大阪屋 株式会社 エミ 新風会(アーツ)
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 投稿番号:100221 投稿日:2002年01月05日 01時50分52秒  パスワード
 お名前:源三
平家か平氏か物部系(大)祝氏改め神代系か?★筑後隈氏大捜査線1+

コメントの種類 :人物  パスワード

謹賀新年、隈様、服部様、中西様、そり様、姫様、他の皆様今年もよろしくお願い
します。
今年も一方的な書き込みになりますがご容赦の程を。何せ沈思黙考、熟考しないと
中々書き込めない性質(たち)なもんで御免なさいね・・・。

さて、これから、ここでは筑後国★隈氏のルーツに迫っていきたいと思います。
と、言って、これまでため込んだ資料をメールに多量に書き込んでますが、
何せ今回も系図中心に多量の系図がまたまたちゃんと張り付けできない様です。
それでもよかったら、書き込み(張り付け)ますがいかがでしょうか?
もしメールでよろしければお送り致します。でも今回は隈系図はまだ自宅に届いて
おらず、書き込みは後日になりそうです。
ではまた・・・。


[1]服部 明子さんからのコメント(2002年01月05日 22時34分06秒 ) パスワード
  

では後日の書き込み楽しみにしています。
隈さん、良かったですね!
[2]さんからのコメント(2002年01月07日 11時25分31秒 ) パスワード
  

すっかり出遅れてしまいましたが、
皆さん明けましておめでとうございます。

主人の正月休みも終わり、久しぶりにパソコンに向かっている隈です。

源三さん、新年早速の嬉しいスレッドに感謝!です。m(_ _)m

隈氏のルーツについては、私も久留米市民図書館に問い合わせたりして
調べたのですが、なかなかはっきりしたことが分からず、
ここに書き込むまでには到っていません。
(一応隈家文書に関する調査をまとめたもののコピーを送って貰いました)

姓氏家系大辞典では「筑後の隈氏は本姓・丹波で、神代氏の分れとの『説』あり」となっていますが、
結局のところはっきりとは分からないみたいで。

図書館から送って貰ったコピーによれば、
大善寺玉垂宮の大祝部として現れたのが南北朝時代の事。
(もちろん玉垂宮大祝部はそれ以前より存在するが、平安・鎌倉時代の大祝部は隈氏ではなかった可能性がある)
当時の隈家は物部姓を名乗っている。
豪族としての隈氏は大友氏に仕え、筑後の徴税役(御殿料の徴収)を任されていたが、その後は竜造寺氏に通じていたらしい。
「筑邦町誌」には系図が収載されているが(出典は不明)、これが江戸後期以降に作られたものらしく、高良社大祝である鏡山家の系図に「繋ぎ足した」という感じでかなり不自然。

南北朝期以前の動きは分かっていない。

私が得た情報はそのぐらいです。
本当に筑後の隈氏は神代氏の分れなのか?
肥前の平姓隈氏と関係があるのか?
大変気になっています。

源三さんの個人的見解も含めて、お聞かせくださいませ (^^)

それから、お手元に隈家系図が届きましたら、ぜひ!メールでお知らせ下さる様お願いいたします。
何しろ資料が少ないもので、大変助かります。
という訳で、宜しくお願い致します! m(_ _)m
[3]源三さんからのコメント(2002年02月04日 01時50分03秒 ) パスワード
  

隈さんもう少し待っていただけますか?
申し訳ありません。
その前に僕の私見を若干、書き込みます。
[4]さんからのコメント(2002年02月04日 10時01分24秒 ) パスワード
  

源三さんへ

はい、了解致しました。

どうぞ、ご意見をお書きになって下さいませ。(^^)
[5]源三さんからのコメント(2002年03月04日 22時31分16秒 ) パスワード
  

隈さん今晩は!今僕は病気で臥せっています。
治り次第書き込ませていただきます。多分5日前後
は最低かかりそうです。すいません。では。
[6]服部 明子さんからのコメント(2002年03月04日 22時54分13秒 ) パスワード
  

あらあらお大事に!
風邪ですか?
私も鼻がぐずり出したのでビタミンCを大量摂取中です。
[7]さんからのコメント(2002年03月05日 10時25分07秒 ) パスワード
  

源三さん

大丈夫ですか?

ちまたではまだまだインフルエンザやマイコプラズマ肺炎も流行中とか。
うちの主人もインフルエンザに罹った後、喉の調子が悪くてずっと咳き込んでます。

書き込むのは、充分体の具合が良くなってからでいいですから、
ゆっくり休んで治して下さいね。

お大事に。
[8]源三さんからのコメント(2002年03月07日 07時55分43秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2002年03月08日 06時55分34秒
[9]さんからのコメント(2002年03月07日 12時29分41秒 ) パスワード
  

源三さん

ご病気(症状から察するに、インフルエンザ?)はもう大丈夫でしょうか?
取りあえず体力回復を優先させて下さいね・・・無理なさらないように。

隈氏のこと、詳しく調べて頂いてどうも有難うございます!

m(_ _)m(平伏)

