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 投稿番号:100228 投稿日:2002年01月26日 13時48分25秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平姓川口氏:尾張大橋一族:抱茗荷一文字紋

コメントの種類 :その他  パスワード

隈さんの平 宗清の子孫の書き込みから発展がありました。
尾張大橋氏のご子孫でもいらっしゃるそうです。

では楽しい発展を祝して!

[1]服部 明子さんからのコメント(2002年01月26日 13時55分06秒 ) パスワード
  

元のスレッドのURLと内容をこちらにご紹介:隈さん、許可無しでごめんなさいね。

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100163_46.html


「向島岩子島史」より;
「川口家・・・姓ハ桓武平氏、平宗清末流、宗信美濃国川口村ニ住シ男宗倫ヨリ川口ヲ称ス、宗倫八代ノ孫宗持大橋廣定ノ二男宗貞ヲ養子トス、家紋ハ丸ニ茗荷一ノ字、王ノ字」

以前服部さんが紹介して下さった家紋のHPを覗いたら、「尾張大橋氏」の
家系図に川口家との養子縁組のことが載っていました。名前がちょっと違うけど(広貞?貞広?)。

大橋家の家紋は「茗荷に一文字」。これを丸で囲ったのが、川口家の家紋?
[2]服部 明子さんからのコメント(2002年01月26日 22時40分15秒 ) パスワード
  

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100163_48.html より:


[47]

隈さんからのコメント


最近ちょっと忙しくて、出遅れてしまいましたが・・・

川口さん、どうも初めまして!
「平宗清末裔の川口さんがいる」と書いた当の本人、隈です。

実は私も、実際に「私は平姓の川口です」と名乗る方にお会いした訳ではなく、
直接関係ないのに、郷土資料を見て
「ここにも服部氏の子孫がいる!」と勝手に書いてしまいました。

無責任ですみません・・・(汗)

でも、お会いできて嬉しいです!
なにしろ私もまだまだ知らないことだらけですので、情報交換させて頂ければ幸いです。

是非、川口さんが自らお調べになったご先祖のお話をお知らせ下さい。

「平宗清の名が出てきてびっくり」されたとのこと。
ということは、川口さんがお聞きになったご先祖様のお話では違っているとか・・・
その辺りについても私自身、興味があります。

その他、言い伝え等、何でも構いません。

どうぞ「投稿欄を汚して」などとおっしゃらず、
遠慮なくご先祖様についてご紹介下さいませ。




[48]

川口 信さんからのコメント


川口家の先祖も平宗清の末裔の名乗り、現在一般にいわれていることは、
弥兵衛宗清と右京大夫宗清とは別人であとあるとされています。
 
前者は吾妻鏡等に池頼盛の家人として、捕らわれていた源頼朝の命乞いを平清盛の母・池禅
尼にして、頼朝を助けた宗清で、これは「続群書類従第五巻上」の尊卑分脈脱漏平氏系図(136
頁)に見えるが、これは「家清」となっているが「宗清」の誤写といわれている。後者は同書
(122頁)見える公卿平氏である。
 
川口家においても、両者を混同して、事跡が入り乱れており、それは先祖を誇るあまり、事実
以上の誇張が加えられ、誇張はその始祖の部分で顕著に見られる。

高棟王ー惟範ー時望ー真村ー親信ー行義ー範国ー径方ー知信ー信範ー信実ー宗清

高棟王ー国香ー貞盛ー惟衛ー正度ー貞季ー正季ー範季ー季房ー季宗ー家清(宗清)

以上のようになる。


柘植氏が柘植の姓を名乗った事情を考えれば池頼盛の家人であることは歴然としている。
 壇ノ浦において、平氏滅亡する。その後、頼朝卿、池大納言頼盛及び宗清を招請すれど、再
び世にその名を現わすを欲せず、固辞して伊賀の地にこもる。歌って曰く「柘植の野にこしつ
る花をうえおきて我が行くすえをいはふべき哉」と言い、これより柘植姓をなのったとある。

 川口家においては、公卿平氏の系統を名乗っておるが、柘植氏と同じような事が言われてお
ります。

中世の川口家は尾張に住み、一族であった津島の大橋家の次男盛祐が養子に入り、川口の基礎
をつくりました。
この大橋家は桓武平氏家貞流を後醍醐天皇の皇子、宗良親王の末裔「神王」が家督を継いだ家
で、詳しく説明を加えて見ますと後醍醐天皇の子、宗良親王、その子尹良親王、またその子良
王が諸国流浪の時、桃井、世良田等数多くの武士が護衛して尾張奴の城(津島市)の城主大橋
三河守定省の所に無事送り届け、神王が大橋和泉守信重と名乗り、津島神社、奴野城と美濃高
須城の城主として四家七苗字党の長としていた。
 
四家七苗字党とは大橋、岡本、山川、恒川が四家で、堀田、平野、服部、鈴木、真野、光賀、
河村でのち宇佐美、宇都宮、開田、野々村を加えて十五家として、尾張、美濃のうち、高拾弐
万石を領していた。

 とりあえず、この辺で。なにか分からないことがありましたら、項目を挙げてくだされば、
私の分かる範囲内でお知らせいたします。

 今後ともよろしくお願い致します。
[3]服部 明子さんからのコメント(2002年01月26日 22時47分36秒 ) パスワード
  

この方が適性かなと思いタイトルを変更しました。

現在、この大橋家というのはどうなっているのでしょうね?
戦国時代には蜂須賀に嫁に行った女性がいたというのまでは分かっていますが。
[4]さんからのコメント(2002年01月28日 09時59分07秒 ) パスワード
  

私も平氏の系図を見て「平宗清」という人物が2人いたことには気づいていましたが、
郷土資料を読んだときには深く考えず、弥兵衛宗清のことだろうと勝手に思い込んでいました。

なるほど、弥兵衛宗清末裔よりも公卿平氏の宗清末裔を名乗ったほうが箔がつく、ということですか。


[5]さんからのコメント(2002年01月28日 10時18分39秒 ) パスワード
  

家紋のHPより、大橋氏について;

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ow_ohasi.html

>滝川一益に仕え、一益没落後は福島正則に仕えた。
>しかし、正則も改易処分となり、結局松平出羽守直政に仕え、家老職を勤めたという。
>一族には、帰農した者もいる。

となっていますね。

松平出羽守直政は徳川家康の孫にあたる人物で、初代松江藩主(島根)だそうです。

江戸時代の備後地方の記録に、代官や寺子屋の先生の名前で、大橋姓がありましたよ。
福島遺臣の末裔かな?
[6]川口 信さんからのコメント(2002年01月28日 10時34分48秒 ) パスワード
  

前のスレッドの方にコメントしてしまいました。
 見てください。
 右京大夫(従四位下相当)と弥兵衛(従六位上)とは官位で六から八階級の差があり、系図上併記することはありえない。
 同姓同名の宗清の存在をしった時、混乱、同一視、歴史的に有名で、武士の方の事跡として付け加えたのかもしれない。
 柘植家も「寛永諸家系図」に高棟王流と記載があります。
[7]服部 明子さんからのコメント(2002年01月29日 00時14分23秒 ) パスワード
  

<6>

 川口家が広島の三原市にあると以前姓氏大辞典でみたことがあります。
 大橋家の続きを述べますと、大橋大膳大夫定広(神王の子)が、大橋家を継ぎ、
次男盛祐が川口家へ、
三男宗祐は家康公に従い蟹江の戦いで討死、
四男広政は三河の大浜社人の一族、長田平大夫政広の養子になり、
その孫伝八郎直勝の時、大江流「永井」に変えのち大名となっております。
女子一人は森小太郎可行の妻となり、
その子孫三左衛門可成、長可、蘭丸等が有名で
森忠政が大名となっております。

もう一人の女子は、服部さんのお指摘の通り蜂須賀小六郎正利の妻となりました。
この家も大名として、明治まで続いております。

 次男盛祐の妻は、大河内左衛門佐元綱の娘(華陽院殿)であります。
名前をお富またはお万などと言われており、
徳川家康公の祖父の松平清康の一時、妻でもあった人物で、
家康公の母・伝通院殿の母親であります。
華陽院殿の出生・婚姻について色々と説があり、
この事から家康公の替え玉説、四人説などが発生しております。

 蜂須賀家と一族という事になり、豊臣秀吉公が岐阜に一夜城を築いたときのメンバーに
蜂須賀、川口久助の名前があります。
[8]服部 明子さんからのコメント(2002年01月29日 00時23分44秒 ) パスワード
  

歴史って現代から昔を理解するって難しいですね。

家康のお家って難しかったけどママの方も大変でお祖母さまも大変だったとは知ってたけど
こういう事情とは・・・

>華陽院殿の出生・婚姻について色々と説があり、

今川に人質になった家康を見守る為に引っ越しもしていますね。
戦国時代の女性の人生が哀しいと表現すると華陽院さんなんて涙ばかりの人生だった、
って。

美貌に生まれついた為にあっちの武将こっちの武将に渡されたんだったかな?
最後が水野家だったのかしら?そこで家康の母を生んだんだったかしら?
[9]川口 信さんからのコメント(2002年01月29日 09時14分47秒 ) パスワード
  

 まさにその通りです。服部さんの広範囲にわたる歴史の造詣の深さに感激しました。

 
徳川家康公の長男信康が二股城で自刃し、殉死者の四人の中に中根平左衛門正照の名前がありますが、中根家は大橋家から出た一族で、家紋も同じ茗荷紋を使用しております。正照は織田信長公の弟で二股城主中根忠貞の養子となっていた中根越中守信照の養子となっていた。同人は尾張沓掛城の城主であり、次の城主には川口久助宗勝がなっている。

前述の大橋家四男広政(長田喜八郎)は永井姓に変えた理由は、長田平大夫政広の家は、鎌倉幕府に護送されていた源義頼、頼朝父子を捕らえた家であります。
なので徳川家康公の命で永井(三星一文字)にかえさせられました。

この様に歴史の隠された一部に大橋家は頻繁に出てきます。

[10]さんからのコメント(2002年01月29日 11時52分56秒 ) パスワード
  

>川口家が広島の三原市にあると以前姓氏大辞典でみたことがあります。

なるほど、三原ですか。
すると広島藩主だった浅野氏か、その前の福島氏について来られたのかも知れませんね。


長田氏改め永井氏のことは、以前この掲示板でも話題になりましたが、
大橋家が長田家と縁があったというのは知らなかったです。

どちらも徳川家に仕えて、深い繋がりがあるのですね。
[11]服部 明子さんからのコメント(2002年01月29日 11時53分05秒 ) パスワード
  

永井姓に変えたお話は隈さんの書き込みで拝見しました。
家来の先祖が主人の先祖の家にど〜たらしたということがあったのはまずいから、と。


>この様に歴史の隠された一部に大橋家は頻繁に出てきます。

大橋氏というのは何か凄い家というのは漠然と分かってました。
後醍醐天皇のひ孫の関係だから、というのも分かってましたけど
だからどうなのか?という部分ははっきり表に顕われなかったので分からなかったです。


こうして考えると「浪合記」の記述とか←南朝方の記録
徳川家が新田の4男の得川氏出身という話が
やっぱりそうだったのかな?と思えて来ます。

明治維新以来徳川家を否定するのに政治的に浪合記が歴史的に認められなかった事とか
考えてしまいます。


華陽院さんの実家の大河内家は三河系(源氏)なのか伊勢系(北畠)なのかその他なのか
これもちょっと関心のある所です。
どっちにしろ南朝系だったらいいのに、と思います。

大橋系の家に嫁いだという事で大河内家は矢張り南朝方だったのかしら?と思います。
[12]川口 信さんからのコメント(2002年01月29日 15時18分14秒 ) パスワード
  

 この大河内家は後の知恵伊豆と言われた松平伊豆守信綱の父金兵衛久綱の家と混合している向きがある。
大河内左衛門佐の実父は満澄(住)は三河額田郡寺津(現西尾市)の城主大河内但馬守満成の男とあり、また金兵衛久綱の先祖但馬守国綱の次男とも言われている。
だが、金兵衛久綱の系図には国綱の次男は載せておらず、正確なことはまだ解明されていないが、満澄の初名は桃井源三郎とあるので、桃井姓は南朝の皇子を供奉してきた武士の中に入っているので、南朝方だとおもわれます。
大河内左衛門佐元綱には長男源左衛門重一と次男源次郎政忠がおり、重一は津島大橋家の家督を継ぎ、次男は三河の牧村に住まいし、牧村姓を名乗っている。

