない土地に犇めき合い恩賞不足の不満がまんえんしたのと同時に、元寇合戦に関東武士まで九州に乗り込み、地元領地は更に最小化したのが、少豪族に取っては生き残りのチャンスが、画け無かったのかも知れません。
 然し、現在では鐘ヶ江氏を名乗る子孫は、多くの著名人が活躍して居られます。相寄れば、近い内に解明される事間違いありません。タイトルも鐘ヶ江氏と付け加えて頂いたので、誘い水しておきます。お役に立てず済みません。    調査続行。
  天祖・天譲日天狭霧国禅月国狭霧尊、大神ー天之御中主神ー高御産巣日神ー神産巣日神ー宇麻志阿斯誌訶備比古遅神ー天之常立神ー国之常立神ー豊雲野神ー宇比地邇神ー角杙神ー意富斗能地神ー淤母陀琉神ー伊邪那岐神ー天照大神ー天之穂日命(出雲臣・土師連の祖)ー武夷鳥命ー櫛瓊命(伊佐我)ー津佐命(津狭)ー櫛(瓦長)前命ー櫛月命(久志和都)ー櫛(瓦長)鳥海命ー櫛田命ー知理命ー毛呂須命ー阿多命ー甘美韓日狭命(可美乾飯根)−野見宿禰ー阿陀勝ー磐毘ー土師身臣(土師連)ー意富曾婆ー小鳥−昨子ー大保度ー首ー八嶋ー身ー土師根麻呂(天武13賜土師宿禰姓)−甥(大学頭)−宇庭(阿波守)−菅原古人(侍読・遠江介・延暦9賜菅原朝臣姓)−清公(侍読・従三位・右京大夫・・文章博士)−是善(侍読・参議・従三位・勘解由長官・刑部卿・文章博士)ー道真(従二位・右大臣・侍読・)−高視(大学頭・右少弁・山城守)−雅規(文章博士・左少弁・山城守)−資忠(文章博士・大学頭・右少弁)−孝標(常陸介・上総介)−定義(大学頭・大内記・和泉守・文章博士)−在良((式部大輔・文章博士)−善弘(小倉冠者・二条院判官代・肥後国)−善昇(信貞・安楽寺別当・その子、信昇大鳥居の祖・信実小鳥居の祖・信善安楽寺長使・弘昇本村の祖・教繁菅の祖)ー弘昇(大夫大進・その子、信易川浪の祖・信愛菅又次郎・教綱)−教綱(八院三郎・鐘ヶ江の祖、池尻の祖)
[56]鐘ケ江さんからのコメント(2004年02月24日 06時24分23秒 ) パスワード
  

田中 愛造 様

お礼が遅くなり申し訳有りませんでした。少し調べものをしておりましたので。

「お役に立てずにすみません。」と書かれて居られますがとんでも有りません。
この様に時間を割いて調べて頂き心から感謝申し上げると共にお礼を申し上げます。
何か 田中さんの 文面から暖かいものを感じ嬉しい境地にさせて頂きました。

鐘ケ江が生き残る事が出来なかった疑問について少し歴史に疎い私の独断で次の様
な推理を立てて見ました。

条件として:
1)当時の鐘ケ江は姓としては 菅原であった。
2)又 鐘ケ江は武家の経験は余り無くその上大武家家族の目的は無く分散家族制度
構成していた。この分散型は蒲池氏にも見られる。

シナリオ 1:
鐘ケ江は蒲池その他と余り摩擦を起こす事無く長い間共存関係が成立していて竜造寺の動きは知りつつも将来像を描く事が出来なくて崩壊の道を辿った、しかし其の結果
として長門守家続が隆信に降伏した。

