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 投稿番号:100214 投稿日:2001年12月05日 21時58分33秒  パスワード
 お名前:服部 明子
織田信長暗殺の謎に迫る?!:伊賀の服部氏

コメントの種類 :その他  パスワード

織田信長の暗殺に関しては動機のある人間が多過ぎますね。(^^)
地域で言えば日本全国。
身分で言えば天皇はいざ知らず足利将軍に始まって公家・諸大名・宗教人・百姓に至る。

信長暗殺未遂事件で有名なのは杉善坊でしたっけ?
それから伊賀・東湯舟の藤林長門守。

日本史上信長暗殺の真犯人は明智光秀になっていますが
教唆したのは?!

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 00時50分21秒 ) パスワード
  

以下さちこさんからの書き込みをまとめますね:


日曜日に弥富の服部家ホンヤさんへ行きました。
服部家一族という各地の服部家の由来や家系図を書いたもののコピーを見せて
いただきました。
縁側でお茶をすすりながらポカポカ暖かくてこのまま寝ちゃいそうなんて思ってみていたら
二代将軍秀忠の生母お愛は、西郷清貞の養女で実父は伊賀の服部平太正尚。
というのがでてきたのです。

これってよく知られてることなのですか?
私は初耳だったのですが。
それともこんなの嘘だよ本当はこうだよとか、
何かご存知の方がいれば教えていただきたいのですが。

その系図は、伊賀の服部某からはじまっててやたら某が多いのですが、
観世家と祖を同じくする服部家ということです。
そしてその正尚のいとこが名張城主服部保章で
その娘が明智光秀の妻となっているのです。(女子としか書かれてません)
光秀のプライバシー(?)てあまり知られてないですよね。
私が知ってるのは細川玉子が光秀の娘だったことぐらで。
光秀の妻って?

そして正尚が本能寺の変を家康に告げたとあるのです。
[2]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 00時55分22秒 ) パスワード
  

わたくしからのレス:

私が記憶してた話では
2代目将軍秀忠の生母・お愛さんは家康最愛の女性で
お愛さんのマザーの後夫が伊賀の服部氏
だと。

ですからちょっとややこしいんですけど
ホンヤさんの資料では「実父」となってたのですか。

お愛さんは家康晩年の子が尾張藩主になって下だった時に
母替わりとして尾張に来てると聞いたことがあります。

弥富の服部家と徳川家の関係というのは
かなり古くからあったと思ってます。

だから家康からいろいろなお墨付きを頂いてて
これが今でも話題になったりするのですよ〜
新聞にも時々家康の亡霊が取り上げられますね。(^^)ふふふ

とにかく尾張藩主が8代将軍と喧嘩して首になった時は
将軍からのお達しの席に当時の服部家ホンヤさんが同席し
次の尾張藩主に服部家ホンヤさんで育てたのをつけたし。
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 01時00分47秒 ) パスワード
  

隈さんの書き込みより:

>正尚のいとこが名張城主服部保章で
>その娘が明智光秀の妻となっているのです。

これは聞いたことがあります。

明智光秀が本能寺の変を起こしたのは、実は舅の服部保章の差し金ではないか、という説があるとも・・・

名張も伊賀天正の乱のときに壊滅的な被害を蒙っていますから。
服部保章は信長を相当恨んでいた筈だから、という訳です。
[4]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 01時03分33秒 ) パスワード
  

さちこさんより:


本能寺の変は今までも色んな説がありますが、
これは役者が揃ったなと言う感じですか?
家康の嫡男が信長に因縁つけられて自害させられてますよね。
家康も信長に恨みがあるはず。
本能寺の変の時最小限のお供だけ連れて堺見物してたとか。
無防備だったともとれますが、
側近にしか知られたくないことがあったとも考えられる。
関西にいたのは本当に偶然?
光秀は備中に向う途中急に進路を変えてるけど、
何か情報が入ったとか?
忍者を介して連絡を取りあってた可能性もありますよね。

本能寺の変、家康黒幕説のひとつに天海僧正が光秀だったというのがありますね。
光秀=天海は無理があると思いますが、この人は確かにくさい。
比叡山にいた頃に信長の焼き討ちにあってたと思いますます。
今の東京の上野にお寺を建てたりとかよく覚えてないですが、
上野にゆかりのある人。不忍池なんてあったような。
上野という名は藤堂高虎が伊賀上野を偲んでつけたと聞いたことあるけど。

この件では本当に色々頭の中がリンクします。

>疱瘡にかかった妻をもらった。
光秀っていいヤツじゃん(泣)
肖像画見ても優しそうですよね。やはり単独の行動ではないような。
単なる怨恨だけでなく、
自分が汚名をかっぶても信長を倒したほうが世の為と考えたかも。
戦国の世を離れて静かにくらしたかったかもしれません。

光秀の妻は服部家の人なのですね。
じゃあ玉子は服部家の妻の子?

平熱名物オカルトがかりシリーズ。
私の母が細川家で先祖に玉子がいると言う話をきいたことがあるのですが。
詳しくは判らないのですけど。

いちどホンヤサンにもお話しお聞きして調べてみます。
[5]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 01時05分09秒 ) パスワード
  

わたくしから:


服部半蔵も怪しいですよ。
半蔵は家康の嫡男信康だっけ?のおもり役だったんです。
でもあんな事になった。

それで関係者が信康と築山殿の処刑をさせられることになって
半蔵は築山殿を斬ったのかな?

信長を暗殺したい動機、充分ありですよ。
[6]服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 01時06分33秒 ) パスワード
  

頂いたレス:


明子さん、今日はまたすごいお話ね!
でも、おもしろいなあ。
今日たまたま図書館で一向一揆の歴史を読んでたんですけど、
そうだよね、伊勢長島も、一向一揆の有力な本拠地だったんですよね。

でも、明子さんが今日おっしゃった話なんて、
その土地の伝承を知らないとね。
さっそく印刷して、ウィーケ〜ンドに図書館で調べて来ようっと。

京都の公家が信長の絶対化を阻止するために、明智光秀と通謀したって言いますね。
例の「勧修寺日記」のやつ。

でも、信長ほど多くの人(あえて、民衆、とは呼びませんが)を虐殺した人も
いないんだから、この説も「アリ」って気がしますね。
こういうとこから通説がひっくり返るしね。

そうすると、徳川氏はモノの見事に「おいしいとこ取り」したのかな? 
服部さんが報われるのも必然か?
[7]服部 明子さんからのコメント(2001年12月09日 21時19分08秒 ) パスワード
  

メールで頂きました:


ところで、「信長を殺したのは光秀じゃない」という説。
土岐信吉も「千利休」の中で、その説を採っていますね。
真実は分かりませんが、裏に秀吉の陰謀があったのは、案外・・・・!

[8]さんからのコメント(2001年12月10日 16時59分47秒 ) パスワード
  

秀吉共犯(又は首謀)説っていうのも結構言われてるらしいですね。
一番野心家で他の大名に対する懐柔策にも長けていて、実際天下を取った訳ですから。

まるで予想していたかの様に、備中からあんなに素早く帰って来れたのはかえって怪しい、といわれてる様ですね。

う〜ん、例えば・・・
本能寺の変は家康らが光秀を利用して起こさせたものだけど、光秀の不穏な動きを事前に秀吉が察知していて、いつでも帰れるようにしていた、とか?

秀吉は襲撃計画を信長には知らせず、逆に自分の出世の踏み台にしてしまったとか??

秀吉と家康。
どっちが一枚上手でしょう?
[9]さんからのコメント(2001年12月17日 14時04分41秒 ) パスワード
  

地元伊賀で行われた、忍者に造詣の深い方の講演会の内容です。

http://www.ict.ne.jp/~igabito/reports/reports07-1.html

私が以前挙げた明智光秀の舅、服部保章(俗姓・北村氏)。
このスレッドの発端になった人物のことをすっかり忘れていましたが、彼について興味深い記述があります。

「彼は伊賀越え途中の家康を騙して討とうとしたが、従兄弟の服部平太夫(蓑笠之介)に見破られて北村に落ち延び、北村氏を名乗った」というのが通説になっています。

でも、その説にはやはり疑問が・・・!?
[10]服部 明子さんからのコメント(2001年12月17日 22時03分38秒 ) パスワード
  

やっぱり「服部保章」怪しい!
明智の舅だから別心が無いなんて。
明智の舅だから「危ない」という話なら分かるけど「安全」だと言ってる。



上記柚木さんのお話:伊賀越えサワリ部分:


なぜ伊賀越えと言うかという、
伊賀を通らないと伊賀越えにならんから伊賀越えという形で進んでおりますが、
実際はそうじゃございません。


天正伊賀団によって、伊賀衆がいるから一番難所になるんですね。
伊賀の残党によって家康が殺される可能性がありましたので。
地域を越えるより伊賀衆のいるところを通り抜けなければいけないというのが
伊賀越えなんですね。


それは確かに音羽衆、後から追いかけてます。
追いかけてまして、そして柘植の北村家の連中と戦ってます。

ここで不可解なことが一つ、最近出てまいりました。
そして不可解なことといいますのは、
伊賀を越えて、柘植を越えて、大加太越えを越えて、板谷、板谷から白子浜、白子浜から
三河へ行くんですが、
この逃げている最中に先ほど申しました服部半蔵がおりません。

服部平内というのが出てまいります。
これは信楽町の小川城まで迎えに行きまして、そして柘植の柘植氏に渡しております。
そしてこれらがすべて済んでから、感謝状を持ってきたのが服部半蔵なんです。
そして、この協力した武将たちをまとめて伊賀組の組頭になったのが服部半蔵なんです。
なら、その後まとめたのは確かに服部半蔵なんです。
その中にそう書かれております、感謝状の中にしっかりね。


で、不可解なと言いましたのは、柘植に北村家という家がございます。
中に書いてるんですね、その感謝状の中に。
どう書かれてますかといいますと、
家康が逃げてきたときに道案内の者がいないから北村団の者がいると。
そこの北村というのは明智の舅になるから、別心がないとか言われているんです。

事件が起こったのは、明智が信長を殺して事件が起こっているのに、
逃げている家康は柘植の北村は、
これは実は北村の娘が明智に嫁いでるんですね。
ですから、その関係であるから別心がないと書かれているんです。
これは家康の感謝状の中に書かれてるんですね。
ですから、もし伊賀の中で家康の感謝状が出てまいりましたら、その辺をよく読んでいただきたいと思います。

その辺に、すんなりと書かれている文章の中に、すごい歴史が残っている可能性がございます。

そして、伊賀の衆は50人しか助けてないんですね、当時は。
ところが、無足人台帳を見ましても200人に膨れ上がっているんですね。
この辺にも何らそうなった理由があると思います。
その名簿自体に大きな理由があると思いますね。

そして、先ほど申しました北村を別心がないから頼ってもよろしいということで北村に頼ります。
そして大加太を越えます。
そこへ音羽の衆が来まして、北村の家来たちと戦ってます。
そして2人死んだ様でございますね。北村の家来は2人死んでます。
それを筒井順慶が6月の8日に手紙を出してます、北村に。
それで家来2人死んで、よくぞ助けてくれましたということを書いてますね。
こういうような手紙が出てまいります。


そうしますと、その当時起こってた私たちの知っている信長の最後と話が違います。
そういうなんがこの甲賀の中には出てくる可能性が大いにあります。
そういうふうな歴史が秘めてる地域であるということです、その時代にとっては。
そういうようなことがいっぱいあったために、
信長が恐れ、そして家康も恐れてるんですね。
[11]さんからのコメント(2001年12月18日 09時59分20秒 ) パスワード
  

>やっぱり「服部保章」怪しい!
>明智の舅だから別心が無いなんて。
>明智の舅だから「危ない」という話なら分かるけど「安全」だと言ってる。

ね、変でしょう?

やはり、明智光秀と家康の間に何らかの密約があったことを匂わせていますよね。
そして筒井順慶も、北村家に「感謝状」を出しているってことは、何らかの形で関わっていたということか・・・

>そして、伊賀の衆は50人しか助けてないんですね、当時は。
>ところが、無足人台帳を見ましても200人に膨れ上がっているんですね。
>この辺にも何らそうなった理由があると思います。
>その名簿自体に大きな理由があると思いますね。

伊賀越え随行者のリストは200人。
でも、実際に動いたのは50人。
別の所でも書きましたが、このリストには服部半蔵だけでなく、
その当時伊賀にいなかった筈では?と考えられる人々が混じっています。
例えば、秀吉の家臣だった(備中にいた)筈の杉原家次や、和田惟長等。

これは単なる誤りなのか?
それとも伊賀越えの時には現地にいなくても、
何らかの形でこの「作戦」に協力していたということ・・・?
[12]さちこさんからのコメント(2001年12月25日 13時02分57秒 ) パスワード
  

日曜日に弥富のホンヤさんへ行きました。
何と!ホンヤさんに凄いものがありました!
それは・・・・。
2002年イチローの直筆サイン入りカレンダー!
ボカ、ボカ!(明子さんと隈さんに殴られた音)

本能寺の変のことをお聞きしたら、
光秀は本能寺の変の時、四国にいたらしいとのことでした。
だから直接光秀はかかわってないと。
これは服部家に伝わる話ではなく、
最近の研究であきらかになったとか。
一つの説だと思うのですが。
また詳しいことを聞いておいてくださるそうです。

ところで明子さん家康の亡霊て何ですか?
聞いたことないです。教えてください。


[13]服部 明子さんからのコメント(2001年12月25日 23時28分06秒 ) パスワード
  

イチローの直筆カレンダーですか・・・
私も欲しい!


さて「家康の亡霊」の件ですが
例えば愛知県の水不足の時には「家康のお墨つき」が活躍する訳です。
今の言葉では「既得権」と言います。

尾張藩の繁栄の為にどんなにホンヤさんとこが尽くしたか
それで家康の亡霊が出て来るというわけです。
[14]さんからのコメント(2001年12月26日 10時31分33秒 ) パスワード
  

>イチローの直筆カレンダーですか・・・
>私も欲しい!