大橋和泉守重一の子清兵衛重長の妻は美濃小島日向守信房の女とあり、川口久助宗勝(川口家中興の祖)の母も小島日向守信房の娘でありました。

川口久助宗勝の墓所(塚)の近辺には今現在でも多くの小島家があります。
また、久助宗勝が病に伏せるとき、大御所(徳川家康公)よりしばしば御懇問がり、また、その頃最高の名侍医の延寿院道三を差し向けられ、治療を加えられ御薬を賜ったとあります。
[13]服部 明子さんからのコメント(2002年01月29日 23時16分21秒 ) パスワード
  

それではどっちにしろ華陽院の実家は南朝方になりますね。

三河の大河内家
伊勢の北畠系大河内家

どちらも南朝方なので安心しました。
状況証拠からはそう思ってました。



[14]川口 信さんからのコメント(2002年01月31日 09時47分57秒 ) パスワード
  

備後の川口家については、福島正則に従って行ったといわれ、醸酒業を営むとあり(姓氏家系大事典)とあり、以前、その川口家が華陽院殿(徳川家康公の祖母)の墓所をお参りしたとの記事が広島県の新聞に出ていたとのお知らせを頂いた事がありました。
 川口姓については、川口家の本貫地である尾張井ノ口(現・稲沢市)において、第二次世界大戦後の国勢調査においても井ノ口二百七十戸の町の六割方が川口姓の名乗っており、現在に至っております。また、堀田町においても井ノ口から分かれたとか(推定)言う本が当主から出されております。
 江戸時代は分家した家がありますが、明治からは私共一家であります。
また、京都在住の川口家が判明いたしました。この家は徳川秀忠公の娘東福門院殿が後水尾天皇の女御として入台した時、御付けの武士として、天野豊前守・大橋越後守の配下として伴奉して行き、その後在住してきた家であります。

大橋家のその後
 数年前に大橋源三右衛門家の系図(手書き・原稿用紙に記載)を手に入れました。

 定安ー重一ー重長ー重定とあり、重定の弟正良の項に滝川左近将監益一の感状ありと記載がある。重定の子重国の弟・重賢の項に福島左衛門大夫に仕え、同氏改易のあと松平出羽守に仕えたとある。
 後は土着性が強く、今市場、坂口、岐阜県中島郡とかあります。四家・七苗字党はぞれぞれ土着性が強いのでそれも致し方ないものとおもわれます。

 ほかのスレッドもよませて頂きましたが、名古屋、弥富など懐かしい地名が出てきおり、ちょっと書かせてもらいました。
それと言うのも以前(数十年前)車で出張の時良く通った所であります。まだその頃は東名道路が完成されていなかった時代で国道1号線を東京から、京都に行く時、一日では無理なので、弥富の先の川を渡った桑名の駅前の旅館で泊まったことが、何十回もありした。また、二番目の姉が庄内川のそばの電電公社の社宅に住んでいたものですから、よく遊びにいったものでした。(これは余談です)

 
 


[15]服部 明子さんからのコメント(2002年01月31日 12時09分49秒 ) パスワード
  

桑名の駅前って私は最近しか知りませんが近代化していますよ〜
近鉄
JR
それから阿下喜に行く電車(凄い色使いでビックリ!)
そしてバス

今は名四国道を通って京都に直行でしょうね。
1度桑名の駅前をご覧になって下さい。
たいした町になっています。

今は名古屋のベッドタウンだそうですよ。
(私が知らないだけ?)
[16]川口 信さんからのコメント(2002年02月01日 09時54分24秒 ) パスワード
  

駅前だったかな?1号線よりちょっと駅の方に入った所でした。東名が出来る前などと言ったら歳がバレテしまいましたね。いつの日にか行って見たいものです。

 大橋家と川口家の関係が何時頃から始まったのか書き忘れてしまいましたので、追加致します。
 正長元年(1428年)伊勢の国司北畠満雅が後亀山法皇(南朝系)の孫にあたる小倉宮を奉じて挙兵した時、津島の大橋家と共に味方し、兵をおこし土岐興安を討ったとあり、その頃から一族となったものと思われます。
 この北畠満雅は北畠親房の養子顕能の孫で、伊勢の国司であったが、土着して大名化し、一応幕府に従っていたが、しかし不満をもっていたので、この南朝の皇胤を利用して挙兵したもの。(読売新聞社:日本の歴史5・北朝と南朝)248頁。
[17]服部 明子さんからのコメント(2002年02月01日 22時38分35秒 ) パスワード
  

南北朝の争いとは延々続いていたのですねぇ。
[18]川口 信さんからのコメント(2002年02月08日 10時09分00秒 ) パスワード
  

 大橋和泉守定安の弟文助盛祐は一族の川口雅楽助宗持の養子となり、妻は大河内左衛門佐元綱の養女於富の方(華陽院殿)であり、その間に生まれた川口久助宗吉は華陽院殿が水野家で産んだ伝通院殿(徳川家康公の母)とは同腹異父の兄妹となり、宗吉の子、久助宗勝は徳川家康公といとこの関係にあたります。

 江戸時代においては葵紋を無断で使用しただけで、死罪を科した例があるほどなので虚偽の事を書いたり、述べたり出来る筈が無くこの事のことは明々白々の事実であります。

 それらの事を良く示している事は、川口久助宗勝が関が原の戦いで、西軍に組みした。戦後処理において西軍の諸将は斬首や所領没収、配流などが行われ、川口久助宗勝も同様に所領を没収され、陸奥の伊達政宗のもとに召し預けられ慶長十年に、赦され華陽院殿のゆかりのものとして二代将軍秀忠公に召しかかえられ、旗本として存続した。
 
 川口久助宗勝は慶長十七年に知行地・青菅村(現佐倉市)で没したが、その墓所は大塚(上円下方墳)とよばれ、その近辺には殉死した家臣の墓も魚鱗のように点在している。その後宗勝の三代孫の川口源左衛門摂津守宗恒のもとどりが埋葬されてから「もとどり塚」とも呼ばれている。

 
[19]服部 明子さんからのコメント(2002年02月08日 12時18分08秒 ) パスワード
  

西軍にお味方でしたか。
どういう事情だったのでしょうね。
[20]川口 信さんからのコメント(2002年02月09日 09時54分58秒 ) パスワード
  

あまり自慢出来ない話ですが、自ら進んで西軍に組したの訳でなく、やむを得ない事情があったのでした。

川口久助宗勝には他の大名と同様に東軍に参加する可しとの手紙(慶長5年8月4日付・市橋下総守、以下十人連盟宛の中に名前を見出せる)をもらった。その頃大名は全部で214人いたが、家康公は7月、8月、9月の関が原開戦まえ3ヶ月間に180通の書状を豊臣系大名に送っている。そのうち99人が東軍として参加している。関が原の東軍の勝利はこのように事前の下工作により戦わずして決定していたと言っても過言でない。(出典はどこだか失念してしまいました。)

 このような状況のなか川口久助宗勝と中江式部少輔は大阪城に居たところ小出播磨守、片桐市正の指図にて「関東へ参り、今度上方一乱の事は、幼君秀頼公の思召にあらず、奸臣共私の結構なるよし、内府公御父子へ告奉るべし」と命ぜられ、大阪を出立せし所、益田長盛、長束政家途中に於て是をとどめ、「関東へまかる事あるべからず。早々に安芸宰相殿旗下に属して、安濃津城の責手に加わるべし」とあり、両人」心ならずも関東へ下らず、寄手の人数に加はりけり・・・「後改正三河風土記」より

 川口久助宗勝の妻は、織田家の家臣福富平左衛門直貞の娘であり、父福富平左衛門は本能寺の変で討死しました。

 これより「江南郷土史研究会報・平成6年3月号より」転載
服部さんの他のスレッドに関係するのですが「討死衆の中に服部六兵衛、服部小太、河野善四郎、善五郎、与十郎、小鶴等」の名前が見出せる。(昭和57年信長公400年忌法要の記念誌より)

 明智光秀、細川幽斎が丹波責めに出陣した当時から、両者の軍監として命ぜられたのは斎藤内蔵介利三であり、利三の母は蛭川道斎の妹で利三の娘は四国の長曾我部元親の妻となり、また利三の娘お福は即ち後の春日局である。軍監役と云えば、信長の直臣である。直臣の利三と光秀が本能寺を焼討している。いずれが首謀者なのか、案外黒幕の立役者は内蔵介であったかもしれないのである。利三は稲葉一鉄の家臣であった。お福は利三の三女で、稲葉佐渡守に嫁し、四人の母であった。縁故関係もあって稲葉一鉄は斎藤利三を光秀から取り上げ、美濃に帰属させるよう幾度も信長に訴えている。利三は信長の要請にも応じなかった。本能寺の変は利三の争奪が原因になった可能性もある。

 山科言継卿記には
 斎藤利三については、六月十七日斎藤内蔵介、今度謀反随一也、堅田ニ牢籠、則尋出、京洛中車ニテ渡被、於六条河原ニテ被誅了・・とある。
謀反随一也とあって、信長殺しの張本人は光秀ではなく斎藤内蔵介利三という印象が強い。 
 加えて徳川家康公は、なぜ謀反随一の娘で、四人も子のあるお福を登庸して、三代将軍家光の乳母とし春日局の官位まであてたのか、疑問を持たざるを得ない。とある。ご参考までに・・・


[21]服部 明子さんからのコメント(2002年02月09日 11時37分21秒 ) パスワード
  

織田信長暗殺の謎がまたまた深まりましたね。
ま、信長を恨んでたのは天皇はいざ知らず全ての人間に動機があったと言ってもいいぐらい
「お福さん」が家光の乳母になった経緯というのもかなり怪しいですね。


>川口久助宗勝には他の大名と同様に東軍に参加する可しとの手紙
>(慶長5年8月4日付・市橋下総守、以下十人連盟宛の中に名前を見出せる)
>をもらった

おっ!市橋さんが出ましたね。
信長の家来というか、いかにも名古屋のお金持ちというか、
信長の暗殺と共に影が消えてしまいましたが℃
[22]川口 信さんからのコメント(2002年02月14日 10時03分42秒 ) パスワード
  

尾張津島四家・七苗字党の中に堀田氏を見出せますが、津島時代に二流に分かれる。ひとつに正泰の長子之盛系と、二子之定系である。前者は津島の豪族として武力、財力を持ち、江戸時代は大名家、旗本家を出しており、後者は津島神社の社家として、右馬太夫を名乗った。この家から番頭太夫が分かれて、商家として栄える。現在も右馬太夫家、番頭太夫家は津島に残っている。

 大名となった堀田正盛の三男正俊は前述のお福(春日局)の養子でもあった。知行地は安中(現群馬県)である。その後を継いだ正仲が延宝8年領国に向かった。途中熊谷を通り、深谷を過ぎ、岡部に宿をとった。近くに六弥太の古塚を探し当て古塚に詣でた。
 六弥太は一ノ谷の合戦で敵の名将平忠度を討ち果たした武士で墓所である塚は荒れ果て、若草に覆われてしまい詣でるものがなかったそうであった。

 平忠度は清盛の末弟で落日の平家を支えんとして花と散った武将である。歌人としても名高く「平家物語」中、人気の高い人物である。源三位頼政追討の大将軍三人の中の一人であり、南都三井寺攻略軍の副将軍、富士川の合戦、近江源氏征伐にも副将軍としても活躍。最後に木曾義仲追討の副将軍としたが、戦い利あらず、敗れて西国落ちの途中、京都に立ち寄り・・・・(詳しくは他スレッド:平忠度を参照)このくだりは「平家物語」中の白眉である。

