[1] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 03時54分53秒 ) | パスワード |
秦(はた・はだ)氏は漢(あや)氏と並んで古代帰化人系の有力な一族です。
南半島の楽浪群が滅んでから、
秦の国の没落によりそこに住んでいた中国人が5世紀の初め頃
日本に移住したと考えられています。
伝説によると
応神天皇の御世に
秦の始皇帝の後裔の弓月君(ゆづきのきみ)が一族を率いて日本に渡来して来た
のだそうです。
雄略天皇の御世には一族18,670人の子孫がいたそうです。
この人達が日本全国に散らばっていたそうです。
九州から東北まで。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 04時07分48秒 ) | パスワード |
秦氏の流れ:六国史によると60あるそうです
太秦公うずまさのきみ
秦長倉はたのながくら
秦
山城秦やましろのはた
秦冠はたのかむり
大和秦やまとのはた
己智こち
三林みはやし
長岡
山村
桜田
摂津秦せっつのはた
河内秦かわちのはた
高尾
和泉秦いずみのはた
朝原
太秦
大蔵
加美能
河勝
惟宗
宗
時原
寺
物集
井手
川辺
倉人
原
長田
その他
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 04時24分08秒 ) | パスワード |
秦氏の流れ:鎌倉時代以降:鎌倉時代にさらに多くの苗字が生まれた。
薩摩の島津・越中の神保・*対馬の宗氏*など
さらに稲荷神社や松尾神社など。
秦氏流惟宗の子孫である薩摩の島津氏からは
阿蘇谷・伊佐・伊集院・石坂・河上・給れ(きれ:れはレイメイのれい)
樺山・北郷・末弘・新納・原・道祖・町田・山田・知覧院・宮里・中沼・
大野・和泉・佐多・上総・姶良・碇山・根占・鎌田・桂・伊勢など分家が出た。
*対馬の宗氏は平 知盛第3男が先住のあびる氏を追い出したものと理解してますが
1説に秦氏の出身ともいう。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 04時34分51秒 ) | パスワード |
稲荷神社は秦氏の氏神で殖産を司るということで日本全国の信仰を集めている。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 04時52分09秒 ) | パスワード |
太秦
秦河勝は山背国葛野かどのの人。(京都)
京都伏見深草地区と葛野地区の秦氏の長であった。
彼の軍事力や経済力は厩戸皇子(聖徳太子)を早くから支え側近として活躍。
587年用命天皇2年物部守屋の首を切ったことでも知られ
秦氏の軍事力は上宮王家の私兵として知られていた。
太秦に広隆寺を造り聖徳太子より拝領の弥<<革力>>みろく菩薩を安置した。
←漢字が無い
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 05時09分22秒 ) | パスワード |
稲荷
秦伊侶具(はたのいろぐ)
「山城国風土記」の中で秦中家忌寸(はたのなかつやのいみき)の祖先とされる人物。
京都市伏見区稲荷神社に関係する人物。
秦伊侶具は長者で
稲を積み上げ餅を的にして弓を射ていると
餅が白鳥になり山の頂きで稲に変わったので
稲がなる→いなり→稲荷という社名を付けて子孫がその祭りを行なったという。
当時餅から変わった白鳥は穀物の霊魂と信じられた。
秦忌寸は<私は>秦弁正が中国に渡り子を成し、その子が日本に戻って
中国医療を伝えた、という人物だと思います。
養老3年に忌寸の姓を賜わった秦朝元の事だと思います。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 05時32分23秒 ) | パスワード |
松尾大社
秦酒公(はたのさけのきみ)
「新撰姓氏録」によると
秦始皇帝の末裔・普洞王(浦東の君)の子と記されている。
雄略天皇は渡来系氏族を優遇し秦酒公も雄略天皇に寵愛された1人。
雄略天皇が無実の木工闘鶏御田(つげのみた)を無礼打ちにしようとした時
琴を奏でて雄略天皇の怒りを宥め巧みにそれを止めさせたという。
雄略天皇は諸国に分散していた秦氏の一族の人々92部1万8670人を集め
秦酒公に賜わった、という。
秦酒公は賜わった人々を180種勝ももあまりやそのすぐり(沢山の下級官人)に編成し
山城国葛の郡にて彼らに絹織物や木綿などを作らせ雄略天皇に献上したという。
雄略天皇は大いに喜び、秦酒公に太秦の姓を賜わったという。
*この功により、この献上品を納めた大蔵を管理する長官に任命されたという伝承があるが
これは秦氏=機織りの一族の意として誤って伝えられたが
秦氏が伴造的とものみやっこてき地位にあったという証明にはならない。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 05時37分15秒 ) | パスワード |
秦氏は初め、公きみ姓であったが、徐々に位が昇ぼって、
天武天皇の御世には宿弥すくね姓まで賜わった。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 05時48分56秒 ) | パスワード |
服部
秦都里(はたのとり)漢字が迂路覚え。秦都理だったかも。
伊賀の長者・秦都里は広大な土地を田植えするのに日没までに終わらなかったので
扇を取り出して「日よ戻れ」とよんだところ
沈みかけていた太陽が真上に来て無事に田植えを終わることが出来た
という説話があります。
秦都里は沈みかけた太陽を呼び返すほどの力をもったそれほどの長者だった、と。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 05時57分41秒 ) | パスワード |
服部氏
はっとり・はとりべ・はとり
機織りを職業とした部族の名称。
はとりは機織りのことでべはそれらのグループをさす。
神服部:かんはとり:神衣を織る服部
殿服部:とのはとり:棚機を織る服部
呉服部:くれはとり:シナの呉より帰化した服部
現在多く使われている言葉は服部と呉服。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 06時12分47秒 ) | パスワード |
服部氏には帰化人とそうでないグループがあり
そうでないグループは古代勢力の1つで
大和国の服部連むらじは服部の総領的伴造家とものみやっこであり
天降った神々の末と呼ばれる天神氏系に分類され
天御中主命あめのみなかぬしのみこと11世の孫・天御<<木牟>>命あめのみほこより出ているという。
伊賀の服部氏は三重県阿拝郡服部郷を本拠とし服部連の後裔といわれる。
平氏流なのは1006年以降平貞盛末裔が伊勢・伊賀に移った為。
これを地取りと呼ぶ。
[12] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 06時18分13秒 ) | パスワード |
以上が私のメモからですが
帰化人の秦氏が某天皇の御世に伊賀国に土地を賜わって移住した
というメモが紛失して見つかりません。
多分
伊賀にはもともと服部姓の古代一族が存在し
そこに帰化人が移住し
さらに平氏が移住して
現在の服部氏が存在していると思います。
[13] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 06時34分44秒 ) | パスワード |
<5>
聖徳太子は日本で最初に忍者を使った人と言われていますが
秦河勝が聖徳太子の軍事的パトロンであった事から考えても
この話は理解出来ると思います。
6世紀後半、日本史上最初の激戦と言われるのが仏教導入をめぐる
物部氏 vs 上宮王家+蘇我氏連合軍の戦いです。
[14] | 隈さんからのコメント(2001年12月04日 11時09分55秒 ) | パスワード |
秦氏についての説明、分かり易くて参考になります。感謝。
秦氏系の家って思ったよりたくさんありますね・・・
対馬の宗氏が実は秦氏出身らしいという話は聞いていましたけど。
秦氏ユダヤ人説も聞いたことがあります。
でも、それならもうちょっと日本人の顔の彫りが深くなってもいいんじゃあ?
なんて思ったりして。
[15] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 21時17分15秒 ) | パスワード |
世界史の謎の1つにユダヤの失われた7つの部族という表現があって
その1つが最終的に日本に渡った
というのは日本でも時々話題になりますが
中国の秦という1族は<かいびゃく←漢字が無い!>以来の一族とされ
この<かいびゃく>とはユダヤのダビデ王の事だ、と。
それで秦の始皇帝の風貌が肉体的にユダヤ人の特徴を持っていると書かれているとか
って話ですが、私は当時はまだ生まれてないので(そうなの?)と、
昔の話は紀元2001年の時点から語るのは余りにも・・・
ま、そういう伝説がある、ということでいいのでは?と。
古代日本の帰化人・秦一族はロマンに満ちた人々だった、とそれでいいのでは?と
思っています。
[16] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 21時33分20秒 ) | パスワード |
>対馬の宗氏が実は秦氏出身らしいという話は聞いていましたけど。
私は上にも書きましたが対馬の宗氏は平知盛の3男があびる氏を征服して乗っ取った
と思っていますが
平知盛の家の家老が伊賀の服部ですから
当時平氏を名乗るのは危なかったので伊賀の服部関連の秦姓を名乗ったのでは?と
想像しています。
でも江戸時代に対馬の宗氏は「寛政重修諸家譜」に平氏で登録して明治を迎えましたから
一応平氏でいいと思います。
宗氏の紋は皇室から下賜された「桐紋」です。
他には「4目結」紋も使用してますね。
4目結紋の項でも「平氏流宗氏」使用と記されています。
[18] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 07時45分00秒 ) | パスワード |
言葉の説明:
公(きみ)
公は大昔は首長の意であったが
天武天皇の御世に684年にカバネ制度が確立してからは
開化天皇以後の皇胤のカバネになった。
[19] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 07時47分04秒 ) | パスワード |
↑氏・姓とカバネの区別がつかないので何のことやら?
[20] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 07時49分31秒 ) | パスワード |
忌寸(いみき)
忌寸は天武朝制定の8姓の第4に位するカバネ。
もとの直や造の有力なものに賜わった。
[21] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 07時53分06秒 ) | パスワード |
冠(かむり)
秦族につけられたカバネ。
[22] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 07時55分50秒 ) | パスワード |
現代の勲章は1代限りであるが
カバネは末代までの誉れとして古代人はなんとか上位のカバネを貰い
家の格を高めようとした。
家のランクづけのこと。
[23] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 10時39分12秒 ) | パスワード |
<服部姓>
もともと服織部はたおりべと読んだものを<織>を省略し<べ>を省略し
はたおりからハトリになりつまってハットリとなった。
古代の機織りを職業にした品部(ともべ)である。
同族には
服
服織
服取
羽取
羽鳥
八鳥
八取
など<はとり・ハットリ>の他
織
織部
服部
で昔風に<はとりべ>と今でも読む方がいる。
へぇ〜
[24] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月06日 22時26分05秒 ) | パスワード |
<11>
天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)
この世を司ってる神さまだそうです。
[26] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月12日 23時36分06秒 ) | パスワード |
「くだらない」という言葉の語源を知りました:
昔「百済」からの人も物も当時の日本には大変役に立ったそうで重宝されたそうです。
ですから「百済」でない人も物も重宝されなかった、と。
「百済でない」=「くだらない」とされたそうです。
特に新羅からの人や物は差別されたそうです。百済との関係を考慮に入れば当然。
[27] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月30日 01時19分26秒 ) | パスワード |
昨日で日本のラジオ番組を聴いていたら
永六輔が「秦 川勝の墓は赤穂にある」と話していました。
[28] | さちこさんからのコメント(2002年01月30日 13時00分23秒 ) | パスワード |
赤穂の坂越という所に大避神社というのがあるのですが、
秦川勝を祀った神社です。
海に面して建っているのですが、
その前にある島が生島といって秦川勝の墓とされてます。
聖徳太子死後、
蘇我氏の迫害から逃れてきたとか蘇我氏に流されたとか伝わっているようです。
ここの神社の紋は八本矢車です。
服部家との関係が気になって去年いったのですが
あの辺りには服部姓は少ないみたいです。
秦川勝が猿楽の祖とされるのでその関係かな?
江戸時代、肥後の細川家が参勤交代のおり参拝していたそうです。
なんで細川家が秦川勝を?
服部家を調べにいって細川が出てくるなんて!
少し驚きました。
以前伊賀の黒田庄の悪党の話がありましたが、
播磨矢野庄の悪党寺田氏は秦川勝の子孫だそうです。
何年か前に三重県の藤原町で服部友貞の墓が見つかったそうですが
その墓を400年以上守って下さったのが畑中家です。
秦氏一族のネットワーク意外と近年までまで続いていたのではと思うのですが。
[29] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月30日 22時14分50秒 ) | パスワード |
さちこさん
>何年か前に三重県の藤原町で服部友貞の墓が見つかったそうですが
>その墓を400年以上守って下さったのが畑中家です。
この米野の相場という場所は「伊藤一族」のホームグランドでもあります。
だから服部友貞公暗殺に伊藤一族が絡んでるのかな?と勝手に想像しています。
長島城はもとが伊藤氏の城だったのに悪業を理由に追い出して入ったのが我が家なので。
これは8畳大のお墓だとか聞いてます。
[30] | 服部 明子さんからのコメント(2002年04月19日 23時12分05秒 ) | パスワード |
そりちゃんさんのスレッド「平家の方の家紋って」のスレッドに頂いた
秦氏の由来です。
埋もれてしまうのが惜しいのでこちらにも転載致しました。
秦義則さんからのコメント(2002年04月19日 22時47分50秒 )
E-mail=hataponn@beach.ocn.ne.jp
はじめまして、秦といいます。
名前が難しく、正しく読んでもらえなかったり、読めても正しく書いてもらえなかったりします。「泰」や「奏」とかかかれます。
生まれは大阪の池田市。
池田市にも伝説があります。
大阪湾から渡来人が都に上がるのに水路で猪名川に入り池田に来てとどまった様子。
二人の姫がいて、一人を綾服部(アヤハトリ)もう一人を呉服部(クレハトリ)と言います。
猪名川で絹を洗って川原に並べた事から絹延(キヌノベ)という地名があり、
五月山には絹掛けの松があります。
綾羽神社、呉羽神社があり、それぞれの姫が祭られています。
秦氏に関係があるようです。
池田市には秦野という地名があります。
池田の南、豊中市に服部と言う地名があり、
服部天神の由来にむかし秦氏が住んでいたと書かれています。
どちらも機織(はたおり)に由来があるようです。
秦氏と服部氏は関係が深いと思います。
また豊中市で開業されている秦医院の先生に出身を尋ねた所、
平家と一緒に落ちていき、因島にたどり着いた一族で、因島出身らしいです。
[31] | 秦義則さんからのコメント(2002年06月13日 23時01分57秒 ) | パスワード |
皆さんこんばんは。鞍馬寺について書き込みます。
京都の北方に位置する鞍馬寺。ご本尊は毘沙門天。毘沙門天は寅年寅月寅日に出現したといわれているそうです。毘沙門天は別名を多聞天といいます。三つの寅が毘沙門天に関係するようです。「ミトラ」です。古代アーリア人の太陽神「ミトラ」なのです。毘沙門天はインドでは、クベラと呼ばれる財宝の神様です。クベラがなまって鞍馬と呼ぶようになったと言う説もあります。ミトラはマイトレーヤです。つまり、弥勒菩薩。鞍馬寺の創建には、秦氏の影があるのは言うまでもないようです。広隆寺の弥勒菩薩です。かつて広隆寺の境内にあった大辟神社の祭りである牛祭りで登場するのが、マタラ神といわれ、マタラの正体は、ミトラであり。さらに、マタラ神の周りには4人の鬼がいて、彼らは四天王と呼ばれています。曼荼羅の世界が鞍馬にあります。
義経が鞍馬に預けられたのも意味があるのかも。鞍馬の天狗とは忍者だったとしたら、秦氏が関連していると思います。奥州藤原氏を頼っていったのもバックに秦氏があったのかもしれません。平家方にも秦氏がいたことも間違いないようです。
島津氏も秦氏ですね。家紋の○に+の字。田の原型です。田は水田ではなく囲いの中に植物が植わっている様子を描いたものだそうです。つまり桑畑だったようで、日本の畑は焼畑を表しており、畠は焼いた後の灰が白く見えるところから畠とされています。僕の家の紋は丸に木瓜。よく見ると○に+の字に見え、その上、○のなかに植物が植わっています。
[32] | さちこさんからのコメント(2002年06月15日 14時09分20秒 ) | パスワード |
秦さんいつも詳しくありがとうございます。
秦氏のことは私の手にはおえないと言うか難しいです。
ですから秦さんのお話はとても参考になります。
別のスレッドで茗荷紋の服部家の話があったのですが、
気になって調べてみたら茗荷紋を使用するのは、
摩陀羅神の信仰と関係があると言うようなことが書いてありました。
摩多羅神と同じだと思いますが、これが何かよく判らなくて。
調べていたら秦さんの投稿がありました。
なんか怖いぐらいのタイミングです。
天台密教と関係あるとかとにかく大陸からの神様みたいですね。
服部家は呪術的なことをかなり以前から行ってきたみたいなので、
摩多羅神の信仰にも関係してるだろうと思います。
摩多羅神のページがありましたので参考までにどうぞ。
お好きな方は最後まで読んでみてください。
私は何度読んでも???です。勉強がたりないので。(笑)
太秦の大酒神社に太秦大明神と共にあやはとり、くれはとりが祀ってある写真があります。
大酒神社の御由緒位までは読んでみてください。
http://home10.highway.ne.jp/ikko/Japanese/1_J.html
義経の母は白拍子なので多分秦氏とは親密だったと思います。
白拍子をはじめ芸能に関しているのは秦氏がほとんどだったそうです。
義経の母の常盤御前を清盛の妾にして、
義経ら三人の子を助けたのが平宗清です。
伊賀の服部家と同族です。
平家滅亡後、柘植(つげ)と名を改め北伊賀の土豪となりました。
ところで闘鶏山古墳のニュースが先日ありましたね。
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200206/12/20020613k0000m040038002c.html
高槻なので大和の都祁とは場所が違いますが、
大和朝廷が水運を管理させた有力豪族らしとか。
三島とかなんとかで少し気になります。
池田市とは近いと言えば近いし。
伊豆の三島大社の宮司さんが矢田部さんとおっしゃり、(ヤタガラスと関係あり?)