私も! (^^)/
・・・って、ホンヤさんは一体どなたに頂いたんでしょうね?

>光秀は本能寺の変の時、四国にいたらしいとのことでした。

う〜む、これは初耳。
四国なんて、簡単に帰って来れる場所じゃないですよね。
こういう説が出てくるって事は、何か新しい文書でも発見されたんでしょうかね?
[15]服部 明子さんからのコメント(2001年12月26日 23時48分03秒 ) パスワード
  

私の母方の家は信長の四国攻略には明智と交渉してたので
後に秀吉に潰されました。
1585年だったかな?
[16]さちこさんからのコメント(2001年12月28日 13時01分52秒 ) パスワード
  

すると光秀が四国と関わりがあったのは事実なのですね。

イチローのカレンダーは古文書の先生がアメリカへ行った時のお土産とか。
ホンヤさん徳川家の拝領品なんかよりも大事そうだった(笑)
今服部家の門外不出だった古文書を解読中らしいです。
かなりの量で難解なのですべてを解読するにはあと10年かかるらしい。
もしかしたら日本の歴史が変わるかもしれないと言う話です。
本能寺の変についても何か書かれてたりして。
もしかしたら家康の都合の悪いことも書かれていて、
それがきになって家康の亡霊が出るのかも?

明日から一週間旅行に行きます。
今年は色々お世話になれました。
皆さんよいお年をお迎えください。

[17]さんからのコメント(2001年12月28日 13時32分04秒 ) パスワード
  

>今服部家の門外不出だった古文書を解読中らしいです。
>もしかしたら日本の歴史が変わるかもしれないと言う話です。

早く内容を知りたいですね!
あと10年は掛かるんですか・・・
まぁ、あと100年って言われるよりはいいですね(笑)
古文書の読めない私は、ただひたすら楽しみに待つのみです。

>もしかしたら家康の都合の悪いことも書かれていて、
>それがきになって家康の亡霊が出るのかも?

当たってたりして・・・(^^;

こちらこそ、いろいろとお世話になりました。
さちこさんもご旅行、楽しんでいらして下さいね。
よいお年を。
[18]服部 明子さんからのコメント(2001年12月29日 09時25分58秒 ) パスワード
  

さちこさん

ポルトガルでは楽しい時をお過ごし下さい。

四国の伊予・河野家担当は「明智」で
丹羽さんもどこやらを担当してて(丹羽さんは信長の嫡男の代理だったかな?)
確かに明智は信長の四国攻略のエージェントとして動いてました。

ですから四国の運命も誰が担当だったかで運命が分かれたと思っています。
丹羽さんと秀吉は仲が良かったですから。

丹羽さん、なんて書きますと隈さんから「オカルト話」がまたまた聞けるかもね?


伊勢の伊藤氏のホンヤさんとこも蔵を解放して古文書が解明されれば
日本史が変わるような資料が見つかると思うのですけど
伊勢の伊藤家ホンヤさんは絶対服部家ホンヤさんとは違って
教育委員会に協力したくないみたい。

凄い資料が沢山あるみたいなんですけどね。
[19]さんからのコメント(2002年01月07日 12時26分20秒 ) パスワード
  

どうも明けましておめでとうございます!
さちこさん、ご旅行楽しんでこられましたでしょうか?

>明子さんのコメント;
>丹羽さん、なんて書きますと隈さんから「オカルト話」がまたまた聞けるかもね?

あはは!(^o^) いましたよぉ〜
というか、名古屋って本当に「丹羽さん」がいっぱいいるので、「オカルト話」って程でもないんですが・・・
実際に知り合いだったのは、大学時代の後輩(女性)と、会社の同期(男性)の2人。
結構2人共、ユニークな感性の持ち主だったな〜。楽しい人々でしたよ。

そうそう、年も改まって始まりましたね、NHK大河ドラマ「利家とまつ」。
さっそく丹羽さん、服部さんが登場しました。
うちは私にチャンネル権がないので(主人と娘が争っている)、
録画してみることにしています。
[20]服部 明子さんからのコメント(2002年01月07日 21時15分01秒 ) パスワード
  

前田さんは名古屋市中川区荒子のご出身です。
荒子観音の円空という坊さんの一刀彫りの仏像は民俗的に価値が高い
とされてますが行ったことも見たこともないです。
[21]さちこさんからのコメント(2002年01月10日 15時03分00秒 ) パスワード
  

大変遅くなりましたがポルトガルから無事戻ってきました。
皆さん今年もよろしくお願いします。
暮れは本能寺の変で少し熱くなってしまったので、
ポルトガルで少し頭を冷やしてこようと思ったのですが少し冷やしすぎて風邪をひきました。
熱出して寝込んでしまいましたがやっと平熱に戻ることができました。
(新年から悪いシャレ!)

リスボンでは天正遣欧少年使節団が滞在したサン・ロケ教会にも行ってきました。
天正10年1月。(本能寺の変のあった年です。)
大友、有馬、大村等のキリシタン大名が選んだ13〜14才の少年4名は長崎を出発
二年の月日をかけてポルトガルにたどり着いたそうです。
イベリア半島各地ををめぐり、その後ローマで教皇と正式にに謁見したとか。
日本に戻ってきたのは天正17年。
皆二十歳ぐらいになっててきっとそれぞれ色んな夢をもって帰国したに違いない。
でもすでにキリスト教の布教は禁じられていて・・・。
その後少年達は殉教したりマカオに流されたらしい。

礼拝堂をながめながらここに着いた頃は、
少年達みんな胸をふくらませていたんだろうな思うと少しキュンとなりました。

で、信長の宗教政策と本能寺の変を考えてみました。
本能寺の変後四年で秀吉はキリスト教を禁止してます。
信長の死後は比叡山をはじめ信長に攻められた寺などを数多く再興してます。
朝廷の雅楽も衰退していて四天王寺の楽師を朝廷に招いたのも秀吉だそうです。

一向一揆もこの頃を境に治まっているのです。
信長は寺や僧の横暴さを嫌っていたそうですが、
当時の神社仏閣などは利権など不透明な部分が多く
信長は宗教界の古い体質を変えたかったのではないかと思うのです。
すると当然田中真紀子VS外務省みたいな対立ができて
その結果が石山合戦、一向一揆のなどになっていって、
結局武力では信長にかなわず最後の手段として本能寺の変がおきたとか?
このあたりのことはあまり詳しくないのでもう少し勉強しときます。



[22]服部 明子さんからのコメント(2002年01月10日 22時27分55秒 ) パスワード
  

オヤオヤさちこさんはポルトガルから無事ご帰国でしたか。
オトコ連れずに風邪連れてのご帰国でしたか。
ふふふ
でやっと「平熱」に戻った?
あ〜あ。
お疲れさまでした。


とにかく信長殺すのに下手人候補は一杯いたという事ですね。
信長を殺したい人間は長島に参集した、という訳です。
特に甲斐・武田家の武将達も。
武田の服部氏のご子孫が埼玉の川越で服部民俗資料館をやってる方です。
この方の家の家紋も「源氏車+並び矢」です。
江戸時代はなかなかの豪商だったのですよ。

ここの家は南朝方として浪合記に出て来る当時に信濃あたりに止どまった一族だと思いますけどね。
[23]さちこさんからのコメント(2002年01月12日 13時00分45秒 ) パスワード
  

オトコ連れずに風邪連れて・・・。
ほっといて!
来年は前世平家の海老だった男性見つけにアメリカ行こうかしら?
そういえば去年もタイで風邪ひいて。
(高温多湿のタイで何故風邪ひけるのか?)
バンコク土産と言って周りの人に風邪をうつしまっくてヒンシュクかったけど。
ゴホッ!ゴホッ!
明子さん隈さんリスボン土産はいかがですか?

長島に武田の武将も加わっていたのですね。
斉藤道三の孫だったかが長島入りしてたのは聞いてましたが。
きっと今川勢もいたに違いない。(単純な発想!)
この長島に結集した集団が信長に敗れて本能寺の変を企てた可能性はありますね。
やはり服部家は本能寺の変に関っていた?

当時、半蔵のところと長島の服部家の関係はどうだったのでしょうか?
当時服部家も一枚岩でなくて、
信長につかえてた服部家の者も多いみたいですね。

面白い話を聞きました。
長島の一向一揆の時、願証寺のお坊さんが寺の鐘かぶって川に飛び込んだのですが、
今でもそこからたまに泡がブクブクでるそうです。
中でまだ息してるんだって!
[24]服部 明子さんからのコメント(2002年01月12日 22時16分10秒 ) パスワード
  

願証寺のお坊さんの話は今でもそう伝えられてるのですか。。。
やっぱり一向宗の地元ならではですねぇ。


信長に仕えてた服部氏は弥富のホンヤさんとこに対抗する勢力だったのでしょうね。
津島の服部小平太は将軍にお願いして「服部氏の嫡流」のお墨つきを頂いてるので
信長方の服部家の頭領になりたかったのでしょうね。


伊賀の忍者集団の服部氏とは随分前に分かれていたとはいえ
ホンヤさんとこは伊賀を統率する家だったので
つかず離れず交流はあったと思います。

今川氏との関係がハッキリしたら面白いと思ってます。
ここで三河の松平家との関係やら出て来ると思うのですけどね。
[25]さんからのコメント(2002年01月15日 11時43分31秒 ) パスワード
  

遅ればせながら、さちこさん、お帰りなさいませ。
体調の方は、もう大丈夫でしょうか?
新年からあまり飛ばさず、ゆっくりアクセルを踏んだ方が良いかも知れませんね。

ポルトガル旅行ですか・・・
私はこの年末年始、防府天満宮へ初詣に言ったぐらいで遠出しませんでしたので、羨ましい限りです。
私も子供が大きくなったら、また昔みたいに海外旅行に行きたいな・・・


>長島の一向一揆の時、願証寺のお坊さんが寺の鐘かぶって川に飛び込んだのですが、
>今でもそこからたまに泡がブクブクでるそうです。
>中でまだ息してるんだって!

ひゃあ、壮絶・・・

織田信長も本能寺の変直前にはかなりナーバスになって、いつもに輪をかけて些細なことで怒りっぽくなっていたようですね。
多くの人に恨みを買っていることは自身で充分承知していたと思いますが、
その頃具体的に命を狙われていることを察知して、怯えていたのではないかという説もあるようです。

お坊さんの亡霊でも見たのか?
それとも生身の人間の策謀を察知していながら、防げなかったか?

>今川氏との関係がハッキリしたら面白いと思ってます。
>ここで三河の松平家との関係やら出て来ると思うのですけどね。

「服部一族」にも、今川氏に仕えた一派がいたことが出ていましたね。
それと、服部一族の多くが織田氏や足利将軍家から徳川氏に乗り換えたらしい永禄3〜8年の詳しい動きが判明するといいのですが。
[26]さちこさんからのコメント(2002年01月15日 13時00分54秒 ) パスワード
  

下記アドレスに信長が伊賀の敢国神社の霊に祟られていたなんて話があって面白いです。(凱歌編)
その他にも結構参考になることが多いので一度いってみてください。



http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3299/gg.html
[27]服部 明子さんからのコメント(2002年01月15日 13時54分02秒 ) パスワード
  

この「占部朝臣」の話は他でも聞いたことがあります。
これは詳しいですね。
[28]さんからのコメント(2002年01月16日 11時18分42秒 ) パスワード
  

確かに、これは伊賀の歴史を知る上で参考になりそうですね。
ゆっくり読もう・・・
[29]さんからのコメント(2002年01月17日 12時44分31秒 ) パスワード
  

さちこさん御紹介のページ(天正伊賀の乱 血戦編)より;

>百地丹波は知友であった徳川家の忍者服部半蔵に決別の書を送った。
>それを知った半蔵は何とかして三百を数える歴戦の忍者らを
>徳川家に役立たせたいと家康に願い信長に配慮を乞うて
>無血講和の道を開くべく奔走したらしい。

最近読んだ本の中にも、服部半三保長・半蔵正成父子は、
天正伊賀の乱前後に百地丹波と連絡を取り合っていた、というようなことが書かれていました。

奥瀬平七郎氏(故人。忍者の研究家として有名で、伊賀上野市の市長さんだった方だそうです)が
書かれたもので、近年発行された「別冊 歴史読本 忍びの者132人データファイル」という本に
収載されていました。

それによると天正8年、半三父子は信長が近いうちに伊賀・甲賀を攻めることを予測し、
家康に伊賀・甲賀衆を雇って貰うことで壊滅を防ごうとしたとか。

半三父子は、家康の臣下に入るよう伊賀・甲賀衆を説得しようとした。
甲賀五十三家の説得には成功したが、伊賀衆を率いる百地丹波だけは説得できなかった。

結局、誰かの家臣になるのを嫌い、あくまで独立した存在を保ちたかったということですね。

百地丹波も、信長が伊賀に大軍を投入すれば勝ち目が無いことは承知していたが、
彼には伊賀殲滅を防ぐための別の策があったという。

彼は乱の2年前から弟子の石川五右衛門を堺(信長軍の鉄砲量産や、
軍資金調達の基地になっていた)に送り込んで、信長軍を撹乱しようとしていた。
最後の手段として、信長を暗殺することも考えていたという。

そして最後の隠れ家として、大和龍口(奈良県室生村)に農業と大和猿楽の勧進興行元
(財源捻出のため)を兼ねた別邸を作って、その他に傘下の忍者(約300)の避難先として、
農家を何軒か用意していた様である。

半三父子は百地丹波の頑固な考えを覆すのは無理と判断し、交渉は決裂したものの、
もし実際に信長暗殺が成功すれば、主君である家康に主権が移るチャンスが廻ってくると考え、
表面上は喧嘩別れのようでも実は「頷きあって」別れたのではないか、
というのが奥瀬氏の考えです。