シナリオ 2:
鐘ケ江は竜造寺の動きは 血筋で有る小鳥居家から詳細な情報を得ていて 若しかしたら小鳥居家自身も 竜造寺の野望を悦ばない雰囲気が有ったのでは無いかと 血縁とは
言っても娘の嫁ぎ先ですので。
竜造寺家は大身の野望に燃え 戦を起こし敗退しては小鳥居家に助けを求めたり蒲池家
には数回に渡り助けられたり、小鳥居家は外戚関係ですので 良し としても蒲池家とは姻戚関係が有るのかどうかは判りませんが 若し姻戚関係が有ったなら尚更のこと
蒲池家を叩いたり最後は配下にしてしまう様な相手を受入れられ無かったのでは無いかと思います。もし妥当な政治理念を持って居たとすれば 大友家から離れる事も有ったかとは考えられますが?
「鐘ケ江氏が同族の多い土地で在りながら」と在りますが同族が多かった故の事では
無いかと思います。家族として 菅原 ですので自分達が受け入れられない相手の配下
に入るより大友の配下として負け戦では有っても意地を通す事で誇りを保ったと言う
事も考えられます、菅原鐘ケ江が滅びる事で菅原の血が其の血から消える事はないからと言う考えをして居たかも知れません。
家続が隆信に降伏したのは 鐘ケ江の血を残す為、協議の結果では無かったかとも思われます。名前から見ると彼は鐘ケ江を継ぐ人物では無かったかとも考えられます。
又家続自身も降伏を余り望んで居なかったんじゃ無かったかとも思います、何故なら
其の後の活躍が敗北武士のハンデーが有るとは言え記録に無いからです。

シナリオ 3:
鐘ケ江が三潴郡の中で同族が居なく一家だけだったとしたら又 歴史も変わって居ただろうと考えます。
小豪族とは言え、まず生き残りの為に懸命に成って情勢に対して有利な方法を模索したり強力なる武士家族軍団を作り出して居たかも知れません。

只 不思議なのは 姻戚関係資料迄も出て来ないのはどうしてか疑問です。
憶測ですが 多分 敗者の関係資料は時間の経過と共に消滅されて行ったのではないかと考えて居りますが如何なものでしょうか?

[57]田中愛造さんからのコメント(2004年02月26日 02時21分40秒 ) パスワード
  

鐘ヶ江様
 私は鐘ヶ江氏一族でないので、批判的立場での見解や批評は出来ません。然し史実の追求は我々子孫の使命ででもあります。ご先祖の生き様まで立ち入る事はネット上では無理があります。顔を合わせ膝付き合えれば、どの様な事柄でも語り合いたいものです、平熱のルールは良識を基本とした場所と認識いたします。云いたい事も山ほど有りますが、鐘ヶ江氏は保俊様御一家だけではありませんので、ご容赦ご了承下さい。現存する鐘ヶ江氏の御子孫は各界で大活躍されて居り、流石菅原公の遺伝子だと感心致して居ります。本日、京都北野天神や大阪天満宮で命日の大法要が営われました、何か因縁を感じます。
 現在、皇室は125代75世(神話時代・除く)ですが、75世で500該以上の御先祖が居られます、裏を返せば私達も同じです。ご先祖の苦労が偲ばれます。
 鐘ヶ江氏の考察は、仰る通り、意地や誇りを保ったと解釈されるが妥当かと思われますが、一言許されるなら、公家の性質の脱皮云々・武士に成り切れ無かったのかも知れません。武士団の構成はリーダーの正統性が第一で、織田と徳川の違いにも言えることでしょう。
[58]鐘ケ江さんからのコメント(2004年02月26日 08時50分16秒 ) パスワード
  

田中 愛造 様

大変ご無理な事を尋ねる結果に成った事を心からお詫び申し上げます。

カナダ生活が40年にも成るせいか日本的な礼儀を忘れていた様です
お恥ずかしい次第です、どうか重ねてお許しの程お願いします。

田中様には 日本の美しさを改めて教えて頂きました。

又、色々とお力添えを頂きました事もあわせて心よりお礼申し上げます。
本当に有難う御座いました。
[59]田中愛造さんからのコメント(2004年03月09日 19時01分25秒 ) パスワード
  