 堀田正仲は伊香保滞在中、東に降って渋川に行き、白井寺に詣でた。岡部六弥太によって一ノ谷で討たれた平家の名将平忠度の塚がある寺である。この夜、伊香保に帰って正仲は是味を相手に琵琶を奏でた。「平家物語」の一節である。
(堀田正久著:堀田家三代記より)
 実は数年前に姪の結婚式で渋川に行ったことがあります。(渋川神社おいて)この事がわかっていたら自分もお参りしたかったと、残念であります。何んで一ノ谷で討たれた平忠度の塚があるのか、浅学のためわかりません。

 別の話ですが堀田正貞の第2子正昌は福島正則の手に属し、最後まで帰属不明の小早川秀秋陣に対し鉄砲をうちかけ、正則から感状を与えられた。正昌は後(福島家改易後)堀田正盛に属し服部姓を名乗った。
[23]服部 明子さんからのコメント(2002年02月14日 10時31分44秒 ) パスワード
  

服部家ホンヤさんからお聞きした話ですが

最近の尾張藩藩主の座は堀田家から養子に入った方だそうです。
尾張藩は最近(いつからか知らないとおっしゃってましたが)
1代おきに養子を迎えることにしてるそうで
例え男子が生まれても

最近の方がホンヤさん宅にいらっしゃって
堀田家から相続した
とホンヤさんにおっしゃったそうです。


[24]川口 信さんからのコメント(2002年02月21日 10時36分49秒 ) パスワード
  

前に述べた「大橋家系図」、「堀田町の歴史と川口家祖先」と言う本を手に入れた間の事情は、堀田家ご子孫堀田正久氏が佐倉市歴史編纂委員達と一緒に愛知県を訪れた時、随行した川口家祈願所・称念寺御住職の小島令考氏(故人・川口家筆頭家臣のご子孫)から頂いたものであります。
大橋家系図によれば堀田家との婚姻関係もあり、また服部茂八、彦右衛門、某等の妻になった人物も見出されます。
この大橋家の系統は尾張徳川家々名簿「士林泝・」にもこの系統を見出せます。
 
 日本城郭全集7(愛知県・岐阜県)によれば「鯏浦城」は服部左近将監が城主であったと伝えられており、この鯏浦部落には「服部」姓が多いことから、この城も土豪の城砦であったと考えられ、その土豪が血縁関係的集団を形成して部落を成立せしめたものである。これは後醍醐天皇の子孫が大橋家に落ち着いたので随行・護衛してきた四家・七苗字等が津島を中心に土着したものと思えます。

 また、甚目寺寺領御配當事の文書・正保二年にも服部小十郎の名前も見出せます。
この甚目寺には川口盛祐宗定、同文助宗吉が埋葬されていると伝えられていますが、前述佐倉市歴史編纂委員が探したが不明だったということです。
[25]さちこさんからのコメント(2002年02月21日 14時26分05秒 ) パスワード
  

川口さん
いつもとても興味深く投稿を読ませて頂いてます。

服部左近将監の名がでてきましたが、
この人物服部友貞と同一人物か或いはその一族とされているみたいですがよく判らないのです。
どなたか詳しいことご存知ないですか?

桑名によく宿泊されたことがあるとか。
桑名は大橋さんの多いところです。
四家七名字の大橋家との関連は判らないですが、
桑名の大橋家とはとても相性がいいのです。
明子さんに当然!と言われてしまいそうですが。
大橋さんに対する私のイメージは謙虚で誠実それでいてあまり細かいことにこだわらないさっぱりした人という感じです。
我が家では親しみをこめて?オオハッサン、カワグッツゥァンなどと呼んでます。

明子さんが見たという派手な電車ってもしかして黄色とオレンジのですか?
それは四日市の富田から藤原へいく電車です。阿下喜線と並行してます。
私はそれに乗って通学してました。派手で悪かったわね!

[26]川口 信さんからのコメント(2002年02月21日 16時33分57秒 ) パスワード
  

さちこさん 初めまして
 他のスレッドで色々拝見させてもらっています。あっちのスレッドは何か結びつきが強くて、シャイな私にはとっても入り込めない感じで、指を咥えて拝読させてもらって満足していました。
 あちこちに行き活躍しているご様子羨ましく思っていました。
私の知識は受け売りが多く、ご期待の添えないかと思いますが、今後色々と調べてみたいと思います。
 前述の服部将監が居城していた所が他にもあります。名古屋市御器所東城(現・御器所三丁目)とあり、かって、ここの村長に文之右衛門という人がおり、服部党を称してたいたというから、将監の支裔であろといわれている。
 
 ちなみに川口源左衛門宗恒(長崎奉行その後江戸町奉行)の妹が幕臣の服部興左衛門信成のところに嫁にいっております。

 よく行く図書館が耐震工事で3月末まで休館で調べに支障をきたしております。あせらず地道にお調べすればきっと良い結果が出てくると思います。
[27]服部 明子さんからのコメント(2002年02月22日 02時08分35秒 ) パスワード
  

甚目寺町の有力者?に服部某という凄いコワモテの人がいると聞いています。
ふふふ
教えてくれた人の表現では頬に傷がある系に見えるって。

でもワタクシは「昔の豪族の血が今出てるんじゃないか」と身内贔屓で解釈してます。
あはは

やっぱり甚目寺町あたりも一族がバッコしてるのですか。
[28]川口 信さんからのコメント(2002年02月22日 13時51分06秒 ) パスワード
  

またまた、本の中から。 
 「蒲生氏郷」(横山高治著:創元社・1991年発行)と言う本があります。
蒲生氏郷といえば、大河内城攻めに参加した武将です。攻められた北畠具教の家来に勇敢に攻め手に切り込んでいった武士の中に服部民部少輔という名が見出せる。
 織田信長は天正2年長島一揆討伐、3年から8年まで大阪石山本願寺攻めなど、戦い戦いの明け暮れであった。
そんな中伊賀天正の乱は2度あり、第一次は北畠信雄(信長の第2子)が攻めたが、北畠氏の旧恩に感じ、信長を憎む伊賀の土豪、国侍、男女百姓までが結束し戦っため、信雄ほうほうの呈で逃げ帰った。信長は怒り、信雄を叱りつけた。
 第2次は天正九年九月、氏郷は他の武将とともに近江に甲賀口から伊賀・玉滝村に進入、佐那具(上野市)で近江・信楽口から入った軍と合流、十一日には佐那具城を陥落させ、伊勢から北畠信雄を迎え入れ、休む間もなく南下、小波多、東田原など名張方面の諸城を陥落させた。伊賀衆は4千人の地侍と男女が死を賭けて華々しく抵抗を繰り広げた。だが多数に無勢で多くの生命が失われた。(名張では郷士百八十四人、男女五百余人が惨殺)

 伊賀は一里四方の狭い山国ながら、都のあった京、奈良に近く、戦略的にも重要な地であったことから、古代から渡来人達が移り住み、平安末期には桓武平氏の一流、伊勢平氏の一流が入って独特のアルカディア(桃源郷)を築き、時々、他により支配を受けたが一種の治外法権だったとある。

 文中に著者が伊勢大河内城を北畠具教の末裔、朝日新聞論説委員・北畠清泰氏、北畠家臣会幹事長・服部哲雄氏とともに訪れたとあります。
同服部氏に聞けば名家の血筋を守る人なので、服部家の詳しいことがわかるやも知れません。だが本が発行されたのが1991年とあるので?

 ちなみに、蒲生氏郷は40歳で若死に、ついで倅の秀行も30歳、孫の忠郷も25歳で夭逝し、そのあと蒲生家の跡目を伊予の松山に移って立てた孫の忠行も30歳で早世し、遂に蒲生家は断絶した。これも伊賀を攻めた何んとかか?

 その後筒井氏が平楽寺城に入るが、長くはもたなく、関が原前後に内部崩壊してしまった。代わって藤堂高虎がに入国し、伊賀衆の協力を得て、伊賀上野城を築き、服部半蔵の甥、保田采女を城代家老にして、善政を施し、やっと鎮撫したということです。
[29]服部 明子さんからのコメント(2002年02月22日 21時55分41秒 ) パスワード
  

>北畠具教の末裔、朝日新聞論説委員・北畠清泰氏、

この人の事は、具教に子孫がいた、という話で読んだことがある記憶です。


>北畠家臣会幹事長・服部哲雄氏

この人は知らない。
[30]さちこさんからのコメント(2002年02月23日 13時03分48秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年02月23日 13時05分16秒
[31]さちこさんからのコメント(2002年02月23日 13時10分51秒 ) パスワード
  

慌ててリンク先のアドレス間違えましたあとでまた。
[32]さちこさんからのコメント(2002年02月25日 13時51分36秒 ) パスワード
  

大変失礼しました。
浪合記の現代語訳があるのでご存知ない方に参考にと思ってアドレスを書きました。

http://homepage1.nifty.com./sira/n-index.html

川口さん
シャイだからとおっしゃらずにぜひ色々とご意見おきかせください。
そういう私も服部家関連のスレッドにしか投稿してなくて、
なんだか明子さんと隈さんの金魚のフンみたいになってますが。

服部友貞と将監は別みたいですね。
まあこの頃には裏切り者もいるぐらいだから色々な服部家があったのでしょう。
北畠家臣会の幹事長が服部さんですか。
現在の尾張藩主がホンヤさんの所に挨拶に来たというのも驚きましたが、
こういう関係って綿々と続いているのですね。
また何か判ったことがありましたら是非教えてください。
この服部さんご自分が伊賀の服部家だとはご存知ないかもしれないですね。
いちど連絡してみたほうがいいのかしら?
友貞暗殺のことも何かご存知かも。

[33]さちこさんからのコメント(2002年02月25日 13時58分38秒 ) パスワード
  

http://homepage1.nifty.com/sira/n_index.html

何度もすいませんこれで違ってたらもう知りません。(涙)
[34]川口 信さんからのコメント(2002年02月25日 15時28分59秒 ) パスワード
  

さちこさん、浪合記のホームページの掲載有難うございました。
 実は「堀田町の歴史と川口家祖先」に信濃宮伝として載っており、供奉の武士達の名前が書き並べており、服部伊賀守宗純が見出せます。上毛俗話第十三集「火伏せの虚空蔵」(上毛古文化協会発行)にも浪合で供奉の武士が良王を守って、応永の残党を討ち取ったとあるが、その武士達が翌日自殺するという事態が生じたとあり、その石碑は信州浪合村聖光寺にあると言われております。
 後でゆっくりとホームページを見てみるつもりです。
 前述の服部氏は北畠具教の家臣団のホームページに記載のある服部民部少輔のご子孫だと推察されます。
[35]服部 明子さんからのコメント(2002年02月25日 22時26分52秒 ) パスワード
  

>上毛俗話第十三集「火伏せの虚空蔵」(上毛古文化協会発行)にも
>浪合で供奉の武士が良王を守って、応永の残党を討ち取ったとあるが、
>その武士達が翌日自殺するという事態が生じたとあり、
>その石碑は信州浪合村聖光寺にあると言われております。

石碑があるのですか。
見に行きたくなりました。
[36]川口 信さんからのコメント(2002年03月09日 09時36分49秒 ) パスワード
  

「江戸参府旅行日記」(ケペルン著・斎藤信訳:平凡社刊)と言う本がある。
 これはオランダ東インド会社の長崎出島・商館長が毎年江戸に行き将軍に拝謁する時(この旅行は元禄4・5年)に随行したオランダ医師ケペルンが旅の様子を日記にしたものです。
 
 まず長崎から彼杵を経て、嬉野領に入り、小田、佐賀、田代、飯塚を経て小倉に着く。小倉から下関は海上三里。引島または彦島と呼ばれる島と豊前国の間の海峡(関門海峡)を通り大阪まで行く。
下関滞在中、下関についての様子が書かれている。