三河に戻った半三父子から報告を受けた家康も「百地を利用しない手はない」と考えた筈、と。


一方、家康は甲賀衆が自分の傘下に入ったことを信長に報告して、甲賀攻めだけでも諦めるよう頼み込んだ。
それに対し信長は、「甲賀忍家の代表として多羅尾光弘が、伊賀攻めの先鋒を務めることを条件」
として受け入れた、という。

それが本当なら、残酷な話ですね。
裏切りが日常茶飯事だった時代には、こんな事を命ずるのは普通だったのかも知れないけど。
「忠誠心を示すため、かつての仲間を先頭きって攻めてみろ」とは。
[30]さちこさんからのコメント(2002年01月27日 17時30分16秒 ) パスワード
  

う〜ん。本当に残酷な話です。
きっと家康についたものの信長を恨んでいた甲賀衆も多かったでしょうね。

今日大河ドラマは桶狭間の戦いですね。
ご存知かと思うけどこの戦いと服部家についてホンヤさんに資料を頂いたので少し。

桶狭間の戦いは今川の持ち城、大高城、鳴海城が信長の砦で封鎖されていたので、
その救援が目的だったのではという説が旧来の上洛説に対して主張されている。
その理由として服部水軍が船千艘ばかりで大高まで来援していた。
しかし義元が桶狭間で討死したので服部水軍は役立つことなく、
帰途に熱田を攻撃して撃退された。(信長公記による)

つまり桶狭間からもう少し海よりのところで今川軍と服部軍が合流して、
信長を迎え撃つ手筈になっていたのではということです。
今川軍が討ち取られた後も服部軍は粘ったみたいです。

この服部水軍を率いたのは、服部左京助とありますが友貞のことですね。
そんなことを思いながらテレビみます。

[31]服部 明子さんからのコメント(2002年01月27日 23時57分17秒 ) パスワード
  

今川と服部で信長を挟んで殺そうとしたのは分かってましたが
帰途「熱田を攻撃して撃退された」のですか?
これは知らなかった・・・

熱田はその直前に信長が戦勝祈願した所でしたから
信長の家来がしっかり防いだのですね。
あらら・・・
[32]さんからのコメント(2002年01月28日 10時34分40秒 ) パスワード
  

私も知りませんでした・・・服部氏がこれだけ信長に抵抗したという事。

そうだ、昨夜録画した大河ドラマ、まだ見てなかった。
これから見よう (^^)
[33]服部 明子さんからのコメント(2002年01月28日 23時59分28秒 ) パスワード
  

隈さん

服部氏は南北朝の対立が落ち着いてから
管領斯波氏の下で働いてたのです。

織田家も働いてましたが服部家の方がずっと身分が高かったのですよ。

なのに信長の親父さんの辺りから織田家がのして来て
そりゃ面白くないわよね。

それで今川と結んで信長を殺るつもりが義元が殺されてしまった。
あらら・・・
その帰途信長の後方を撹乱するつもりが負けてしまった。


その後一向一揆でしょ。

服部家ホンヤさんの表現ですと「信長とウチは犬猿の仲」というのは
ちょっとやそっとの仲の悪さじゃないんです。

家康は今川に人質に行ってましたから
義元との関係からでも服部家ホンヤさんとこが家康と繋がりがあったと思ってます。

それに服部水軍は大高に救援に行ったというさちこさんの資料からも
当然服部家ホンヤさんと家康の関係が浮かび上がります。
[34]さんからのコメント(2002年01月29日 12時29分21秒 ) パスワード
  

・・・なるほど、服部小平太が「裏切り者」って言われる訳だ・・・


>服部水軍は大高に救援に行った

家康が今川軍に属して、大高城に兵糧を運び入れた時の事ですね。
この時、服部半蔵父子が作戦に参加していたとも。

するとやっぱりこの時、ホンヤさんは服部半蔵父子とも連絡を取り合ってた筈。



[35]服部 明子さんからのコメント(2002年01月29日 14時06分36秒 ) パスワード
  

私個人はホンヤさんの家と家康の家の関係は
先祖同士足利幕府を通しても関係があったと思います。

ホンヤさんが尾張管領の斯波氏の元で働き
松平家は三河の足利の息の掛かった家と親しかったと思いますから。吉良家とか一色家とか。

ですから今川を通してもホンヤさんとこと松平家は繋がりがあったと思います。


もっと時代を遡って南北朝時代にも関係があったのかな?と思いますし。
それに徳川家のそもそもが徳阿弥だかなんだか得体の知れない人物というでしょ?
松平家に婿に入って松平家を乗っ取ったって。

「得体が知れない」ってところに非常にロマンを感じるのです。。。
[36]さちこさんからのコメント(2002年01月30日 20時34分45秒 ) パスワード
  

明子さん
私もこの徳阿弥とかいうホームレス坊主、なんか気になってたのですよ!
半蔵とこが松平家に遣える以前から服部家とは何らかの関係があるような気がします。

松平家と服部家の関りは、
半蔵の父保長が足利氏に報酬を貰えなくて一族をつれて足利氏をでてきた。
京の町で途方にくれていたら偶然京都見物に来ていた家康の祖父に出会い
いい条件で三河に来るように勧められた。
なんかこんな様なことだったと思います。

普通はこれがきっかけで服部家は家康の家臣になれてラッキーだったと考えられてるみたいですが。
最近は逆じゃないの?と思ったりします。

財政難だったとはいえ足利氏につかえていたのだし、
半蔵のとこもそれなりに由緒正しい服部家。
当時まだ海のものとも山のものとも判らない松平家。
これだけのことでノコノコついて行くかな?
それ以前に何らかの関係があったと考えた方が自然ですよね。

でも真相はホンヤさんとこの家康の幽霊とっつかまえて訊くしかないかも!

[37]さちこさんからのコメント(2002年01月30日 20時59分16秒 ) パスワード
  

信長と服部家について明子さんの話と少し重複するけどこんなことを何かで読みました。

織田家はもともと越前の出身で、
信長の祖父の代に尾張の津島あたりに進出きた。
そこには南朝系の土豪たちが権力をもっていて栄えており、
織田家との間に軋轢が生じた。

服部家と信長は斯波氏につかえていたが、
信長が斯波氏を滅ぼしてしまったので服部友貞は信長を逆臣として嫌い
ことごとく反発した。

そしてその後友貞は信長の諜略により自害する。
北畠氏へ新年の挨拶へ行った時のことらしいですが、
実は信長を討つための会合だったとか。
[38]服部 明子さんからのコメント(2002年01月30日 22時29分28秒 ) パスワード
  

非常に合理的ですね。

北畠は確かに反信長運動のリーダーでした。
伊勢は今でもその時の砦があちこちに残っているそうです。
土塁でしょうけど。

伊勢藤原町の米野でだまされて殺されたというのが
この経緯が知りたいです。
向こうのスレッドにも書きましたが
伊藤氏のホームグランドなので伊藤が裏切ったのかな?と。

向こうでも書きましたが
長島城はもとが伊藤氏の城だったのです。
この城主が領民に苛酷な人物だったので
追い出して入ったのが服部という訳なので。

ちょっとこの辺り引っ掛かるものがあるのです。
[39]さちこさんからのコメント(2002年02月02日 10時51分24秒 ) パスワード
  

伊勢名勝志によると友貞は多気城で襲われたことになってます。
多気から北勢の山奥まで逃げてきて自害したのだと思います。
参考に原文を書いときますね。

服部友定墓
上相場村字米野に在り面積八坪高五尺草木茂生す
友貞権太夫と称す桑名郡長島城主たり
北畠氏に仕ふ
永禄十一年正月正を多気城に賀す
織田氏間を伺い本城に入る
友定力拒む能はず
同月本村米野山陰涼庵に自殺す即ち此に葬る




[40]さちこさんからのコメント(2002年02月04日 22時26分13秒 ) パスワード
  

昨日大河ドラマをみていたら滝川一益は甲賀の出身なんて言ってましたが本当なんでしょうか?
ちょっと記憶に自身がないのですが友貞を襲ったのは一益だったような。
なんで読んだのか記憶がなくて資料を探してみてもないので他のことと混同してるかもしれないです。
一向一揆のあと長島城主のなったのは間違いないですが。

伊藤家、私も個人的相性でなんか絡んでるように思うけど。
先祖の御導きか今日田舎の土地のことで伊藤家とけんかしました。
詳しくは書けないけどなんかトラブル多くてね(親戚の伊藤家ではないです。)

昨日名古屋に行って帰りに桶狭間に行ってきました。
資料館にも行ったのですが、
毛利新助と服部小平太が義元を討ち取る図なんていうのがあちこちにあって。
落書きしとけばよっかたな、裏切り者って。

隈さんのおっしゃるとおり
松平元康17歳、後の徳川家康が大高で食料運びをしていたことも書いてありました。立派な仕事ぶりだったさすが後の天下人のようなことが書いてあったけど。
友貞のことは何もなし。
当時大高で指揮をとっていたのは友貞と思われますが、
このことが記録に無いというのは少し不自然かも?

そういえば光秀の妻を調べても
美濃の妻木家からもらった妻、
この人が疱瘡にかかった妻になるらしいけどこのことしか書かれてないです。
そして生涯側室をもたなっかたと。
江戸時代には光秀は逆臣とされていたけど
妻に関してはやたら美談が残るのも不自然みたいな気もしますが。
服部家の妻というのは妻木家へ養女へ行ってたということ?
それともうひとりいたのでしょうか?
実は明智光秀の妻が絶世の美女で
信長が廊下で抱きついたなんて話を聞いたことあるのですが(笑)

面白い話を?
桶狭間で義元が討たれる時に毛利新助の指を噛み切ったそうです。
後で首を確かめた時、噛み切られた指がでてきたそうです。
なんか凄い時代ですね。。。

こんなの思いつきました!
   
      毛利新助の桶狭間の思い出
  
    義元がかんだァ
    小指が痛い・・・・。

(伊東ゆかりの小指の思い出のメロディでどうぞ!えっ?そんなの知らない?)

今度はデビルマンの歌で小平太の替え歌作ってみますね!
[41]服部 明子さんからのコメント(2002年02月05日 07時07分49秒 ) パスワード
  

>昨日大河ドラマをみていたら滝川一益は甲賀の出身なんて言ってましたが本当なんでしょうか?

これは本当です。
裏切り者です。
藤堂も滋賀かあの辺りの出身だったような。

滝川一益は伊勢国蟹江城主でもあるので
蟹江も伊勢国だったのか、と感心した記憶があります。

だけど名古屋に行った帰りに「桶狭間」までいらっしゃったのですか?
凄い遠出ですね。


だけど「伊藤家」とは私は長島城をめぐる不仲って今も尾を引いてるって思う・・・
オカルト話めいて行きますが。
兄弟喧嘩のように血で繋がってるけど物質的な事で争うって。

だからさちこさんのお話でヤッパリって思いました。
長島城を乗っ取られた恨みは忘れないぞ!って。
[42]さんからのコメント(2002年02月05日 10時59分18秒 ) パスワード
  

>義元がかんだァ
>小指が痛い・・・・。

>(伊東ゆかりの小指の思い出のメロディでどうぞ!えっ?そんなの知らない?)

大丈夫!知ってるから(笑)・・・リアルタイムでは聞いてないけど。

デビルマンの歌の出だしも、一応知ってる(笑)

しかし大河ドラマの今川義元の顔は、お歯黒のせいか、どうも不気味。
ドラマじゃ悪役だから、しょうがないのかな。

・・・思わずあの顔そのままの生首が小指を吐き出すところを想像しちゃいましたよ。
今晩夢に出てきて、うなされそう。うぅぅ・・・


>>昨日大河ドラマをみていたら滝川一益は甲賀の出身なんて言ってましたが本当なんでしょうか?

>これは本当です。
>裏切り者です。
>藤堂も滋賀かあの辺りの出身だったような。

滝川一益って、出身地の甲賀では今でも嫌われてるらしいですね。

藤堂高虎は近江国犬上郡藤堂村の出身だそうです。
藤堂氏の出自は近江源氏説や藤原氏説等があるそうですが、
高虎本人は甲賀の土豪・宮崎家の出身だとか、聞きました。

>だけど「伊藤家」とは私は長島城をめぐる不仲って今も尾を引いてるって思う・・・

伊藤家との確執、ですか・・・
そういや、私も親戚じゃないけど知り合いで、モメた人がいたなぁ。

これ以上書くと個人中傷になるのでやめます!(笑)
[43]服部 明子さんからのコメント(2002年02月05日 12時22分43秒 ) パスワード
  

隈さんも?

服部と伊藤は、仲が良いほど喧嘩する、ってのでしょうかねえ?
それとか「近親憎悪」とか?似てるから腹が立つとか。


滝川一益は嫌われるでしょうね。
伊勢・伊賀で嫌われるのは当然ですが
結局は織田信長の虎の威だったからかな?

信長存命中は飛ぶ鳥落とす勢いだったけど
信長が殺されて北条氏政父子に負けてほうほうのていで伊勢長島に逃げ帰って
結局は信長の後継者を決める清洲会議に出るに出られず
柴田勝家は秀吉に敗れ織田信孝は自害するし
それで秀吉に降伏。
結局信長に貰った物を失うことになって「ザマーミロ」と世間の冷笑を買ったようです。

孫の代には浪人の身になってたのをNHKの「真田幸村」で見ました。

伊賀で虐殺をやった報いとか悪口言われたんでしょうね。
[44]さちこさんからのコメント(2002年02月06日 12時58分29秒 ) パスワード
  

>リアルタイムでは聞いてないけど。
明子さん隈さんあんなこと言ってる。
明子さんは当然リアルタイムよね?ええっ?万葉集もリアルタイムだったって!!

