[1] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月17日 01時16分25秒 ) | パスワード |
メールの続き:
名字の本ですが、「名字と日本人」、武光誠、文春新書、平成10年。
僕の本は同13年11刷ですから、売れたんですねえ。
ただ、その源姓の件は、あくまで「こういう視点もあるか」ぐらいのことだと思いますよ。
頼朝が義経を処分した最大要因は、やっぱ勝手な任官だろうから。
蒲殿も殺す頼朝ですが、まさか義経を妬んでなんてこたない。
だって、御家人は、鎌倉殿に従ってるのであって、御舎弟殿は単なる弟。
むしろ、義経の独断専行に御家人は怒ってたっていうから、頼朝の一存で
はなくて、
御家人の意向が反映された可能性も・・・。
その辺すごくドライなんだよね、関東武士。
ただ、源姓の特権化は面白い説だ。
天皇と同じことやって権威確立を図ったなら、いかにも源氏の棟梁らしい。
血筋一点でかつがれた人だからね、頼朝は。
足利氏はそんな必要なかったんでしょうね。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月17日 21時38分13秒 ) | パスワード |
メールを頂きました:
義経と頼朝の仲違い理由の腹違いということについて
腹違い云々はあるけど、そういう理由で頼朝が義経を殺したかは疑問。
だって、義経と同腹の阿野全成は頼朝没後まで生きてたからね(頼家に殺される)。
実は蒲殿の殺害って、曽我兄弟と関係してるらしいんですよ。
頼朝の富士の巻狩りに際して兄弟が父の仇だった工藤祐経を殺すんですが、これもいろいろ疑問があってね。
これは幕府内の権力争いが曽我兄弟に委託されて、膨らんでいったという説もあります。
それに、義経の伝説は「平家」「義経記」等々で後世拡大していった面もあるので、
実際に義経は生前は人望なかった可能性も高い。
当時の武士は自分が巧妙を立てることを非常に誇りとしていたから。
むしろ、鎌倉殿の弟ってだけで威張ってる義経は嫌われてたんじゃないかな?
それに御家人は、貧富の差にも関わらず、平等意識は強かったんです。
奥州征服の時、頼朝が熊谷の郎党をほめたんですが、
下野最大の御家人小山氏が「なら我らも手柄しようぞ」と言ったそうです。
頼朝も、けっして独裁者ではなく、御家人全般に気を配る温情家だったようです。
仕方ないよね、直属軍は一人も持ってないんだもん(あえて言うなら北条氏だけ)。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月17日 21時44分33秒 ) | パスワード |
わたくしからのレス:
確かに義経には人望が無かったようですね。
義経には鎌倉から味方した人はいませんでしたね。
結局は義経が鎌倉に兄を頼って行った時の人間だけ。
有能かも知れないけど
来てかき回して去って行った(追われた)人ですね。
一体あいつは何だったのか?!
と言われる人だった。
結局は鎌倉の秩序を乱す人ってことかな?