東儀家とは親戚になるそうです。
三島大社、もとは伊予の三島神社です。
どうなっているのでしょうか?いったい。
[33] | 秦義則さんからのコメント(2002年06月16日 12時35分08秒 ) | パスワード |
最澄(767〜822)は平安時代初期の僧。日本の天台宗の開祖。近江国(滋賀県)に生まれ,渡来人の子孫。19歳のときに東大寺で正式の僧となったが,当時の仏教のあり方に不満をいだき,故郷に帰って比叡山寺(ひえいさんじ・のちの延暦寺)をたてて12年の間,一人で修行した。さらに深く仏教を学ぶため,804年に遣唐使にしたがって唐(中国)にわたり,天台宗の教えを受けて,翌年帰国。桓武天皇の保護を受けて,新しい宗派をおこした。死後,朝廷から伝教大師とおくり名された。
と言うのが最澄の一般的な説明。
渡来人の子孫とするのは秦氏を指すのだろうか?そういえば東大寺の良弁和尚も秦氏。法然も秦氏だったよね。秦氏で僧侶になっているものも多いですね。密教ともかかわりが深いようです。
[34] | 秦義則さんからのコメント(2002年06月17日 21時35分10秒 ) | パスワード |
京都の地図を見ていると、
北に鞍馬あり、東に伏見稲荷あり、南に八幡市あり西に松尾山ありその西が亀岡市。
京都を秦氏が取り囲んでいるように見えるのは僕だけなのでしょうか?
[35] | さちこさんからのコメント(2002年06月18日 20時46分08秒 ) | パスワード |
取り囲んでたかもしれないです。
陰陽道や宗教などで平安時代、秦氏が貴族をたぶらかしてたらしいから(笑)
平安遷都してただで姿を消したりするようなやつ等ではないと思います。
私財を差し出して平安京を造ったとされてますが、
私見ですがきっと遷都することで一族が潤うようになってたと思います。
神社とか大きなお寺には大抵秦氏が絡んでるみたいですね。
空海は大安寺の僧侶でしたが、ここも秦氏がらみです。
大安寺領内に服部神社というのもあって服部家も関係してるみたいです。
服部家からは鎌倉時代円覚がでてます。
融通念仏で有名らしいです。
パントマイムのような仏法を布教する狂言だそうです。
http://www.culturedate.net/event.php3?ID=275
四天王寺で聖徳太子のお告げの夢で融通念仏を始めたのが良忍。
(正義の忍者の意味ではないです。)
平安時代末のひとで秦氏です。
曹洞宗の永平寺を建てたのも波多野なんとかという人だったと思います。
[36] | さちこさんからのコメント(2002年06月18日 20時55分42秒 ) | パスワード |
円覚上人。1123年生れ、1331没。
88才まで生きたのですね。
当時としては随分長生きかも。
秦河勝も八十余年の生涯とあるし、
クレハトリは139才で老衰で亡くなったらしい!?
やつら長生きだ!
[37] | 秦義則さんからのコメント(2002年06月18日 22時22分44秒 ) | パスワード |
さちこさんのコメントでなんとなくわかってきたような気がします。
政治の表舞台に立たず、それでいて平安遷都を行い消えてゆくなんて信じられなかったのですが、
やはり、駆け引きはしていたでしょうね。
一族が潤うようになっていた。
いろんな名に姿を変えて。
平安時代に繁栄する藤原氏に秦氏の陰はなかったのでしょうか?
きっとしぶとく現在にも生き続けているかも。
僕もそのわずかな血が流れているとしたら、
しぶとく生きてゆきます。
[38] | 隈さんからのコメント(2002年06月20日 17時17分16秒 ) | パスワード |
秦義則さん、突然ですがどうも初めまして。秦氏の御子孫ということで、一言ご挨拶させて下さい。
別スレッドにも書きましたが、私の母方の祖母の実家(広島県尾道市向東町)が服部姓で、祖先を調べたところ、備後国芦品郡服部村(現広島県福山市服部)の出身である事が分かりました。
家紋は『丸に抱き茗荷』です。やはり先祖が密教(又は摩多羅神)を信仰していた?
ちなみに備後・備中辺りは結構真言宗が盛んです。
私自身の実家(父方の祖父は岡山県出身)も真言宗御室派で、広隆寺と聞くと親近感があります。
服部氏(秦氏)は伊賀だけでなく各地に集落があったようですが、やはり各地の秦氏も、平氏政権や南北朝期の南朝方に深く関わっていたのでしょうか?
もし実例をご存知でしたら、お教え下さいませ。
さちこさん;摩多羅神のページ、参考にさせて頂きました。
・・・って、やっぱり私にも良く分からなかったけど (^^;
でも、秦氏と関係が深いらしいって事だけは納得。
良かった、うちの先祖が『服部村出身だから、服部姓に』と安直に名乗ったんじゃないみたいで・・・
しかし摩多羅神って、荒神(スサノヲ)信仰とも結びついているんですねぇ。
うちの実家、つまり父方の先祖は上に書いたように真言宗を信仰していて、
家紋は『違い鷹の羽』。
『違い鷹の羽』紋はありふれた家紋ではありますが、以前明子さんが「荒神信仰に関係がある」って言ってたような・・・
確かに備後・備中は荒神信仰が盛んだったらしいのです。
何だかまた、あちこち繋がってきました。
[39] | 秦義則さんからのコメント(2002年06月20日 23時22分13秒 ) | パスワード |
隈さんこんばんは!
自分の姓であるので、昔から興味はあったのですが、これほど深く謎めいているとは思ってなかったのです。
秦氏はユダヤ人だという説まであるのには驚きました。
僕自身東洋人の顔してるもの!
でも、ヤタガラスのルーツや神々のルーツ、密教のルーツを探ると、
とんでもないところにたどり着いてしまうのです。
そんな秦氏が平安遷都後急速に没落するとは考えにくいです。
勿論平家とのかかわりもあったと思います。
時代の節目には必ずといっていいほど秦氏がかかわっているように思います。
南北朝とのかかわりは今の所知りません。調べてみます。
うちの宗派も真言宗です。
[40] | 隈さんからのコメント(2002年06月22日 14時37分13秒 ) | パスワード |
> 秦氏はユダヤ人だという説まであるのには驚きました。
> 僕自身東洋人の顔してるもの!
もちろん私も、ユダヤ人っぽくない顔です。
ただ、うちの祖母の若い頃の写真を見ると、結構バタ臭い(←死後?)顔付きしてます(笑)。
最近、うちの先祖の出身地のすぐ近くに備後国一宮があることに気付きました。
さちこさんがおっしゃるように、うちの先祖が神官・僧侶系だったら、きっと関係が深かった筈。
http://www.genbu.net/data/bingo/kibitu_title.htm
摂社・末社がたくさんありますが、それを見ると秦氏の影響を強く受けていたことが想像できます。
お稲荷さん、八幡様、厳島神社に大山祇神社、少彦名命や聖徳太子を祀る神社・・・
近くには牛頭天王社もあるそうです。
それから桜山神社というのがありますが、これは当神社の祀官で南朝方の武将だった、桜山慈俊を祀ったものだそうです。
桜山氏は、楠木正成が笠置山で挙兵したのと同時に、当神社で挙兵したのですが、
楠木氏の赤坂での敗戦を聞いた後、神社に火を放ち、妻子や一族郎党と共に自害して果てたそうです。
[41] | 服部 明子さんからのコメント(2002年06月22日 22時48分28秒 ) | パスワード |
>近くには牛頭天王社もあるそうです。
津島神社も牛頭さんと関係があったような。
私は神社とか神道とか良く分かりません。
仏教も分かりませんが。
[42] | さちこさんからのコメント(2002年06月23日 17時05分20秒 ) | パスワード |
尾張津島神社は昔は津島牛頭天王社といい全国の天王社の総本社です。
須佐之男命が御祭神です。
牛頭天王=スサノオと考えていいみたいです。
やはり秦氏関連です。
何故かこの神社織田信長が氏神としているのです。
織田家も秦氏ではないかと思います。
漢織、呉織でアヤハトリ、クレハトリと読むし、
織田家は加賀の帰化人だったらしいですが、
加賀の帰化人といえば秦氏だと思うのです。
織田氏が尾張に築いた勝幡城これも幡=秦と考えられます。勝秦城。
これは同族の服部家カチンときたのでは?
もしかしたら最初は服部家と手を結ぼうとして加賀からでてきたかも?
実際に織田家についた服部家も多いですし。
藤原氏と秦氏の関係ですが、
藤原種継の母が秦氏です。
この人は藤原家式家の人で桓武天皇の側近でした。
平城京から長岡京遷都を画策し、反対派に暗殺されたらしいです。
その後平安京に遷都しますが嵯峨天皇の時代に薬子の変が起ります。
この薬子は種継ぐの娘です。
私はこの薬子の変と秦氏が平安時代になり姿を消すのと関連があるのではと思うのですが。
平安遷都を行ったのは藤原式家です。
この変の後、藤原式家から北家へ権力が移ってます。
秦氏は式家と親密だったのではと。
薬子の変は平城天皇の寵愛をうけた一女性の反乱位にしか扱われてないみたいですが、秦氏が絡んでくると気になるのです。
薬子の娘が桓武天皇の皇太子の后になることになったのですが、
なんとこの皇太子、娘よりも母の薬子を気に入ってしまうのです!
この皇太子が平城天皇。こんなのありか?と思いませんか。
この後嵯峨天皇に譲位し平城上皇は奈良に移るのですが、
嵯峨天皇は上皇とは違う政策をすすめ対立が起きるのです。
上皇は平安京を廃止して平城京に戻すと宣言。
一時的に二朝となり武力衝突となりかけたところ、
薬子は捕らえられ自害、兄の中成も事件に荷担したとして殺されます。
あくまでもこれは勝った嵯峨天皇側の記録で、
薬子の背後に秦氏がいたかもしれないなと思ったりするのですが。
藤原北家の小黒麻呂、
この人は妻が秦氏ですが藤原氏の系図では途絶えています。
多分この頃から百済系藤原氏が権力をもち、
秦氏は排斥されたのではないかと思うのですが。
桓武天皇の母が百済系らしいし、
壬申の乱以降続いていた天武天皇系から天智天皇系に代わったのもこの時です。
色んな説がありますが私は秦氏は天武天皇系だったのではと思っているのですが。
三重県の員弁町に、
薬子の兄、中成が変の後この地に逃れてきたという伝承があります。
小黒麻呂もこの地に来たと伝わっているそうです。
三重県の北部の山間部は秦氏の多い所です。
藤原町というのがありますがこの地に来た秦氏系藤原氏ちなんでるらしいです。
今も秦、服部が多く残ってます。
昔はこのあたり鈴鹿山系の木材を伐採し近江の秦庄に運び、
都へ売って儲けていたらしいです。
>隈さん
秦氏、摩多羅神について研究してくださるのですね。
是非奥義をきわめて私に判りやすく伝授してください。
南朝系と秦氏の分布が重なっているという話がありますが、
一向一揆も秦氏の多い所で起っています。
加賀、近江、河内、山城等。三河の一向一揆は加茂氏ですね。
勿論秦氏でも一向一揆に加わっていない場合もあるし、
秦氏以外も当然一向宗徒はいたと思うのですが。
以前杉原氏を調べていて少し面白いものをみつけました。
(杉原家は秀吉の正室おねさんの生家でもあります)
杉原氏と畑氏の関係とか、畑氏の謎とかが書いてあります。
これには承久の乱後、上皇側についた証として畑氏の名をもちいて、
一族の絆を後の時代まで伝えたというようなことが書いてありました。
この畑、八田等秦氏の事だと思います。
http://www.asahi-net.or.jp/~ku4t-tkhm/sugihara.htm
河野家についても書いてあります。
読んでると頭が混乱します。
コンピューターお姉様の隈さん分析お願いします。
長くなりました。
いつもながら誤字脱字ありと思います読み直す時間がないのでごめんなさい。
[43] | さちこさんからのコメント(2002年06月23日 22時25分34秒 ) | パスワード |
ただ今、帰宅しました。
読み返してみて少し私論が多いと反省ぜひご意見くださいませ!
隈さん。
バタくさい顔・・・死語?もしかしたら。。。
ばた=はた=秦 秦氏くさい顔かも?