大河ドラマ、義元も怖かったけど、
この前出てきた利家の兄さんたぶらかす甲賀女も凄かったですね。
伊賀の服部家もあんなのだと誤解されたら困るな。
はっきり言っておきます!あれほどは酷くないです。

服部家ホンヤさんの奥様は織田家のかたなんですが、(これも凄い話)
弥富の平島の伊藤家とは親しいらしいです。(直接私の親戚ではないのですが)
私が伊藤家とは親戚になるとお話したら随分嬉そうでしたよ。
これはやっぱりなにかある?
[45]さんからのコメント(2002年02月06日 14時31分11秒 ) パスワード
  

>利家の兄さんたぶらかす甲賀女

ああ!名取裕子がやってた役?(爆笑)
すご過ぎる・・・昼間っから厚化粧だし。
あんなに露骨な「くの一」、実在しなかったでしょうね。
忍術は、使ってるのがバレないようにやらなきゃ意味無いし (^^;


>服部家ホンヤさんの奥様は織田家のかたなんですが

先祖同士が敵対関係にあっても、子孫は仲良くやっていけるんですね・・・
実は私、ちょっとだけ心配してたんです。

もし自分の祖先が服部小平太の子孫だったらどうしようかと・・・(汗)
万一将来そうだと分かっても、あんまり苛めないで下さいね〜

でも絶対言われそう。「この裏切り者〜!!」って(大汗)

****************************

さちこさんのコメント;

>光秀の妻を調べても
>美濃の妻木家からもらった妻、
>この人が疱瘡にかかった妻になるらしいけどこのことしか書かれてないです。
>そして生涯側室をもたなっかたと。

これについてですが、下記のページには、服部保章の娘は後妻であるとの記載があります。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/4898/ninbetsu-h.htm

ということで、玉子様は先妻(妻木氏)の娘ではないかと思われます。
[46]服部 明子さんからのコメント(2002年02月06日 21時50分21秒 ) パスワード
  

力関係で結婚してますからね。
特に家康の2人目の正妻が秀吉の妹なんて殆どの人は知らないし知ってても忘れている。

[47]そりちゃんさんからのコメント(2002年02月10日 12時22分01秒 ) パスワード
  

こんにちは、そりちゃんです。
先月名古屋に結婚式で行ってきたのですが、帰りに伊勢まで
足を伸ばしていってきました。
不思議なのですがなんだか懐かしいような、
自分の地元にいるような感覚なのですよ。
初めてきたところなのに「観光」にきた、
という気持ちにはならなかったです。

私の先祖はイトウ氏のようですが、伊藤なのか
伊東なのかははっきりしていません。

伊豆にはよく旅行していたのでやはりそちらかとも
思ったのですが、今回行ってみてあまりにも
変な感覚なのでちょっとコメントしてしまいました。

でも服部氏と伊藤氏は、仲悪いのですか?
ちょっとショック・・・
[48]服部 明子さんからのコメント(2002年02月10日 16時49分14秒 ) パスワード
  

ご安心を!仲いいですよ。

ただ伊藤氏がひがんでる。←さちこさん、同意します???
それは伊藤氏が大坂の役以降歴史から消えたからでしょうね。
大垣10万石だか4万石だかを(石田三成に城を貸して戦後処理で西軍とみなされて)没収されているのです。

と、思っています。
この前哨戦が伊勢長島城を失ったことに不運が始まってるのじゃないかな?と。


伊豆でしたら狩野城の城跡にいらっしゃって下さい。
ここは伊藤氏が伊藤と名乗る前、狩野氏だった所ですから。
ここに立ったら何か感じると思いますよ。
場所は修善寺から5分か10分南西になります。

私は「伊藤は狩野から出た」って確信を持ちました。
[49]そりちゃんさんからのコメント(2002年02月10日 17時51分14秒 ) パスワード
  

そうなんですか!よかった〜。
きっとそういう因縁ができてしまったんですね。

>私は「伊藤は狩野から出た」って確信をもちました。
えー、どういうことなのですか?
明子さんがおっしゃてるのは、「伊東氏」ではなく
「伊藤氏」のことですよね?
ちょっと混乱してきました。
[50]服部 明子さんからのコメント(2002年02月11日 10時57分04秒 ) パスワード
  

伊勢で平家とつるんでた伊藤氏は本姓が藤原氏で藤原秀郷の子孫。

10世紀の終わりに藤原秀郷と平 貞盛が組んで貞盛の従兄弟の平 将門を殺しました。
その後、藤原氏の1流れが伊豆の狩野に行き狩野氏を称しました。
そのままそこにいた狩野氏は頼朝の家来になりました。
平 重衡が奈良を焼いた罪で捕われていた時確か狩野で預かってたように記憶しています。

狩野から伊勢に渡った1流れは伊藤氏を称しました。
伊勢の藤原氏という意味でです。他にも「古市姓」も称しています。
藤原(伊藤五)忠清のパパは古市とも呼ばれていました。


伊東は工藤の親戚で系統が伊勢の伊藤とは異なります。
でも伊豆が平家の支配下にあった当時あやかって伊藤を称した伊東もあったと思います。
伊東と伊藤はかなり混乱があるようですよ。
私が「伊藤」と言ってるのは「藤原」から「狩野」になって伊勢に行って「伊藤」と称した
伊藤さんです。

狩野に行って城跡に登ぼりました。
確かに伊勢の伊藤氏は狩野から来たって確信が持てました。
そういうの行けば分かりますよ。
向こうから来るってば。


平 貞盛の子孫が伊勢に行って平家となりました。
藤原秀郷の子孫が(狩野を経て)伊勢に行って伊藤となりました。

両者の子孫は50年後伊勢で<平家と伊藤>となって再び同盟関係を結んだのです。
伊藤は平家一門の軍事を担当しました。
血でしっかり結ばれています。

その後、伊勢長島一揆のあたりまでしっかり同盟関係でしたよ。
600年間。
伊藤氏と平家はお互い悪口言ったら天に唾するのと同じ、自分に唾するのと同じ。

でも、そういうの忘れてるから、お互い出会うと、何か気になる奴だな、と。
うまく行けば引き合うでしょうけど、
お互い昔のことは忘れてるから、反発も凄いでしょうね。
何だよ〜!この野郎!って。

伊勢長島城のことがあるし
大坂の役(関ヶ原や冬の陣・夏の陣)があって
服部家はうまくやった家だから
そういうヒガミがあるんじゃないかな?と。

ヨソでいろいろ書いた<家康との関係>で江戸時代に決定的な差がついてしまったから。
[51]さんからのコメント(2002年02月12日 12時03分24秒 ) パスワード
  

そりちゃんさん、どうもお久しぶりです。

名古屋や伊勢に行かれたとのこと。

>不思議なのですがなんだか懐かしいような、
>自分の地元にいるような感覚なのですよ。
>初めてきたところなのに「観光」にきた、
>という気持ちにはならなかったです。

という感覚、私にもよ〜く分かります!

私も以前名古屋に住んだときや、奈良県の室生村(伊賀の近く)に行った時に
ちょうど同じ様な感覚を味わいましたから。

ということはやっぱり、そりちゃんさんは伊藤氏末裔なのかも知れないですね。


あ、それから、「伊藤」さんと揉めた云々の話は、どうか気になさらないで下さいな。
同族のうちでも一人や二人は気の合わない人間もいるでしょうし・・・(^^;
ただ、服部氏と伊藤氏は「良くも悪くも」縁が深いみたいですね。

ちなみに、私と相性の悪かった「伊藤」姓の人とのトラブルの元になってしまったのが、
当時務めていた会社の同期の親睦会で出かけた

「長島スパーランド」
(名古屋人なら必ず一度は行ったことがある?伊勢長島の遊園地)

でした!
これも先祖の因縁か!?なんて・・・

私のうちも母方の親戚(伊藤家)とはうまくいってます。
伯母のダンナさんは瀬戸内海の島の出身で、しかも昔は船乗り(捕鯨船の乗組員)でした。
親戚のルーツを確かめた訳ではありませんが、やっぱりその昔、伊勢から船に乗って来たのでは?なんて考えてます。
[52]そりちゃんさんからのコメント(2002年02月12日 13時04分25秒 ) パスワード
  

隈さんこんにちは!
名古屋への旅は本当に妙でしたよ。
本当に地元の千葉県にいるかのような雰囲気で、
うちの主人まで別の土地って気がしない、なんて
いいだすし。
でも、楽しかったです。

「伊藤」姓の人とは地元にすごく伊藤さんが多いので
クラスに5,6人は常にいた感じです。
やはり仲がいいのか悪いのか、という感じの付き合いを
していた友人がいますね。アドレス帳の「あ」欄が
ほとんど伊藤さんだった時期もありましたし。

私の母の実家は「神子」というのですが、やはり詳細が
わからず、家紋は九曜紋です。祖父が生前今は付き合いのない
本家にいってご先祖のことを聞いたときに先祖に
御子神典膳という剣豪がいたと聞いたそうです。
そして、その人の剣術の師匠がなんと
伊藤一刀斉景清!

そんなところで繋がるのか・・・と、少しぞっと
しました。
[54]服部 明子さんからのコメント(2002年02月12日 14時00分49秒 ) パスワード
  

御子神氏:

大和の十市氏の流れだそうですよ。大和国十市群というのがあるそうです。
神武天皇の東征に抵抗した一族だそうです。
一族の娘が7代天皇孝霊天皇の后となって8代天皇を生んだそうです。

御子上とも書いたり神子上とも書いたり氏もするし
典膳は後に外祖父の小野家を継いで小野氏も称しているそうです。
[55]そりちゃんさんからのコメント(2002年02月13日 11時21分25秒 ) パスワード
  

さすが!服部さん詳しいですね〜。
そう、典膳は後に小野次郎忠明と名を変えているのですよ。
でも姓氏辞典でもあまり「神子」も「御子神」も
のっていなかったので。
貴重な情報をありがとうございました。(^^)
[56]さんからのコメント(2002年03月01日 11時31分38秒 ) パスワード
  

私が以前別スレッドに書いた「杉原家次が伊賀越え随行者リストに載っている」
という話のことですが、本能寺の変関連の話題なので、こちらに移します。

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100218_18.html

>「徳川家康の伊賀越え随行者リスト」がありましたよ。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kasan/ig-zuikou.htm


>リストに杉原家次(おねね様の伯父)の名があるのはどうして!?
>彼は当時、秀吉について備中高松城に行ってた筈なのに・・・

>下記参照;
http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/sugihara/fukutiya.htm

>彼はその後明智光秀が築いた福知山城を貰ったんですね。

>ちなみに、家次の嫡男長房の妻の父は、浅野長政。
>杉原長房は関ヶ原で西軍についたのですが、徳川方に浅野長政を通じて内通していたため、旧禄を安堵されたそうですよ。


一体何故リストに杉原家次の名があるのか、気になっていたので、
リストを載せているサイト「忍びの砦」の管理人さんにこのことを伺ってみました。
昨日管理人さん(「服部 笠之助」さんと名乗っていらっしゃいます!)よりお返事を頂きましたので、一部抜粋させていただきます。

********************

「平家物語を熱く語る!」も時々覗かせて頂いていましたので、隈さんのお名前も知っておりました。
ご質問の件ですが、杉原家次は仰っておられるように同一人物を指しています。
伊賀越え随行リストに載せましたのは、信憑性の高いとされている『宇野主水記』に記載されているからです。
家康の案内役として信長から長谷川秀一、信忠から杉原家次が付けられたと言うことです。
高松に残ったという内容は、『太閤記』によるものだと思いますので、堺に居た説の方が信憑性が高いと判断して記載しました。

高松説の方に他の出典などがありましたら、是非教えて下さい。
実は昨日、出張の帰り道に愛知県、三重県の伊賀越えルートの探索をしてきたのです
が、その時に弥富の服部さん宅も見て参りました。アポをしていなかったので、外か
らだけの見学だったのですが、今度行くときは予約させて頂いて是非ともお家の中も
見学したいと思います。

********************

さちこさん、是非とも次回、笠之助さんをホンヤさんにご紹介願います (^^)


「太閤記」って、江戸時代に入ってから書かれたものだし、結構脚色されてるみたいですからね。
一方「宇野主水記」は、本願寺の坊官(公家出身)が書いた、当時の日記だそうです。

やはり、これは「宇野主水記」の記述が本当では、という気がします。
[57]さちこさんからのコメント(2002年03月01日 21時07分00秒 ) パスワード
  

隈さん
色々調べてくださってありがとうございました。
はっきりと覚えてないのですが、
杉原家のおねさんの実父が信長に殺されたとかでしたね。

最近の大河ドラマでおなじみの「おやかたさま〜」の秀吉。
信長死後の秀吉を考えるとこのイメージにあまりとらわれてはいけないかも。
戦国時代なので当然なのかもしれないけど、
信長の子には冷たかったですね。
おねさんと秀吉の関係も本当はどうだったのか考えてしまいます。

笠乃助さんのページもみてきました。
笠家系図、例のホンヤサンところのと同じものだと思うのですが、
途中で消えてしまうのは何故?
う〜んやはり家康の仕業かも?

笠の助さんにも連絡とってみますね。
[58]さちこさんからのコメント(2002年03月02日 20時16分29秒 ) パスワード
  

笠乃助さんのところのBBSみたら、
弥富のホンヤさんの次に四日市にいらっしゃってました。
思案橋です。
家康が伊賀を越えてから四日市で三河まで陸路をいくか船で行くか思案したと伝えられてます。
ここでは白子にいって船で三河に戻ったことになってたと思います。

もう少し早ければホンヤさんの所にご案内できたのに残念!
それにしてもこれも少しオカルトがかってないですか?
これからご縁があるかも?
[59]さんからのコメント(2002年03月04日 10時26分16秒 ) パスワード
  

>信長死後の秀吉を考えるとこのイメージにあまりとらわれてはいけないかも。

秀吉は「人たらし」と異名をとった程、他人に対して腰が低い反面、
抜け目の無い人物だったようですね。

伝記やTVドラマでは、信長に気に入られようと忠孝を尽くす面ばかりが強調されがちですが、
隙あらば主君を踏み台にしてのし上がろうというぐらいの気持ちがあるのでなければ、
天下は取れなかったでしょうね(それは家康も同じ)。

秀吉が本能寺の変の策略に関わっていたかどうかは分かりませんが、
変の直後に近衛前久らを追及しているところをみると、
少なくとも裏にある「何か」を察知していたようですね。
やはり事変を予測していたから、「中国大返し」も出来たのではないでしょうか。

しかし、杉原家次に関する「太閤記」と「宇野主水記」の記載の違いは、一体何なのでしょうね?
「何か隠してんの?」と思うのは勘ぐりすぎかな・・・

>もう少し早ければホンヤさんの所にご案内できたのに残念!