 当時(元禄4・5年)の下関は400から500戸の町で非常に長い通りと何本かの短い横丁や裏通りに家が建っている。翌日出立の日だったが、逆風のため延期され、その間に近くの阿弥陀時(今の赤間神宮)に詣で、水死なさった皇子(安徳幼帝)に敬意を表し、お布施(一分金・2.5ターレル)をあげたとある。外人がお参りするなんて嬉しい限りであります。
 下関からは平家縁りの瀬戸内海を進み、大阪に至る。大阪からは陸路で京都を通り四日市まで。桑名の記述もある。当時入り江になっていて、佐屋川を渡り同じ名前の佐屋村がある。港は浅く沼のような浅瀬で大きな船は通れないので小さな船に乗り換えて宮までゆく。
 東海道を行く時、吉良家の一行が追い越していったとある。また、掛川を通過する時に火災があり町の半分の約200戸が焼失したなどとある。
 江戸に入り将軍に拝謁し、のち江戸在番であった川口攝津守宗恒の屋敷を訪ねしばし懇談したとある。
 
 江戸への往来についてはケペルン一行は29日を費やしている。長崎奉行についてはほぼ十万石程度の大名行列に匹敵するとされており、行程は若干短縮されていると思われる。
 長崎奉行の任期はだいたい4年ぐらいで、江戸初期の馬場三郎左衛門のように14年間が最長で、次いで川口攝津守宗恒の13年間などがある。その間6回にわたり江戸・長崎を往復し、長崎には都合滞在8年間に及ぶ。

 同書によればケペルンの川口攝津守の人物像については、温厚で優しい人であるが、職務については厳しい人だったとある。
[37]服部 明子さんからのコメント(2002年03月09日 14時18分28秒 ) パスワード
  

なかなか貴重な書き込みですから改めてスレッドを立てさせて頂きますね。
[38]川口 信さんからのコメント(2002年03月09日 18時06分40秒 ) パスワード
  

前述コメント中に私の間違いがありました。

 訂正してお詫び申し上げます。
 まず、「ケぺルン」が「ケンペル」の間違いで、「一分金・25ターレル」が「2.5ターレル」に訂正いたします。なにしろセッカチでオッチョコチョイでマヌケなのであります。今後十分に注意して書かせてもらいます。
[39]服部 明子さんからのコメント(2002年03月09日 23時28分36秒 ) パスワード
  

あ、ケンペルですか・・・
聞いた事があるような。

凄い博識の人物で
元々はドイツ人だったかしら?
とにかく好奇心の強い人で
東インド会社に就職して日本に来たんですけど
その時にはオランダ人になってたのだったかな?

日本の「もぐさ」 moxa をヨーロッパに紹介した人ですね。
[40]川口 信さんからのコメント(2002年03月10日 09時08分31秒 ) パスワード
  

 度々お手数をおかけ致しましてすみません。

 ご指摘の通リ、ケンペルはドイツ、ウエストファーレン地方レムゴー市で1651年生まれました。1988年オランダ東インド会社に医師として就職し、彼の知識は旅行で自分の知識を増やし、言語においても広い範囲、ヨーロッパの大抵の言語を話し、またアラビア、ペルシャ、マレー語などまたインド、シャムおよび日本語など理解した。

 後に「廻国奇観」、この中にモグサの事も書かれております。この中でケンペルはオランダ人と言っている。だが、元禄4・5年(1692年)時点ではどうだったのか私にははっきりとした知識を持っておりませんので、今後調べてみます。ご指摘を感謝いたします。
[41]服部 明子さんからのコメント(2002年03月10日 09時21分59秒 ) パスワード
  

>1988年オランダ東インド会社に医師として就職し

おやおや1988年なんて357歳になってしまいますね。
大丈夫ですよ。
皆さん、ちょっと書き込み間違いなさったのね、って分かりますから。
[42]川口 信さんからのコメント(2002年03月10日 09時56分34秒 ) パスワード
  

度々、誤植のご指摘、穴があったら入りたいところです。1688年でした。(赤面のイッタリキタリです。)

 ドイツ人であったケンペルがオランダ人と言っている訳が分かりました。

 日本は1639年(寛永16)以後、オランダ以外のヨーロッパ人の来航を禁止したが、ウエストファリア条約(1648年)まではオランダが国際法の上では神聖ローマ・ドイツ帝国の一部と見なされていたため、その後も多くのドイツ人がオランダ東インド会社の関係者として来日した。

 平成2年(1990年)はケンペルが来日300年にあたり、日本各地(東京・大阪・横浜。長崎)で「ドイツ人の見た元禄時代:ケンペル展」が開催されました。上記文章はその時に発行された本(170ページ)に記載がありましたので。 

 その事は他のスレッドの方にまとめて書いてみます。
[43]服部 明子さんからのコメント(2002年03月10日 19時33分34秒 ) パスワード
  

あ〜、なるほど〜

そうでしたね。
ドイツ人と称するよりオランダ人として日本に入国する方が安全ですね。
[44]川口 信さんからのコメント(2002年03月29日 12時23分44秒 ) パスワード
  

[14」に記述しました、京都在住の川口家とは徳川秀忠公の娘東福門院殿のお付の武士として伴奉して行った家であります。以前姪の結婚式で京都を訪れた時、突然同家を訪問して御母堂様にはお目にかかって来ました。

 当川口家は戊辰戦争の時、下谷に住まいがあり、戦火にかかり、家財が焼かれ焼失し、また他の武士と同様、禄を失い、生活は困窮し、明治4年廉十郎信政、妻すみ、芳次郎信行妻とよ、明治29年芳次郎信行など死亡し時代とともに目まぐるしく世代交代し、住居なども色々と転居し、同族川口家とも連絡が途絶え、往来もなくなりました。父も私が二十歳の時に亡くなり、何も聞かされていませんでした。

 そこで過去帳など便りに元知行所の先祖の墓所を訪ねた訳であります。
 先祖の地を訪れた時、墓(大塚)や、樹齢数百年の古木を見、遠い先祖や家臣達(命日には代参していた)もこの樹木を見ていたのかと思い暫したたずんだのを思い出します。
 そこで川口家の菩提寺・正福寺(代々の住職が青菅鎮守稲荷神社の別当職であり、墓所の管理の管理に当たっていた)、祈願所として再建されていた称念寺を訪れ、住職より明治末期に祖父が訪れたとの口伝が残されていました。また以前、京都の川口家の長男が訪ねたと聞かされ、住所を聞き、賀状の交換が始まったのです。

 その長男の方にはまだお目にかかった事はないのですが、つい先日、定年になったので、まだ一度も会う機会がなかったけれど、会う機会が持ちたいとの挨拶の葉書がまいりました。現在は名古屋に居住しておられますが、早い機会に会いたいものです。会うとすれば元和6年(1620)以来となり、実に380年ぶりとなります。これも同族の血が引き合う成せるわざかと思い感無量であります。

 明治以後は祖父(安政5年生まれ)、父と2代にわたり、北白川宮家(明治天皇第九皇女、房子様が嫁いだ宮家)につかえ、私はその宮家官舎で生まれました。

 現当主は北白川道久様で御母上様(祥子様)は尾張徳川家分家の徳川義恕の娘であります。

 なぜこのような事を書こうと思ったのは
分家よりハガキがきた事、検索で服部神社を探していた所、真清田神社の中に服部神社があり、拝殿の間の祭庭に伊勢神宮祭主の故・北白川房子様の御歌の石碑があり、御神楽「桃豊舞」(とうほうまい)の神楽歌として重儀の祭典ごとに、神前で奏されているそうです。私は実際に房子様にお目にかかったことありますので懐かしくなったり、御葬儀の際も母とよ(故人)と出させて戴きましたのが動機であります。
 
[45]服部 明子さんからのコメント(2002年03月29日 21時25分45秒 ) パスワード
  

思わぬところで思わぬ情報に接するとはネットの利点ですね。

それにしましても380年ぶりに一族の方と再会とは凄い!
普通は知らないままに他人の関係になっていくのでしょうが。
興味深いお話をご紹介くださいね。
[46]さちこさんからのコメント(2002年04月19日 17時37分16秒 ) パスワード
  

下世話な話題に変えてしまうようで申し訳ないですが、
和泉元彌ママの実家が大垣の大橋家らしいですね。
旧家でかなり立派なお宅みたいですが、
四家七苗字の大橋家とは関係あるのでしょうか?

私の知ってる大橋さんとは随分感じが違うけど。
個人的な感覚では元彌ママは大橋巨泉の大橋家に近いイメージがありますが(笑)

東福門院像の写真をみました。
とても品のいい可愛いお顔をされてました。
秀忠の娘でしたら服部家とも縁がありますね。

柳営婦女伝という古文書、多分ホンヤさんの系図と出所が同じ?
と思われるものですが、それには西郷局(お愛)は笠乃助の娘とだけありました。

また服部出羽守の子と伝来の子は明智光秀の嫡孫。
実父明智というのはまずいので、松平家の養子にしたなんて書いてありましたが。
松平の養子にするのはもっとまずいのではと思ったのですが。
服部家と明智の関係がまずいのかと勘ぐったりしてます。

川口さま
真清田神社は一宮にある神社のことですか?
[47]川口 信さんからのコメント(2002年04月19日 21時26分34秒 ) パスワード
  

さちこさん、ご無沙汰しております。

 まず美濃の高須と尾張津島は大橋家の領地でありその近辺には分家が沢山あります。江戸時代においても美濃に住んだ尾張の大橋家が数家ありますので同族と考えて良いとおもいます。家紋が抱き茗荷に一文字なら本物です。

 「柳営婦女伝系」とは徳川幕府の夫人達の系図および出身家の由来などをかいたものであります。柳営とは幕府のことを現す言葉で、幕府旗本子孫の会は「柳営会」といって百数名の会員があると聞いております。

 宝台院西郷氏於愛の方は遠州の住人秋山十郎の女、伊賀者服部平太夫の妹、三州の住西郷弾正左衛門正勝の養女なり(徳川幕府家譜)、一女於愛の生母は西郷弾正左衛門正勝の女である。於愛は初め蓑笠之助正尚の養女になり、西郷正勝の嫡孫義勝に嫁いだと記したものもある。

 西郷正勝は初め今川義元に仕え、のち家康公に帰属し、子の元正は、今川の武将に攻められ父子とも討ち死にし、元正の子義勝は幼少であったが、祖父の遺跡を相続し、諏訪定久の女を娶り、のち蓑正尚の養女於愛と結婚し、武田信玄の武将秋山晴近が三河竹広に出陣したとき、討ち死にし於愛は寡婦にそして、家康公は蓑正尚の邸に赴いて於愛の方を側近に召抱えた。

 服部出羽守保章の娘は明智光秀の後妻になっておりますが、それを繕ったのではないと思いますが。

 真清田神社はさちこさんの言う通りで、一宮にあります。

 http://www.coara.or.jp/~yukomomo/masumidatoukasai2.htm

 です。

 また、さちこさんに聞きたかったのですが、他のスレッドではなかなかお聞き出来ないので、二宮尊徳翁を語る時に必ず出てくる人物に服部十郎兵衛(?)と言う小田原藩(2次大久保家)の家老がおりますが、先祖は名張の出とありますが系統的にはどの系統ですか。ご存知でしたらご教授ねがいます。
 前にも書きましたが川口源左衛門宗恒の娘が幕臣の服部興左衛門信成の所に嫁いでおりますので服部家には興味があります。来週でも図書館に行って幕臣の服部家の系譜をコピーしてきます。
[48]服部 明子さんからのコメント(2002年04月19日 22時36分20秒 ) パスワード
  

>川口さま
>真清田神社は一宮にある神社のことですか?


真清田家とは蜂須賀小六の奥さんの実家じゃなかったですか?