これって非常に日本的組織に合わない人間だった、と。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月17日 23時27分32秒 ) | パスワード |
別の方よりメールでレスを頂きました:
頼朝が怒った一因に、源義経と署名したことは知っていますよ。
面白いのは、
大江広元に届いた腰越状は、頼朝に見せもしなかった、
という文献があること。
「じゃ、何処で頼朝が知ったのか」だよね。
それとね、頼朝は範頼にも「源」を使うことを禁じたらしい。
範頼が使ったために、伊豆に流されたという説もあるよ。
いずれにせよ、苗字というのは或る人には重要で、或る人は単なる「表示」くらいにしか考えていない。
面白いね。
片方はカンカンに怒っていても、片方は「なんで怒ってんの?」って感じだし。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月18日 22時19分01秒 ) | パスワード |
メールで頂きました:
鎌倉幕府は、関東周辺の武士が連合して作った政権だからねえ。
だから、御家人の意向が強く反映されて当たり前なんです。
だから、頼朝は別格としても、義経や蒲殿が権威を持ち得たか疑問ですね。
まあ、少なくとも頼朝の嫉妬じゃないと思うね。
最近発刊された講談社の「日本の歴史」第7巻では、
源氏の衰退状況が説明され
(竹内理三先生の中公「日本の歴史」に詳しい)、
八幡太郎以降、源氏が内紛で衰えたことをその理由に挙げていた。
どっかで系図を見てほしいんですが、
義家から為義に家督が移るまでに、京都の源氏勢力は完全に衰退してしまいました。
あとは、佐竹義光と足利義国の系統が関東で勢力争いをしてた。
そしてまた、御家人は鎌倉殿の前では優劣に差なく平等だと考えられたたこともね。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月19日 22時12分52秒 ) | パスワード |
メールを頂きました:
義朝は源姓を守る為に、十男知家を養子に出しておいた。
滅びることを、ずっと前に読んでいたのかも。
でも、頼朝・頼家・実朝の源氏系列が滅びても、八田知家は源姓を名乗るどころか、
北条に雇われることしかできなかった。
我々には、想像できないほどの姓に対する執念があるんだね。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月19日 22時44分47秒 ) | パスワード |
上記八田知家の屋敷は鎌倉にあるそうです。
以下もメールで頂きました:
頼朝時代の源氏はボロボロでした。
義家の後継がすんなり決まらず、義家末弟が義家の息子を殺し・・・なんて状態。
しかも佐竹の義光(義家の弟)と足利の義国(義家の3男)は、両方とも嫡流になりたいと思ってた。長男偏重時代じゃないもんね。
だから、頼朝が佐竹討ったり武田一族を誅したりする理由もわかるんだ。
すでに基盤を確保している源氏一族に対し、頼朝は北条氏の婿ってだけだもん。危険きわまりない。
足利氏や山名氏を優遇した理由はわかりませんが、頼朝の権威は所詮「義朝の嫡子」ってだけだから。
みんな親戚ゆえに、かえって危ない、と。
でも範頼子孫・吉見氏は生き残ってるからね。
[8] | いつも通りすがりさんからのコメント(2002年01月20日 14時54分42秒 ) | パスワード |
(株)ネット武蔵野 http://www.net-musashino.co.jp/ (東京小金井市)より
鎌倉街道伝説(宮田太郎)定価¥1,143+税
http://www.net-musashino.co.jp/kamakura-info.html
が新刊されてます。(以下解説)
多摩丘陵を中心とした歴史の道の壮大なロマン!!
源頼朝が、源義経が、そして弁慶が、縦横に駆け抜けたであろう鎌倉街道の全貌を探る。
今から800年ほど昔のこと、ここ多摩丘陵は武蔵国府を中心に、軍事・交易の要衝として栄えていました。鎌倉幕府ができると、関東各地の武士たちは「いざ、鎌倉!」と、いち早く鎌倉へ馳せ参じることができるように、優れた技術力で街道を整備したのです。
本書は、鎌倉街道とはいったいどんな街道なのか、著者自身が、発見した古道や山城との出会いやエピソード、鎌倉街道発掘の事例、そして考察から古道跡の発見方法まで、鎌倉街道の奥深さを多角的に紹介する、歴史街道ファン必見、待望の案内書です。
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目次
1 鎌倉街道とは…鎌倉へ馳せ参じる武士たち、武士団の里と鎌倉への道、源頼朝の旗挙げと鎌倉入り、鎌倉城と七つの切通し、鎌倉街道とはどんな道か/2 鎌倉街道にまつわる伝説…多摩丘陵の義経と弁慶伝説、新田義貞の鎌倉攻め伝説、笛吹峠伝説、早ノ道伝説/3 鎌倉街道発掘物語…早ノ道の発掘、野津田の丘・上ノ原の発掘/4 もう一つの鎌倉街道と城・砦跡…相原七国峠古道、御殿峠古道、百草城、小野路関屋城/5 鎌倉街道を探検しよう!…鎌倉街道の発見方法
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著者紹介◆宮田太郎(みやた・たろう)1959生。東京都多摩市出身
玉川大学農学部卒。古街道研究家・歴史ルポライター・古街道帥人会代表・歴史街道探検隊隊長・古街道と遺跡ロマン研究会代表・多摩歴史街道遺跡研究会事務局長。
著書『新視点・日本の歴史』(中世編・共著) 新人物往来社刊、その他研究会会報の執筆・編集多数。
2001年11月28日 第1刷発行
[9] | 源三さんからのコメント(2002年01月21日 00時35分59秒 ) | パスワード |
服部さん今晩は!