私が質問のメールを出したときは既に三河へ「出張中」とのことで、
「あ〜行き違いになってしまった・・・」と思ってました。
笠之助さんは忍者について詳しく調べておられ、
服部氏についても大変興味があるので、今後とも宜しくお願いします、
とおっしゃっておられました。

そうそう、明子さん、さちこさんご両人へ

笠之助さんがお二人の事を「弥富のホンヤさんとはどういうご関係でしょう?ご親族ですか?」
とお尋ねになっておられましたが、どのようにご紹介申し上げましょう?

「同族」?「遠い親戚」??「お知り合い」???

訊かれた私も正確に答えられないって事に気が付いた・・・(笑)
[60]服部 明子さんからのコメント(2002年03月04日 11時38分56秒 ) パスワード
  

ホンヤさんは我が家にとっては「雲の上」の存在ですね。
ホンヤさんのお嬢様が白足袋なら我が家は黒足袋
ホンヤさんのお嬢様が黒足袋なら我が家は素足で
と、ご遠慮すべき立場ですね。

1番上の束ねの存在ですから。

父などは尾張藩の家老を呼び捨てにしてもホンヤさんにはご遠慮申し上げる感じですね。
お館さまって感じ。
我が家が代々楽出来たのはホンヤさんのお蔭ですからね。
[61]さちこさんからのコメント(2002年05月22日 12時50分59秒 ) パスワード
  

http://www.esuk.net/kuromiya/rekishi/ikkoikki_haikei.html
[62]さちこさんからのコメント(2002年05月22日 12時56分55秒 ) パスワード
  

こんなのを見つけてしまいました。
確かにそうだけど、でもそらゃないよという感じです。
明子さん反論してください。

黒宮家とうちは・・・仲いいです!

上記アドレスは服部家の恥になるといけないので時間がくると消滅します。
南無阿弥陀仏。
[63]服部 明子さんからのコメント(2002年05月22日 13時29分38秒 ) パスワード
  

いえいえ消さないで下さいよ。

だって服部家は戦国時代寸前は斯波家の尾張管令の元で織田家とご一緒してましたが
織田家より家格はずっと高く・・・
でも旭日の勢いで伸びて行く織田家には悔しい思いが一杯だったはず。

なんとか織田家には鼻をあかせたいと思っていたに違いなく

それで今川と組んで織田を挟んで息の根を止めるハズ・・・が・・・・(^^;


黒宮の側からあの一向一揆を見るとああいう話になるのでしょうね。
面白かったですよ。

長島城の持ち主だった伊藤家にしたって乗っ取った服部家は憎いはず。


こういう人間の心の中って文学になりますよ。
私には才能が無いので小説に出来ませんが
あの一向一揆の時代って凄い人間ドラマがあったと思います。

だから消さないで!
[64]さちこさんからのコメント(2002年06月02日 20時13分15秒 ) パスワード
  

今日は6月2日。
本能寺の変のあった日ですね。
このスレッドができてから随分経ちましたがなかなか話が進展しませんね。

本能寺の変の真相!
実は光秀から明子さんへの誕生日プレゼントだった!!

と、いうことで。
明子さんお誕生日おめでとうございます!

服部家が本能寺の変に関っていたかどうかは判りませんが、
信長死すとの一報を聞いた時は大喜びだったでしょうね。
きっと赤飯炊いて祝ったことでしょう(笑)

しられざる英雄!服部左京進。
なんてのがありましたので名誉挽回にアドレス書いておきます。
ホンヤさんの紹介や、桶狭間のことにもふれてますので。

http://www.c-d-k.ne.jp/~mytown/tabi/tabi06.html

この間本屋さんで信長公記の現代語訳をみかけました。
かって読もうかなと思って桶狭間のところを開いてみました。
そしたら!
原文では服部左京、武者舟千艘、蜘蛛の子を散らすが如くとなっているのに、
この本では船二十艘になってるんですよ。
確かに千艘というのは誇張があるかもしれないけど。
(いやそれぐらいはやってた?)
二十というのはね・・・・。あんまりだ!
結局買いませんでした。
ターケの訳者、儲けそこねたな。

ところで今回のワールドカップで、
上野市が南アフリカチームのキャンプ地になりました。
当然忍者装束で大歓迎!
選手全員が忍者を知っていた!?・・・そうです。
NINJYA!NINJYA!と言って喜んで記念撮影したりしてたそうです。

アメリカでも以前少しブームになったとか?
中東辺りに行くと忍者になりたいという子供や大人が結構いるらしい。

信長の名は一歩日本をでれば知名度ゼロに等しい。
が忍者の名は、(=伊賀の服部家)
一滴の血も流さず。
服部家は一銭の金も出さず。
世界を制覇しているのだ。ワッハッハッ!まいたっか信長!

・・・と書いて何か少しむなしくなりました。ではまた。
[65]服部 明子さんからのコメント(2002年06月02日 22時11分41秒 ) パスワード
  

さちこさん

ありがとうございます。

忍者はアメリカでも凄い人気ですよ。
ロスの山にドライブ行った時
山の中で黒装束でトレーニングしてる人達を見掛けたことがあります。

私の仕事場でも忍者大好き人間がいたりして感激してくれます。
あはは
では早速URLに行って来ますね。
[66]さちこさんからのコメント(2002年07月04日 23時40分45秒 ) パスワード
  

時は今雨がしたたる五月かな。

私の記憶が確かなら〜
明智光秀が本能寺の変の前に読んだ句。

時を土岐氏ではないかと考えた説はありますが、

土岐氏=都祁=柘植。であるなら。

このこじつけを参照するなら、
http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100136_109.html

にどうぞ!多分余計に判らなく思いますけど?



光秀、例の上記こじつけ説では、
松尾芭蕉、観阿弥、世阿弥と先祖を同じくします。
その人物の句にしてはお粗末すぎるとおもいませんか?時=土岐では。

光秀は中世的な教養をもっていた人らしい。

柘植を時とよんだかも?


柘植は今雨がしたたる五月かな

何故か邪馬台国を調べていて繋がりました。

後は隈さんど〜ぞ!

[67]さちこさんからのコメント(2002年07月05日 22時18分43秒 ) パスワード
  

あのごめんなさい。

読んだ句ではなく詠んだです。
いつもながらのことですが、
これは光秀自身作なのでお察し頂いていると思いながら訂正しておきます。
[68]さんからのコメント(2002年07月11日 09時33分29秒 ) パスワード
  

さちこさんへ

申し訳ないのですが、明智光秀の系図のお話、もうちょっとお待ち下さい。
まとめて書いても、結構長くなりそう。
というより、私がキーを叩くのが遅いだけか(汗)

これは喜多村(北村)=服部家に伝わる明智系図と、
熊本の細川家所縁の安国寺に伝わる「土岐系図」にみえる光秀の子供達のお話です。

それによると「光秀が正妻(妻木氏)一人しか持たなかったというのは事実ではない」と。

妻木氏は天正4年11月に病死しており、その後喜多村氏との縁組があったと考えられます。
また、妻木氏の前にも妻(山岸氏、光秀の従妹)が居たが、死別したようです。
その他に「土岐系図」は、側室として公家の原仙仁という人物(どんな人かは不明)の娘を挙げています。
[69]笠之助さんからのコメント(2002年07月12日 09時43分31秒 ) パスワード
  

皆さま はじめまして
ここの書き込みは、初めてさせていただきます。「忍びの砦」の笠之助です。
よろしくお願い致します。

実は最近、笠之助関連(喜多村服部氏を含む)の原稿を書き上げたところです。
現在は、服部保長・正成の原稿を書くために、せっせと図書館通いをしております。
詳細はまだ申し上げられないのですが、秋頃に紙上で発表になる予定です。
笠之助関連は、「忍びの砦」に載せているのをまとめた程度で、取り立てて目新しい内容ではありませんが、服部父子の事績については細かく再調査しております。

また、告知できる段階になったらお知らせ致します。

さちこさんへ
その節は、史料送っていただいたり、伊賀までお越しいただいたりありがとうございました。
[70]さんからのコメント(2002年07月12日 18時25分25秒 ) パスワード
  

笠之助さん、どうもお久しぶりです。

服部保長・正成父子の事跡について調べていらっしゃるとの事、とても楽しみにしています。

私もさちこさんから頂いた服部家系図のコピーを拝見して、気になっていましたので。


私が最近明智光秀の本を読んだところ、明智家の系図が複数紹介されており、
その中に光秀の側室の子として「蓑笠之助」の名が出てきたのでビックリしてしまいました。

上に書きましたが、出典は熊本の細川家所縁の安国寺に伝わる「土岐系図」だそうです。
この寺を開山した明厳梵鉄和尚が、光秀と側室の間に生まれたといい、その関係で伝わったらしいです。

側室=公家の原仙仁という人物の娘が産んだ子は8人おり、その中に「光保」という名がみえます。
そして「光保=服部平太夫、さらに関東に召されて蓑笠之助を名乗る」となっているそうです。

これを書いた人も、真偽の程は分からない、としていますが、
もし本当だったら本能寺の変の真相は・・・といろいろ空想してしまいます。
[71]さちこさんからのコメント(2002年07月12日 20時54分32秒 ) パスワード
  

笠の助さん

忍者サミットでは色々とお世話になりありがとうございました。
あれ以来大変ご無沙汰してしまいごめんなさい。
平熱へようこうそおいで下さいました。

笠の助さんは忍者について大変詳しく、
4月に伊賀行われた忍者サミットでは講師もなさってました。
特に伊賀越えや服部家関連について御研究してらっしゃるそうです。

去年の暮れ頃から服部家が本能寺の変に関っているのではないかと、
アーヤ、コーヤ言ってますが所詮私は歴史の素人ですのでお恥ずかしい話です。

ところで例の服部家系図では光秀の妻は名張城主の娘となってましたが、
明智光秀の本では柘植城主、喜多村家の娘となってたと思います。
これは同じと考えていいと思いますが、どちらが本当なのでしょうか?
同じ伊賀でも名張と柘植では昔から微妙に感じが違うと言うか・・。
笠の助さんのホームページの蓑家系図、何故か開くと一瞬に消えてしまうのです。

またこれから本能寺の変についてアーヤ、コーヤ言い出しそうですが、
アホかいななどと思わずぜひご指摘ください。

光秀の句、
時は今雨が下しる五月哉
でしたね(笑)

でも何かにてませんか?

柘植の野にこしつる花を植えおきて我がゆく末を祝ふべき哉
(違ってたらごめんなさい)

考えすぎ?
それから天海ですが武田氏とは通じてたみたいです。(また詳しく書きます。)

隈さん
お忙しいのに押し付けてしまったみたいでごめんなさい。
ついでに岡山の古墳の謎もぜひ解明してください。
[72]笠之助さんからのコメント(2002年07月12日 23時58分17秒 ) パスワード
  

隅さんへ

私も歴史群像『明智光秀』読みました。永井寛先生は、『明智光秀 鬼退治の深層を読む』という本の中でも喜多村氏に着目されていました。ただ、喜多村弥兵衛という名はありがちで、「江戸宿三年寄」となった弥兵衛と同一人物であったかどうかは確かではありません。
原仙仁の系図はかなり怪しそうですね。

服部半蔵に関して伝わっている事績は、『寛政重修諸家譜』の記述が全てというのが現状ですが、その内容についてはかなり怪しいと思っています。幸い、『寛政譜』の補正版『干城録』というのや、今治系の服部家譜がありますので、その辺から再調査しています。

さちこさん

私も素人ですから、構えないでくださいね(笑)。
服部出羽守保章(保光)の居城の件ですが、はっきり言って不明です。
伊賀越えルートに関わるのは柘植ですし、名張は服部氏の勢力外のような気がしますので、私は柘植だと思うのですけど......。
名張は黒田悪党や百地氏が有名で、服部氏の勢力範囲は北伊賀ですしね。
天正伊賀乱の時はどうしていたか謎ですが、服部出羽守は城氏または菊永氏(ともに阿山町)を名乗っていた可能性もあります。

簑家の家系図は、Excelで作ったものをアップロードしただけなので、うまく表示しないようですね。画像に加工して掲載しましたので、ご覧ください。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kasan/kasa/mino_kakeizu.htm
[73]さちこさんからのコメント(2002年07月13日 21時55分29秒 ) パスワード
  

笠の助さん

ありがとうございました。
そういえば随分前ですが、
柘植の北村に家康の伊賀越えの案内をさせることになり、
家康が心配したところ、
明智の舅なので大丈夫などという話がありましたね。

この頃の柘植城主は織田方だったのですか?
妻木氏の妻が亡くなってからの再婚だとすると、
光秀が信長に仕えてからの縁組だろうと思うのですが。

尾張の服部氏は分裂(裏切り?)してましたが、
伊賀でも分裂してたのでしょうか?

それから素朴な疑問?なのですが。
堺にいた家康が何故あのようなルートで伊賀に出たのか不思議なのです。
伊賀と堺ならば今の名阪国道25号線のルートが昔からあったのでは?
伊賀からこの道を行くと嫌でも四天王寺の前に行ってしまう(笑)
(前世通いつめた記憶が?)