[44] | 川口 信さんからのコメント(2002年06月24日 10時04分27秒 ) | パスワード |
【河野七郎通弘ハ通能ガ三男。康暦元年冬。細川頼之予州ヲ横領シ河野ヲ亡ス。時ニ河野一族四十八家浪々ス。通弘ハ濃州ニ来リ。大野ノ郡清水ニ住ス」と。また、「美濃諸家譜」では次のようなっています。「加賀国江沼郡住人林七郎左衛門通兼、族類五十余人と暦応二年敗れて当国(美濃)に逃れ、本巣郡樽見に住し土岐頼遠、頼康に従う。延文元年(1356)三月より大野郡清水山に築城して住す。貞治六年七月十七日七十三歳にて卒す」とあります。『群書系図部集』では次のようになっています。通能(義)−嫡男通尚、二男某、三男通弘−通直−通弘−通則−通兼 此の系図では、通直の叔父である通行が美濃国へ入り通直の家督を取り、美濃の河野氏の祖となりました。美濃国へ来た河野一族は通弘に河野家再興の夢を託し、この系図を編んだものと思われます。そして通弘は、その頃美濃国で勢力のあった藤原姓稲葉氏の家督を襲い、越智姓稲葉氏を称し、「越智系図」を採用することになります。
これは現代風に云えば藤原姓稲葉氏の婿養子となったわけです。この通弘が稲葉氏を継ぎ、のち通兼の代に至って林氏の家督をも襲ったようです。そして大野郡に清水城を建て、ようやく西美濃地方に橋頭堡を築いたのです。通兼が林家の家督も合わせ、林七郎右衛門越智通兼とも名乗ったことが、氏名混乱の基となったのでしょう。通兼は自分の次男通村にこの林の遺蹟を与え、新しく越智姓林を分家させます(この系統がのち、淀稲葉家十万石に発展します)。その後、通祐の代に至り、再び河野氏から武勇誉れ高い通貞が養子に入り稲葉軍団の長となりました。そして途中別れた林氏も宗兵衛正三の時、織田信長のため改易となり、旧領の本巣郡十七条の地に雌伏していましたが、正成(室は後の春日局)の代に重通の養子に入ります。それ以後、越智の稲葉に統一することになります。】
これはさちこさんご紹介の「畑氏の謎」から1部コピーしたものです。
この林家については家紋は抱き茗荷丸とあり、又河野系図には「稲葉七郎通弘ー右京亮通則ー七郎左衛門通兼ー新五郎通村(通次、佐渡の守、林之祖)と載せ、また「(通村嫡男)通安(新左衛門)ー(同)通忠(新三郎、妹同女子は大河内源左衛門重一の妻と)−(通安子)通勝(佐渡守、初め新五郎)、弟(同)通具(美作守、初め新九郎)」と。また「通忠の子)通政(新三郎)−(通政子)某(市助、母は林通勝の女)、弟(同)正三(林宗兵衛、通勝養子、一本に母は大橋清兵衛重長の女)、妹(同女子(捨子)、松山鯖江左近大夫貞直の妻)」とあります。
キーポイントに大橋・大河内(大橋同族)・抱き茗荷があります。ここでまた縁戚関係が広がっております。
http://www.asahi-net.or.jp/~ku4t-tkhm/shiryou1.htm
の中「高須旧記」にもこれ等のことが若干述べられており、八田家、畑家のことにも触れられています。
読んでいると頭が余計ごちゃごちゃになりますので。ご用心。
[45] | さちこさんからのコメント(2002年06月24日 13時02分26秒 ) | パスワード |
ミョウガ ミョウガ ミョウガ〜 ミョウガを食べ〜るとぉ〜
もう秦氏のことは忘れてしまいたいです。川口さま。
[46] | 隈さんからのコメント(2002年06月24日 18時24分01秒 ) | パスワード |
> ミョウガ ミョウガ ミョウガ〜 ミョウガを食べ〜るとぉ〜
う〜ん、ミョウガにやられた〜 (^^;
さちこさん、川口さん、いろいろ情報を有難うございます。
私も頭が混乱してしまいましたが、結局縁戚関係を辿ると皆同族とくっつきたがるので、堂々巡りになってしまうってことですね(なんて、適当にまとめたりして)。
さちこさんのコメント、私論が多いとおっしゃってますが、参考になります。
> 牛頭天王=スサノオと考えていいみたいです。
> やはり秦氏関連です。
備後の吉備津神社周辺には、本当に秦氏系の神社が多いです。
天王神社とか、牛神神社とか、お稲荷さんとか。荒神社の数も普通以上だと思います。
現在はともかく、かつては秦氏がたくさん住んでいたに違いありません。
> 何故かこの神社織田信長が氏神としているのです。
> 織田家も秦氏ではないかと思います。
織田家の家紋って、木瓜紋でしたよね?
木瓜紋は祇園社の神紋でもあった筈。
もちろん、木瓜紋の家が全部秦氏に結びつくとは限らないのでしょうが。
ちなみに、上に書いた桜山氏の家紋は「吉の字に木瓜」だそうです。
うちの主人の先祖と関係の深い高良大社の神紋は、「横木瓜」。これは関係ないか・・・
そういえば、ここにいらっしゃっている秦さんのお家も、木瓜紋ではありませんでした?
> 色んな説がありますが私は秦氏は天武天皇系だったのではと思っているのですが。
天武天皇って、伊賀忍者と関係深かったらしいですものね。
実は天武天皇自身が忍者だったらしい、という説まであるとか。
「逆説の日本史(井沢元彦著)」には、天武天皇は本当は天智天皇の実弟ではなく、
新羅人の血が入っているのではないかと書かれていました。
それが本当なら、秦氏の強力なバックアップを受けていて当然です。
薬子の変に裏があったというのも、私は頷ける気がします。
> 秦氏、摩多羅神について研究してくださるのですね。
> 是非奥義をきわめて私に判りやすく伝授してください。
うぅ〜ん、これは難題! 私の方がが知りたいよ〜 (^^;
だいたい、ネットで調べると「摩多羅神は謎の多い神である」なんて書かれているぐらいですものね。
そして、名を成した人間は少なくても、裏で政治を操る実力者・秦氏。
研究対象としてはかなり手強いですねぇ。
でもせっかく乗りかかった船だし、ここは少し調べてみようかな・・・
[47] | 秦義則さんからのコメント(2002年06月24日 21時58分41秒 ) | パスワード |
隈さんこんばんは!
僕の家の家紋は「横木瓜」です。
皆さんとこんなに絡み合っているんですね。
ここで、いろんな人たちに出会えたのも縁と言うか、
秦氏つながりと言うか。
みんな仲間だよね!
今はどうなんだろう?裏で政治を操っている秦氏の末裔はいるのでしょうか?
元総理の羽田さんは秦氏ですけどね。
[48] | 服部 明子さんからのコメント(2002年06月24日 22時30分21秒 ) | パスワード |
>織田家の家紋って、木瓜紋でしたよね?
これは「信長が木瓜紋にした」というのをどこかで聞きました(読んだ?)。
黄色の黒という派手な色遣いも「信長らしい」とどこかで。
尾張地方は信長にあやかって「木瓜紋」が多い、とも聞きました。
[49] | さちこさんからのコメント(2002年06月24日 23時22分20秒 ) | パスワード |
伊勢神戸(三重県鈴鹿市)の服部家が横木瓜紋です。
このお宅の近くに北畠さん、角谷さん(伊勢平氏の残党がもちいた姓らしいです)
などがあって。
ここも信長と対立し悲惨でした。
秦さん
日下部氏が木瓜紋を使ってるということを以前お聞きしましたね。
参考になるか?
http://www07.u-page.so-net.ne.jp/jf6/t-segawa/right-kusaka.htm
私はその後の新羅神話に絶句でした?
もしかしたらこの都祁というのが邪馬台国にも繋がる可能性があるらしい?
秦氏 秦氏 はたし〜を語ると。
あたま〜あたま〜????です。
隈さん
バタ臭いはバター臭いらしいですね。
私はナウいので知りませんでした。
明子さん、隈さん。そして秦さん!
秦氏も服部家も今の日本史では評価されることはあまりないですが、
歴史の裏には秦氏あり、伊賀の服部家の女あり!
地道に研究しましょう。
裏のうらには、「つげ」がある??
[50] | 秦義則さんからのコメント(2002年06月27日 22時47分50秒 ) | パスワード |
「秦氏本系帳」より 賀茂乗馬
いろせ、玉依日子は、今の賀茂県主等が遠つ祖なり。
其の祭祀の日、馬に乗ることは、志貴島の宮に御宇しめしし天皇の御世、
天の下国挙りて風吹き雨零りて、百姓含愁へき。
その時、卜部、伊吉の若日子に勅してトへしめたまふに、
乃ちトへて、賀茂の神の祟なりと奏しき。仍りて四月の吉月を撰びて祀るに、
馬は鈴を係け、人は猪の頭を蒙りて、駈馳せて、祭祀を為して、
能くねぎ祀らしめたまひき。因りて五穀成就り、天の下豊平なりき。
馬に乗ること此に始まれり。
僕が生まれた池田市の宇保町にまつわる記述
宇保地域には鎌倉時代の初期に牛頭天王を祭神とする呉庭総社と善城寺がそれぞれ創建された事もあって、早くから開けていた地域でもありました。この地に牛頭天王が勧進されたのは、草創期の鎌倉幕府の支配権確保の目的があったようです。この名残りが今も観音堂として同地にあります。
この宇保辺りの様子を「穴織宮拾要記」には「池田ノ町屋ハくれは田より宇保尊鉢につつく也、中新町ハ絹屋町也と有」と記録されています。呉庭荘の勢威が安定拡大するのに伴って、豊島郡の北半のこの地が北条地区と公称され、宇保・佐備村のような村々が分立し行政区画が組織されていました。
また、宇保には猪名津彦神社がありその境内は、古墳時代後期の円墳がありました。この一帯は宇保段丘と呼ばれる猪名川左岸の河岸段丘の西端ですこし高くなっています。ちなみに、この「ウホ」とは室田卓雄氏著「池田歴史散歩」によると渡来系氏族の秦氏に関連した地名で、「宇」は私達、「保」は自墾の私田の意味が多く用いいられている事から、「私達の土地」と解する事ができると紹介されています。
二つの記事より秦氏に猪がついて回ります。
紀州の熊野などでよく見かける「猪垣」100Km近く続くものもあるようです。
秦の始皇帝の万里の長城に何処かにていませんか?
僕が生まれたのは池田市木部町(紀部)です。紀部神社があります。紀氏と関係あるのかな?今すんでる豊中市に服部や勝部という地名があります。
ある仕事で柘植(つげ)さんともかかわっています。
[51] | 秦義則さんからのコメント(2002年06月30日 11時13分20秒 ) | パスワード |
「八咫烏」はカラスだから黒いと思っていたのに、実は金色だったようです。太陽に住んでいる烏で、三本足という変わった烏。「金烏」と呼も呼ばれています。日本神話においては、熊野で迷った初代・神武天皇を導いた烏が金烏だったのです。この金烏は、賀茂神社の祭神であることを発見。『古事記』や『日本書紀』では、神武天皇を導いた金烏のことを「八咫烏」と記しています。八咫の「咫」は「尺」と同じ長さの単位で、「八」は「八百万」というように、非常に多いという意味。つまり、それだけ大きい烏であることを示しているのですが、賀茂神社の伝承によると、この八咫烏の正体は「賀茂健角身命」といわれています。
賀茂神社には、上賀茂神社と下鴨神社から成り、それぞれ賀茂川の上流に位置する。平安京から見れば、北東の方で、太陽が昇る方角だから、太陽の化身である八咫烏を祀る神社が置かれたかも知れない。
では、月はあるのか?調べてみると、それがあったのです。桂川の西、月の神様「月読命」を祀った、その名も「月読神社」。桂川にかかっている橋を、その名も「渡月橋」といいます。桂川の西は月の世界でした。
では、桂とは?月にも生えているといわれ、また、「山城風土記逸文」に月読命が豊葦原中国の保食神を訪ねる時に桂の木に寄って待つとの記述があるくらい月と関係が深いようです。
平安京を中心に東に太陽の世界、西に月の世界があったのかもしれません。
[52] | さちこさんからのコメント(2002年06月30日 22時43分33秒 ) | パスワード |
秦さんいつも貴重なお話ありがとうございます。
私は秦氏、服部家の渡来は応神天皇の頃と決めかかってました。
でも秦さんのお話をきいて、
秦氏というか新羅系の人々はもっと早く日本にきていたことを認識しました。
日本の国の基礎を築いたのは新羅系。
そんな気がしてきました。
柘植さんとお知りあいなのですね。
柘植家のルーツは多分同じだと思います。
ぜひ今度お会いになったら、
伊賀の服部家のネーチャンがよろしくお伝え下さいませと申しておったとお伝え下さいませ。
[53] | そりちゃんさんからのコメント(2002年07月01日 18時07分12秒 ) | パスワード |
こんにちは。
うちの女紋も「抱き茗荷」なのですが、秦氏と関係あるのかな?
そうそう、「古事記」のなかだったかに、スサノオが新羅に行ったという
記述があって、なんと朝鮮に牛頭山(別名:伽耶山)というところがあるそうです。
牛頭を韓国流に発音すると牛=ソ、頭=モリ、でスサノオが新羅でいったという
ソシモリ(曾尸茂梨)に通ずるという説があります。
また京都・祇園にある八坂神社の古伝によると、斉明天皇の二年(656)に
韓国の調進副使の伊利須使主(いりすのおみ)が、新羅の国にある牛頭山に
鎮座する大神の霊をお招きして、山城国(京都府)愛宕郡の八坂郷に社を作って
お祀りしたそうです。
牛頭というと牛の頭を連想させますが、「日本書記」のなかにもう一人ツノつながり
の人物がいます。
それは、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)という人で、朝鮮南部の大加羅国の
王子で、日本に来た女性の後を追ってやってきたそうです。
これと同じような話が「書記」と「古事記」にあってそちらでは天の日矛(ひぼこ)
という人物になっています。やはり彼も王子です。
[54] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月01日 22時16分27秒 ) | パスワード |
塚田敬章氏によると、歴史に登場する最初の帰化人は、日本書紀、垂仁天皇二年、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)で、「角がある人」の意で、額に角の生えた牛トーテムを表し、ウシキアリシチカンキという別名があるそうです。現在の福井県敦賀市付近の伝承では、角の土地という意味で「ツノガ」となったようです。
新羅(=弁辰)のソシモリに天下り、土船に乗って渡来したという八坂神社の祭神・須佐乃男命(神代紀)は八坂神社、八俣のヲロチなど八に結びつき、牛頭天王となって祭られています。また、記、紀神代では頭に蜈蚣が付いた姿に描かれていますし、ヘビ、蜂(=八)とも関係しています。全て、呉と楚に分類できる要素で、須佐之男は呉系楚人の神とすることができると聞きました。
次に登場する帰化人は、垂仁紀三年の、新羅の王子という天日槍(天日矛)です。この神は、伊都県主との関係から、呉系楚人、堂谿氏(姫氏)の祖神と既に判明しています。つまり、天之日矛と都怒我阿羅斯等は同じ一族ということになります。
新羅(弁辰、辰韓)は、長城築造のため、秦の始皇帝により遼東半島に強制移住させられた楚人、越人が、秦の滅亡後、逃亡して建てた国でした。この秦から渡来したと唱える呉系楚人が秦氏ですから、天日矛は秦氏の祖神でもあります。
呉系楚人(秦人=ハタ人・熊襲)の神、須佐乃男は、人身牛首の形をし、どちらかと言えば、海や冥界を支配する月に重きがありますが、日、月の両面を持つ神であり、且つ、火の神、竃神だそうです。
そういえば、秦氏の神社である、京都の大酒神社や秦河勝を祭る大避神社では牛祭りと言うのが行われます。
とにかく、牛を神格化するほど大切にしていたようですね。
また、八咫烏(ヤタガラス)=三本足のカラスについて調べるうち、九州で秦王国を築いた後、熊野から大和に入ります途中で出雲の大国主とも出会うと言う話になり、神武天皇の東征とダブってきました。熊野神社の神紋がヤタガラスです。法隆寺にもあるとか。古くはやはり朝鮮半島のようで、朝鮮では太陽を背にしたヤタガラスです。ヤマタノオロチもしかり、三種の神器の一つが八咫の鏡。八幡も語源が近いようです。
[55] | そりちゃんさんからのコメント(2002年07月02日 00時25分21秒 ) | パスワード |
秦さん、すごく詳しく説明してくださってありがとうございました!