7日日曜日博多の結婚式に来賓として参り、逃げ出す事も出来ず、時間の関係で、図書館や古書店にも行けず本屋に駆け込み、郷土史コーナーで5冊物色したが、鐘ヶ江氏の文献得られませんでした。「筑後争乱記・蒲池一族の興亡、川村哲夫著」新幹線での帰り読み耽り・・。三潴郡や柳川を背景に九州戦国史、実に良く描かれ、武士の生き様や出自等など、平熱の源三さん・隈さん・執行さんのご先祖が出てきて、大変面白く読みましたが、矢張り鐘ヶ江氏の事は同じで、天正7年三月三池氏のくだりで『三池氏を追い落とした龍造寺隆信は、次に筒岳城の小代親傳を標的と定めた。今度の先陣は蒲池鎮並である。蒲池勢は筒岳城の小路口に攻めよせ、激しく戦った。この戦いにおいて、中山蔵人ほか蒲池勢に多くの死者が出た。激戦ののちに、小代親傳は父宗全とともに降伏した。小代氏の降伏につづき、三潴郡八ノ院の鐘ヶ江長門守も降伏したので、筑後における龍造寺勢がますます増大した。』とあり、又、福岡古城の本にも、其の名が見られず残念でした。
[60]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月10日 02時03分46秒 ) パスワード
  

>蒲池一族

松田聖子さんの御一族ですね。


私は諫早の西郷氏にちょっと興味があります。
野呂さんの「落城記」が面白かったので。
そこに服部という武士が出てきますし。
[61]みささんからのコメント(2005年10月22日 12時37分25秒 ) パスワード

あの、平家には全然関係ないかもなんですが、『真舞流』ってヤツについて、何か知ってることがあったら教えてくれませんか?よろしくお願いします。
[62]太郎さんからのコメント(2005年11月14日 09時26分49秒 ) パスワード

丸木船の作り方詳細キボンヌw
[63]浅井舞衣さんからのコメント(2005年11月21日 00時20分43秒 ) パスワード

延慶本第四(巻八)に、安楽寺関連記事が有ります。
いちもん/の\ひとびと、\あんらくじ/へ\まゐり、\つや-し/て\詩/を\作り\れんが/を\し\たまひ/て、\なき-かなしみ\たまひ/ける\なか/に、\きうと/を\おもひ-いだし/て、\しゆり/の-だいぶ-つねもり\かく/ぞ\えいじ\たまひ/ける。
\すみ-なれ/し\古き\みやこ/の\こひし-さ/は\神/も\むかし/を\わすれ\たまは/じ K154
〔六〕 \そもそも\あんらくじ/と\まうす/は、\むかし\すがはら/の-おとど/の\おもは/ぬ\なみ/に\うきね-し/て、\しほれ\たまふ\ごべう/なり。\すがはら/の-おとど/と\まうす/は\くわんしようじやう-みちざね、\いま/の\きたの/の-てんじん/の\おん-こと/なり。\ながさ/れ\たまひ/し\ゆらい/を\たづぬれ/ば、

と続きます。

[64]Gabi Greveさんからのコメント(2005年12月29日 16時37分06秒 ) パスワード
URL=http://ohaga.blogspot.com/

hajimemashite,
ドイツのガビです。岡山県久米郡大垪和に住んでいます。
今、垪和族の歴史をしらべながら、このBBSを見つけた。

垪和族の歴史、もっと詳しく教えてください。
垪和族 The Haga Clan
http://ohaga.blogspot.com/2005/12/hagazoku.html

大垪和 道の駅 の資料に使います。

よろしくお願いします。
ガビ グレーベ
だるま資料館
http://darumasan.blogspot.com/
[65]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2006年04月25日 15時39分45秒 ) パスワード

「太宰府天満宮:平家との関わり:鐘ヶ江氏」のタイトルから変更しました。
垪和氏についてのスレッドや書き込みが増えてますから。
[66]小鳥居さんからのコメント(2007年06月11日 00時10分29秒 ) パスワード

小鳥居ですが、自分の名前を打ち込んだら、このサイトがありましたので来てみました。

なんだか不思議な感覚です・・・。


無意味な投稿ですいません。
[68]筑後のー菜の花めさんからのコメント(2008年02月08日 19時13分42秒 ) パスワード

はじめまして、コンピューターもインターネットも覚束無い態でキーを叩いております。 よろしくどうぞ!