話がそれましたが、
何故わざわざ遠回りを?治安の関係とか色々理由はありそうですが。
家康はもう少し京都に近い所にいたのではとも思うのですが。

天海についてですが、
1571年元亀2年比叡山の焼討ち後甲州武田家にて天台の亮信、豪盛などの
名僧と論をおこない盛名をはするになった。と書いてありました。
このどちらかが「火もまた涼し」の人ではなっかたですか?
(またまたいいかげんな記憶)

これは間違いなく信長対策の会議であっただろうと思いますが。
天海、一向一揆にも深く関っていたような。
天海は不思議な力をもっていて、
遠くの誰も知らない情報をいち早く知っていたとか、
色んな出来事を言い当てたとか言う話が残っているらしいです。
ずっと前何かで読んだのですがそれは超能力ではなくて、
影に忍者がいたのだろうと思ってました。

喜多院に安置されている天海の木像。
この顔が〜。服部家顔!
な〜んかよく似てるのです。うちの服部系の親戚に。
明子さんのところにありますか百科事典かなにか?多分のってます。
ホンヤさんにも似てると思いませんか?

会津出身らしいので関係ないかなと思ってたのですが、
会津も服部家とは縁があることがわかったし、
気になります。
[74]笠之助さんからのコメント(2002年07月14日 00時08分41秒 ) パスワード
  

さちこさんへ
>柘植の北村に家康の伊賀越えの案内をさせることになり、
>家康が心配したところ、
>明智の舅なので大丈夫などという話がありましたね。
この内容は柚木村長の発言だと思いますが、理由はよくわかりません。
柚木村長のお話しによると、その時の北村家に関する文書(手紙)があるそうなのですが、近々、本にして発表するとおっしゃっておられました。
『寛政重修諸家譜』の簑家の記述によると、明智の舅だから危ないので回避したということになっているので、私も疑問に思っていたのですが.....。

>この頃の柘植城主は織田方だったのですか?
>妻木氏の妻が亡くなってからの再婚だとすると、
>光秀が信長に仕えてからの縁組だろうと思うのですが。
熈子(妻木氏)は天正四年(1576)に他界しているので、服部出羽守の娘が後妻になったのは、そのあとですね。

>堺にいた家康が何故あのようなルートで伊賀に出たのか不思議なのです。
>伊賀と堺ならば今の名阪国道25号線のルートが昔からあったのでは?
茶屋四郎次郎が「本能寺の変」を知らせたとするのは、飯盛山付近(大阪府大東市)とされるので、国道307号に沿って行くのが最短になります。
しかし、笠之助こと服部平太夫が、堺で「本能寺の変」を知らせたとなると、名阪国道の方が直線コースですね。
名阪コースは、いろいろ問題があるのですが、一番大きいのは筒井順慶の領地を通ってしまうという点です。順慶は、明智光秀の組下ですので、その領地を通過するのはかなり危険でした。
もっとも、堺から海路をとるというのが一番安全なコースなのですが、家康は早く三河へ帰って出兵しなければならなかったので、陸路を選んだのでしょう。
関連内容を、下記のURLに載せていますので、ご参考に.....。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kasan/igagoe/ig-chu.htm
[75]さちこさんからのコメント(2002年07月14日 23時05分43秒 ) パスワード
  

笠之助さん。

伊賀越えに十市氏が絡んでいるのですね!
これは驚きでした。
以前にもこちらにはおじゃましたのですが私には???。でした。
でも今は何となく判って来たような。

今別スレで十市郡(氏)=磯城で悩んでいたのです。
これにはなにかあると思います。
この十市、服部家とは古くから縁があります。

この繋がりは本能寺の変を語るうえであなどれないかもです?

笠之助が本能寺の変の一報を家康に告げたのが知られてないのは当然かも。
何しろ忍びなのですから。
知られていてはいけないのです。

茶屋四郎次郎から本能寺の変を知らされた家康、
知ってたけどとぼけていたかも?
私も笠之助が一報を知らせたなと勘なのですが(服部家の?)判るのです。

もう一度よく読んでみますね。


[76]さちこさんからのコメント(2002年07月14日 23時18分13秒 ) パスワード
  

服部半蔵家
名張の服部保家?
そして尾張に移った伊賀の服部家。

色々連携して考えてみたいと思ってます。
笠之助さん服部家の研究これからもお願いしますね。
服部家は戦国時代に突然忍者として現われたのではないと思います。

この辺りを考えると伊賀の歴史も違ったものになるのでは?
[77]菊永武司さんからのコメント(2007年01月30日 14時23分13秒 ) パスワード

前略 菊永武司と申します。平家物語を熱く語るの項を拝見しました。それ以外にも服部明子様のページは良く拝見しています。菊永姓のルーツを調べています。簡単な本も作成しましたが、さらに詳しい内容を求めています。
 このページの最後の方の服部出羽守保章(保光)が阿山の城、菊永に繋がる等の記述も確認した形となっていますが、もっと正確な事が分かれば幸いです。ご教示頂ければ幸いです。私の拙稿の「菊永姓一考察」も送付致しますが。よろしくお願い致します。
[78]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年01月31日 13時39分28秒 ) パスワード

菊永武司さん

伊賀や服部出羽守保章に詳しい方は「さちこさん」でいらっしゃいますよ。
「あきこさん」じゃないですよ。


菊永さんとは珍しい御名字でいらっしゃいますが
やはり伊賀の御出身なんですか?
[79]菊永武司さんからのコメント(2007年01月31日 23時48分12秒 ) パスワード

早速のお返事ありがとうございました。「72」の項で拝見した者です。このページでも「明子」様が多くあり、「さちこ」様とは分かりませんでした。服部の項で「明子」様を多く拝見します。私は、現在奈良市に住まいしていますが、父母は津市出身で、父は八幡町出身です。父の話では、八幡町(八幡宮・結城神社があります。)に古くから住んでいたという話ですが、津市市史によると、1600年頃には、原野で2〜3戸しか住居はなく、藤堂藩が拓き進めたそうです。では、それ以前の菊永はどうか調査しましたら、阿山町に菊永氏城があり、無足人、土豪の流れの汲む者と分かりました。伊賀天正の乱で信長に侵攻され、敗れ、各地に散ったそうです。その菊永も「服部」から派生し、始祖は家長で山尾、鷹山、中谷、城、菊永と分家派生したそうです。1560年菊永兵部兵衛は、文禄・慶長の役に参戦し、戦死したそうです。(三国地誌)兵衛の父が勘右衛門、その父が右近太夫保重といい、菊永氏城を築き、其の父が右近太夫保重といい、1540年頃、保重の父が服部出羽守といわれています。その先の、1230年頃の城秀友も服部出羽守を名乗ったと云います。代々出羽守を名乗ったようですが、時代的に、保重の父が保章かと思っていたのですが、その流れではないのではないのかも知れません。ただ、菊永右近太夫保重(次男)の兄(長男)が服部出羽守保友といい、三男が城保次といわれ、それぞれ、「保」の字を継いでいます。菊永の初代は、1250年、城秀友の三男「種長」が菊永姓を興したと云われています。友田(鞆田)郷に城を築き地頭を務めたそうです。ただ、地名に近辺には「菊永」の地名はなく、なぜ菊永と名乗ったか不明です。私の調査では、全国で、菊永の地名は、鹿児島知覧塩屋の菊永集落(伊賀の菊永姓の発祥より新しい)と大分県横手の「菊永」の2カ所です。大分県には菊永姓を名乗る人はいません。ちなみに、菊永氏城近くに菊永家は一戸有り、江戸時代から代々無足人を務め本家だと云うことです。近くに、その分家の「喜久永」が三戸あります。全国に菊永姓を名乗る家は約600弱、2500人くらいだと云うことです。(電話数調べ)伊賀友田では、服部、山尾、鷹山、城、菊永は同族であったと云われています。
もつと詳しく菊永について知りたいと云うことと、なぜ、菊永なのかを知りたく思っています。よろしくお願い致します。
[80]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月01日 03時35分19秒 ) パスワード

菊永武司さん


「さちこさん」は若くて背の高いスタイルの良い美女ですよ。

「笠之助さん」は伊賀の人みたいですね。

ま、皆さん伊賀の服部家の一族でしょう。
ということで菊永さんも一族でいらっしゃるんですねえ。


薩摩の知覧に菊永姓がたくさんいらっしゃるとしたら
南北朝の戦いの時に懐良親王に従って薩摩まで転戦なさった伊賀の御出身の元平家ということではないでしょうか?

近畿や尾張あたりの服部一族は宗良親王に従って長野の浪合村まで転戦した子孫でしょう。

(名前がゴチャゴチャになってしまいます。間違ってたらごめんなさい)


それでなかったら戦国時代〜江戸時代に(加藤清正あたりに従って)九州に行った御子孫かしら?


1番良いのは鹿児島にいらっしゃる機会に知覧町にいらっしゃって
その土地の菊永さんというお店の方に懇意にして頂いて
御出自を伺ったら良いのではないでしょうか?

九州の菊池氏の一族かも知れませんしね
菊永さんとおっしゃるお店を何軒は当ってみるのが良いでしょうね。


昔の家紋が分かると良いですね。
服部系は矢紋が多いと聞いてますが、他にも違う紋を使ってる家も当然ありますでしょうしね。
矢紋だったら平家の伊賀の服部系って括られますよね。

親戚に、甲賀に同じ矢紋を使ってる親戚があってニッコリしてしまいましたし
伊賀でも名字は違っても皆さん服部家というか平家の子孫と誇りに思っていらっしゃるし

大族は名字がいろいろ分かれるのが当たり前なので
明治時代に服部姓じゃなくて菊永姓で戸籍を作ったという所に
明治の御先祖さまの矜持がありますから
何か特別な誇りがあったのだと思います。

例えば伊賀の菊永城を守ってた一族とかね。


矢紋か蝶紋だったら分かり易いですね。

でも紋って1家に1つじゃないですから今は全く異なる紋を使ってるということもありますし
昔の物をひっぱり出して来てどんな紋を使ってたか
そういうのが分かると良いですね。


例えば足利でも2本なのに新田に追われた時に塗りつぶして1本にして新田を装って欺いた
という話がありますよね。
この2家は出自は同じだけど家紋はお釜の蓋と鍋の蓋の違いだって言いますね。
もしかするとこの時の恐怖の体験を忘れないように足利でも鍋の蓋紋にして使ってる家もあるかも知れないし。

家紋は謎々が込められてたりしますから家紋からは家系は逆出は出来ないですね。
[81]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月01日 03時53分55秒 ) パスワード

菊永さんについて2つ見つかりました:


http://homepage1.nifty.com/kitabatake/kitabatake25.html

菊永氏城 伊賀市阿山町上友田   菊永右近大夫  丘頂にあった。

菊永氏館 伊賀市猪田字田中    菊永氏     土豪菊永氏の居館。


土地鑑が無いのでどれぐらい離れているのか分かりません。
お暇な時にお出掛けなさっては?
胸にグッと来るものがあるかもですよ。

伊賀市教育委員会で詳しいことが分かるといいですね。
[82]菊永武司さんからのコメント(2007年02月02日 11時17分04秒 ) パスワード

早速のお返事ありがとうございました。私、65歳 奈良県公立高校教員で最後は校長でしたが 笑 ルーツ調査をライフワークとしています。
1 伊賀や服部出羽守に詳しい「さちこさま」へのお尋ね方法はどのようにしたら良 いのでしょうか ?
2 知覧塩屋菊永へは、3回訪問しました。地名が「菊永」で菊永姓を名乗る戸数は 約150戸 入植は、天文17年です。証明するヒゲホトケドンという板碑があり ます。地区の人とは連携を取り、共同調査をしています。今回初めて情報を得まし たが、南北朝の薩摩転戦は、調べてみる必要がありそうですね。ありがとうござい ます。
3 家紋について
  伊賀阿山 菊永 は 源氏輪に縦並び矢 喜久永 は源氏輪に横矢筈
  伊賀猪田村 菊永 は 剣片喰
  津市   菊永 は 丸なし梅鉢
  知覧塩屋 菊永 は 下がり藤 が多い
  
  平家の家紋は、代表家紋 揚羽蝶ですが
         繁盛流支家に 16葉菊を家紋に
         良文流支家に 16葉菊を家紋に
  服部家の家紋に  支流家に 16葉菊を家紋としている家が少数有り、
      ここら当たりから「菊永」姓の発生を考えていますが、如何ですか
4 菊永氏城(上友田)、菊永氏館(猪田村田中)には、数回訪問し、戸主にはお会 いしました。菊永氏城跡の初訪問時は、大変気が昂ぶり、興奮しました。
                 又、よろしくお願い致します。


[83]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月02日 13時43分57秒 ) パスワード

菊永先生でいらっしゃいましたか。失礼をば致しました。ぺこり


奈良でしたら伊賀の西ですから
ちょっと引越しただけですね。

奈良や伊賀および伊勢は地と血で固く結びついていますから
それに八幡町も伊賀のすぐ近くですから
地元ということになりますね。


母の従姉妹が甲賀出身の並び矢紋の人と結婚しました。
母の従姉妹から袱紗を渡された時、我が家の父の家の袱紗かと思いました。
こうやって思わぬところで思わぬ結婚の仕方が繰り返されているのだなと驚きました。


************************


さちこさんには、さちこさんの書き込みのメールのマークの所に送信なさってはいかがでしょう?
さちこさんは特に秦氏と服部家との関係がお得意と思います。
多分今でもあのビッグローブのメール住所で良いと思いますが。


*************************


天文17年ですと16世紀中頃ですね。
ということは、知覧の前に、九州のどこかに住んでたのかもですね。
南朝方の勢力の強かった所かしら?


南北朝の薩摩転戦については布袋竹どのとtakehiroさまがお詳しいでしょうね。
現在の地の利では布袋竹どのかしら?
お尋ねなさってはいかがでしょう?