秦氏=「ヤハタ系」なのですね。物部氏は「フル系」ですよね。
物部氏の氏神にあたる石上神宮の祭神は、布都御魂大神(ふつのみたま)・
布都斯御魂大神(ふつしみたま)・布留御魂大神(ふるみたま)といいます。
彼らは「布留の言(ことば)」という呪文を使い、それは「ふるえ、ふるえ、
ゆらゆらと」と唱えるそうです。そして、その呪法の道具として十種の神宝が
伝わっていて、それが「古事記」の伝えるヒボコの神宝と非常に似ているのです。
物部氏
おきつ鏡・辺(へ)つ鏡・八握(やつか)の剣・生玉(いくたま)・死反(よみ
がえし)の玉・足玉・道反(みちかえし)の玉・蛇の比礼(ひれ)・蜂の比礼・
種々(くさぐさ)の物
天の日矛
珠二貫・浪振る比礼・浪切る比礼・風振る比礼・風切る比礼・奥つ鏡・辺つ鏡
いかがでしょうか。そっくりですよね。
このことから、ヒボコと物部氏は同族か、そうでなくても元は朝鮮から渡来した
一族なのではないかと思うのですが。
秦氏は熊襲も同族なのですか?
私は熊襲=大伴氏という説を読んだことがあるのですが、そうすると
古代大和王朝で朝鮮系の人々が優れた技術を活かし、実権を握って
いたのですね〜。秦氏も製錬技術に長けていたそうですし、もちろん
物部氏もそうですし。
神功皇后もヒボコの子孫ですし、秦氏の血は確実に天皇家にも入って
いったのですね。
八幡太郎義家もなにかつながりがあったのかな。
[56] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月08日 22時00分56秒 ) | パスワード |
八幡太郎義家の兄弟の名を新羅三郎義光と言うそうですね。
どうも秦氏に繋がる気配がありますね。
[57] | さちこさんからのコメント(2002年07月09日 00時11分21秒 ) | パスワード |
加茂二郎もいましたよ。
新羅三郎は甲斐源氏、武田氏の先祖です。
源氏発祥の川西市の多田神社、多氏と関係があると思います。
都祁氏(つげ)と同族です。神武天皇を祖としています。
越智氏も神武天皇を祖としてましたね。(新撰姓氏録では)
都祁氏も大山祇神を祀ってました。
http://www.kamnavi.net/as/yamanobe/tugeyama.htm
越智氏、河野氏、村上氏の大三島神社と同じ神様です。
[58] | さちこさんからのコメント(2002年07月09日 12時49分15秒 ) | パスワード |
訂正
越智氏は正しくは孝霊天皇の御子孫でした。
皇別の同じグループとして多氏とのってたのでカン違いしました。
明子さんのご先祖ですのでごめんなさい。
でも孝霊天皇が神武天皇の子孫なので同じこと?
いずれにしても同じ系統なのは間違いないと思います。
[59] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月10日 23時20分22秒 ) | パスワード |
秦氏年表
秦氏一族の足跡を尋ねるため、年表を作っています。
年代順に整理する事により見えてくることもあると思います。
まだまだ途中ですが、細かく付け足そうと思います。
前259-210秦始皇帝、中国史上最初の統一帝国・秦の初代皇帝(在位 前221-210)。
前210年秦徐福来日
前18 百済(ベクチェ)の建国:半島西南 AD660年まで
前37頃 高句麗(コウクリョ)建国 AD668年まで
前57 新羅(シンラ)の建国:半島南東 AD935年まで
313 高句麗(コウクリョ)、楽浪郡を滅ぼし、半島北部を領
372 高句麗(コウクリョ)に仏教伝来
356年秦の始皇帝の14世の孫、秦功満王来日
372年功満王の息子、年弓月君(ゆづきのきみ)4−5世紀頃来日
4世紀頃来日阿加留比売(あかるひめ)来日、新羅王子の后。日本を訪れ、九州から瀬戸内海地域を転々とし、 最後に大阪の鶴橋で祭られる女神となる。
4世紀天日槍(あめのひぼこ)頃来日、新羅の王子。 妻であるアカルヒメを追って来日。日本海・敦賀経由。鉄をはじめとする金属の技術を伝える。
574-622聖徳太子
603秦河勝広隆寺 建立
643年秦河勝、蘇我入鹿の乱を避けて、難波から赤穂の坂越の生島に逃れる。この地に大避神社造営
701秦忌寸都里松尾大社造営
711秦(はたの)伊呂巨、伏見稲荷神社造営
794 秦島麻呂、平安遷都のスポ ンサーとなる
663 唐・新羅(シンラ)軍により、百済(ベクチェ)滅亡
668 唐・新羅(シンラ)軍により、高句麗(コウクリョ)滅亡
[60] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月11日 02時35分27秒 ) | パスワード |
さちこさん
ところが吉備の神社(国宝と重文とあります)の重文の方のお祀りしている神様
というかご先祖さまは孝霊天皇なんですよ。
ビックリしました。
もう何が何やら、です。
*国宝の方(吉備津神社??)が鳴釜占いで有名な方です。
*重文の方(吉備津彦神社?)は何とか廻廊式庭園も荒れ果てて悲しい姿になってます。
[61] | さちこさんからのコメント(2002年07月11日 13時26分30秒 ) | パスワード |
岡山の謎?
明子さんの投稿を読んで吉備神社を検索してたら。
仁徳天皇陵に匹敵する大古墳がでてきました。
本当に何が何やらです。
http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/okayama-history/07tsukuriyama-kofun.htm
秦さん
年表にして頂いたらよくわかります。
また後ほどお邪魔します。
[62] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月11日 23時59分25秒 ) | パスワード |
古代において人々は我々が思うより、もっとダイナミックに交流していたように思います。
古代において、日本から世界を見た時、中国朝鮮と言えども遠い国で、日本自体が閉鎖的にすら思えます。しかし、大陸から見ると、日本は大陸の入り江ぐらいにしか見えません。
中国や朝鮮で国が滅ぶなどの原因で多くの人々が簡単に日本にやってきていたのだと思います。
古代朝鮮の南部に住む人のことも倭とよんでいたようです。
天皇家の故郷は任那と言う説があります。
この説はすごく説得力があるように思います。
いきなり高天原に降り立って国づくりをするという神話よりも、任那出身の騎馬民族が日本に渡ってきて、統一したと考える方が合理的なように思います。百済や任那系の人々の位が高く、新羅系は後に日本と交戦することもあって、地位が低くされていたのではないでしょうか?だから秦氏一族は新羅系ではないと偽ったのかもしれません。
日本には縄文人の血を引く土着の民族に加え、天皇家や漢氏をはじめとする百済系の人々や秦氏をはじめとする新羅系の人々が渡来してきたのでしょう。
では、秦氏の故郷、中国の秦や朝鮮の新羅とは?
秦の始皇帝とは、名を贏政(趙政)と言い、秦国の第31代国王(在位 前246-221)にして、中国史上初めて全国を統一しました。統一王朝としての秦の初代皇帝(在位 前221-210)。春秋・戦国時代を通じて諸国が建設した長城を連結し、「万里の長城」の基礎を作った。その国人達の多くは、西方(ペルシア)からの移住者ではないかと思われています。
新羅は B.C.57年に建国されています。その人々の中に秦王朝が滅亡時に移住してきた人たちもいたといわれています。また、新羅の古墳から出土する文物はローマ文化の系統を引いているといわれています。かならずといっていいほどローマン・グラスが出土するようです。出土した金製樹木形宝冠は、ギリシア神話から生まれた形で。ヨーロッパの王様がかぶるものとよく似ているようなのです。
古墳の形式も前5〜後3世紀、南ロシアのスキタイ・サカ族と同型式だそうです。
新羅の暦は中国の干支暦ではなく、ローマ暦を使っていたというのですから驚きです。
秦や新羅には直接、西域の文化が入ってきています。その文化はやがて日本にももたらされました。正倉院の宝物の中に多くのペルシャやローマ由来のものがあります。
秦氏は西域の文化を持ち込んだ張本人なのでしょうか?ユダヤ人じゃなかったとしても、ユダヤやペルシャの文化を持ち込んだのでしょう。その中に原始キリスト教があったとしても不思議ではないですね。
秦の河勝は、聖書を知っていた。そして聖徳太子を救世主として崇めイエスに見立てた。カリスマ性を植え付け、蘇我氏からの呪縛を取り除くために。河勝は太子を天皇にしたかったのだと思います。
しかし、蘇我氏の勢力にその夢もかなわず、太子は死亡、河勝は播磨の国に落ち延びたのです。
つづく
[63] | さちこさんからのコメント(2002年07月12日 21時27分52秒 ) | パスワード |
秦さんとても興味深く読ませていただきました。
中国では昔、中国西域あたりの人たちや文化に胡という字を当ててましたが、
秦という字はもっと西、ペルシャやローマを意味したらしいです。
アフガニスタンのジャララバード郊外に4世紀〜6世紀頃の遺跡があります。
ギリシャ神話のヘラクレスがブッタの像に(大仏?)かしずく彫刻です。
ハッダ遺跡といいます。
ブッタの顔は破壊されてしまってます。
ソ連のアフガン進攻時に破壊されたらしいです。
ハッダとハタ似てるけど。う〜ん。
実際の関連は判りませんが、何となく雰囲気的に秦氏っぽい感じがしますね。
秦さんつづき楽しみにしてます。
秦氏ユダヤ人説がガゼン高尚になってきました。
秦氏というと最近は
UFOや宇宙人、少し前のネッシーやツチノコみたいな扱いですから。
それはそれで面白いですけど。
[64] | さちこさんからのコメント(2002年07月13日 12時59分55秒 ) | パスワード |
面白いものをみつけました。
http://star.endless.ne.jp/users/myj7000/clan/clan_index.htm
これによると吉備氏も越智氏も孝霊天皇の子孫となってます。
http://star.endless.ne.jp/users/myj7000/clan/01/01.htm
孝霊天皇の后が十市氏と関係していると言うことでしたが、
安倍氏の先祖が孝霊天皇の子の孝元天皇になってます。
安倍氏をみてみると十市郡が発祥の地とされてますが、
これは例の磯城町です。
孝霊天皇の后が磯城県主何とかと言う名前でした。
磯城町はあやはとりを祀った糸井神社や、
女性シャーマンのものではないかと考えられている島ノ山古墳のあるところ。
そして秦河勝の子孫の楽戸郷があった所です。
ここは多氏と秦氏の接点でもあるとされているのですが、
秦氏をみてみると東儀氏と安部氏が繋がってる!
http://star.endless.ne.jp/users/myj7000/clan/03/03001.htm
賀茂氏のところみたら、吉備氏を祖とする賀茂氏もあるらしい。
なんかよくわからない話になりましたが、
古墳サイズベスト50をみてください。
http://narayamatoji.tripod.co.jp/saizu.html
応神天皇、仁徳天皇の古墳が大きいのは秦氏の技術とかいわれてますが。
岡山の造山古墳、秦氏に関係してるのでしょうきっと。
島ノ山古墳も37位になってます。
前方後円墳が全国に約5千あるらしいですからこれもかなり大きいと思います。
[65] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月14日 00時15分42秒 ) | パスワード |
紀元1世紀から2世紀ごろには邪馬台国をはじめ、句奴国、奴国、末盧国、伊都国、対馬国、など多くの国が存在していました。その中に秦王国というのもあったようです。互いに勢力争いを行っていたとのですが、戦乱の中奴国が魏の光武帝より金印を賜り、倭の国として認められたようですが、邪馬台国の卑弥呼を旗頭にして同盟を結んだ諸国との戦いに奴国は敗れ志賀島に逃れたのでしょう。金印は志賀島から出土しています。
このころもっぱら中国の魏に使いを出し貢物をして国と認められると言うスタイルが一般的で、朝鮮においても同様でした。
奴国は同盟国軍に敗れ、邪馬台国の勢力が伸びてゆきます。その邪馬台国と秦王国も互いに何度か交戦していたようです。その後新天地を目指して秦王国の人々は北九州から瀬戸内海沿岸を通り大和に向け移動してゆきます。この中には後の天皇家とつながる百済系の渡来人たちもいたのだと思われます。百済系(漢氏も百済系)の天皇家も東に向かったのでしょう。アヤハトリ、クレハトリでわかるように、漢氏と秦氏はお互いに混血していました。物部氏もいたと思います。この頃においても、表の百済系と裏の新羅系という構図が出来ていたのかもしれません。裏の新羅系秦氏は、河童になり、ヤタガラスになり百済系を助けたのでしょう。古事記や日本書紀の記述に神武天皇の東征は記載されていても秦氏のことは書かれていません。古事記や日本書紀自体、百済系によってかかれたものだからだと思います。新羅系を消すという故意が見られてなりません。天皇家を脅かす存在として闇に葬る必要がありました。
蘇我氏が天皇家を左右していた時代がありました。秦河勝が唯一、新羅系を擁護する天皇の擁立を目指し聖徳太子を救世主に見立てていたのかもしれません。
つづく
[66] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月14日 22時46分38秒 ) | パスワード |
朝鮮半島から海を渡ると、一番近いのが対馬です。対馬からは晴れた日には朝鮮半島が見えると言います。対馬から北九州と言うルートがもっとも安全で近道です。
海を渡るときに東に流されると、出雲に着きます。
2世紀ごろの倭には百余国あったと言われていますが、全国統一するために九州の人々は東へ攻め込んでゆきました。当然、四国や中国地方や近畿にも国は存在したのだと思いますが、最新の武器と騎馬隊という兵力で次々と国を従えて行きました。
東へ行くルートは何種類かあったと思います。
@ 瀬戸内海ルート、一番考え易いのが、瀬戸内海を通って東に行き、大阪湾に入り、猪名川を上り豊中、池田から亀岡に入るルート。次に淀川から寝屋川、枚方、高槻、京都に至るルート。次に大和川に入り平野から八尾、そして大和に入るルート。
A 太平洋ルート、九州の日向から四国に渡り、四国を縦断してから和歌山に入り、熊野から大和に入るルート。神武天皇のルートがこれに近いのでしょうか?高天原は四国にあったといわれています。
B 日本海ルート、北九州から出雲に入り、国を譲ってもらってから、丹波に入り、滋賀から北陸に至るルート
百済系は特に大和を支配する事が重要だと考えていたようですが、新羅系は大和に固執せず、色々な地域で勢力を広げてゆきました。
その違いは、国を治めるという政治的背景の百済系と、自分達の文化や技術を広げて経済効果を狙った新羅系の価値観の違いだったかもしれません。ここにも表裏の関係が出来上がっています。
しかし、なぜ大和を目指したのでしょうか?