こんなにお手数お掛けして、申し訳ないです。

地元を調べれば、かなりたくさんの資料があるのですね。
源三さんが集めて下さった情報のお陰で、2、3の小さな疑問が解けました。

>★天正の頃は玉垂宮の大祝(おおはふり、神職の一名)、
>★隈右京亮が犬塚城主となったが天正十五年(1587)太閤秀吉に叛き殺された。
>となるので犬塚氏ばかりでなく渋川氏や★隈氏も合祀されたと思うのだが・・。
>近くに城主墓跡あり。
>・犬塚城跡(三潴町大字玉満原口)小犬塚の天満宮境内周辺は犬塚城の跡と伝え
られる。

私が今までに聞いた話では、
○大善寺の近くに「隈城」なるものがあったらしい(義父より)
○豪族だった隈氏は、処刑されて玉垂宮に祀られた(主人が友人に聞いた)

「隈城」というのはおそらく、犬塚城のことを指すのでしょうね。
ここに隈右京が居たので、俗称(?)「隈城」と呼ばれたってことでしょうか。
そして彼は、豊臣秀吉の九州征伐のとき処刑された。

なるほど、と思いました。

しかし・・・隈氏は結構ぎりぎりまで竜造寺や秀吉に対抗したのですね。
あの頃の中小豪族の多くがそうであった様に、「様子を見て、さっさと強そうな方に寝返った」訳ではなかったのですね。

結構芯が通ってるじゃない、なんてちょっとホッとしたりして(笑)。
往生際が悪いだけ、なんて言わないで (^^;

あ、また話を反らしてしまう・・・
続きをどうぞ、お聞かせ下さい(あくまで無理なさらないように)。
[10]くまじろうさんからのコメント(2004年01月02日 11時27分41秒 ) パスワード
  

始めまして。
上の「隈」さんとは別人ですが、私の名前も「隈」です。

先日、大善寺の祖父の家で正月を迎えたのですが、私も隈家の家系に興味があり
祖父が調べていた隈家家計図を見せてもらいました。

辿っていくと隈右京に繋がるのですが、現在私の方は分家だということも知りました。

しかし、不明の部分が多くこれから少しずつ調べていこうかと思っているのですが
もし良ければ情報交換をして頂ければと思います。
[11]堤 昭南さんからのコメント(2011年02月20日 01時29分52秒 ) パスワード

皆様方の討論楽しく読ませて頂いております。私は犬塚城跡のある集落に居住する亡霊みたいな城キチ老爺で、約50年間、渋川・犬塚・隈の三氏の夢を追いかけておりますが、皆さんに喜んで貰えるような資料を入手していないのが残念です。隈右京亮については犬塚初代家久の長男犬塚家貞(家虎)が肥前崎村(渡瀬上神代地区)へ移住し、更に家久が出家僧となり蒲池の東方に当たる大藪に移住した後、城の警備に当たっていた犬塚の家人たちは三潴郡の土豪たちと一緒に永禄七年の下田城攻めを終えた後に主君の後を追って肥前へ移住したと思われます。空き城になった犬塚城には、反大友勢力下にある龍造寺配下の侵入防止と徴税のために隈氏を高一揆衆として認め入城させたのではないでしょうか。隈右京亮も秀吉の国割りで知行を貰えなかったのを不服として、後に起きた肥後一揆に内応したのでしょう。隈氏たちが自害させられたという南関井原郷を探しに南関町へ何回も足を運びましたが何一つ手掛かりは得られませんでした。現在何処の城跡も、「城春にして草木深し」どころか「圃場整備で開かれて、偲ぶ手掛かり全てなし」時の流れとはいえ、これじゃ兵も浮かばれませんね。
[12]堤 昭南さんからのコメント(2011年02月22日 00時13分31秒 ) パスワード

[9]番の隈さんからのコメント(02年03月07日)について、
「城主祖霊社」について、享保年間に記された小犬塚天満宮縁起には「古城、すなわち陳屋鋪(陣屋鋪)という。城主ありといえども詳しく分からず」と記されています。明治の初め頃に久留米藩庁へ提出した神社明細帳の控えには祖霊社は一本の石柱で「霊社神」とだけ記されて境内の東側中央(境内といっても当時は雑木林同様)に建立されていたようで城主犬塚某という程度でした。この祖霊社が天満宮神殿西側に移転させられたのは、昭和5年頃、佐賀県から犬塚城主の子孫で犬塚さんという人が「鎧武者が夢枕に立って、我は犬塚城に居ると入っては消え幾晩も続くので、家伝の犬塚系図を書き写してお参りに来た」と言うので、神職は城主の墓と伝えられる五輪塔へ案内したそうですが、どうも違うようだと言うので、霊社神の石柱へ導くとそこを拝んで系図を手渡して帰ったそうです。その後神職は氏子たちに働きかけ昭和7年に現在に位置に霊社神の石柱を移しコンクリートで祠を築き祭神犬塚城主と記しました。その後の調査によって五輪塔は最初の城主で犬塚城で亡くなった渋川氏の墓と分かりました。隈氏についてはあまり手掛かりは在りませんが、小犬塚天満宮の御神体同様、大善寺玉垂宮の社家である隈家の屋敷神も天神を祀って居ることと、慶長年間に鬼夜の神事に使用する鬼面一対を広重次郎左衛門尉が寄進していること。大善寺の御田祭に小犬塚の広重氏が乗馬でお下りの御幸の行列に加わっていたこと。鬼夜で引き回す大松明六本の内、一本を小犬塚で持っていた事などは、犬塚城主隈氏と被官となった広重氏(本家は江戸中期頃まで庄屋を勤める)の関係が延長されているのではと思われます。
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