*******************************


さてさて家紋の件ですが
「伊賀阿山 菊永 は 源氏輪に縦並び矢 喜久永 は源氏輪に横矢筈」
ということは、こちらのきくながさんが阿山系菊永家の御本家になるんでしょうね。
家紋からしますと。

他の菊永さん達は阿山から分家したのでしょうね、多分。


うちでは「源氏車に並び矢紋」なんて呼んでましたが
源氏輪に縦並び矢も源氏輪に横矢筈も服部家の嫡流を標榜する
そういう家の家紋でしょうね。

伊賀ですと
湯舟の藤林家 vs 千賀地の服部家 vs 喰代の百地
こんな感じで収束していきますけど
    (土地鑑が無いので阿山がどこになるか分かりませんが)山田村?喰代?
阿山の菊永家も伊賀の覇権争いに充分資格があったということでしょう。

結局は千賀地の服部家がボスになりますが
ここの家よりもっと身分の高い服部家の流れの家がいくらでもあったそうですね。
菊永家が、そうなんでしょうか?


>繁盛流支家に 16葉菊を家紋に
>良文流支家に 16葉菊を家紋に

家紋のことはさちこさんがお詳しいでしょうね。


********************


>菊永氏城(上友田)、菊永氏館(猪田村田中)には、数回訪問し、戸主にはお会いしました。

この方が菊永家のホンヤさんになるんでしょうか?
まだ住んでいらっしゃるんですね。
凄いですね。
[84]菊永武司さんからのコメント(2007年02月05日 11時20分17秒 ) パスワード

あきこさま
いろいろ、ご丁寧なご回答ありがとうございました。
南朝懐良親王九州遠征 調査の必要を感じました。早速、太平記を調べますと大変興味ある内容が出てきました。その前に、伊賀土豪は、大変な勤王派で北畠家によく仕え、伊賀天正の乱もこの事から起こっています。(失礼、ご存じのことと思います。)  後醍醐天皇 笠置に御在所の頃、伊賀土豪は守護しています。
太平記の内容ですが、
福岡飯盛山城の戦いの項
懐良側の城越前守は1000余の軍勢で攻城するが、落城は不可能と判断し、「内通者多し」の偽情報を流したところ、城内から逃げ出す者が続出、容易に落城した。【忍者の得意戦法である。】
九州ある地区での戦闘
菊池一族の中に城隆顕(じょうたかあき)という、謀略に優れた人がいた。彼は、山伏、禅僧、時宗、僧侶達を松浦党武士団なの陣中に進入させ、様々なる流言飛語を放流させた。この事により松浦(敵方)は内部崩壊し、総崩れになった。【これも忍者先鋒】  等 懐良親王が吉野から九州に向かうとき、伊賀土豪が随身したのではないでしょうか ? 城は、菊永と同族で、この時期に城から分家し、菊永を興しています。
もっと詳しく太平記を調べ、吉野からの随身したものの正確な情報、九州での足取りを調査したら と考えています。というのも、知覧塩屋の菊永集落と熊本菊池に存在する10戸足らずの菊永姓の方々のルーツに絡めてのことです。
[85]さちこさんからのコメント(2007年02月05日 12時51分56秒 ) パスワード

平熱の皆さんご無沙汰です。
服部家、秦氏関連のスレッドは見てますがなかなか投稿できなくて。
というか怠け癖がついてしまって。(笑)

今回は私の名前があがったのでこれはお返事しなくてはと久しぶりにやって来ました。

ギャンブラーさん。
>「さちこさん」は若くて背の高いスタイルの良い美女ですよ。
 笑
笑は余分じゃないの?(笑)

服部家関連についてもあくまでも素人がやってることなのであまり期待におこたえできないかもしれません。

菊永さん色々詳しく書き込みありがとうございました。
菊永家の由来はわからないです。

服部家以外で車輪がついている矢紋は珍しいです。
車輪がついていても矢が横を向いていたりとか。
細かいですが車輪の桁はどうでしょう?
八桁、七桁、六桁とか色々あります。

実際に服部家からの分家なのかは判りませんが、
服部家とは縁戚関係などで深い結びつきがあったことは家紋から察することができます。

結城神社ですか。。。
知覧といいやはり南朝系なのはまちがいなさそうです。

津の結城神社。

>津市の阿漕浦にほど近い結城神社は、後醍醐天皇の皇子義良親王を、奉じて 建武新政の樹立に貢献した結城宗広を祀っている。
 宗広は北畠親房らと共に海路を東国へ向かう途中、台風に遭い、
 安濃津(津の港)に漂着して、目的を果たすことなくこの地に病没したとい われる。
 いわば「太平記」の故郷ともいえる結城神社に、枝垂梅、その他の梅を合わ せて350本が咲き匂っている。

http://haiku575.sakura.ne.jp/yuukizinnzya.html

          ↑
しだれ梅で有名な神社で地元のひとから「ゆうきさん」と親しまれてます。
梅の写真でお花見をお楽しみください。

結城神社が八幡町だったのは知りませんでした。
八幡宮もすぐ近くにあるんですね。

菊永さんというのは美しい苗字です。
菊の字からも天皇家を連想しますし由緒ありそう。

服部は職業がそのまんま苗字で美しくない(笑)

とりあえず御挨拶と言うことで、
少ししらべてみます。
[86]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月05日 14時12分57秒 ) パスワード

>城は、菊永と同族で、この時期に城から分家し、菊永を興しています。


城さんという名字は「平家方」なんですよね。
越後・秋田に城資助長とか資職とかいますね。
養和元年1181年6月14日城資茂が木曾義仲と戦ってますね。
負けてますが。

もともとは平維茂の子繁茂が秋田城介となって
子孫はこの「城」じょうを名字としたそうです。


それで菊永さん関係の城さんと同族なのか名跡を継いだのか?
この城さんと館さんは同じ流れなのか?
わたくしの近所に「城」さんと書いて「たち」さんと読む家がありました。
それで関係があるのかな?と思うのです。

ま、平家関連なのは確かなんでしょうけど。


どこから「菊」と名乗るようになったのか?
もしかすると昔は「家長」姓で(家永三郎先生みたいに?)
それが南北朝時代に楠正成と同盟関係にあったのを機会に「菊」「永」としたのかしら?
(日本の名字って限りなく発展していきますから)


>伊賀土豪は、大変な勤王派で北畠家によく仕え

(伊勢の豪族としては北畠家に仕えた一覧には載ってないので・・・確か・・・
それでやっぱり伊賀に限定されるのかな?と思ったりします)


>菊池一族の中に城隆顕(じょうたかあき)という、謀略に優れた人がいた。

ここでも城氏が菊永姓を名乗った可能性がありますよね。



>知覧塩屋の菊永集落と熊本菊池に存在する10戸足らずの菊永姓の方々のルーツに絡めてのことです。

どういう具合に関連があるんでしょうね。
何重にも関係し合ってるんでしょうかねえ?

人間ですものね。
いくらでも考えられますね。
ロマンですね。
[87]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月05日 14時34分26秒 ) パスワード

城氏城   伊賀市 阿山町上友田 城氏城    秀友が築城。
菊永氏城 伊賀市 阿山町上友田 菊永右近大夫 丘頂にあった。
葉出羽城 伊賀市 阿山町上友田 服部出羽   菊永氏の兄。


この3者の関係、深そうですね。
[88]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月05日 14時41分58秒 ) パスワード

さちこさん

お久です。
お元気そうでなによりです。


>「さちこさん」は若くて背の高いスタイルの良い美女ですよ。
> 笑
>笑は余分じゃないの?(笑)

だって「わたくしとさちこさんは遺伝子を共有してるから同じです」と書いたら
さちこさんは「便乗するな!」って突っ込むでしょ?
自爆


さちこさんは検索力がすごいから
手伝ってやってください。
[89]谷山正夫さんからのコメント(2007年02月05日 20時06分39秒 ) パスワード


>菊池一族のなかに城隆顕(じょうたかあき)という、謀略に優れた人がいた。

余談になりますが北方謙三の小説「武王の門」のなかで城武顕と言う肥後南朝方武将が登場します。彼は菊池武光配下にありかつて菊池千本槍と言われた槍隊の勇猛な武将として描かれています。実在の人物だったのかどうか、あくまでも小説のなかのことであり分かりません。

>どういう具合に関連があるんでしようねえ。何重にも関係しあっているんでしようかねえ?

>知覧塩屋に菊永集落がある..。

ご存知と思いますが、旧谷山市(現在鹿児島市)に菊池城(祉)がありました。この城は当時征西府将軍宮懐良親王が肥後菊池武光に命じて御所ケ原に造られたものです。一方南薩摩南朝方大将谷山隆信の城も肥後に築城されました。当時戦略上相互に城を持つことが有益だったのでしよう。(格の違いは承知しています)。これも懐良親王が間に立っていただいたことで実現した事だと思います。また相互に姻戚関係も結ばれたりしていたようです。城からの攻撃や、防衛の任務(主に情報収集か)は当然相手方(菊池氏)から送られた武士がここ(谷山)に住んで、遂行していたと推測しています。

話がだいぶ長くなってしまいましたが、もし知覧塩屋菊永一族がこのように当時菊池氏によって送られてきた人たちであれば南北朝以降もその近くに定住されたとしても不思議ではないのではないでしようか。
[90]菊永武司さんからのコメント(2007年02月05日 23時52分37秒 ) パスワード

あきこさま、さちこさま、谷山さま ありがとうございました。
87> 3氏3城 本当に関係は、深いです。
86> 知覧塩屋菊永と熊本菊永とが、おのおの別個に菊永姓が発生したと考えるのか、伊賀阿山の菊永とが繋がりがあると考えるのか、疑問点です。
    秋田・新潟の城と伊賀阿山の城との繋がりですが、伊賀平氏の観点から考えると、私は同族ではないかと考えています。
85> 菊永は美しい名字です。本人は大層気に入っています。
    伊賀阿山の菊永、服部、山尾、城、本家は、御所車(源氏物語絵巻に現れている御所車で、二重枠で、内外共8分割されている)に縦並び2矢。それぞれ分家は、外枠は同じで、内部が横矢筈 です。
布袋竹どの takehiro 様には、どのような方法でお尋ねできますか。 
[91]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月06日 04時11分12秒 ) パスワード

>御所車(源氏物語絵巻に現れている御所車で、二重枠で、内外共8分割されている)に縦並び2矢。
>それぞれ分家は、外枠は同じで、内部が横矢筈 です。

本家と分家がそういう区別がありましたか。
ありがとうございました。


>布袋竹どの takehiro 様には、どのような方法でお尋ねできますか。 

お名前のところのメールの印の(青い○のついた封筒の形)をクリックすれば
メールにジャンプしますから、それでやってみてください。


なおこのスレッドが99になりましたら新しいスレッドを立ててくださいね。
重くなると管理人さんがお気の毒ですから。
[92]さちこさんからのコメント(2007年02月07日 15時34分23秒 ) パスワード

菊永さんを検索してたら笠乃助さんのところへ行ってしまいました。

http://www.ne.jp/asahi/ninja/kasa/ninbetsu/ninbetsu-h.html

>服部出羽守の出自については不明であるが、伊賀の地誌などから推測でき  る。
平頼盛(清盛の弟)の家臣平宗清が、 平氏滅亡後に流浪の果てに旧領地の 柘植郷に棲みついたが、宗清には3人の子があり、長男は日置氏を称し下柘 植を本拠とした。この日置氏が柘植一族の祖で、松尾芭蕉もこの一族であ  る。次男は天正伊賀ノ乱に名が出てくる福地伊予守宗隆の祖で上柘植を本拠 とした。三男が北村氏を称して中柘植を領した。これが服部北村氏の祖では ないかとも考えられるが、出羽守は近江の北村に移り住んでから北村(喜多 村)氏と称したとも伝えられるからはっきりとはしない。
  秦造酒公の子孫で、伊賀国阿山郡の城土佐守秀友が服部出羽守を名乗ったと いうから、 こちらの方が同一人物あるいは血縁者である可能性が高いと考え られる。この出羽守の弟は 菊永右近太夫を称して、一族の兵部という者は兵 術を以って世に聞こえた剛の者であったが、朝鮮役で戦死したという。
  また、「鍵屋の辻」の敵討ちで有名な荒木又右衛門保和は、本姓を服部とい い、のちに菊山姓を名乗っている。この菊山というのは、菊永の誤りで、又 右衛門は出羽守の一族ではないかとする説もあるらしい。

城氏は秦酒君を祖としてるのでしょうか。
秦河勝の何代か前の人です。
気になって系図を見てびっくり。

服部出羽守保章の息子が敏満寺住職になってますね。
つまり明智光秀の後妻の兄か弟です。

敏満寺というのは大和岩雄氏の秦氏の研究によると、

秦氏系の被葬者が葬られてる敏満寺大塚古墳のある多賀町は、
秦荘町との境界にちかい。
敏満寺は味摩寺でわが国に伎楽を伝えた味摩之(みまし)の名をとった寺であると推測される。
創立時は伎楽の楽戸郷のある蔵堂の新楽寺や秦荘の秦楽寺と同じに、
秦氏楽人のてらであっただろう。

後には創建時の性格とはちがって楽人秦氏の寺限定できないほど発展したが、
織田信長の寺領召し上げに抵抗したため、
元亀三年(1572)にことごとぐ焼失し廃寺となった。

続きはまた。


[93]さちこさんからのコメント(2007年02月10日 13時03分24秒 ) パスワード

服部出羽守保章は通字から矢筈系の服部家、
よく系図にでてくる織田方の服部家関連だと思ってました。
そして織田家との関係で娘が光秀の妻になったと。

でも兄が敏満寺住職であったのが事実だとすれば織田方の家系ではないと思います。

保系の服部家と縁戚関係にある菊永家が矢羽紋を使用してるのなら、
矢羽紋の保系の服部家もあるはずです。


長島の服部家はお寺と縁が深い。
現在はうちの菩提寺の住職は世襲になってますが、
明治になるまでは服部家の誰かが出家して住職になったそうです。
現役を引退してそろそろ出家して坊主にでもそろそろ坊主にでもなるかと言う感じかな?