節子さんは金城学院のご出身だそうですね。
大垣から金城学院に通ったなんて
ワタシも大橋家ってあの大橋家のご出身かしらと思っています。
[49]さちこさんからのコメント(2002年04月20日 12時20分03秒 ) パスワード
  

そうか・・・。これからは和泉元彌さんのお母様とお呼びしなくては(笑)

二宮尊徳関連の服部家はよく判りませんが、
いちど調べてみます。
でもあそこはとても贅沢をしていたとか?(なんかそんな話だったような)
ならうちの服部家とは少し系統が違うかも。
うちの服部家はとにかくケチが多いのです。

うちの祖父など、
 ウチワで顔をあおぐなウチワが悪くなる。
 ウチワの前で顔を動かせ。
というぐらいのケチだったらしいです。

[50]川口 信さんからのコメント(2002年04月26日 10時22分38秒 ) パスワード
  

 「寛政重修諸家譜:18」を図書館で借りてきました。この本に川口家と婚姻関係があった「幕臣・服部家」が記載されており、下記のとおりです。

 平氏にして葛原親王の後胤伊賀平内左衛門保長が男平内兵衛保清、伊賀国服部に住せしにより家號とす。保清九代の孫を修理亮保宗とし、其子を伊賀守宗純とし、その子を左京亮宗家とし、其子を伊賀守宗信とし、その子を左京亮宗政とし、政家は宗政が男なりという。権大夫政信の時に(四千二百九十石餘)知行しております。
 この服部家は「寛政重修諸家譜・1171」で左京亮政家から始まっており、服部権大夫政信が四男信成(千五百石)が別家を立て、妻が川口久助宗次の女とあります。(前回書いた川口源左衛門宗恒の娘じゃなくて、兄妹になります。ペコリ)。服部興左衛門信成の子供・信親(母は川口久助宗次が女)も別家(三百石)を立ております。平宗清の子孫服部家・伊賀守宗純の末裔(1172)もあり、家譜には服部石見守(半蔵家・1168)、呉服明神の神職・服部家(1170)、平氏服部家(1173)などものせており、微妙に違います。

[51]服部 明子さんからのコメント(2002年04月26日 12時19分24秒 ) パスワード
  

ありがとうございます。

昔は漢字に限定が無かったので書く人がテキトーに代用したりするので混乱しますね。
でも、その漢字の用法1つで、家の特定が出来たりもしますから
子孫が勝手に戻したりする訳にもいかないというのを経験しております。

伝わったのを有難く伝えていくのが良いようです。

いろいろ矛盾を見つけたりしますけど、お家の秘密が隠されてるのかも、と思い
空想するのも亦楽しうございますし。


貴家の川口家と服部家が婚姻関係にあったというのは
やっぱり縁があったからでしょうね。
「あそこの家なら信頼出来る」
なんてね。

そういう先祖の知恵など感じます。
[52]福富直系さんからのコメント(2002年05月07日 14時50分53秒 ) パスワード
  

「福富平左衛門」を検索してたどり着きました。
本能寺の変で討ち死に、とありますが、本能寺の変で女子供何人か連れて、生き延びました。討ち死にしてません今は岡山に墓があります。
[53]川口 信さんからのコメント(2002年05月07日 15時38分16秒 ) パスワード
  

 福富さん、初めまして。

 当川口家は美濃・尾張を地盤にしてきたもので、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等に仕えてまして現在に至っております。
 
 当川口家中興の祖・川口久助宗勝は母は小嶋日向守信房で妻は織田信長公家臣福富平左衛門直貞が女とあります。慶長十年に徳川家の御家人として馬飼料二千五百石をもって召抱えられた訳ですが、妻が本能寺の変で亡くなった織田家の有名な武将・福富平左衛門の娘であったので妻共々家康公にお目見したと家譜に記されております。

 こんなに時代を経てご子孫の方からお便りを頂くとは思ってもみませんでした。私もこの一月からこの「平家物語を熱く語る」に参加したばかりで、色々勉強中ですが今後とも宜しくお願い申し上げます。
[54]福富直系さんからのコメント(2002年05月08日 16時01分17秒 ) パスワード
  

川口様
どうもお返事ありがとうございます。
どこを見ても「平左衛門、本能寺の変で討ち死に」
となっているので、それが表向きの歴史なのでしょう。。。

母方の私の祖父が福富直系の本家です。
もう亡くなったので、私の母の弟が今は本家となります。
本能寺の変では、信長側の女、子供を連れて秘密裏に逃げたとの事です。

面白いことに、私の父を辿ると「蜂須賀小六」にいきあたります。
ここは、あまり詳しくは知らないのですが。。。
夫婦、何も知らず結婚したのですが「血が血を呼ぶ」とはこのことか、と
おもしろいなあ、と思っております。
先祖同士、話をしたこともあっただろう、と思います。

ついでですが従兄弟が那須与一の直系子孫、本家です。
でわ、また遊びに来ます。
[55]川口 信さんからのコメント(2002年05月08日 17時47分19秒 ) パスワード
  

そうですね。一般に言われている事、史実がすべてだとは言いませんがこれを覆すことは大変に難しい。

 だが本能寺の変で福富平左衛門が死んだのは「確かかもしれません。」本能寺の「本能寺之変戦死陣没之各霊」には七番目に福富平左衛門の名が記されております。

 本能寺の変で一時逃れたかも知れないが、その後「隠遁」する必然性が無く、源平合戦、関が原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣などで逃れ、各地に隠れ住んだことは良く聞く話ですが、本能寺の変はすぐ豊臣秀吉公によって戦後処理が行われており、武勇で名の通った武将である福富平左衛門が岡山でその後名も上げず、川口久助宗勝の妻であった娘にも無事を知らせず、余生を送ったことは何故か知りたいものです。その辺のところ仔細がなければこのスレッドで披露くだされば先祖様の供養、史実を改めることに大いに役立つものとおもわれます。

 実は5月5日にコピーや本の整理をやっていたところで、其の中に「梶原景時と山姥物語」というものがありまして福富家関係の文章があり読んだところで、その次のつぎの日にこのスレッドで福富家のご子孫からコメントを頂き「血が血を呼ぶ」とは不思議でこれも何かの縁と思い、また「蜂須賀小六」と関係があったとはまたまたビックリ。

 「山姥物語」とは景時の次男平景高の遺児豊丸君のち梶原景親公を守護して尾州丹羽郡羽黒村に落ちのびた景時家臣福富万蔵国平ら七家臣にまつわる物語である。この福富万蔵の末葉が山姥退治の主人公福富新蔵である。福富家は代々羽黒城主に仕えたが織豊期には二条城で討ち死にした福富平左衛門がある。と記載されてあり、新蔵の墓が羽黒高橋の村墓地にあり、現当主は神戸に住まいとのこと。また、福富が筋目、鳴海高橋に福富作左衛門とて百姓にて代々を経るとありました。これは福富平左衛門直貞以前の話ですが参考に。
[56]服部 明子さんからのコメント(2002年05月08日 23時39分42秒 ) パスワード
  

面白いですね。
「引き合う」ものなんですねぇ。

川口さま、福富さま、
新しいスレッドを是非お立てになって下さい。
[57]福富直系さんからのコメント(2002年05月09日 09時07分17秒 ) パスワード
  

あ、新スレッドなんて立てられるのですか?分からなかった(笑)
「新蔵の墓が羽黒高橋の村墓地にあり、現当主は神戸に住まいとのこと。」
とありますが、これは平左衛門の本家の人間ということでしょうか?
それとも別の人でしょうか?
すいません。。。私こういうお話がすぐ理解できるほうでないので。
私の母の弟(私のおじ)が今では福富の本家にあたりますが、
今神戸に住んでいます。
[58]川口 信さんからのコメント(2002年05月09日 09時27分11秒 ) パスワード
  

 〉福富新蔵の墓は羽黒高橋の村墓地にあり、延慶二(1308)戌六月廿九日、甚四郎建立の刻銘がある。山姥退治から四十七年後で「羽黒興禅寺記録」によると神戸市中央区○○3丁目、福富○○氏とのことです。他家のことなので伏字にしましたけれど、本文にははっきりとかかれています。私はそれ以外の情報を持ち合わせていませんので、これ以上のことはわかりません。

 川口孫作宗信の母は福富平左衛門直貞の娘であり、貴家とは同じ血がながれています。養子は一度も入っていないので純血です。今後とも色々とご教授のほどお願い申し上げます。
[59]川口 信さんからのコメント(2002年06月10日 13時53分54秒 ) パスワード
  

[14]より
>川口姓については、川口家の本貫地である尾張井ノ口(現・稲沢市)において、第二次世界大戦後の国勢調査においても井ノ口二百七十戸の町の六割方が川口姓の名乗っており、現在に至っております。また、堀田町においても井ノ口から分かれたとか(推定)言う本が当主から出されております。

上記文章に関係する民話がありました。稲沢市のホームページの中で稲沢のむかしばなし:井之口町に伝わる「井之口村の川口どん」というお話です。
 
 昔、お侍には名字があったが、お百姓さんや商人には、名字がなかった。ところがあるとき、お百姓さんにも名字をつける法律ができ、井之口村の人たちは、大喜びした。
「わしらにも、名字がつけられるそうな」
「でも、どんな名字をつけたららいかのう」
 お百姓さんたちは、それ以来、仕事もせずに、毎日毎日、どんな名字にしようかと、考えていた。これを見た地主は、「みんな、もっと仕事に、精をださにゃあかん」と、しかった。お百姓さんたちは、しかたなく、ぶらぶらと田畑へ、でかけていった。ところが、田畑へ行ってみると、野菜や稲が、枯れかかっていた。
「地主様、えらいこっちゃあ。水がどこかへ行ってしまった。」「何、水がない」
 さっそく、地主様をはじめ村の人たちは、表に出た。でも、家の前の川には、たっぷりと水があった。
「うーん、これはおかしい。よし、様子をみにいこう」
 みんなは川の堤防を、くだっていった。途中、橋のところまできたとき、子どもたちが、何やらさがしておった。地主様はきいた。
「何してるだ」
「おれのぞうりが、川にくわれちまっただ」
「川にくわれたと」
 みんなは橋の下をみた。すると、食べかすや草などの大きなごみが、たまっていた。
「ははー、これだな原因は」
 地主様は、さっそく村の人たちに、引き上げさせた。そして、つぶやいた。
「あのまま、川の口がふさがっていたら、作物はみんな全滅じゃった。あの川の口が・・・。そうじゃ、わしの名字を”川口”にしよう」
 村の人たちは、地主様が”川口”という名字にしたもんだから、わしも、わしもと、みんな川口にしてしまったということじゃ。現在も井之口町には、川口という名字が多い。 

 こんな話ですがご一興に。
[60]りくぶっちさんからのコメント(2002年06月12日 11時25分30秒 ) パスワード
  

はじめまして。
突然の割り込み失礼します。

愛知県一宮市の浅野公園南側に川口家が5・6件かたまっています。
ご存知のように浅野公園は浅野長政の宅邸跡といわれております。

この川口さん達は浅野家と関係があるのでしょうか?
この川口さん達も平姓川口氏の末裔に当たるのでしょうか?