紀元前210年ごろ秦の始皇帝の命令で不老不死の薬草を求め来日した秦の徐福。徐福の上陸地点は、九州や四国、和歌山、愛知といたるところにあます。どこが本当なのか論議するより、すべてが正しいとすればどうでしょうか?徐福と言う人物は一人かもしれませんが、徐福一人で日本にやってきたとは考えられません。何艘かの船でやってきて、立ち寄った先々で言い伝えが残っているのではないでしょうか?徐福の子孫達も秦を名乗っていて、すでに近畿から中部にかけて影響を及ぼしていたのではないでしょうか?
神武はなぜ、大和を目指したのか?すでに、大和には征服する価値のある何かがあったのでしょうか?そう考えるより、大和の人々は文化的に高く街も発達し、また、その頃の日本の地理的に中心な位置だったのでしょう。同族としてあまり抵抗せずに迎え入れたのかもしれません。
こうして東征は成功するのですが、東に向かう途中の各地域で少しづつ彼らの文化が根をおろしてゆきました。古来の倭人に新しい血が入ってゆきました。そして神々も根をおろしました。本来、卑弥呼がそうであったように、シャーマニズムで政を行っていた時代がありました。山の神、火の神、海の神、など自然とともにあった神から、新しい外国の神々が入ってきました。それもきちんと名前のある神で、実在の人物までもが死ぬと神になる事もありました。ヤヤハトリ、クレハトリもアメノヒボコもアカルヒメも人名です。古墳と言う墓が神社にもなりました。八幡系の神社の多くが古墳だったりします。鳥居は神社の門であり、糸巻きの形をしていると言われています。このような神社が出来てきたのも渡来系の人々のもたらした文化だと思います。宇佐神宮から伊勢神宮まで建設に渡来系の人々が深くかかわっていたようです。技術の新羅系と政の舞台で利用する側の百済系。
つづく
[67] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月14日 22時48分07秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2002年07月15日 22時55分32秒
[68] | たまねこさんからのコメント(2002年07月15日 19時46分04秒 ) | パスワード |
高天原は、映画「大霊界」のロケ地で使われた、高千穂にあったそうです。
自分と関係ありと思われる孝元天皇、安倍一族を調べていたら、またしても伊賀忍者と秦一族と繋がってしまいました。
http://www4.justnet.ne.jp/~takeuchi_toshinori/sei_0w2.htm
河童は日本の魑魅魍魎ですが、河童と混同されがちな河の水神・龍神の河伯は、どうも人間臭いですね。
中国の河伯(かはく):色白で端正な顔立ちと、均整のとれたプロポーションで、水中の車に乗り、龍を支配し、妻や女性たちを侍らせている。
…色白ということは、西からやって来た人なのでしょうか。
「日本書記」でも、仁徳天皇の11年(323年)11月の項に、河内国の茨田ムラジコロモコと武蔵国の強頚によって、河伯(かわのかみ)が退治されているそうですから、妖怪ではなく人間でしょう。
河伯は龍の頭を装飾した船に乗ってやって来た渡来人のことなのでしょうか?
徐福は秦氏の祖先という説ですが、河伯同様、各地に出没していますね。弓月君来日以前から、各地で技術集団として活躍していたということですか。
http://www.mizu.gr.jp/kenkyu/toyama2/t_rep2_2.html
http://www07.u-page.so-net.ne.jp/jf6/t-segawa/johuku.htm
「河を治める者は天下を治める」という、河と龍の話がありました。
http://www7.ocn.ne.jp/~gotenryo/story_dragon.htm
河童の隠語「盗品を買う商人」というのが、気になります。河童は河伯の配下で、いろんな仕事を請け負っていた人々のことなのではないかと思います。
http://www.ishinotent.co.jp/Kappa/kappa-2.html
奈良の大仏開眼会では、インド僧、ベトナム僧、百済系・中国系渡来人などが中心人物で、当時の先進諸国の文化と最先端の科学技術を集めて作り出された、政治的な要素の濃いものだったと思われます。
大仏には大量の金属が必要だったため、これをかき集められる者が優位に立てたのでしょう。工事に携わる人間は、水銀、砒素中毒になるので、たくさんの奴婢が犠牲になったようです。大仏鋳造で手持ちの金を使い果たした政府は、未開の東北に矛先を向け、「蝦夷征伐」という大義名分のもと、鉱山開発に力を入れていったのですね。
神仙術、真言宗、不老不死の薬、丹、水銀…
ニフ(丹生、入、仁尾、仁保、壬生など)という地名のある場所は、水銀鉱床の上に成り立っているとか。水銀技術者集団が、水銀採掘に従事した場所ということで。
巨大な鉱山資源と、鉱物の知識を持つ技術集団によって、奥州藤原氏のミイラにも、鉱物を利用した防腐処理が施されていたのでしょうか?空海は水銀を飲み続けて、ミイラになったという俗伝もありますね。
[69] | さちこさんからのコメント(2002年07月15日 20時51分01秒 ) | パスワード |
たまねこさん
伊賀にある敢国神社がもとはアベ一族の神社でした。
ここには少彦命、金山媛命が祀ってありますが、
金山媛命は鍛冶屋の神様みたいです。
金屋子神についてこんなことが書いてありました。
大昔、金屋子神が高天が原より播磨国志相郡に天降りして、鉄作りを教え、岩石をもって鉄鍋を造られました。これよりその地は岩鍋と言われるようになりました。現在の宍粟郡千種町の辺りです。しかし、周囲に住み賜う山がなかったので、「我は西方を主とする神なれば、西方に赴き良きところに住まん」と仰せられ、白鷺に乗って出雲国能義郡黒田の奥非田の山に着き、桂の一樹に羽を休められ、この地で安部氏に鉄造りの技術を教えられました。
金屋子神については
中国山地のたたら場では必ず金屋子(かなやご)神を祀っています。金屋子神の本社は島根県能義郡西比田にありますが、金屋子神の信仰は中国地方を中心に九州、四国の一部から遠く関東、東北の一部まで広がっています。現在の祭神は金屋子神ではなく、大和の金山彦命、金山媛命になっていますが、本来は金屋子神で、地元では金屋子さんとごく親しく呼んでいます。金山彦、金山媛が祀られたのは恐らく近世以降で、神社の権威を高めるためだったと思われます。
伊賀のアベ一族はもとは鍛冶氏だったのでしょう。
以前川口さんの投稿にありました。
鍛冶氏がシャーマンの役割もしていたと。
前回の私の投稿少し判りにくいと思いますが、
簡単にすれば。
多氏ー都祁氏ー越智氏ー吉備氏ー賀茂氏ー阿倍氏ー服部氏
私が今まで調べたところ系図や神社の祀神で繋がってます。
吉備氏については判らないですが、
すべて秦氏に関連してます。
服部氏と賀茂氏を除けば、今日では架空ではないかとされる代の天皇の子孫になってます。
服部氏、賀茂氏は高天原に降りた最初の神、
天御中主神を先祖にしてます。
伊勢神宮に関係のある渡会氏、中臣氏も天御中主神を系図の頭にもってきてますが。
秦さん
多分、日本書紀、古事記には秦氏が関ってると思います。
秦氏以前に渡来していた新羅系が結構勢力を持っていたのでは。
天皇家ももとは新羅系ではないかと。
このへんはまた整理してみます。
[70] | さちこさんからのコメント(2002年07月15日 23時13分54秒 ) | パスワード |
これをみっけ〜(みつけた)
http://www.relnet.co.jp/relnet/brief/r18-90.htm
ややこしいけど面白いです。
やはり多氏!
これがくせもの。
一部をコピーします。
『古事記』とは「712年すなわち和銅五年、稗田阿礼(ひえだのあれ)の誦習したものを太安万侶(おおのやすまろ)が撰録した書物。
▼『古事記』は多人長がまとめたものである
実は、この講書を行ない『弘仁私記』をまとめたのが多人長(おおのひとなが)という人物である。氏(うじ)名の通り、オホ(太・多)氏の一員であり、百年前に『古事記』を撰録したと言う太安麻呂の子孫である。オホ氏は雅楽寮大歌所という宮廷歌、宮廷神事の歌舞音曲を職掌とする所を司る雅楽の家であった。思えば『古事記』は歌物語であるとさえ言えるものだ。そして多人長は、難解な『日本書紀』を訓読し講釈できるほどの当時随一の言語学者だったのである。
話は複雑だ。と言うのも、この序は『弘仁私記』がまとめられた812年の多人長の筆になるものではないらしい。当時の嵯峨天皇に関して、後ちに上皇となったときの呼称を用いているからだ。そこから、820年代あたりにこの序は書き加えられたものと推察される。それにしてもこの序の内容が面白い。『日本書紀』講書の序であるにもかかわらず、太安麻呂が『古事記』を撰上したとか、『日本書紀』撰録にも安麻呂が関わっていたとかとあり、まるで安麻呂と『古事記』の宣伝文になっているのだ
▼『古事記』は『新撰姓氏録』への反発から生まれた
いろいろと説明が必要であるが、まずは勅撰『古事記』をでっち上げた動機から行こう。直接的な動機は、弘仁六(815)年に万多(まんだ)親王(桓武皇子)らが『新撰姓氏録』を撰上したことだった。『新撰姓氏録』とはその名の通り、千二百弱の氏族の出自や家系をまとめたもので、そこにはそのころ時めいていた茨田(まんだ)氏の祖がオホ氏と同じく、神武皇子である神八井耳(かみやいみみ)命だと書かれてあった。
『弘仁私記』序が説明してくれるのだが、万多親王にも関係する茨田氏ら百済系氏族の系譜がデタラメだと断じてある。それもそのはずで、オホ氏は秦氏に極めて近い新羅(もしくは加羅)系氏族なのである。それを一緒くたにするとは言語道断というわけだ。「序」にはこうある、こんなデタラメを書くのは「旧記を読まないからだ」と。そして「旧記」に注して、『日本書紀』『古事記』(「原-古事記」であるとの理解も可)等と書くのである。ともあれ、以降は『日本書紀』研究者はこの序を目にし、『古事記』に注目するようになる。
『古事記』は、第一にオホ氏が自らの系譜に関して勅撰『新撰姓氏録』に異議を唱え、正すために書かれた。対抗上、勅撰されたという物語を『古事記』序に付け、『日本書紀』にも先んじる和銅五年に秘かに挿入したのである。動機の背景には、百済派が重用された平安初期という時代がある。多人長の他にも多入鹿という人物が、この頃に活躍していた。しかし810年、薬子の変という政変が起きる。多入鹿が属する平城上皇派の藤原仲成・薬子兄妹が、嵯峨天皇派に敗れた事件である。
(注)平安朝を開いた桓武天皇は百済を明確に意識した王であった。生母は百済王の子孫であり、その血を受け継いでいることを自覚し、「同族」の百済系氏族を重用した。平城・嵯峨・淳和天皇は桓武の皇子たちである。
薬子の変の結果は上皇を出家させ多入鹿も左遷され、百済系氏族を寵愛する嵯峨天皇の独裁となった。そしてあの『新撰姓氏録』が編まれたわけである。没落しつつある名族オホ氏は、飛鳥時代に常世神の信仰を興し秦河勝に掣肘された大生部多(おおふべのおお)が姿を見せ、その後は天武天皇を実現した壬申の乱で、太安万侶の父多品治(ほむじ)が勝利に貢献している。太安万侶は民部卿などとして活躍していた。『古事記』序の天武天皇への讃美は、新羅系氏族興隆の時代を懐かしんでいるようにも筆者には思える。
紀記は冒頭から違う。紀の神は「国常立尊」から、記の神は「天之御中主神」から始まる(紀「本書」に天之御中主神はなく、国常立尊は記では六番目に現れる)。次に先にも述べたが、紀には「高天原」はなく、記では冒頭に「高天原」がありそこに最初の神々が現れる。そしてこれも述べたが、「大国主神」といわゆる「出雲神話」のすべて、またイザナミの死と黄泉国も記の物語である。これは何なのか。
紀は陽神イザナキ尊と陰神イザナミ尊が世界を作る物語である。そして天照大神は「大日メ貴」(おおひるめのむち)であり「日神」の役割にとどまる。天降ったニニギ尊は「皇孫」と呼ばれ、また神武天皇が現れるが、彼らによる「地」の支配に無前提の正統性はない。それに対して記では、「高天原」にいる「ムスヒ」の三神が支配すべき「地」(国)を生み出す物語である。「大国主神」による「国造り」もその掌中にある一章にすぎない。「天照大御神」(記での神名。紀では「天照大神」)は「ムスヒ」の代理人である。葦原中国の支配権はあらかじめ「高天原」にある。
(注)「ムスヒ」の三神とは、天之御中主(あまのみなかぬし)神、高御産巣日(たかみむすひ)神、神産巣日(かみむすひ)神である。ムス-ヒとは「うむす」(生む・産む)の「ひ」(霊)であり、「日本」という国が生成し、また国を生成する霊力である。高天原に初めて誕生した神が「天つ神」と呼ばれたとき、地たる葦原中国の「国つ神」の代表者を「大国主神」と呼ぶことが可能になったのである。
▼『古事記』の親新羅性
オホ氏が「完成」させた『古事記』の特徴として、その親新羅性についても指摘しておかなければならない。紀においては新羅への愛憎両方あり、その憎の部分では新羅を徹底的にけなしているが、一方の記では憎の記事は無視、あるいは目立たぬ程度に抑制されている。さらに新羅に都合のよい記事については、紀に載らないことまで詳しく述べている。
紀では、新羅王子・天之日矛(あめのひぼこ)は垂仁三年に渡来し、天皇に神宝を献じたとある。ところが、記では応神朝に記事があり、渡来の理由を神の子を身籠もった女(神母、神妻)を追ってやって来たとある。そして息長帯比売命(神功皇后)は天之日矛の後裔だと述べている。神功皇后は新羅征伐を行なうが、もちろんその際の新羅の対応の描写も紀記では様子が違う。神功皇后は大王応神天皇の母であるが、言うまでもなくこの母子は「神母−神子」である。
それから、紀になく記に登場する「大年神系譜」というものがある。大年神はスサノヲ命の御子神であるが、そこに載るのは大国御魂神を除き、新羅の神々なのである。別稿でも述べたが、韓神、曾富理(ソフリ)神、白日(シラヒ)神など名だけからでもおよその察しがつくであろう。ソフリ神は新羅の京城(首都)守護神であり、それを平安新京の守護神として勧請したのだとしたら、『古事記』成立は平安遷都後のことでなければならない。
また、新羅・加羅系渡来人の太秦(うずまさ:長者)である秦氏の氏社・松尾社には、大年神の御子神・大山咋神を祭るが、日枝社から勧請し創建したのは701年のこととされる。それから、たった十年ほど後ちの勅撰書『古事記』にこんな神社が載る。しかし、地元の『山城国風土記』には全く触れられもしていない。『古事記』成立の時期への疑義とともに、オホ氏ばかりではなく秦氏を代表とする新羅・加羅系氏族が『古事記』成立に関与したとせざるを得ない。
『古事記』は、栄光時代の太安麻呂に仮託された、オホ氏や秦氏など新羅・加羅系氏族の栄光の原拠であり、それは彼らを寵愛し「日本国」を興した天武天皇を頌栄する書であった。そしてそこにある「神話」とは、実は「天皇が日本を支配する正統性」を語ることだけを目的とした物語であった。それを前提にして、オホ氏などの系譜が書き直されていたのだ。
私も今のところ納得はするものの??