八田知家って小田氏の祖先ですよね。ということは、九州小田氏(筑後、佐賀に
下向土着分布)の祖先でもありますね。僕の先祖も領地が近辺だったので婚姻関係
ありましたよ。小田氏は代々佐賀蓮池城主。確か五千町位領していたそうです。
先祖は小田氏から嫁が嫁いで来ました。佐賀出身の高倉健氏はその小田氏の子孫で
我が佐賀藩系士族の誇りです。
でも八田知家ってほんとに源義朝の子なんでしょうかね・・・。
僕は頼朝の子供のことの方が関心がある。結構他家に養子に出したりしてんじゃ
ないかな。大友家(近藤能成の長子してカムフラージュしてその嫁の実家の波多野系大友
家の元で育つ、その大友家の家督を上手く継がせ、後に上手い事出世するように頼朝は自分の側近の中原親能の猶子にする。なんてうまく行き過ぎって思うのは僕だけかな?)島津氏、結城氏、伊達氏なども。なんか他家に養子だすことにより自分の子孫を上手く残すやり方。将来の源氏の家督争いを未然に防止させる為に、自分を含め、父親などの闘争の歴史知っている頼朝は敢えてそういう風にしたとも考えられる。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月23日 00時42分00秒 ) | パスワード |
八田さんというのは元が藤原道兼の流れなんだそうですねぇ。
下野国の宇都宮氏の1族で
八田四郎は保元物語上巻(官軍勢沙へ)←かんぐんせいぞろへに
義朝のもとに駆せ参じた人物の1人として名が書かれているそうです。
そして八田知家の4男の宍戸四郎左衛門宗政は源氏系の名族なんだそうで
子孫が毛利の重臣だそうです。
あ〜
ややこしい。。。
[11] | 足立さんからのコメント(2004年02月27日 21時39分29秒 ) | パスワード |
義経と頼朝の仲違いの原因はもっと根深いところにたったのではないでしょうか。
平治の乱以降、義朝の旗下として活躍した坂東勢、中でも武蔵の諸豪は国主となった平氏の元に組み込まれていきましたが、その次男三男は草の根党を唱えて義朝の遺児の行く末を見つめていました。
そんな中、打倒平家の旗頭になれそうなのは鞍馬の紗那王をおいてほかにはいないとささやき始めます。
その義経は奥州平泉に去り、そのうち源三位頼政が以仁王を嗾けて謀反に失敗し、平家の源氏に対する圧力が一気に高まってきたのが治承4年の6,7月のことで、義経の成長を待つゆとりもなく伊豆の頼朝を嗾けたのがかの文覚でした。
義経が黄瀬川に駆けつけて兄頼朝と涙の対面を果たした後、「義経が旗頭になるはずだった」ことが頼朝の耳に届き、以後頼朝は義経を疎みだしたというのが真実ではないでしょうか。はたして頼朝は鶴ヶ丘八幡の上棟式に大工の棟梁に与える馬を引く役目を命じ、尻込みする義経に卑賤な役目だからできないというのか、としかりつけているのです。
頼朝にとって義経は今にも自分を脅かす存在として見えたのではないでしょうか、そしてその後の2年間に平家を西海の藻くずとしおおせた活躍ぶりを目の当たりにして、ついにその義経を抹殺しようとしたとしか考えられないのです。
[12] | 太郎さんからのコメント(2004年02月28日 14時29分42秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2004年03月06日 23時00分17秒
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