 菅原道真公のご息女について調べていてここにたどり着きました。
故郷の三潴郡(市町村合併で現在は久留米市になってしまい淋しい限りですが・・)
 さて、本題は、菅原道真公が大宰府に下られた折、この地でお亡くなりになった熊丸君と、もう御一方姫君が(紅姫様と聞いていますが・・)ご一緒だったということですが、よくわかりません。
ご存知の方がいらっしゃいましたらお教え願えれば幸せです。
[69]梅野さんからのコメント(2008年03月09日 11時10分37秒 ) パスワード

菅原道真→高視(大学頭)→雅視(文章博士)→資忠(文章博士)→孝標(上総介、常陸介)→定義(大学頭、文章博士、大内記和泉守、従一位)→在良(文章博士、式部大輔)→小倉姓 善弘(二条院判官代、肥前国小倉冠者)→善昇(安楽寺別当)→弘昇(大夫大進、木村氏祖)→信愛(式部大補)→信元(三河守)→梅野姓氏祖 信薫(治部大輔)

鐘ヶ江氏は信愛の弟 教綱が氏祖
[70]いちさんからのコメント(2008年06月13日 08時51分53秒 ) パスワード

突然失礼します。
母方の姓が『梅野』です。母がひとりですから家は途絶えましたが、祖父の手紙によると加賀前田家の分家とありますが、それ以外に証拠はありません。
その祖父の手紙によると、かつて家の蔵には血のついた槍や刀が残っていたと書いてあります。

家紋ですが、表紋が『丸に抱き茗荷』、裏紋が『丸に梅鉢』と聞いております。
しかも出身は小樽。恐らく北海道の開拓使に加賀藩の関係が含まれているようですからその関係かと思われますがそれ以上のことはわかりません。

トピ違いでしたらご容赦下さい。


[71]本田さんからのコメント(2008年10月23日 14時53分07秒 ) パスワード

先祖が佐賀の牛島家なのですが、菅原道真の子孫だと聞きました。どなたかこれについてお解かりになる人がいらっしゃいますか?
[72]井上さんからのコメント(2010年11月06日 14時02分05秒 ) パスワード

>いちさん
梅鉢紋の菅原氏を出自とし、『丸に抱き茗荷』を家紋とするのは美作垪和氏ですが、関係があるのでは?
前田氏は美作菅家原田氏からの出です。ただ、同じ美作菅家の別れとは言え、原田氏系と垪和氏系は家系図でわかれは異なるので同じとは言えませんが・・・

垪和氏の抱き茗荷
http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/buke_km/bk_kenb2.html
[73]今井四郎さんからのコメント(2012年08月25日 22時45分54秒 ) パスワード
URL=http://www.asa-kikaku.com/

平家物語 延慶本(原文版)の巻八の五です。
〔五〕〔平家人々詣安楽寺給事〕 十七日、平家ハ待露命一、船棹指テ、何クト定ネドモ、多ノ海山隔テ、都ニ雲居ノ四方トナル。在原業平ガ染殿后ニ名ヲ立テ、東ノ方ヘ流サルトテ、角田河ノ辺ニテ都鳥ニ見合ツヽ、
  名ニシヲハヾイザ事問ハム都鳥我思フ人有ヤ無ヤト 
打詠テ涙ヲ流シケン事モ、カクヤト覚テ哀也。明ケ晩レ日数ツモリユケバ、心尽ノ筑前国御笠郡大宰府ニ着給ヘリ。随奉P2633(八オ)処ノ兵、菊地ノ二郎高直、石戸少卿種直、臼木、戸次、松浦党ヲ始トシテ、各里内裏造進ス。彼内裏ハ山中ナレバ、木ノ丸殿モカクヤトゾ覚シ。人々ノ家々ハ野ノ中、田中ナリケレバ、鹿ノサ衣打ネドモ、遠路ノ里トモ申ツベシ。荻ノ葉向ノ夕嵐、独リ丸寝ノ床ノ上、片敷袖モシホレニケリ。一門人々、安楽寺ヘ参リ、通夜而詩ヲ作リ連歌ヲシ給テ、泣悲給ケル中ニ、旧都ヲ思出テ、修理大夫経盛カクゾ詠給ケル。
  スミナレシ古キ都ノ恋シサハ神モ昔ヲワスレ給ワジ
次の六は、
〔六〕〔安楽寺由来事付霊験無双事〕 抑安楽寺ト申ハ、昔菅原ノ大臣ノ思ワヌ浪ニウキネシテ、シホレ給御廟也。
と、安楽寺の由来が、語られます。
[74]今井四郎さんからのコメント(2012年08月27日 23時30分45秒 ) パスワード
URL=http://www.asa-kikaku.com/