ただやはりこの多氏はあなどれないです。
多氏は神武天皇の二番目の皇子神八井耳命を祖としてます。
都祁氏と同じです。
明子さん
やはり東儀ー都祁ー柘植ー服部。
繋がりました!
[71] | さちこさんからのコメント(2002年07月16日 20時19分15秒 ) | パスワード |
秦さん
せっかく書かれたのにもったいない。
どうして消されてしまったのですか?
秦さんのご意見を否定したみたいで気を悪くされたらごめんなさい。
上の説も一つの仮説というだけで正しいとはかぎらないのです。
平安時代に古事記が秦氏によって書き直されていたという話も、
多分ほとんど認められてないと思われますが。
この筆者は多氏によって書き直された古事記を、
日本の神話として支持されている事に批判的です。
秦氏に都合のよいように書きかえられたとか多氏の系図がでっち上げとか。
私には正しくは判断できませんが、
逆に平安時代になってずい部分と藤原氏に都合のよいように、
話がつくられたとか、
都合のいいことだけが残されたというようなことはあったかもしれません。
本当に日本が全面的に百済よりの政策を行ってきたのか、
白村江の戦いの後かなりの百済系難民があったそうですが、
これらは秦氏よりずっと後に日本にやってきているのに、
秦氏ばかり何故か帰化人扱い。
よく調べないと判りませんが、
藤原氏は百済系の帰化人が多くなった結果成り上がってきたのかも。
(北家のほうね。)
ようするに藤原家は成り上がりものよ!(爆弾宣言)
百済系としては自国を滅ぼした新羅系の秦氏が、
亡命先で繁栄してるのは面白くなかったでしょうけど。
何故帰化人の秦氏が神社等に関っているか不思議だったけれど、
それより前に日本に来ていた新羅系の多氏、賀茂氏等が、
大和朝廷の基盤をつくっていたとすれば納得できるのですが。
秦さんまた分析お願いします。
[72] | そりちゃんさんからのコメント(2002年07月16日 22時36分44秒 ) | パスワード |
<よく調べないと判りませんが、
<藤原氏は百済系の帰化人が多くなった結果成り上がってきたのかも。
<(北家のほうね。)
<ようするに藤原家は成り上がりものよ!(爆弾宣言)
うふふ、一理ありますね。
一説には鎌足は本当は百済王の血を引く皇子との説もあり、
そのため時の天皇から寵愛されていたとか。
国が乱れていたので、日本に亡命&助力を願いに来ていたとか。
そのため、死後彼の血をひく者だけに「藤原」姓を許された。
なんて考えもあるそうです。
秦さん
レス削除は本当にもったいないですよ〜。
私も間違ったことたくさんカキコミしてるし(っていばれないけど)
教えあって、皆で考えて、確認していきましょう!!
[73] | 藤原の子孫さんからのコメント(2002年07月16日 22時38分45秒 ) | パスワード |
>よく調べないと判りませんが、
>藤原氏は百済系の帰化人が多くなった結果成り上がってきたのかも。
>(北家のほうね。)
>ようするに藤原家は成り上がりものよ!(爆弾宣言)
どういう主観があるか知りませんが、こういう物言いは、控えた方がよいのではないでしょうか。
[74] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月16日 23時42分41秒 ) | パスワード |
皆さんすいません。
レス削除は同じ内容が誤って二つ入ってしまったからなんです。
心配かけました。
古代日本の形成において、百済や新羅からの渡来人の影響があったのは間違いないようですので、個人の感覚で物語を作っています。
そこでなんとなく思うのですが、
聖徳太子までの日本と、聖徳太子後の日本が違っているように思うのです。
そして、仮説ですが、聖徳太子は殺されたのではないか?という疑問です。
聖徳太子の子の山背大兄皇子も非業の死を遂げています。
山背と言う名前から、山背(山城)を拠点とした秦氏が背景にいたはずなのですが、
それにもかかわらず、蘇我氏に滅ぼされます。
蘇我氏と秦氏の勢力争いだったのでしょうか?
この争いにピリオドを打つのが大化の改新でしょう?
大化の改新と言えば中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足・・・秦氏つながりでしょうか?
天智天皇からが新生日本、万世一系の天皇はこのあたりからでしょうか?
[75] | さちこさんからのコメント(2002年07月17日 00時38分26秒 ) | パスワード |
藤原の御子孫様
いらっしゃいませ。
私の発言に不適切な点がありましたらお詫び申し上げます。
宮内庁の関係のかたでいらっしゃいますか?
そんな訳ないですね(笑)
今日は少し眠いのでまた明日書き込みしますが、
ここはきまぐれに思いついたことを話ている所と言うか雑談の場と思ってました。
その辺をご配慮ください。
不愉快に思われたならごめんなさい。
私はあくまでも歴史の素人ですので確かなことは判りませんが。
でも藤原様。
あまりにむきになるのははしたない事でございますよ。
今後楽しく議論をしていただけてば嬉しく思います。
この平熱は単一民族といっては現在は叱られますが、
源平同じ日本人同士仲良くしてるところです。
藤原氏Vs秦氏楽しいではありませんか?
今後ともご指摘やご批判歓迎してます。
あまりむきになると、やはりなと、
ここの住民は思いますよ。
(冗談ですが)
[76] | たまねこさんからのコメント(2002年07月17日 01時40分05秒 ) | パスワード |
さちこさん
>秦氏以前に渡来していた新羅系が結構勢力を持っていたのでは。
天皇家ももとは新羅系ではないかと。
そんな気がいたします。百済か新羅か定かではありませんが、海を渡ってやって来た渡来人が、勢力を伸ばしていったのかもしれませんね。もともと土着の日本人は、だいぶ昔から、隅っこに追いやられていたのかも。
私は、みなさんの自由な推測と御意見をいつも楽しませていただき、少ない脳味噌のシワが一本ずつ増えていくことに感謝しております。(その分、髪の毛が抜けた?)
主観的で、独創的な意見があってもいいんじゃないかと思いますよ。
そもそも、歴史書は勝者の都合で作られ、書き換えられるものですから、教科書に出てくるような定説を鵜呑みにしていたら面白くない(笑)。うちの旦那も藤原の子孫だし、日本全国、藤原だらけ〜。
[77] | 藤原北家の子孫さんからのコメント(2002年07月17日 09時34分04秒 ) | パスワード |
みなさん、こんにちわ
さちこさんへ
>今後ともご指摘やご批判歓迎してます。
あ、れれ?
批判のつもりは、なかったのですが、失礼しました。
>(北家のほうね。)
で、一応、私は『平姓』でありながら、平家物語などに登場する『北家』『源氏』の方を『祖』としている家系の人間です。
従い、『北家』限定の『成り上がり』は『厳しいィ〜』と思いカキコした次第です。
たまねこさんへ
>そもそも、歴史書は勝者の都合で作られ、書き換えられるものですから、教科書に出てくるような定説を鵜呑みにしていたら面白くない(笑)。
これ!『同感』しています。
ご参照下さい。
『http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100332_7.html 』
では、また。
[78] | さちこさんからのコメント(2002年07月17日 22時33分05秒 ) | パスワード |
迷える子羊さんだったのですね。
私はてっきり秦熱に迷い込んだ藤原家の御子孫が激怒したのだと。
やはり日本では天皇家と藤原家の批判はタブーなのかしらとおびえました。(笑)
ご存知かと思いますが、
平安京は元は秦氏の土地で、
桓武天皇の時秦氏は平安遷都に貢献したとされてます。
しかしその後はっきりした理由は判らないのですが歴史から姿を消します。
こりより藤原一族の時代が続くわけですが、
な〜んか藤原氏に追っ払われたような気がするのですよ。
式家は秦氏とともに衰退しましたが。
自分たちがが住んでいた土地でで藤原北家は栄華をきわめるのですから、
少しひがんでいたという訳です。
それにしても自分の先祖を成り上がりと言われリャ〜・・・ですよね。
ごめんなさいね!
迷える子羊さんの気持ちを思うと、
平安貴族は不味いものばかり食べて栄養状態が悪く、
病気がちで早死にだった。
蒸し暑い京都で十二単を着て、
ろくに風呂も入らずにいたので本当は臭くて汚かった。
こんなこと口が裂けてもいえません。
えっ?秦氏のほうがもっと臭いだろうって?
いえいえ伊賀では毎日朝シャンしてましたもの。ねっ!明子さん。
お香を焚いていたのでは時間がかかるので、
伽羅や麝香入りの煙玉でボーンと一瞬に香りをつけました。
顔がススで真っ黒になるのが少し難点でしたが。
食事も朝からキャビアやフォアグラ、ノルウェーさんのサーモンとか・・・
ハイハイ。判りましたもう帰ります。
たまねこさん
奥州藤原氏のミイラ気になります。
なんでも内臓を取り出すエジプト式とか?
いちどミイラ調べてみます。
そりちゃんさん
サンカも気になります。
水銀などと伊賀は関係しているのかな。
[79] | そりちゃんさんからのコメント(2002年07月17日 23時20分39秒 ) | パスワード |
水銀でちょっと思い出したのですが、
確か聖徳太子のママの間人媛って道教を信仰していた(?)ようで、
ママが作ったお薬を飲んで太子は寿命が短くなった、というのを
何かで読んだのですよね。
その薬が「水銀」でした。
当時は「不老長寿の秘薬」だったそうですよ。
そういえば、家康も薬好きでしたよね。
そんな薬の調薬の術をどうやって誰から学んだのでしょうね。
迷える子羊さん
なんだ、子羊さんだったのですか。
もう、ハラハラしてしまいました。
私もたぶん本姓藤原氏と思うのですが、鎌足どう思います?
怪しくないですか?
[80] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月18日 00時18分48秒 ) | パスワード |
秦って苗字は良くないよ〜
藤原だとか綾小路だとか武者小路だとか島津だったらよかったのにな〜
なんて、子供の頃は思ってました。
ついたあだ名は「はたはた」だったり「はた坊」が定番ですから!
電話で「はた」ですと名乗って、どんな字ですか?「畑」ですか?と必ず言われます。嫌ですよ〜
「秦」って言う字、知らない人が多すぎます。
国語の教科書に出てこない字、
音はあっても意味のない字です。
不思議な字です。
皆さんならどのように答えますか?
僕は「季節の春という字の、日の代わりに、ノ木辺のノ木です」と答えてます。
毎回です。
歴史の中でもあまり有名人はいませんね。河勝くらいです。
坊さんや神主などになったものも多い、世俗から離れた人々?
歴史の表から消されるのですよ。
さんざんですね。
白拍子や田楽や猿楽などの芸人、あんなに国づくりに貢献したのに、
放浪の民となるのです。諜報活動はしやすくなりますが。
放浪の民となると、またユダヤに繋がってしまうのですが?
天皇家や藤原氏の嫁さんとして多くの秦氏が嫁いでいます。
でも男は闇の中なのです。
そして「河童」「さる」「鬼」などと呼ばれ、消されていく。
ああ僕は「河童です」・・・(髪が薄くなってきてるから!)
[81] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月18日 00時58分20秒 ) | パスワード |
いや〜なんか驚かせてしまったみたいですみませんでした。
さちこさん、そりちゃんさん。
>私もたぶん本姓藤原氏と思うのですが、鎌足どう思います?
>怪しくないですか?
実は、私も怖いと思う一人です。
私の先祖たち、この関東にしろ、京都にしろ『悪党』と言われる方が多くて
義仲の『佐久党』などもそうですし、狛江の『狛江入道』もその中にあります。
必ず『国造系』から、『藤原』なり『平氏』『源氏』に変遷しているのです。もう怖くて仕方ありません。
『なり上がり』ですが、私もある意味、『図星』と思う一人です。(図星であればこそ、カキコしました。<m(__)m>)
だって、『信長』にろ『秀吉』にしろ、他に由緒ある豪族は、沢山いたわけですし、そう考えれば、古代もそうに違いなく・・・。(こんな話を皆さんから、聞くつもりでした。)
面白い地図を紹介します。
『http://kekkeyui.hoops.livedoor.com/hpbasu/gyoukaku.html 』
この地図、東京都の城郭地図ですが、右の方が主に平安期、左が江戸期に多い城郭です。
古代、江戸は江戸ではなく『武蔵国』なのです。
地名まで変わってしまいます。
この右側ですが、古墳の形(形成)が渡来型なのです。
『国造』と言われますが、もしかすると渡来系ありえると私は考えています。
『川口さん』『二宮さん』この『武蔵国』古代から、おられます。
『武蔵国古代武士集団分布』(全て地名ではなく家姓です。)も添付させていただきます。
『http://kekkeyui.hoops.livedoor.com/hpbasu/yui2.html 』
見づらい場合は、右クリックで拡大を!
では、また。
[82] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月18日 01時40分56秒 ) | パスワード |
秦義則さんへ
>歴史の中でもあまり有名人はいませんね。河勝くらいです。
???すみません。私、事情があってスレッド全て見ていないので、重複したらすみません。
『http://www.city.hadano.kanagawa.jp/sisi/welcome/3b-4.html 』
この『秦さん』=『波多野氏』って
日銀の総裁や有名な方いっぱいいます。
ヤクルトにも『選手』が・・・?
