[1] | 隈さんからのコメント(2001年12月13日 17時21分58秒 ) | パスワード |
彼はもと伊賀名張の住人という。
足利義昭が、細川幽斎らの助けにより興福寺から甲賀和田へ脱出した時に、仕えるようになったらしい。
ただし、近江にいた服部要介が義昭を護衛したのは永禄8〜9年なのです。
ということは、少なくとも彼は永禄9年までは表向きだけでも織田家に仕えていたのでは?
若干年代にズレがあるような・・・でも同一人物だと思うのですが。
で、もし同一人物なら、彼が織田家の情報を徳川家に伝えていた可能性が・・・
彼こそ本能寺の変に関わる重要人物!?
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月14日 10時37分53秒 ) | パスワード |
頭の中一杯・・・
[3] | さちこさんからのコメント(2001年12月14日 12時45分16秒 ) | パスワード |
系図ロスにもう届いたのですね!
早い!山口に届くのと変わらないな。
何が判るのか楽しみです。
よろしくお願いします。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月14日 21時20分10秒 ) | パスワード |
さちこさん
ありがとうございました。
ざっと読みましたが頭の中が満杯で昨日は早めに寝てしまいました。
それにしても山口に届くのとロスに届くのが殆ど同時って?!
さて服部要介は2回取り上げられてましたね。
どういう人物だったのか?
だいたい弥富の服部家でも戦国時代の前は尾張管領・斯波氏に仕えてたので
足利将軍家に仕えてた人物がいても不思議ではないし
半蔵の家も京都に(天皇家や将軍家に)仕えてたようですし
ですから服部要介という人物は政治的にどういう立場だったのでしょうね?
[5] | 隈さんからのコメント(2001年12月15日 10時09分26秒 ) | パスワード |
>どういう人物だったのか?
ということで参考になるかどうかは分かりませんが…
「徳川家康の伊賀越え随行者リスト」がありましたよ。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kasan/ig-zuikou.htm
家臣団の中に「服部中保次 (57)」とあるのが服部要介ですね。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月15日 21時20分24秒 ) | パスワード |
信長暗殺にかかわる怪しい人物達の名前がありますねぇ。
服部正尚の名も出てますね。
服部保英の名も。
[7] | 隈さんからのコメント(2001年12月16日 10時57分41秒 ) | パスワード |
このリストの顔ぶれを見ると、またいろんな事が頭に浮かびます。
リストに杉原家次(おねね様の伯父)の名があるのはどうして!?
彼は当時、秀吉について備中高松城に行ってた筈なのに・・・
下記参照;
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/sugihara/fukutiya.htm
彼はその後明智光秀が築いた福知山城を貰ったんですね。
ちなみに、家次の嫡男長房の妻の父は、浅野長政。
杉原長房は関ヶ原で西軍についたのですが、徳川方に浅野長政を通じて内通していたため、旧禄を安堵されたそうですよ。
杉原氏ねぇ・・・足利義昭に仕えてた杉原長盛って人もいたっけ。
・・・ますます怪しい。
甲賀の和田惟長(元高槻城主)もいますね。
足利義昭を自分の館に匿った、和田惟政の息子です。
服部要介は、和田から足利義昭について、護衛を務めたんですよね。
・・・ますます怪しい。
[8] | 隈さんからのコメント(2001年12月18日 11時11分20秒 ) | パスワード |
杉原家次と和田惟長は何れも当時豊臣家の家臣で、伊賀周辺にはいなかった筈。
という訳で、何かの間違いかな??とも思ったのですが、
それについて興味深いことが書かれたHPを見つけました。
他のスレッドでも紹介したので重複しますが、参考までにこちらにも載せます。
***********************
地元伊賀で行われた、忍者に造詣の深い方の講演会の内容です。
http://www.ict.ne.jp/~igabito/reports/reports07-1.html
>そして、伊賀の衆は50人しか助けてないんですね、当時は。
>ところが、無足人台帳を見ましても200人に膨れ上がっているんですね。
>この辺にも何らそうなった理由があると思います。
>その名簿自体に大きな理由があると思いますね。
無足人台帳に載っている伊賀衆は200人。
でも、実際に動いたのは50人。
そういえば件の伊賀越え随行者のリストには服部半蔵だけでなく、
その当時伊賀にいなかった筈では?と考えられる人々が混じっています。
例えば、秀吉の家臣だった(備中にいた)筈の杉原家次や、和田惟長等。
これは単なる誤りなのか?