一方流の『京師本』巻八「名虎」より
 同じき十七日、平家は筑前国三笠郡太宰府にこそ着き給へ。菊池次郎高直は、都より平家の御供に候ひけるが、「大津山の関開けて参らせん」とて、肥後国にうち越え、己れが城にひき籠つて、召せども召せども参らず。九州二島の者ども、皆参るべき由領状をば申しながら、今だ一人も参ぜず。当時は岩戸少卿大蔵種直ばかりぞ候ひける。
 平家安楽寺に参り、歌詠み連歌して、宮仕ひ給ひしに、本三位中将重衡卿、
  住み馴れしふるき都の恋しさは神も昔に思ひしるらむ
人々さすがあはれにおぼえて、皆袖をぞ濡らされける。
[75]杉山智則さんからのコメント(2013年03月25日 03時04分19秒 ) パスワード

自分は杉山備中守21代目当主の杉山智則ですが、家紋は抱き茗荷ですよ。
[76]吉田 恵子さんからのコメント(2013年06月01日 09時35分31秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2013年06月07日 00時08分02秒
[77]鍋島藩士子孫さんからのコメント(2013年06月08日 20時08分04秒 ) パスワード

鐘ヶ江家について

我が家と縁続きの家系図を調べていたら、従兄弟で鐘ヶ江久左衛門の妻を見つけました。それで鐘ヶ江家系図を辿って見たら鐘ヶ江久左衛門とは五代前のご先祖が鐘ヶ江将監と云う人物で鐘ヶ江長門守家續の弟となっていました。

鐘ヶ江系圖
菅原姓 家之紋梅鉢枝松
土師朝臣宇庭−(中略)−菅家(道真公)−(中略)−菅三郎教綱−(中略)−鐘ヶ江孫八郎(鐘ヶ江住) −(中略)−鐘ヶ江長門守家宗−|
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|−鐘ヶ江宮内少輔鎮續 妻は慶円(鍋島直茂の先妻) 子孫は鍋島藩家臣
|−鐘ヶ江長門守家續 八院合戦にて神文 子孫は鍋島藩家臣
|−鐘ヶ江将監−(中略)−鐘ヶ江久左衛門 子孫は鍋島藩家臣
|−鐘ヶ江紀伊守 妻は陽泰院(鍋島直茂の後妻)の御側女中 子孫は鍋島藩家臣

長門守家續など4兄弟の子孫が佐嘉鍋島藩の家臣となっていたけど、驚いたのは宮内少輔鎮續の妻が鍋島直茂の先妻(慶円・高木肥前守胤秀の娘)だったこと。
[78]吉田 恵子さんからのコメント(2013年06月15日 13時36分16秒 ) パスワード

鍋嶋藩士子孫様
ありがとうございました。
久留米市(旧三潴郡)城島町島に居住してます鐘ヶ江家、お寺、墓石等調べてみたいと思っております。
思うように行動することができず、時間がかかることでしょう。
[79]鐘ヶ江保俊さんからのコメント(2013年06月21日 14時46分22秒 ) パスワード

鍋島藩士子孫様

はじめまして、鐘ヶ江家に関する貴重な情報を掲示して頂き有難うございます。
実は私はカナダに居住して居りまして菅原の教綱から家続までの資料を
探している所です。掲示文の頭部に「鐘ヶ江系図」と有りますが表示以外の資料等お持ちでしょうかお伺いいたします。もし宜しければお知らせの程お願いいたします。
[92]管理者 aさんからのコメント(2013年08月01日 08時08分28秒 ) パスワード

重くなって来ましたのでスレッドを閉めます。
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