申し遅れましたが私はこの川口さんの中の1軒と親戚筋に当たる物です。
ご存知でしたらお教えください。
[61]川口 信さんからのコメント(2002年06月12日 13時15分21秒 ) パスワード
  

りくぶっちさん初めまして。
 
 当川口家は前述のように岐阜県より尾張の井之口に進出し、その地で活躍し、織田、豊臣、徳川等につかえ旗本になった家であります。今は先祖のことを色々と調べております。堀田町にも川口家がありますが、紋形等より推測すれば井之口の川口家の分家かもと言われております。明治維新までは代々庄屋を勤めていたそうです。

 現在分かっている川口家家臣達の名前にも小嶋、井原、味岡、棚橋、栗田、林、伊藤など岐阜、尾張関係の名前が多く見受けられます。

 家紋は抱き茗荷を使用しており、宗派は織豊期は真言宗智山派の甚目寺を使用していたとあり、江戸時代初期にはやはり真言宗のお寺、また徳川幕府の関係から浄土宗、知行地の関係から曹洞宗、現在は法華宗のお寺を菩提寺としております。もし宗派や家紋が同じであれば地域から推して計れば一ノ宮の川口家は同族とおもえます。浅野家に関しては今のところ関係はわかりませんが織田家・豊臣家に仕えたことから周辺にいたことは間違いなく、今後調べてみたいと思います。今後とも宜しくご教授ください。
[62]りくぶっちさんからのコメント(2002年06月17日 18時06分13秒 ) パスワード
  

川口さん、ご回答ありがとうございます。

私の遠い記憶では、いつ頃からかわかりませんが宗派は曹洞宗で菩提寺は同じく一宮市浅野山林?の禅林寺だったと思います。
家紋は浅野家に似た家紋で「丸に鷹の羽虫食い」という家紋だったと思います。

江戸時代後期は百姓をやっており、一宮市の浅野近辺ではかなりの土地を所有していたという話を聞いたこともあります。

残念ながら私には先祖を調べる方法・手段がわかりません。
今後の調査に何かお役立に立てればと思いますが、浅野川口家についても何かわかったことがあればお教えください。
[63]りくぶっちさんからのコメント(2002年06月17日 18時23分49秒 ) パスワード
  

ごめんなさい。
家紋について少し訂正です。
「丸に違い鷹の羽虫食い」という家紋だったと思います。
[64]川口 信さんからのコメント(2002年06月18日 09時44分50秒 ) パスワード
  

初めに「丸に鷹の羽虫食い」の家紋は浅野家の家紋で、本家「芸州鷹の羽」(渦巻き)で浅野長矩(ながのり)の家は芸州浅野家(長政)からの分家で、本家と同じ「丸に虫食い(斑点入り)鷹の羽」のぶっちがいを家紋としておりますので浅野「川口家」とおなじです。

 浅野近辺を調べましたところ津島神社が3ヵ所もありました。禅林寺には元禄九年裳裏に墨書きで、万人講願主に川口次平の名前が見出せる。現在の一宮市千秋町加納馬場に川口姓が多く見られ、明治4年の丹羽郡会議員に川口周吾、明治期の織屋川口増右衛門、同末ごろに川口外三郎などの名が見える。(千秋村史)

 津島神社は尾張大橋家の関係した社であり、大橋和泉守定安の法名が崇智院禅林日岳でありますのも偶然なのか。また川口家で「鷹の羽」紋を使用している家は岡山、新潟県西蒲原郡、富士市などに見られる。これは以前手紙でやり取りする時代にご教示くださいました。

 浅野又右衛門長勝(長政の義父)の屋敷跡は中島郡六角堂村(稲沢市)にある(尾張志)。浅野川口家は状況証拠からは同族と思えますが、浅野家と同じ紋を使用しているところから浅野家との主従関係も今後調べてみたいと思います。

[65]川口 信さんからのコメント(2002年07月17日 12時00分46秒 ) パスワード
  

 浅野家について検索していたところ、川口家関係でも江戸城内で刃傷事件をおこした人物がいました。

 江戸時代、千代田城内の主な刃傷事件は8件ほどありますが一番有名なのが浅野内匠頭と吉良上野介の件、若年寄稲葉正休と大老堀田正俊の件、時代は下がって正徳6年(1716)七代将軍家継公の時、小普請奉行多賀主税高国と同役の小普奉行川口権平茂輝(実・美濃部十右衛門茂清が次男)が城内で喧嘩、刃傷に及び両名とも負傷、両家断絶になった。あまり知られていない事件である。そもそも刃傷事件は原因がハッキリしない事が多く、ほとんどが武士の面子によるものか遺恨によるものと言われている。

 また尾張大国霊神社・国府宮(はだか祭で有名)について調べていたら下記のような文がありました。
 
 神職には古くから尾張族の遠祖、天背男命の子孫が代々奉仕して来ました。後に久田 氏を名乗りましたが、暦応二年(約620年前)に久田弥四郎崇政が夜討ちに遭い、 伝来の古記録宝器等皆な散逸したといいます。その子元政が神主となって世襲します が、永正年間(約450年前)に久田氏を改めて野々部氏と称し、累代正神主として 社家を統率しました。その下に権神主蜂須賀氏、中臈として広瀬氏、川口氏、水野氏 、野々部氏、近藤氏、大津氏、加藤氏、服部氏の八家や、神子座、神楽座等十四家が 、夫々所役をもって奉仕し、幕末に至りました。
  http://www.kamnavi.net/en/owari.htm
 
 尾張では昔から服部、川口家等は連帯関係が続いているみたいですね。

[66]服部 明子さんからのコメント(2002年07月17日 12時12分38秒 ) パスワード
  

面白いですね。
南朝時代からなのは確かでしょうけど
もしかしますと
もっと古い時代からのお付き合いだったかも
ですね。
[67]服部 明子さんからのコメント(2002年07月17日 13時13分40秒 ) パスワード
  

服部と大橋の関係はいつから?どうしてかしら?と思い
ちょっといろいろ本を調べましたら

同じく7名字の1つである堀田家は
先祖が「紀長谷男」だそうで

実は平知盛さまの次男だか3男だかの後見人が紀姓なのです。
これで繋がりました。
平家で服部家と堀田家が繋がってたのですよ。

尾張徳川の今?先代?は堀田家から養子にお入りになったそうですから
ホンヤさんとは元々ご縁があったのだ、と。

更に、大橋家は日本全国にいろいろありますが
肥後国山本郡の大橋家は服部貞能の末だそうで。
いつから大橋姓を名乗ったのか分かりませんがちょっと意外で面白かったです。
[68]『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月23日 17時27分57秒 ) パスワード
  

川口さんへ
大志万さんのスレッドから
>『迷える子羊』さん 宜しくお願いいたします。
あ!?れれ・・・直接お話するの初めてでした。
こちらこそ宜しくお願いします。

>あまり資料がないので良く分かりませんでした
・・・ですが参考になるかわかりかねますが、由木氏の家系に『川口氏』があります。
八王子市の下柚木に『由木氏館跡』があります。『川口大夫』の一族だそうです。
http://kekkeyui.hoops.livedoor.com/hpbasu/nisi.html

大夫判官平山季氏伊賀守って『服部さん』に関係あるのかな〜。
〜ないか!。<m(__)m> (10世紀頃の人達です。)
[69]川口 信さんからのコメント(2002年07月24日 17時17分53秒 ) パスワード
  

『浪合記』(翻刻)HPより  
 http://homepage1.nifty.com/sira/namiai/n_hon.html

「大橋家伝」

 九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。平家の滅亡後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。その場所を大橋という。その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。そこで農家の女二人を妾として、おのおの二人の娘を成した。

 頼朝は貞能を捜索した。尾張国の、原の太夫高春が扶助していると耳にして、梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。貞能は、景季の陣に行って、自ら捕らわれた。景季は貞能を虜にして鎌倉に下り、そこで比企谷の土牢に入れた。

 貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、父の生死を知るために鎌倉に下った。鶴ヶ岡八幡宮に毎日毎夜参詣して、法華経を高声に読誦し、父のことを祈ること数カ月に及んだ。その容色は、とてもただ人とは思われなかった。

 世間の人々が奇異の思いをなしている事を、頼朝卿の御台所が聞こし召され、事情を聞いて頼朝卿にお告げになった。そこで、頼朝卿は一妙丸を召して、意趣を聞かれた。一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。これが大友の元祖である。

 この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。

 貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、後に頼朝卿が鎌倉に召して、一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。これが真野五郎胤連の母である。一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。これは小三郎盛季の母である。一人を安芸国羽山介宗頼に下された。そして、一人を大友四郎経家に下された。これは豊前守能直の母である。
 
本当にあちこちで繋がっているみたい。
[70]服部 明子さんからのコメント(2002年07月24日 23時27分20秒 ) パスワード
  

やはり繋がってしまいましたね。

そろそろ「津島神社の天王祭り」の時期になりましたね。
服部家ホンヤの1年の大仕事です。
このお祭りを間に大橋家とも繋がりを保って来たのでしょうね。

矢張り昔からの繋がりを頼り頼られ協力して来たのでしょうね。
現代は世の中が落ち着いて昔の縁を頼らなくなって済みますから
それと共に昔の繋がりも切れていくのでしょうね。
そして全くの他人になってしまう。
[71]さちこさんからのコメント(2002年07月27日 22時49分21秒 ) パスワード
  

今日は津島天王まつりです。

お祭り=祀り

今の時代は地域の繋がりだけで面倒なものになってしまったみたいです。
でも、昔は一族が集まり先祖や神を崇め、
一年一度の特別な日だったのでしょうね。

田舎では年に一度やってくる縁日、露天商なども楽しみだったでしょうね。
うちの新聞にはきっと明日の朝刊に津島祭りはのってます。
来年はいってみたいです。
[72]川口 信さんからのコメント(2002年07月29日 12時49分32秒 ) パスワード
  

 津島祭りについて新聞をあたっていたら次のような記事がありました。

 ◇大英博物館所蔵所蔵参考に
 江戸時代の華麗な津島天王祭りの様子を描いたイギリス・大英博物館所蔵のびょうぶのレプリカを佐織町町方新田、グラフィックデザイナー、服部ミドリさん(28)が3年がかりで完成させた。28日まで津島市本町の蔵ギャラリー「飛翔」で展示されている。
 同祭りを描いたびょうぶは、現在8点の存在が確認されている。大英博物館のほか、フランス・ギメ国立美術館、名古屋市・徳川美術館、京都・西本願寺などに所蔵されている。
 大英博物館のびょうぶは、宵祭と朝祭が1対になった8曲1双で、宵祭図に天王橋、朝祭図には新宮が描かれていることなどから17〜18世紀前半の作と考えられているが作者は不明という。
 
 津島祭りの屏風がかの有名な大英博物館にあるなんて夢みたいですね。
それを「服部ミドリさん」が複製を作ったなど。それも佐織町の方が。
 さちこさんのご親戚かな?
[73]さちこさんからのコメント(2002年07月29日 20時57分12秒 ) パスワード
  

大英博物館ですか!

まいったか、信長!ですね。(笑)

所蔵されているということで常時展示されてるという訳ではないのでしょうね。
ロゼッタストーンと並んでたりして。

服部ミドリさんですか?
私の直接の親戚ではないですが同じ一族でしょうね。
ホンヤさんならご存知かも。

そういえばホンヤさんが、
信長は実は佐織町で生まれたたとおっしゃってましたが。
[74]一応、大橋姓さんからのコメント(2002年08月10日 22時55分46秒 ) パスワード
  

ここにいるみなさんは詳しそうなので、お聞きしたいのですが、
茨城の方にいる大橋家はこの尾張の大橋家と関係があるのでしょうか?
家紋が茗荷のような形だったと思うのですが。
一応、私が大橋姓なのですが、分けあってその大橋家があまり
知らないので、教えてください。
[75]川口 信さんからのコメント(2002年08月11日 07時11分23秒 ) パスワード
  

 大橋さん 初めまして。

 私は尾張・大橋家から川口家に養子にいった子孫で、長年に亘り大橋家のことを調べています。
 内容が重複しますので、このスレッドや「薬屋の小西屋+丸に抱き茗荷の大橋家」などよくご覧下さったうえで、分からないことなどご質問ください。また貴大橋家のお分かりのことなどお教え下されば幸いで、尾張大橋家との関係が分かるかと思いますので。宜しくお願いいたします。
[76]一応、大橋姓さんからのコメント(2002年09月06日 01時08分01秒 ) パスワード
  

初めまして川口さん、返答頂きましてありがとうございます。
私の書き込みが遅くなりまして申し訳ありません。

私事なのですが、父(大橋家)と母が結婚を反対されたようなので、幼少の頃は父の家のことがよく分かりませんでした。その大橋家を私が継ぐことになりそうなので、
最近自分家に興味を持ち、このHPを見つけました。

今はほとんど、自分の家の事が分からないので、今度帰省した時に調べてこようと思います。やはり寺などで先祖を調べるのが一番でしょうか?
[77]川口 信さんからのコメント(2002年09月06日 07時23分40秒 ) パスワード
  

そうですね。貴大橋家についてはこちらでは何も手がかりがないので、例えば、どこそこの家に仕えてたとか、何々藩の藩士だったかなどで流れが掴めますが、現在では漠然としていて。やはりお寺さんに行って過去帳などを見せて貰うのが手っ取り早く近くの先祖が判明すると思いますが、これもお布施など差し上げないとなかなか。

 また、親戚や婚姻関係のあった家などもあたれば、以外と自分の家で知らない事など伝わっている事もありますので。何か手がかりを頂ければ幸いです。
[78]服部 明子さんからのコメント(2002年09月06日 10時04分37秒 ) パスワード
  

ざれごとですが・・・

茨城の大橋さんでしたら頼房公にくっついて茨城にいらっしゃった大橋家かもしれませんね。
そしてお母さまの家では歓迎されなかった大橋家でしたら
お母さまの方は北朝とか源氏方だったという事はないでしょうか?
その線でも「大橋家」が掴めるかも。