それとも伊賀越えの時には現地にいなかったり、何もしていない様に見えても、
何らかの形でこの「作戦」に協力していたということ・・・?
*伊賀越え随行者のリストでは、杉原家次は織田家家臣として、また和田惟長は甲賀衆として、伊賀衆とは別に記載されています。
[9] | 隈さんからのコメント(2001年12月18日 11時39分53秒 ) | パスワード |
以前に「姓氏家系大事典」(大正時代に編集された古い本)の<ハトリヘ=服部>の項を図書館でコピーしていたことを思い出しました。
それをよ〜く読み返したら・・・
ありました、ちゃんと。
服部要介に関する記述が・・・(爆)
ただ、さちこさんの下さった系図に書かれているように、服部半蔵や服部釆女正一忠の経歴と混同している可能性があります。
「姓氏家系大事典」より;
…されど服部系図には
『宗清裔伊賀守宗紀の末孫小平治保次(初め宗次、要介。足利義輝、後信長に仕え、桶狭間に巧あり、天正15年遠江刑部村に死す)
−三十郎保正(保政、通丸)
−三九郎保俊」と。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月18日 11時54分49秒 ) | パスワード |
>伊賀守宗紀
は宗純の記載間違いかしら?
でもホンヤさんとこは家長が屋島で破れて伊賀に戻って保長と名を変えて
その子保清の9代の子孫保宗の子宗純の流れなので
宗清では系統がちょっと違います。
*私は最近NHKの「時宗」の影響で後醍醐天皇8子宗良親王を鎌倉幕府の将軍だった
宗尊親王のお名と混同してあちこちで書いてますが
お許しを
読み直して見つけたら訂正しますね。
すみません*
他に混同してるのが壱岐と対馬。
平 知盛さまの3男知宗は対馬を乗っ取った人物です。
それから混同してるのは足利将軍義輝。
義教将軍は6代で100年も前のお方です。
重ね重ねお詫び致します。
[11] | 隈さんからのコメント(2001年12月18日 12時17分23秒 ) | パスワード |
歴史上の人物名は似た名前が多いし、
私も、いつも人物を混同しそうで大変!
書き込んでて頭がクラクラします。
昔の人でも写し間違いが多いのは当然か・・・
ましてや崩し字で由緒書でも書かれた日には!!