武蔵国の有力豪族ですよ。
わたしだったら、電話で『ハタさん』って聞いたら、信州の『羽田』か『秦さん』ですよ。
関係なかったらすみません。<m(__)m>
[83] | たまねこさんからのコメント(2002年07月18日 02時03分10秒 ) | パスワード |
鎌足を調べていたら、三つ鱗紋を使っている末裔がいくつかあるのに気づいてしまいました。
そりちゃん
「サンカ」の話は興味深いです。今まで、サンカ=被差別部落の人だと思い込んでいましたが、まつろわぬ人々や、戦の敗者も含まれたでしょうね。陰陽師も、ですか。
”仙薬”には上中下の種類があって、仙人になれるのは上薬だけで、中薬は体を丈夫にする保健薬、下薬は病気を治すものなのだとか。
丹煉術は丹砂(硫化水銀)を主成分としていて、各種の鉱物を釜の中で焼き、複雑な科学反応によって、様々な薬を作っていきます。
例えば、朱砂、丹砂と呼ばれる天然の硫化水銀は印鑑の朱肉に。
加熱する温度や、鉱物や食塩を加えることによって、猛毒の昇コウ(たんぱく質を凝固する作用があり、特に消化器を冒す)や、利尿薬・下剤として使われる甘コウに変化します。
この、薬である甘コウも、太陽が当たるような場所に放置しておけば、恐るべき毒薬に変化するようですし、薬を合成する時に、反応条件を間違えれば…ポックリということも日常茶飯事だったのでは。(私も一服盛られた記憶が…)
丹薬の中には、幻覚幻聴があらわれるものも多かったので、それが仙人の境地、だったのかも?
いずれにせよ、このように高度な知識と技術を持った集団が、何らかの形で大きな影響を及ぼしていたのですね。鉱山資源と独自の化学技術を持つ集団の関係はいかに?
因みに、藤原氏のミイラは、技術的な観点から見て、地域的に近い樺太・アイヌや出羽の即身仏よりも、中国大陸と結びつくものなのだそうです。
基衡や秀衡は肥満体で、ミイラになりにくかったにもかかわらず、しっかり保存されているので、藤原忠平が愛飲した金液丹を飲んでいた可能性が強いと、ミイラ信仰の本に書かれていました。
[84] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月18日 02時39分31秒 ) | パスワード |
訂正します。
>この地図、東京都の城郭地図ですが、右の方が主に平安期、左が江戸期に多い城郭です。
>古代、江戸は江戸ではなく『武蔵国』なのです。
>地名まで変わってしまいます。
>この右側ですが、古墳の形(形成)が渡来型なのです。
<m(__)m>・・・左右が逆でした。
左が平安期
右が江戸期
久しぶりのカキコなもんで・・・<m(__)m>。
[85] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月18日 04時31分11秒 ) | パスワード |
秦義則さんへ
〔82〕追伸
今ある秦野市の由来にある『秦氏』です。
その『秦氏』(養蚕・機織りの技術にすぐれた渡来人の子孫の集団)が古くから困難を克服し新天地を形成し、その『長』である『秦氏』の名を地名に命名した。
その由緒ある『家姓』を『藤原経範』が『波多野氏』として継承したのですよね。
と、すると『秦氏』が保守本流で『波多野氏』が分家。
秦義則さん家が、本家筋で、その分家筋の子孫が『日銀総裁』ですよ。
誇るべき『家姓』と私は、思います。
『秦』を説明するにあたり、『秦野』の『秦』でいいじゃありませんか。
どうでしょう。
ちなみに信州の『羽田』は、総理大臣ですよ。
うらやましい。
[86] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月18日 05時46分47秒 ) | パスワード |
>『秦』を説明するにあたり、『秦野』の『秦』でいいじゃありませんか。
あ!れれ?
関東では、誰もが知っている地名ですが・・・?
『東名秦野インター』ですが、『秦さん』って・・・どこ?
ごめんなさい。知らない人が居る事を考えませんでした。
参考として頂ければ・・・<m(__)m>。
今日は、私の興味のある『相模』であった為、思わず徹夜してしまいました。
さてと、会社・会社っと。
それでは、また。
[87] | そりちゃんさんからのコメント(2002年07月18日 19時06分52秒 ) | パスワード |
秦さん
そんなに悲観的にならないで下さい!
私なんて本姓藤原氏イトウ系大槻氏だと思っていますが、
本当にそうかどうか、わからないし。
もう、絶対ご先祖はストライクじゃないですか。
いいな〜。
最近、どうしてもしっくりこなくて、しつこくあちこちの
大槻氏を調べている状況です。
そうそう、その中で真田家について調べていたら、真田氏の前身
滋野氏は「漂白の民」といわれていたそうです。なんか呪術にも
長けていたとか。もとは国造なのですけどね。
そしてかの有名な真田幸村は実は次男ではなく、嫡子であったが
ママが身分が低い女性だったので、次男として育ったようです。
ママはもしかしたら、サンカ・・・?
だとすれば、真田家があれほど情報力に富み、戦にも強く、
影の者達もたくさん居たというのもわかりますね。
たまねこさん
ご無沙汰してます。
一服盛られた記憶があるのも、すごいですね。
昔の鉱山においては水銀との戦いは日常茶飯事のことだったようです。
掘っていくうちに、中毒とかあったのでしょうね。
たぶん、古代の製錬に携っていた人々は、そういう知識も常識として
あったのでしょうね。使いこなせていたというか。
奥州藤原氏の財力は「黄金」です。すると、やはり「製錬の技術者集団」が
裏にいたのでしょうね。それが秦氏か物部氏かはわかりませんが。
サンカですが、東北の方の言い伝えによると、彼らは
「山の人」とか「山男」「山女」とか言われていて、
出合った者の話では「背がすごく高くて、金髪」だったり、
「目の色が違う」という話が残されているようです。
ちょっとワクワクする話ですよね。
鎌足系の「三つ鱗紋」ですか〜。
いるんですね〜。でも、昔の婚姻を考えると藤原氏と結びつきが強くても
不思議じゃないですよね。将門の家も源融の家とすごい縁が深いし。
昔は母系社会で、現代とは考え方が違うからややこしいですね。
鎌足は茨城の鹿島神宮辺りの出身といわれていますが、どうなのでしょう?
千葉県旭市には鎌足の娘で大友皇子の妻であった耳面刀自(みみものとじ)
が壬申の乱の際、父のツテを頼って逃げてきたという伝説がありますが。
茨城も今回調べているうち怪しい土地だな、と思いました。
陰陽道とか関係あるし、古代から強い神宮があるし。
霊山・筑波山もあるし。
子羊さん
貫徹は体によくないですよ〜。
秦氏=波多野氏ですか、私も本で読んで、そうか〜と。
一説には秦氏の祖=弓月君は誤りだ、なんていう話もあるし。
でも、私も秦氏はもっと古代に倭に渡来してきていたのでは、
と思います。
九州に邪馬台国があった頃、秦王国があったようですし。
そうそう、中国ではローマ帝国を「大秦国」と書いたそうです。
古代自分の出身国から姓をつけるのがあたりまえだったそうで、
そうすると本来の「秦氏」の祖国はやはり・・・。
ソロモン王が四国の剣山に「契約の箱」を秘したという伝説や
東北の戸来村にイエスの墓があるという話もなんだか
真実味を帯びてきますね。
剣山といえば、安徳天皇ですね。
そう、そもそも平家は秦氏と関係がふかかったのでしょうか・・・?
白拍子好きだった清盛は「漂白の民」を操っていたのかしら?
国際貿易をしていたということは、やはり「商人」が絡みますよね。
常盤御前もサンカだったなんて説もありますし。
海に強かったことを考えると「海の民」ですよね。
う〜ん、坊主を敵に回していたことを考えると、呪術とかは
陰陽道を知る異なる輩に頼んでいたのかな?情報網もね。
それとも、清盛自身がその使い手だったりして。
当時サンカ=漂白の民は政治に影響力結構強かったのでは?
裏から支える、というより操っていたりして。
[88] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月19日 00時00分05秒 ) | パスワード |
迷える子羊さんこんばんは。
僕は大阪の豊中市に住んでいます。
家紋は木瓜紋。宗派は真言宗です。
出身は池田市。本家は京都の亀岡市です。
いずれも秦氏のゆかりのある土地ばかりなのですが、
秦と言う地名がどんどん失われています。
池田の秦という地名も「畑」に変わったりしています。
今の人はよく知らないようです。
もちろん「畑」さんも「畠」さんも「羽田」さんも「八田」さんも「波田」さんも「波多」さんも「波多野」さんも秦氏ゆかりの苗字なんでしょうけど、
みんな名前を変えてしまうのです。
藤原さんはそのままの人が多いのに、
秦は名前を変えてしまうのは変でしょう?何かにおいますね。
名前を変える理由があったのではないかと思えるくらいです。
陰陽道に関係あるのでしょうか?
陰陽師ば闇の部分で天皇家も動かしていたのだと思います。
都を遷都するのも陰陽師の進言だと思います。
奈良時代になり寺院の勢力が大きくなり政治に介入するようになり、桓武天皇は寺院や旧勢力の影響力をさけるために藤原種継とともに長岡京に遷都。
その山背国は、秦氏の土地でもあり、種継の母の実家とゆかりのある地だったようです。
その種継も暗殺され、種継に反発していた大伴氏一族が疑われ処罰されました。大伴家持も官位をはくだつされています。早良親王も関係していたとして、淡路島に流され非業の死を遂げます。
その後、桓武天皇の周辺では、母や皇后の死去、皇子が病弱など不幸が続き、陰陽師の占長岡京をすてました。
平安京への遷都を天皇に建議したのは和気清麻呂です。
清麻呂は道鏡が皇位をうかがったとき、宇佐八幡宮の神託をもたらした事でも知られています。
和気清麻呂や藤原小黒麻呂らの働きで平安遷都が行われました。
平安京の遷都の理由は、早良親王の怨霊の祟りから逃れることと、
平城京の旧仏教勢力から逃れる事だったのでしょう。
そして新しい仏教を擁護した。
真言宗と天台宗です。
和気清麻呂という人物もかなり怪しいですね。
なぜ宇佐八幡なのでしょうか?きっと秦氏繋がりでは?
遷都の裏で動く秦氏一族。呪いと陰陽道と財力と。
そして名前が消えてゆくのです。
[89] | たまねこさんからのコメント(2002年07月19日 00時43分19秒 ) | パスワード |
>茨城も今回調べているうち怪しい土地だな、と思いました。
怪しい土地ですよ。(私も18年間住んでましたから?)
千葉に鎌足村があったのですね。
http://plaza2.mbn.or.jp/~kazaha/kamatari.html
そういえば、こんなお話があります。
国祖である国常立神は、当初、エルサレムに神都を定め、地上を統治していたが、八頭八尾の大蛇や金毛九尾の霊狐に妨害され、地上は混乱してしまい、地球の東北である日本列島に押し込められてしまった。
その後、乱れきった地上では、大地震と大洪水に見舞われ、大地が泥海という無残な姿に一変しました。これを嘆いた国常立神と妻神・豊国姫は、我が身を富士山の噴火口に投じて、自己犠牲による地上の救済を成し遂げた…このあたり、かぐや姫や徐福伝説にも繋がってくるのですけれど、『古事記』や『日本書記』より以前に、日本の物語が始まっていたかもしれませんね。
大正、昭和にかけて流行した「ユダヤ=フリーメーソン謀略説」、「天皇による世界統一説」の影響なのでしょうか、
ユダヤの主神エホバは、もともとユダヤの神ではなく、モーゼの義父のケニー人種が奉じていた神で、起源をたどればシュメールのラマ神に行き付く。蛇の姿をしたこの邪神の本体は、暗黒のヨモツ神であり、この神が人類と接触する時は、報償の要求を伴う。そこからユダヤ教の交換契約的、報償要求主義が生まれた…と唱えていた人もいました。
私は、サンカの話で、さまざまな謎が解けるような気がします。渡来人は太古の昔から日本を活動の場にして、先住民と戦い、支配者になったケースも多いでしょうし、共生して混血していったということもあるでしょう。しかしながら、秦氏=新羅系渡来人=異端者という図式で、忍者や山の民と一括りにされちゃっている(笑)。裏の世界は奥深いものがありますね。裏稼業の人間は、節目節目に出てくるものですよ。フッフッフッ…
いっそのこと、国勢調査はやめにして、日本人のDNAパターン調査でもやってみたらどうかと思います。調査結果による家庭崩壊の責任の所在はさておき、面白い結果が出てくるのでは?「貴方のDNAのパターンは、むしろ、河童のミイラと似ています」という結果が届いたら、ショックだけれど…
秦さんへ
>歴史の中でもあまり有名人はいませんね。河勝くらいです。
一人、二人でも、歴史に名が残っていれば、御立派です!
[90] | さちこさんからのコメント(2002年07月19日 00時48分19秒 ) | パスワード |
秦さん
大志万さんのスレもヨロシク!
敦賀、舞鶴、福地山、綾部、薗部、亀岡、京都(太秦)、高槻、豊中、池田。
交通の要所として繋がっていると思います。
JRや古くからの国道は古くからあったものです。
秦氏つながりだと思います。
ご当地ですのでぜひヨロシク!
秦という姓はとてもありがたいことだと思います。
江戸時代の悪政(爆弾宣言2)で自分のルーツがわからない方も多いのですから。
自信を持って秦の始皇帝のハタですとおしっやてみては?
多分、「は〜?何それ?」
余計に判らなくなりますが、きっと。
いまから秦さんの投稿読み直しますね。
[91] | さちこさんからのコメント(2002年07月19日 00時52分26秒 ) | パスワード |
追伸
鎌足あやしい!
[92] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月19日 09時42分28秒 ) | パスワード |
みなさん、おはようございます。睡眠補充完璧!
秦義則さんへ
>もちろん「畑」さんも「畠」さんも「羽田」さんも「八田」さんも「波田」さんも「波多」さんも「波多野」さんも秦氏ゆかりの苗字なんでしょうけど、
>みんな名前を変えてしまうのです
『秦さん』だけじゃあ〜りませんよ!
長野県の例〜信州〜信濃〜科野〜長野です。
でも『秦さん』って『ハタさん』ですか『ハダさん』ですか
『ハダさん』の場合
「畑」さん「畠」さん恐らく違うのでは・・・?
む!?む
>鎌足あやしい!
え!?ほんとだ・・・?ありえる?『神功摂政前期』
天児屋根命〜
・・・〜中臣氏が史上に登場するのは、敏達朝あたりからとされることから、それ以前、宮廷の祭祀に関わっていたのは、『忌部氏』という見解もある。〜云々〜・・・???
でも『秦さん』かどうかは、わかりませ〜ん。でした。
???『播磨風』〜・・・『清明己曽』・・・???。
『湧泉説話』〜『アメノヒボコ』が杖を・・・???。
謎です。
[93] | そりちゃんさんからのコメント(2002年07月19日 10時59分17秒 ) | パスワード |
<和気清麻呂という人物もかなり怪しいですね。
<なぜ宇佐八幡なのでしょうか?きっと秦氏繋がりでは?
そうらしいですよ。和気氏はやはり鍛冶等に関係する一族だったようです。
「播磨国風土記」に「別部の犬」という人物が砂鉄を発見してそれを
朝廷に献上する話があり、この「別部」=「和気部」だそうです。
また、別部のうち鉱山を探す人のことを「犬」といったそうです。
とうとう「イヌ」が!