やはり家系書とか系図
お墓や菩提寺に過去帳←簡単に見せて頂けるものじゃないですが
それからお父さまの方の親戚の知っていそうな方
明治初期の明治以前のお生まれの曾祖父さまの戸籍謄本

手掛かりはいろいろあると思いますので頑張って下さい。
[79]大橋興生さんからのコメント(2003年02月25日 16時57分48秒 ) パスワード
  

謹啓 楽しく拝見させていだだいております。小生「大橋」のルーツを私的に調べております。定年過ぎのライフワークにこつこつ始めました。
当家系図は「津島社家 大橋重長」を祖とするとあります。時代はさがり信長馬廻りから秀吉、加藤家と附属し、関が原、大阪の陣以降は「伊予大洲藩」へ
加藤泰興とともに転府、明治まで家老職をしておりました。
津島社家から戦国の時代に津島衆がそれぞれに分かれ世に拡散した歴史、時代背景にはロマンを感じております。「信長記」にある大橋長持などを含め何らかのお話がございましたらご教授願えれば幸甚です。
また、的の外れた質問かもしれません。失礼の段おゆるしください。 敬具
[80]川口 信さんからのコメント(2003年02月25日 18時43分19秒 ) パスワード
  

 当スレッドを展開した来ました川口です。

 大橋長持殿は重長の子、重定の子供で長男重国、次男長持(長兵衛)、三男重賢(他スレッドで展開中の薬屋の小西家・丸に抱き茗荷の大橋家)の三人兄弟です。
 重国が源三右衛門と号し、三男が茂右衛門と号し松山藩の家老織を代々継ぎ明治になっております。

 近いうちに津島神社に行く予定がありますの現地で何か解ることがありましたら調べてみます。また貴大橋家についてわかる事がありましたらお差支えのない範囲でコメントなど展開していただければ幸です。
[81]大橋興生さんからのコメント(2003年02月26日 20時08分04秒 ) パスワード
  

ご返事ありがとうございます。系図には皇孫の部から延々と記述してあります。蜂須賀家へ嫁いだ祖先について「蜂須賀小六」時代小説の中で「大橋家は平家である」とあり疑問に思っておりました。「重長を祖とする」冒頭には
清和源氏とありましたので、ここからこつこつ資料集めをいたし、幸いに貴HP
に巡り合いました。家紋は「花車」から加藤家附属時に「重ね井桁」になっつおります。愛媛県大洲市には菩提寺があります。津島の時代、荘園時代の終焉時の信長、秀吉、加藤、丸茂家等の関わりを楽しみに時間を費やしています。
丸茂家とは領地争いがあり織田家の仲裁に秀吉がかかわり、そのような関係から大橋長持は「織田家馬廻り」にありながら秀吉軍で活躍していたようです。
「津島の祭り」には是非一度見学したいもと思っております。  感謝
[82]川口 信さんからのコメント(2003年02月26日 21時08分36秒 ) パスワード
  

貴大橋家について検索してみました。

 正しくは大橋作右衛門重之[さくうえもんしげゆさ]といい、千八百石の禄をはみ、加藤外記(藩主の分家)につぐ家老ですが、実質的には六万石の藩政をあずかるほどの首席家老であったと思われます。というのは、作左衛門の祖父・長兵衛は、最初秀吉の家臣でしたが、元亀[げんき]二年の湖北小谷城[おだにじょう]攻めの頃に藩祖・加藤光泰の家老となり、それ以来、大橋家は光泰、貞泰の一一代、動乱の半世紀にわたり、藩主と苦楽をともに分から合ってきた家筋なのです。
 
 加藤家については

 大洲藩加藤家の家臣団形成
 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/6700/b-column7.html
 に大橋家のこと美濃時代からの家臣の名前が記載されております。(ご存知でしたらご容赦のほどを)

 津島大橋家は平貞能の子孫と名乗り、大橋源三右衛門の系図には桓武天皇十二代之後胤と書かれ季房から始まっております。幕も平家の象徴赤色を使用しておりますが、尾張藩に仕えた大橋家がありますが家臣系譜には姓は源氏となっております。徳川家が源氏だったから平氏と名乗るのを憚ってそう名乗ったのか、途中に大河内家から養子がはいったので源姓としたのか、どっちにしても理解に苦しみます。

 大橋家につては私HPのリンク先「芝蘭堂」の中、浪合記に大橋家伝としてきさいがあります。是非一読を。

 津島神社に行くのは、津島四家・七苗字党の仲間のご子孫・服部家のお屋敷の一般公開があるので、そのチャンスに訪れたいと思った訳でして、その折に現地にお住まいの大橋家の情報などがわかればと思っております。

 
[83]大橋興生さんからのコメント(2003年02月28日 15時30分09秒 ) パスワード
  

ご教授ありがとうございます。早速のこと、ダウンロードいたました。
だた大橋の系図を整理するのみではと思いながら系図の中の養子、嫁ぎ先、戦闘の戦死者など周辺書籍等々を読み漁っています。
蜂須賀家、大河内家、前田家(加賀)、浅野(三原城)、上田家(安藝)など日本国中親戚になりそうです?
 戦では、朝鮮出兵で戦傷、長久手の戦いで戦死、大坂冬の陣で戦死などいずれの部隊でどのような戦いか興味津々です。
近世では戊辰戦争時祖父が「伊予大洲藩」砲兵隊の指揮を執っています。
後醍醐天皇からになりますと大河ドラマを凌駕しますね。ハハハ!
手前みそなメールご容赦願います。
[85]服部 明子さんからのコメント(2003年02月28日 17時05分11秒 ) パスワード
  

>平姓川口氏:尾張大橋一族:抱茗荷一文字紋

タイトルを検索し易いように変更してみました。
[86]大橋興生さんからのコメント(2003年03月01日 19時05分39秒 ) パスワード
  

こんばんわ、中途割り込みでますます楽しくなりました。服部様、川口様感謝しながらたのしく学んでおります(?)。抱茗荷一文字紋歴史の奥行きを感じます。小生の家紋は重ね井桁です。大橋の文字から創造しますと「井桁の重なり」は理にかなっていると思っておりました。「尾張大橋」の家紋が営々とつながっているのですね。外様大名加藤家附属時に「花車」から「重ね井桁」となっています。もしかしたら「花車」の大橋家が尾張におられるのではないでしょうか?徳川旗本の大橋、外様の大橋、時の流れを遡上したいものです。
蛇足ですが、いままで、「信長の馬廻」と洒落ておりましたが?考え直します
勝手なメール失礼します。同族同士はまだふえそうですね。
[87]大橋興生さんからのコメント(2003年03月05日 15時44分08秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年03月21日 18時51分01秒
[88]大橋興生さんからのコメント(2003年03月25日 12時45分24秒 ) パスワード
  

遅咲きの梅の花に今日の春雨です。のんびりと考えています。すばらしいスレッドの中を楽しんでおります。世の中の「津島社家の大橋」からの発展を追いかけております。川口様からは正に親しくアドバイス、ご指導をいただいております。尾張、桑名、茨城の大橋さんよろしく。
信長が「敦盛」を謡いながら・・・の情景を想いながら津島4家11党の戦国から今日までの「歴史の流れ」を追ってみたいものです。
 「津島の大橋一党」が「尾張の大橋」に拡散して行く過程はやはりロマンを
もって考察したいのですが?
[89]大橋興生さんからのコメント(2003年03月25日 15時49分27秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2003年03月27日 11時50分58秒
[90]服部 明子さんからのコメント(2003年03月25日 23時15分00秒 ) パスワード
  

かわいい〜
ビックリしちゃいました〜
[91]川口 信さんからのコメント(2003年03月27日 09時03分30秒 ) パスワード
  

 オットトこのスレはワンチャン・スレでしたか。何時の間に変わってしまいましたか、ご先祖のことを真剣に取り組んで来たのに残念です。

妙栄山 本蓮寺   布屋町  越後本成寺末 肥後の大橋源三右衛門太郎左衛門未知さだの子一妙丸貞経の創建。一妙丸尾張に来て、中根村に天台宗法華堂を造立。一三八四年家臣の末裔の要望で、堂を津島に移し一四二五年頃開山。(大橋家家系図とは大きな相違がある) 本尊法華経題目宝塔  三十番神堂 (津嶋の寺)から
 
 本蓮寺とは良王の子供、神王の法名であります。

 越後本成寺とは法華宗のお寺で、川口家は幕臣の関係、知行地の関係から宗派の変転はありましたが、現在は江戸期から同越後三条市の本成寺末寺の檀家でして、何百年経ても同じ宗派であることに血の繋がりを感じます。
[92]中根 之秀さんからのコメント(2003年04月24日 14時50分14秒 ) パスワード
  

初めてメールいたします。

私は中根家当主第14代中根忠之(大分県在住)の長男、
中根之秀(神奈川県在住)と申します。
(私は家督をまだ継いでいませんし、私になるとも
 限っていませんので、第?代とは付けられません。)

川口殿が大橋家から出たのが中根家と申して折りますが
若干、当家の系図から申すと違っております。
中根家系図及び歴史について伝えたく
お初でかつご無礼かと思いましたが
メールいたした次第です。
(しかしながら私も現在当家の歴史について
 勉強中であり、間違い等あるかもしれませんが
 ・・・)

中根家は桓武天皇王子葛原親王の流れになります。
はじめは平正盛から系図が始まります。
(正盛−忠盛−清盛が有名な平氏の流れです。)
中根の姓は保元の乱で弟平清盛に殺害された平忠盛の子忠雄が
三河の中根村へ逃れ中根氏を名乗ったことに始まります。
中根家は後に箱柳村(現在の岡崎市箱柳町)へ居を移し、
戦国期までその近隣を領有しますが、
中根忠良の時代に駿河の今川氏や岡崎の松平清康の侵略を受け、
わずかな領地を持つのみになり、自立を維持できず、
最初尾張の織田氏へ服属し、
その子忠良の時には徳川家康へ仕えるようなります。
(忠良は織田信照(中根忠實(ただざね))の
養父:中根平佐衛門正照(中根正秋)の兄に
 なります。)
中根忠實以降は、本多家に大政奉還まで仕えます。
現在は中根家第14代中根忠之が当主です。

ちなみに織田信照(中根忠實(ただざね))については以下の
通りです。

織田信照(天文14年〜慶長15年10月18日(1545年〜1610年))
 (信長、お市と兄弟になります。)
 中根正秋:中根平佐衛門正照に子供がいないことを
 不憫に思った徳川家康の命により養子となっています。
 (中根家に入ってから名を信照⇒正信⇒忠實と改名しています。)
 最初三州箱柳城主となり、後平岩七之助親吉と共に、
 岡崎三郎信康の付け人となり、遠州二俣城にいっています。
 信康自殺後家康の旗のもとに帰り、天正18年(1590年)に
 本多平八郎忠勝が上総大多喜拝領の節に
 姻戚関係(本多平八郎忠勝の妹を妻とする)により、
 同地に忠勝嫡子忠政の後見役並びに付け家老として本多家に
 付きます。
 徳川幕府より千石、本多家より二千石合わせて三千石を所領しています。
 慶長15年10月18日本多平八郎忠勝が勢洲桑名に於いて死去すると
 同時に忠實は従って殉死しています。

以上です。
これは岡崎市と父が調べた内容を私なりに纏めたものです。

同じ記述は岡崎市美術博物館のホームページにも
掲載されていました。(「中根家」で検索すると出てきます)
そちらでもどうぞご覧下さい。

参考になれば幸いです。

あと、当家の家紋は男紋は抱き茗荷(どこにもない形です。
少々変わってます)、女紋は揚羽蝶です。
それと名前は基本、忠又は正を使うことを代々推奨しています。
(私の名前は第13代がそのことを知らずにつけたため
 含まれていません。父(第14代は第12代(時雄)が
 そのことを知っていたのでついています。)
[93]川口 信さんからのコメント(2003年04月24日 15時58分05秒 ) パスワード
  