読めない・・・(TT)
[12] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月18日 12時39分18秒 ) | パスワード |
隈さん
ありがとうございます。
(泣)
[13] | 隈さんからのコメント(2002年01月15日 12時28分12秒 ) | パスワード |
<おまけ>
服部要介氏の子孫は江戸幕臣になったので、東京に菩提寺があります。
地図で探したら、見つかりました。
「麻布 湖雲寺」・・・港区六本木4−1−9
麻布というより、六本木ですね。
今では都会のど真ん中。
首都高速道路のすぐそばで、六本木交差点(アマンド前)から200〜300m東に行った所にあります。
それを見て、思い出しました。
昔六本木に行ったとき、首都高の柱の陰にお寺があるのを見つけて
「ずいぶん窮屈そうだな」と思ったことを・・・
あれがそうだったのか。
[14] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月15日 13時55分36秒 ) | パスワード |
ちょっと・・・背筋が・・・怖いですね・・・
[15] | 隈さんからのコメント(2002年01月16日 12時00分38秒 ) | パスワード |
なんか、また話がオカルトになっちゃってますが (^^;
最近ふと思いついて、伊賀から尾張・三河経由で江戸に入った服部一族の、
菩提寺の場所を探した訳なんですよ。
そしたら、結構知ってる場所が多いのね。
「麻布」とか「谷中」とか「牛込」なんて、
地名聞いてもあんまりピンと来ない場所だったんだけど、地図で見ると
「あれ?この辺なら、行ったことあるよ」って感じで。
四谷も一度行ったし・・・
私は東京に何度も行ってるし、幕臣が住んでた場所は今でも東京の中心部だから、
行った場所がご先祖様由来の地と偶然重なる可能性も当然高い訳ですが、
それにしても、これらの場所は「銀座」「渋谷」「青山」のような、
上京した誰でもが行くような場所とはちょっと違うんですけどね。
行った理由は様々。
受験とか、遊びでとか。
確かに東京にある数多くの寺の中で、
偶然憶えていた寺がご先祖様がらみだったというのはちょっと怖い・・・
ちなみに、六本木には「三河台」という地名も残っています。
服部一族が住んだ名残ですね。
それから、ちょっと話は反れますが、
ホンヤさん系統?の服部家の菩提寺「市谷 浄栄寺」は、
かつて尾張徳川家の江戸屋敷があった場所の近くらしいです。
なるほどと思いました。
[16] | 隈さんからのコメント(2002年01月16日 17時13分01秒 ) | パスワード |
江戸幕臣の服部家に霊感を感じるから、という訳ではありませんが(笑)、
服部要介氏や三河系の服部家(服部半蔵系とは違うらしい?)の事は特に気になります。
先日、明子さんには「向島の服部家は、服部小平太の系統?」みたいな話をしましたが、
備後にいたのは別系統の可能性もあることが最近分かってきて・・・
尾道の東に隣接していた、福山藩関連。
向島が広島藩領だったので、これまで視野に無かったのですが。
福山藩主は徳川譜代でした。
福島正則が広島藩改易になった後、広大な領地は広島藩と福山藩に分かれました。
福山藩の初代藩主は水野勝成。家康の母方の従兄弟で、元は三河の刈谷城主でした。
福山で水野家は5代続きましたが、後継ぎが途絶えてしまい改易。
それからしばらく幕領となった後に、阿部家が入りました。
阿部家も古くから徳川家の重臣(家康が今川氏の人質になった時にも近侍していた)
で、三河出身です。
そして幕末、福山藩主兼老中だった〜ペリー来航の対応に追われた〜
阿部正弘に仕えた公用人に、服部九十郎という人物がいたことも分かりました。
今度はこの服部九十郎なる人物について、調べてみるつもり。
といっても、福山の図書館にレファレンス依頼しただけですが。
(図書館の係の方、どうもお手数掛けます。 m(_ _)m )
[17] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月17日 01時30分07秒 ) | パスワード |
>阿部正弘に仕えた公用人に、服部九十郎という人物がいたことも分かりました。
幕末の幕府側の官吏に2流の人物としてですが確かに服部氏が出て来ます。
この人物かも知れません。
[18] | 隈さんからのコメント(2002年01月17日 10時45分42秒 ) | パスワード |
>幕末の幕府側の官吏に2流の人物としてですが確かに服部氏が出て来ます。
「2流」の方が、かえって本人の可能性が高いと思う (^^;
有名な人物ではないし。
明子さんのお手元の資料には「服部」という名だけ出てくるのでしょうか?