仏門に入る家系ということで保章と長島の服部家と近い関係だったかも。
家紋も菊永さんが書かれてるものとまったく同じです。

長島城主をしていた服部友貞という人物がいるのですが、
信長の謀略により北勢の山奥、上相場(現在員弁市藤原町)で自害してます。
多気郡で信長に襲われて何故このへ地なのか不思議でした。
何故長島方面に向わず近江方面?
友貞が自害したところは伊勢側から現在の彦根市に向う道沿いです。
秦荘町にも通じているのでその関係かと思いましたが、
敏満寺へいきたかったのかも?
このまま真っ直ぐ行けば敏満寺のある多賀町へいやでも行ってしまう。

峠越えがあるので時間的には判りませんが、
自害した地は長島よりむしろ敏満寺に近い。

でこれがピンときたんです。

信長のトホホ。。。
    ↓
http://www.tv-tokyo.co.jp/tohoho/back/040514.html

これは落穂雑談一言集というものに書かれてる話だそうです。
[94]さんからのコメント(2007年02月13日 12時45分10秒 ) パスワード

菊永さん、どうも初めまして。
さちこさん、お久しぶりです。(^^)/

この連休、家族で岡山へ遊びに行ってたので、コメントが遅れましたが。
菊永さんのコメントで、また新たな展開がありそうですね。

さちこさん、服部友貞について、こんなページを見つけましたよ。

http://hishiki77.ld.infoseek.co.jp/2-2shushi/2-2-7shiro/seimei/hattori.htm

系図の信憑性について異論はあろうかと思いますが、それは置いといて。

藤原町篠立・明光寺(明行寺)。藤原町には昔から身内(服部氏)が居たのです。
服部友貞は、このお寺を頼ろうとしたのでは?

だけど、すでにこの辺りには滝川一益が手を回していた、という話もあり。
あるいは味方の裏切りにあって、亡くなったのかも知れません。

明光寺はこの後信長により焼失。
そこで本願寺を頼って、息子の代に再建していますね。

さらに、友貞の息子が生き延びて、岡山池田藩士になったという話も。(驚)
気付かなかった。。。だって、通し字が「源」なんだもん。(^^;
そういえば、服部半蔵も源姓に変えてましたよね。

・・・あらためて、服部友貞の死の真相が知りたくなりました。
うちの先祖に繋がる何かがあるような気がして。


>光秀の妻・熙子

本当に信長に襲われそうになったのは、熙子(妻木氏)じゃなくて、服部(北村)家出身の後妻さん?
服部家の女なら、ピシャリと扇で撃退しそうだし。(いい意味で強そう)(^^)

あらためて、このスレの[9]〜[11]のコメントが思い出されます。
北村家はやっぱり家康と通じていた?
[95]さんからのコメント(2007年02月14日 12時07分47秒 ) パスワード

あともう一つ、気付いたことを。

服部友貞のお墓がある、藤原町上相場。
この辺りには伊藤氏が住んでいたようですが、この伊藤氏は、平家の重臣・伊藤景清の系統とは違うみたい・・・

http://hishiki77.ld.infoseek.co.jp/2-2shushi/2-2-7shiro/seimei/kudoh.htm

それに、旧長島城主で服部友貞に追い出された、という伊藤氏も。

http://hishiki77.ld.infoseek.co.jp/2-2shushi/2-2-7shiro/seimei/ito-matugashima.htm

彼ら、伊東・工藤氏(伊豆発祥)の系統ですね。

そういえば、伊勢には平家滅亡後配置された鎌倉御家人の長野氏がいて、ここが工藤氏からの分かれ。
そのせいか、伊勢には2系統(伊勢発祥と伊豆発祥)の伊藤さんが混在してるようです。

どっちも「伊藤」って書くもんだから、ややこしい・・・
「伊藤」と「伊東」に書き分けてくれたら分かり易いのに(←勝手な注文)。

ひょっとして服部家がなんとなく「そりが合わない」のは、
伊豆発祥の伊藤さんだったりして・・・!?
長野氏と同族だったら、鎌倉御家人で北朝方なので。
服部家にとってはそりが合うか、合わないかでどっちの系統かが分かるかも。(^^;
[96]さちこさんからのコメント(2007年02月16日 13時03分20秒 ) パスワード

隈さん。
こんにちわ!

また本能寺スレにもどってしまいましたね。
昔の自分の書き込みが恥ずかしいと言うか進歩してないと言うか。。

>藤原町篠立・明光寺(明行寺)。藤原町には昔から身内(服部氏)が居たの です。
 服部友貞は、このお寺を頼ろうとしたのでは?

そうとも考えられるんですけどでも丹生川城、治田正法寺にも一族がいたのです。
治田城には楠一族も。正法寺は長島一揆のあと門徒が逃げ込んで信長に焼かれた寺です。
一族頼るならこちらだと思うのですがここを通り越して上相場まで行ってるので。

北勢は標高1000メートル以上の鈴鹿山脈が連なっているのですが、
藤原町の辺りで急に低くなり山の幅も狭くなってます。

車で滋賀県方面(湖東)へ行く時は四日市から真っ直ぐ峠越する道があるんですが、藤原町へでた方早いのです。
自分がいつも藤原から滋賀へ行くからといって決め付けてはいけませんけど。
美濃方面へも抜けられるし真相は判りません。

友貞が北畠氏へ年賀中留守の長島城が攻められて自害したとしている説がありますが、
長島は信長の伊勢攻略の一番最後で小競り合いはあったかも知れないのですが城主が自害にいたるような攻撃はなかったものと思われます。
北畠氏への年賀の際城へ入ろうとして襲われたのだと思うのです。
信長が伊勢でよく使う手です。

城主同士が信長対策の作戦会議が行われる情報がはいると(内通者がいるのね)城の前で待ち伏せして暗殺。
城主がいなくなり混乱してる所へ奇襲攻撃。
長島は城主がいなくなっても大丈夫みたいだけど。(笑)

岡山の服部家はどうなのでしょう?
あくまでも管理人さんの推測のようですが。
尾州の小城主と書いてあるけど長島は伊勢だってぇー。
信長公記にも尾張長島と書いてあるんですよ!
信長に侵略されて一時は尾張だったのでしょうか。

原文を読まないと判りませんがどちらかというと名古屋昭和区の服部家系のように思いますが。
旗本のほうは政が通字の矢筈車の服部家と同系のような。

ここにでてる長島下坂手村名主というのがうちの系統です。
長島細布いう江戸時代に書かれたもの。
長島は水害が多く歴史書がほとんど残っていないので貴重な資料です。

これは服部与右衛門が出家し宗悟と改名し屋敷を菩提寺に寄進し観音堂を再建した話を系図にしたものです。
江戸時代初期の話です。

断片的にうちの服部家について書かれたものが残ってはいるのですが、
尚康、義康とか康の字が下についてるものが多いです。
西湯船の服部家は上に康。

それに服部伊賀守源宗純と宗純まで源姓。
尾張では平姓が常識なのに。
きっと半蔵が源姓なのと同じ事情かと。
長島も城主が松平家だからおつきあいさせられたのかも?

明智の妻について書くつもりが話がそれてしまった。

この話が本当なら妻木氏の妻ひろ子は天正4年に病死してるので服部家の妻です。
こんなことが本能寺の変の原因になったとはあまりにもばかばかしい話なのでほとんど信用されてないみたいですが。
だけどばかばかしい話すぎるので逆にこんな話作るか?という気も。

それに妻が信長の天敵(?)服部家だとすると話のニュアンスも変わりますよね。
[97]さんからのコメント(2007年02月18日 00時56分18秒 ) パスワード

北伊勢の地図や、石山合戦関連の書籍を見ながら確認してきました。
ふむふむ、なるほど・・・

後に長島が殲滅に追い込まれたとき、焼き殺される前にかろうじて逃げた門徒達は、
「多芸山や北伊勢口へちりぢりに逃げていき、大坂へ向かった(信長公記)」そうですね。

そうすると服部友貞も湖東経由で大坂(石山本願寺)へ向かっていた、という可能性も考えられるのかも。

>岡山の服部家はどうなのでしょう?
>あくまでも管理人さんの推測のようですが。

このページを読んだところでは、「池田家家臣譜」及び「池田家文書」の記載を元に、
管理人さんが(推測で)寛政譜の系図に繋げてるようですね。
(寛政譜よりも下の方に池田家文書の記載があります)

>左京亮落城の節、一門の大方討死の中、左京亮子供のうち3歳の子一人乳母が拘出し、
>13歳の時、三河にて池田勝入へ直訴、左京のこと御存じと召し出し源兵衛を名乗り130石拝領。

ということなので、岡山の服部家が池田の殿様に、そのように申告したのでしょうね。
もっともそれが事実かどうかは分かりませんが。
まぁわざわざそのような申告をするぐらいなので、反信長の立場ではあったのでしょう。

>尾州の小城主と書いてあるけど長島は伊勢だってぇー。
>信長公記にも尾張長島と書いてあるんですよ!
>信長に侵略されて一時は尾張だったのでしょうか。

国境に住む人間の悲哀ですね。。(^^;
うちの先祖の住んでた所も備中・備後の境目にあるので、間違いはしょっちゅうですよ。
たまに「安芸」って書いてあったり・・・
地元人としては気になりますよね。「違う、違う!」と読みながら一人で文句つけたりして(笑)。
書いてる人には少々どっちでもいいことなのかも知れないけど。
なんて、私もどっかで間違えてるかも、気をつけなくちゃ・・・(汗)

>長島は水害が多く歴史書がほとんど残っていないので貴重な資料です。

伊勢も伊賀も、服部家は資料が残ってないのが辛いところですね。

>それに服部伊賀守源宗純と宗純まで源姓。
>尾張では平姓が常識なのに。
>きっと半蔵が源姓なのと同じ事情かと。
>長島も城主が松平家だからおつきあいさせられたのかも?

その可能性は大いにありですね。
特に家康の重臣はそういうの、多いですよね。
永井(長田)家が平姓から大江姓に変えられたみたいに。

私もいろいろ脱線してしまって失礼してます。m(__)m
でも、こんな調子で回り道しつつ、先祖の謎に近づいていけたら、と思うのですが。
先週岡山・福山に行ったのがきっかけで、何だかまた少し謎の解明が進みそうな気がするのです。(^^)

>こんなことが本能寺の変の原因になったとはあまりにもばかばかしい話なのでほとんど信用されてないみたいですが。
>だけどばかばかしい話すぎるので逆にこんな話作るか?という気も。

信長って結構子供っぽいところがあったようだし(^^;案外事実だったりして。
家臣の腕に突然ぶら下がってじゃれてみたり、
片っ端から周りの者にあだ名を付けて喜んでみたり。
そんな逸話が残っていますから。
[98]さちこさんからのコメント(2007年02月18日 19時39分31秒 ) パスワード

書き忘れてたのですが、何故敏満寺で驚いたかというと秦氏楽人寺だったこともあるのですがもう一つ。

あまり知られてないのですが室町時代頃から伊勢越え商人が多くなってるのです。
伊勢越え商人とは近江と伊勢間で商いをする人ですが単に伊勢と近江で商売するだけでなく、
たとえば近江商人が伊勢越えをして商売をしにくる。
それを買った伊勢商人はそれをさらに尾張、三河等東国に売りに行くさらに仕入れをして帰り近江商人に売る。
近江商人はまたそれを京等に売りに行く。

実際にはいろんな物、業種、運送があって複雑なものだと思いますが簡単にいうとこんな感じ?

ルートも色々あったみたいです。
よく地元で話にでるのは滋賀県の八日市と三重県の四日市。
偶然よく似た地名になったのではないそうです。
近江八幡と四日市を結ぶルートがあるのですが、
近江側では八のつく日に市が行われ伊勢では四のつく日それが由来だそうです。
かなり頻繁に往来があったようです。

当時伊勢で最も繁栄してたのは十楽の津といわれる桑名。

http://www.sake-seiun.com/kuwana/kuwana.htm

桑名から近江に向うのは敏満寺の多賀や秦荘への道になるのです。
長島も十楽の津の圏内です。
長島と近江の間では経済的繋がりだけでなく人の交流もあったはずだと思うのです。

木曽岬に近江島とい地名があるのですが、
昔木曽岬は唐戸とよばれいました。
今は加路戸になってますが唐崎という地名は残ってます。
国際貿易してたかも。

明智光秀の妻ですが、
信長の家臣の間で天下一の美女と噂されていたみたいです。
噂以上の美女で思わず抱きついたのか最初から抱きつく計画だったのか?
私はこの話を事実だと信じたい。
いつも言ってるでしょ!服部家は美系だって。(爆)

まさか信長だと知っていて殴るわけないということで、
信長と知らず殴ったとなってるのでは?
おもいっきりかなり何度も殴ったみたいです。

信長と知らなかったから殴ったのではなく、
信長だと知ってたから思い切り殴ったのでは?
面識なくてもこれが信長だと判ったんじゃないかな。
服部家の女は勘がいいから。

「信長様とはつゆ知らずお許しください。」といっても、
信長も勘がいいから「知ってたから手加減せずに殴ったな」と判る。

織田家VS服部家 再燃か?

どういう経緯の縁談だったのでしょう?
政略結婚でしょうか。
この時点では天正伊賀の乱は終わってると思いますが。
[99]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年02月19日 00時01分31秒 ) パスワード

100に迫りましたので

http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100985.html
に「織田信長暗殺の謎に迫る?!:伊賀の服部氏 2」を用意致しました。

続きは上記URLでどうぞ。
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