中根 之秀さん、初めまして。

 言ってることは良くわかります。私の述べている中根家は「寛政重修諸家譜」に記載されている中根家のことで、初代に正行(平兵衛)は糠田郡箱柳に住まいし、松平清康に仕え、正信(源次郎、新左衛門)の子正照(大橋源左衛門重一が三男にして、織田信長の弟中根越中守信照が養子となる)。
 家紋は大橋家と川口家同様の抱茗荷とあります。知行は全てあわせて五千石を拝領しております。本支あわせて八家をのせております。八家の家紋は丸に抱茗荷、揚羽の蝶・花茗荷。茗荷の丸、五七桐、などとあります。

中根(織田)信照は沓掛城の城主で次の城主には川口久助宗勝がなっております。
 以上が私が調べた中根家の事柄ですが、貴中根家とは若干異なっておりますが、もっと調べて見ますので、貴中根家についてもお分かりのことがありましたら、是非ドンドンとコメントをお願いいたします。勉強になりますので、宜しくお願いたします。岡崎美術館のHPも見に行ってきます。
[94]中根 之秀さんからのコメント(2003年04月24日 17時32分25秒 ) パスワード
  

川口さん。はじめまして。
丁寧な返答有り難う御座います。

私は現在勉強中ですので
いろいろな文献や意見は参考になります。
有り難う御座います。

それで一部間違いがありました。

忠良→忠貞→正照→忠實(初代)で
正照の兄は忠貞が正解です。
つまり、忠貞、正照の父が忠良となります。
また、忠實ははじめ忠貞の養子となりますが
家康の命により正照の養子となっています。
忠實(初代)が正照の養子になったのは、
正照は二股城にて武田信玄に破れ
捕虜となり、その汚名を晴らさんがために
徳川と武田が三方が原にて戦い
一族三人とも戦死した後です。

それで当家で調べた織田系譜を観ると
川口さんの言う「織田信長の弟中根越中守信照」
は当家初代しか見当たらないのですが・・・。
もし、何か分かるようでしたら
教えて下さい。
[95]川口 信さんからのコメント(2003年04月24日 17時58分54秒 ) パスワード
  

まだ良く整理していないのですが、中根平左衛門正照は家康公嫡男松平信康が自刃した際殉死した四人の中に含まれていますので三方が原にて討死はちょっと考えられません。信照については後ほどコメントを差し上げます。
[96]中根 之秀さんからのコメント(2003年04月24日 19時26分43秒 ) パスワード
  

岡崎市岡崎市美術博物館が出しているHPにもありますが
(検索時のタイトルは「9月15日 第174号「中根家の家格と本多家の付人について」のHP)
中根忠實は「忠実は初め家康の命により家康嫡子信康に仕えましたが、信康の死後家康の直臣に戻り、天正18年(1590)本多忠勝が大多喜を領有することになった際に本多家と縁戚関係があったため後見として忠勝に付属され、以後代々本多家に重臣として仕えるようになります。」とあります。(HP抜粋)
(HPの忠実は実際は忠實が正しい字です)
この内容と川口さんに言っている「中根平左衛門正照は家康公嫡男松平信康が自刃した際殉死した四人」と関連、内容は・・・
分からなくなってきました。
何か分かれば教えて下さい。
[97]川口 信さんからのコメント(2003年04月24日 19時55分19秒 ) パスワード
  

松平信康の自刃の際殉死したのは、青木又四郎吉継、中根平左衛門正照、大久保七郎右衛門忠世、吉良御初の四人といわれております。

織田信照は他家に養子にいったので織田系図には記載されていないみたいです。ただ諸書に織田信秀の九男で、信長の末弟にあたると言われていることが記載されております。

 「寛政重修諸家譜」をお読みになることをお薦めします。幕府直参の中根家がのっており、徳川家に重く見られていた家だとお分かりになります。
 
 本多家に仕えていたとありましたが、本多忠勝の初期の家臣に中根五郎重定という名前は見出せますが、陪臣ということで、こちらではあまり調べようがありません。 地元の藩士由緒書でもあれば、正確なことが調査できるのですが。



[98]中根 之秀さんからのコメント(2003年04月25日 01時22分08秒 ) パスワード
  

川口さんの云われる様に確かに
織田系図には「某」と書かれており下に「中根号」とあります。
それとは別に当家にある「中根平右衛門忠實続合」があり
織田系図と一致しています。
(写真はありますが、当主の許可がないと見せられないのが
残念です。)(織田系図は岡崎市美術博物館の提供かもしれませんが)
(「中根平右衛門忠實続合」岡崎市美術博物館が出しているHPにもありますが
(検索時のタイトルは「9月15日 第172号「中根家の文書について〜翻刻 出版に向けて〜」のHP)当家にあった約7500点の資料の一部です。)

「寛政重修諸家譜」を読んでみます。
参考にさせて頂きます。有り難う御座います。
(ただ、「9月15日 第174号「中根家の家格と本多家の付人について」
 のHP)にも書いてありますが、家格で問題になったこともあるみたい
 です。)
[99]川口 信さんからのコメント(2003年04月26日 17時26分49秒 ) パスワード
  

家格など問題ではないですね。ようは史実に基づいて家譜や事跡が伝えられているかということが重要なことなのです。

 「旗本八万騎」:歴史読本別冊に中根家に関するものが次のようにありました。

 抱き茗荷
 系統の違う二系の中根氏があった。家紋は両系とも「抱き茗荷」「揚羽蝶」を主紋としている。ひとつは大掾氏から、ひとつは大橋氏から分かれ、ともに桓武平氏の末を称している。

 ご存じ国宝姫路城、新たに絵図が見つかったそです。城と城下町を上から見おろ
した形で描いた珍しい屏風絵です。こういった立体的な絵は鳥瞰図と呼ばれていま
すが、姫路城の発見は、これが初めてだそうです。天守群のある本丸など、かなり
細部が省略されているそうですが、本丸から外堀、山陰道まで、武家屋敷や長屋が
描かれており、その様子が分かりるものでは最古のものです。

 発見は、中根家の本多時代の内曲輪の建物図面の描かれた「播州姫路城図」 が
大分県の中根家から発見され、姫路市立美術館にて絵図展の開催が決まったそうで
す。
 上記文章はURLで見つけた大分県の中根家関係のもので。
 
 岡崎市美術館のHP見に行ってきました。中根家の系譜の紹介については数々の疑問点があります。

 のっけから桓武天皇流の弟平清盛に殺害された忠盛の子忠雄から始まるとあります。
 私の知っている清盛・忠盛ならば、この文は次のようになると思います。平清盛に殺害された、忠盛の弟忠正(忠貞)となり、保元の乱で七月二十八日に平忠正一族等の死刑を清盛は六波羅で執行した。三十日には平家弘一族等の死刑を義康が大江山でなどとあり、保元乱の件でおよそ二十人が処刑された。

 「寛政譜」には今の呈譜に、讃岐守忠正が末男に七郎正持、保元の乱を避けて三河国道根六郷の邊に蟄居しこれより中根を称すとあり。尊卑分脈を案ずるには、忠正は讃岐守貞正が男にして忠盛の弟なり。

 これにより系譜が正しく伝えられていない家か、単なるHPを作製した時、タイプミスとも考えられますが、また、美術館がその家の系譜をそのままHPに掲載するのが正しいのか、補遺、訂正してあげて載せるのが良いのか、どちらを選択するのか考え方が分かれます。
 
 172号の方で中根家の大量の古文書が公開されるとの事、これは歴史を学ぶものにとっては大変有難い事で感謝申上げます。
 
 先祖の系譜や事跡を調べることは高尚な趣味と考えるものとしては先祖の書いたことは、尊重するべきだと思いますが、これは間違っていると思われる箇所があったら、子孫達が補遺、訂正してあげるのが、子孫の務めと思い、また先祖の供養にも繋がるものと考えております。
 
 もしタイプミスでないようでしたら、中根之秀さんが頑張って成し遂げてあげてください。
 

[100]永田正明さんからのコメント(2003年12月14日 18時46分36秒 ) パスワード
  

初めまして、岡崎市箱柳に住みます永田正明です。
川口さんと、中根さんの話ですが、私の家では中根に領地を故ありて譲る、我家より軍四郎が中根家の家宰になったと伝えています。長田本家には、大橋の分家に領地を譲り、新田開発を主におこなったと記録されてます。大橋、長田の関係ならば、納得の行く話しですが、それ以外では戦争に負けるか、家康の怒りに触れるか、何某の手掛りが残される筈です。
 私的な事ですが、長田忠致は1180年に戦死しております、頼朝が敵として処刑したのは、兄の長田親致です。誤魔化すために偽造文書などを作って、世間を騙していますが、伊勢平氏で良兼、公雅、長田平五太夫致頼、長田大矢左衛門督致経と続いています。伊勢,尾張の平氏は源氏の家来にはなりません。 又、私は大橋一妙丸は長田親致の孫ではないかと推測しています。皆様の学習の場に私的で相応しくないかも知れませんが、これからも宜しくお願いします。長田支流永田17代 永田正明
[101]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年12月15日 00時32分34秒 ) パスワード
  

永田正明さま

初めまして。
興味深いお話をありがとうございました。


>長田忠致は1180年に戦死しております、頼朝が敵として処刑したのは、兄の長田親致です

時代が時代とはいえ残虐なものですね。
[102]川口 信さんからのコメント(2003年12月15日 07時42分50秒 ) パスワード
  

永田正明さん 初めまして。

 昨日はTVのニュースに気とられ、コメントが遅くなりました。

 大浜の長田家には大橋家から養子に入っておりまして、一族になっておりますので、以前から大変興味がありました。
 このスレが100を越え、この部屋の管理さんの負荷になると思いますので、永田正明さんの調べた事や、貴家に伝わることなど新たなスレッドをお立てになって是非展開して行ってくださいお待ちしております。

[103]ハットリクンさんからのコメント(2007年08月30日 23時13分04秒 ) パスワード

桶狭間の長福寺の宗派は大橋家の寺である瑞泉寺と同じであることに歴史が刻まれているのではと思います。今川をもてなしても信長に何の仕打ちも受けてないこと。古戦場の碑に津島大納言の名があること。服部小平太。家康軍の到着が義元が殺された後。家康が岡崎へ逃げ帰っても討たれなかったこと。更に織田、松平連合軍形成を考えますと、桶狭間の戦いは南朝派が信長と組んで今川を倒し、最後に織田も倒してしまうと言う作戦であったのではと思います。
家康は関ヶ原の後、朝廷にとって逆賊の世良田氏を名乗ったのは、場合によっては後醍醐天皇の血を受け継ぐ自分が天下を支配すると、北朝の流れの朝廷に宣言したのではと思います。世間では、津島四家七苗字の伝説はたわごとと言われますが、徳川幕府の内部構成を見ますと伝説の方が正しいと思います。
[104]梅津英俊さんからのコメント(2010年12月22日 00時33分04秒 ) パスワード

川口信様はじめまして。

私は福岡県在住で旗本の家系研究をしております。
私が現在調査中なのは、2700石の旗本であった川口家の明治維新時までの歴代ご当主の名前・生没年ですが、恒久公までは何とか調査しましたが、それ以降が史料が乏しく不明のままです。つきましては、川口様がご存じであればご教示頂けないかと思いましてメール致しました。宜しくお願い致します。   

[113]ままこさんからのコメント(2014年08月11日 15時33分31秒 ) パスワード

川口様

はじめまして。初めて投稿致します。

私は寛政重修諸家譜に記載されている中根正行の子孫です。

正行―正信―正重―正成―正勝へと続いてゆきます。

お分かりになるようでしたら教えて頂きたいのですが、

我が家の古文書の中に中根正重について書かれたものがございます。

それには
中根新左衛門尉正慶養子惣領
實中根肥後守忠良四男
       中根正重

とあります。

正重は正信の子供と思っていたのですが・・・。
色々と調べたのですがわかりませんでした。

何かご存知であれば教えていただけないでしょうか?
[114]管理者 aさんからのコメント(2014年08月12日 15時05分49秒 ) パスワード

続きは
http://www.hikoshima.com/bbs/heike_slink/101363_2.html
へどうぞ。
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