その後ろに「○○守」とかが付いていたら、教えて下さい。m(_ _)m
もし同一人物だったら、今後の参考になるかも・・・
阿部正弘は福山藩主といっても老中を兼任したため、
ほとんど江戸にいたようです。
福山に帰国したのは、藩主を継いだ直後の一度きりだとか。
だから、服部九十郎も福山より江戸に生活基盤があったのかも知れません。
実はほとんど備後地方に縁が無かった、なんてことも。
それでも取りあえずは調べてみないと、何処で繋がってくるか分からないので。
[19] | 服部達也さんからのコメント(2008年04月27日 22時31分18秒 ) | パスワード |
私の先祖に服部九十郎高紀という人がおりました。家代々伝わる過去帳よりわかります。亡くなった祖父からの話では私の先祖は、備後福山藩の藩士で江戸留守居役とのことです。なおこの、服部九十郎は、過去帳から萬延元年亡くなりました。年齢はわかりません。
[20] | 隈さんからのコメント(2008年04月28日 10時42分49秒 ) | パスワード |
服部達也さん、初めまして。
貴重な情報、どうもありがとうございます。
ご先祖様が江戸留守居役、ということは江戸に常駐していらっしゃったのですね。
元々は福山のご出身だったのでしょうか?
[21] | 服部達也さんからのコメント(2008年04月28日 20時48分43秒 ) | パスワード |
私も祖父から先祖について詳しいことは聞ておりません。ただ私より五代前の先祖は、福山市に在る定福寺に葬られて降ります。又その連れ合いは、旧四谷区現在の新宿区に在る太宗寺に葬られて降ります。また私の江戸時代の先祖たち何人かは当時の江戸の町のいくつかの寺に葬られております。そして服部九十郎という先祖氏名は何人か過去帳に記載されております。よろしいでしょうか?
[22] | 隈さんからのコメント(2008年04月29日 11時12分03秒 ) | パスワード |
分かりました。
どうもありがとうございました。
以前上に書きましたとおり、私の先祖は福山にルーツがあると
聞いておりましたので。
ただ、あれから調べたところでは、やはり私の先祖は江戸時代には
農民だったようで、
福山藩士であった達也さんのご先祖様と直接の関係はなかったようです。
すみません、どうもお手数お掛けしました。
[25] | 上島さんからのコメント(2022年02月02日 00時29分16秒 ) | パスワード |
『本能寺の変 神君伊賀越えの真相』の著者の上島です。服部中保次は大和越えのことを書いた伊賀者由緒関係文書に多く登場します。これまで『石川忠総留書』を偏重する通説と相容れないことから、これらの文書とともに保次も無視されてきました。保次(要介、介)宛の書状が『記録御用所本古文書 近世旗本家伝文書集』に載せられいますが、一部の論文では服部要介は甲賀者という扱いになっています。そういう次第で服部保次のことを調べています。なにかご存じのことがあれば、ご教示ください。、
[26] | 丸に三つ柏服部さんからのコメント(2022年02月02日 12時18分24秒 ) | パスワード |
隅様おかわりございませんでしょうか?
さて、上島様、「うえじま」と読むのですね。こちら浜松には「かみじま」
と読む上嶋氏が多く、気賀には伊賀から来たと推察される上嶋一族(先祖は"草"
だったという)がおります。伊賀には観阿弥・世阿弥(服部氏)のルーツについて
を証明する「上島文書」などもあり、また上島様が神君伊賀越えについて書かれ
ているということも、何か不思議な糸で結ばれているような気がいたします。
さっそく『本能寺の変 神君伊賀越えの真相―家康は大和を越えた』を取り
寄せるべく注文いたしました。明日には届くはずです。
私は服部氏族を研究しております「丸に三つ柏服部」と申します。服部中
保次は、私にとっての最大のテーマの一つでもあります。一級資料は少なく、
種々雑多な史料は収集しております。ただ、こちらには現物として、中保次の
暗殺された場所に息子が立てたといわれる墓がありますし、またその子孫(孫
)が新居の関所奉行になり、また旗本として大久保に番所や邸宅を構えて、明治
まで存在していた(地元には地代官を置いた)という事実が残っております。
私も、今までにない新たな事実(確実な)がないか、探求してはいるのですが、
このところ進展がなく、上島様より逆に何か教えていただけるものがあった
ならば幸甚だと思っています――
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