宇佐の神託の件で清麻呂と姉は流罪になりますが、流罪先も秦氏に関係
しているとか。清麻呂は河内の秦氏と縁が深かったらしいし。
清麻呂が山背の葛野に都を移すことを提唱した時、すでに秦氏との間に
了解が存在したであろうと。宇佐神職団も秦氏とつながっているし、
清麻呂は秦氏の山寺が廃寺になっていたのを復興したりしていて、
かなりその関係は親密であったように思えます。
藤原小黒麻呂の妻は秦島麻呂の娘で、島麻呂は秦下氏といい、河内国
茨田郡の秦氏です。
[94] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月19日 12時19分09秒 ) | パスワード |
るんるん「はや〜くこないかな『蕨の機(はた)祭り』」
この祭り、『からくり人形』とか『七夕』とか小さいのですが風情があって私大好きなのです。
中仙道蕨宿で日本一人口密度の高い市ですが、市自体もすごく『ちっちゃい』です。
この蕨(わらび)・・・山菜の『わらび』?
市内には、『和楽備(わらび)神社』があります。
秦義則さん
>白拍子や田楽や猿楽などの芸人、あんなに国づくりに貢献したのに、
放浪の民となるのです。
も、もしかして、『はた祭り』って・・・?
『http://users.hoops.ne.jp/richard_wave/snap_hatamatsuri.html 』
お、おそるべし・・・?
[95] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月19日 12時48分03秒 ) | パスワード |
そりちゃんさんへ
>滋野氏は「漂白の民」といわれていたそうです。なんか呪術にも
>長けていたとか。もとは国造なのですけどね。
この『滋野氏』から『海野氏』衰退してしまいました。
真田(滋野党海野氏家系)は、確実性に乏しいそうです。・・・参考まで。
遠く『秋田県矢島町』に行っています。こっちの方が本家筋かも
なぜなら、滅ぼされる過程で『落ちた』と思われます。・・・参考まで。
この『滋野氏』信濃では、民(騎馬軍団)を掌握するため、
『滋野天皇』とまで名乗った『党』です。・・・参考まで。
[96] | さちこさんからのコメント(2002年07月19日 13時04分43秒 ) | パスワード |
以前にも紹介しましたが、
http://www.asahi-net.or.jp/~ku4t-tkhm/hatanazo.htm
一部抜粋
それでは藤原氏一族の吉田氏が畑氏を名乗った訳はいったいなんだったのでしょう
それれにはまづ藤原氏の出自と地名との関わりを考えてみることにします。藤原氏の祖とされる鎌足は中臣氏の出であり、のち大和の藤原の地を賜り、以後藤原を姓としたとされるのですが、この藤原の地のある大和国高市郡波多郷の名の由来は、土佐国高市(高知)郡旙多から来ているものと考えられています。土佐国に高知坐神社があり、高知は高市のことであり、高市坐には事代主命が祀られています。大和国高市郡にある波多神社の祭神もやはり事代主命です。「大同類聚」に大和国波多神社に伝わる薬は、衣通姫命が病気の時に用いたとあるのですが、この衣通姫命は弁恭天皇皇姫で藤原之琴節郎女とも言い、この姫の住んだ地を藤原と称するようになったとのことです。旙多は波多であり畑でもあるわけです、藤原氏発祥の地はこの畑にあったのです。
畑、波多、等すべて秦です。
藤原家秦氏だったの?
たまねこさん。
国勢調査やめてDNA鑑定。大爆笑!
同和問題にとりくんでいる知人に以前、
被差別の人たちと秦氏の関連をたずねたことがあるのです。
答え。簡単にいうと秦氏というのは差別になるからだめということ。
それって秦氏が差別されてるのでは?
秦さ〜ん落ち込まないでね。
[97] | そりちゃんさんからのコメント(2002年07月19日 16時10分57秒 ) | パスワード |
子羊さんへ
なるほど、滋野氏ってそうなのですね。
しかし、天皇って何かそういう確証があったのかしら?
宇佐八幡について、少し。
宇佐は宮司を司る宇佐氏・大神(おおが)氏、禰宜(女性シャーマン)を
出す辛島氏の三氏によって運営されていて、特に宮司の宇佐氏・大神氏の
対立はすごかったようです。
宇佐氏は天三降命(あめのみくだりのみこと)を祖とし、その子
莵狭津彦命(うさつひこのみこと)が宇佐の国造となり、兄弟の
莵狭津姫命(うさつひめのみこと)は天種子命の妻になっています。
この天種子命は宇佐氏の系図では中臣氏の祖となっています。
宇佐氏の祖・天三降命=宗像三女神と思われ、この女神達は
スサノオが姉の天照大神に対して身の潔白を証明する誓約で
産まれたとされています。
長女・多紀理毘女(たぎりひめ)
次女・市寸島比女(いちきしまひめ)
三女・多岐都比女(たぎつひめ)
この宗像三女神は平清盛が崇敬した厳島神社の祭神でもあります。
偶然?
宇佐氏はもともとこの地の豪族で本来は裏山の御許山を神山とする
信仰を担っていたようです。
大神(おおが)氏は応神天皇を祀る一族で、大和の大神(おおみわ)氏と
同系かもしれないといわれています。
大神比義という人が一身八頭の鍛冶翁を退治するのに三年祈ると
誉田(応神)天皇が現れたそうです。
この氏の本拠地は大分と宮城県境にある祖母山から流れ出ている大野川沿いの
大神郷で、この祖母山麓一帯では蛇のことを「ヤアタ・ロ」と呼ぶそうです。
先の鍛冶翁は一身八頭ですよね。
何か思い出しませんか?そう、ヤマタノオロチです。
大分方面では蛇のことをトビ・トビノオ・トウベ・ナガラというそうです。
そうすると、「登美の長スネ彦」は蛇神のことでしょうか。
蛇神信仰は南方系海人族が主流だそうです。
蛇神つながりで三輪山の大物主神は蛇神です。
それを知った倭トト日百襲姫は「御諸山」に登って箸で女陰をついて
自殺してしまいます。
この「御諸山」と宇佐の「御許山」、発音が非常に似ています。
ヤマタノオロチから金属製の剣が出てくるのも、蛇神を祭る一族と
戦って勝利し、鉱山を手に入れた、という意味なのでしょうか?
そして、最後の辛島氏!名前からして怪しい。
辛=韓国を意味するのか。
代々禰宜(女性シャーマン)を出している一族で、系図では人名に勝(すぐり)が
つく人物が多いことから朝鮮系の証拠とされています。
先祖はスサノオで家伝によると
宇佐の大御神は最初大和の胆吹嶺(伊吹山)に降り、ついで紀伊(和歌山)
の名草海島、吉備(岡山・広島)の宮神島をへて、宇佐の馬城嶺(御許山)に
降り、比志方の荒城潮辺に移ってきたという。
宇佐で行われる隼人征伐をした供養で行われる放生会(動物を放して霊を
慰める)で、
香春神社で鋳造された宝鏡を納めます。香春の地は古くから銅が採れ、
製銅技術を持っていた秦氏の聖山だったようです。
そして、香春の峰の神として
辛国息長大姫大目命=神功皇后(新羅ヒボコ系)
忍骨命
豊比・命=阿加流比売(あかるひめ)
なのです!!
バリバリ新羅っぽいですよね〜。
アカルヒメは新羅の王子天の日矛(都怒我阿羅斯等)が追ってきた
女性じゃないですか、ここで一緒にお祀りされていることを
見るとなぜ神功皇后の息子・誉田別命が角賀(敦賀)の笥飯(けひ)神社で
去来紗別神(いざさのわけのみこと)=都怒我阿羅斯等と名を交換したのか
わかる気がしますね。
辛島氏は金属製錬技術を持つ一族だったようです。そう、たぶん秦氏がらみ
ではないかと。
辛島氏は「鷹」をシンボルとしていますが、秦氏も同様ではなかったでしょうか。
「鷹」であったり「烏」であったり。
古代中国では鍛冶師は鳥の扮装をしたそうです。
また、同様にネイティブアメリカンや多くの民族でシャーマンは「トリ」の
格好を模して神託を賜ります。
日本でいえば、鍛冶師の正装は一見修験者のようにもみえますよね。
「トリ」の意味、漠然とつかめたような・・・。
ところで、いま「天女の羽衣」が気になっています。
古来「蚕」は生と死を連想させるその成長過程から「復活の象徴」の
ようにとられ、祀られたそうです。そして、そこから出きる織物は
高い霊力を秘めていると信じられてきました。
物部氏やツヌガアラシトの宝の中にあった「○○ヒレ」は蚕の糸から
出来ていたのではと思います。たぶん、身に纏う羽衣のような。
それで「羽衣」=「天女」と連想してしまいました。
昔の羽衣は空を飛ぶ力もあったのかな?
そして、天女=霊力を持つシャーマンのことだったのかな。
たしかにそんな女性が一族に一人でもいれば、昔は安泰だったのかも
しれないですよね。
う〜ん、暑くて思考がまとまらないまま長く書いてしまいました。
誤字脱字&変な文章、ごめんなさい。
[98] | そりちゃんさんからのコメント(2002年07月19日 16時21分15秒 ) | パスワード |
もしも桓武天皇のママ・高野(あ、タカだ)新笠が百済出身ではなく、
本当は新羅系帰化人だったとしたら・・・。
すべて辻褄があうんだけどな〜。
皆さん、どう思われますか?
[99] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月19日 21時58分10秒 ) | パスワード |
そりちゃんさん
>しかし、天皇って何かそういう確証があったのかしら?
『http://www.h2.dion.ne.jp/~k-shin/mail_3/tree/tree_a23.htm 』
清和天皇の皇子貞保親王の孫、善淵王が滋野姓賜姓に拠るとされている・・だと思います。?
さちこさん
>播磨風
なんで『お酒』しか出ないの?
『播磨風』と『常陸風』詳しい方いらっしゃいませんか?
>そして、香春の峰の神として
>辛国息長大姫大目命=神功皇后(新羅ヒボコ系)
?ヒボコって?
>『アメノヒボコ』が杖を・・・
???
『天児屋根命』と関係あるのでしょうか?・・・?
[100] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月19日 22時51分31秒 ) | パスワード |
皆さんこんばんは。
『迷える子羊』さん僕の「秦」の発音は「ハタ」です。
ここのスレッドだんだんすごくなる。
藤原氏は秦氏だった?!なんて。これが事実ならすごいことです。
藤原氏が表にいるから、秦氏の女性を嫁にやって、
裏から藤原氏や天皇家を操っていたんだと思っていました。
和気清麻呂も秦氏に繋がっていたんですね。
663年に百済が新羅に滅ぼされましたよね。
当然この頃より日本国内でも百済系と新羅系の渡来人の対立が激化したと考えられますよね。
天皇も百済系と新羅系とがあってお互いに反目しあっていた。
蘇我氏は百済系で秦氏は新羅系。
聖徳太子を擁立して百済を排除しようとした。
この反乱は失敗しその後大化の改新へ。
そりちゃんさん、桓武天皇が新羅系なら、辻褄が合うよね。
僕もそう思います。
それと、技術を持ち諜報活動を得意とする秦氏が闇に消され、
被差別民となるのはわかるような気がします。
国家にとって危険な存在だからです。
やはりユダヤに似ているね。
今は差別されてないですよ。
それと戸来村にあるキリストの墓というのも、渡来人の墓との説もあります。
戸来とはヘブライですか?
一戸「いちのへ」二戸「にのへ」順番に八戸や九戸まであります。
戸「へ」ってなんだろうね?
奥州にいた藤原氏も秦氏だったのか?
秦氏の寺、鞍馬寺にいた義経が奥州藤原氏のもとに行くのもうなずけます。
平安遷都
北に鞍馬寺、東に伏見稲荷、西に松尾大社、そして河勝の邸宅後に御所を持ってきたところなど、秦氏の掌の上に天皇家があったなんて。
やはり桓武天皇が新羅系なら辻褄が合うのに・・・
[101] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月20日 01時30分07秒 ) | パスワード |
>それと、技術を持ち諜報活動を得意とする秦氏が闇に消され、
>被差別民となるのはわかるような気がします。
>国家にとって危険な存在だからです。
>やはりユダヤに似ているね。
・・・『秦氏』は『悪党』だったのですね・・・?(笑い)
http://www.nikkoku.net/ezine/quiz/quiz008.html
Q:「悪源太(源義平)」「悪七兵衛(平景清)」「悪左府(藤原頼長)」などの異名に「悪」の付く人たちは、いったいどんな悪いことをしたのでしょうか?
A:この「悪」は「その人が抜群の能力、気力、体力を持っていて恐るべきであること」を表す(「日国」)中世特有のことばで、今日のいわゆる道徳や法に反する「悪」ではありません。「悪党」にも同じような意味があって、「鎌倉末から室町時代前期に活発な動きを示した、荘園の反領主的な武士・荘民とその集団」(「日国」)をさしました。
[102] | たまねこさんからのコメント(2002年07月20日 01時35分16秒 ) | パスワード |
安倍氏を探していたら、ちょっと、面白いのを発見しました。
http://www3.justnet.ne.jp/~ashi/ashi/haisi4.htm#7
そりちゃんへ
>もしも桓武天皇のママ・高野(あ、タカだ)新笠が百済出身ではなく、
本当は新羅系帰化人だったとしたら・・・。
そうだったとしたら、尚さら口外しないのでは。
表に出るより、裏で取引をした方が、何かと旨みがあったのでしょう。
>そうすると、「登美の長スネ彦」は蛇神のことでしょうか。
>蛇神信仰は南方系海人族が主流だそうです。
長髄彦は、先住民である蛇神信仰の民(鉄と山の民)のリーダーだったと思うのですが。新興勢力の新羅系渡来人に敗れて、東北に逃げて、アラハバキ(蝦夷)王国を建設したと言いますが…、神武天皇も賀茂氏の先祖だというヤタガラスと同郷?
『賀茂探求』は面白いかも。
http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/index.htm
>戸「へ」ってなんだろうね?
『戸の起源』がありました。河童の「へ」じゃなかった。
http://www.hi-net.ne.jp/~ma/he2.html
[103] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月20日 02時15分36秒 ) | パスワード |
さちこさんへ
>旙多は波多であり畑でもあるわけです、
>藤原氏発祥の地はこの畑にあったのです。
神奈川の『秦野』(波多野氏)も『旙多』だそうです。
『http://www.city.hadano.kanagawa.jp/sisi/welcome/3b-4.html 』
『平安時代に書かれた「倭名鈔」には秦野の古名は「幡多」だったと記載されています』
この『倭名鈔』探してま〜す。(お時間を)
[104] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月20日 06時40分45秒 ) | パスワード |
おはようございます。今日は爽やかな天気です。(暑そうですが・・・)
『秦さん』って『新羅』???
私、以前信濃の『善光寺さん』調査した時に『前立本尊』を追いました。
『概要〜『前立本尊』を見ると『刀印』があり、同じ『一光三尊仏』には、中国河南省・竜門石窟の賓陽中洞の北壁や中国・上海博物館にある中大同元(546)年銘の石造漆金坐像・韓国・ソウルの澗松美術館にある癸未(563年頃)銘がる『一光三尊仏』がある。『扶桑略記』によれば、欽明天皇13(552)年に渡来し、推古天皇10年壬戌4月8日に仏の詫宣に依り、忽ち綸言を下し、信濃に奉る。とあり、日本にある『善光寺信仰』は、先の流転(信玄〜信長〜家康〜秀吉)によるものとされ、『前立本尊』自体も『三国伝来』としながら、天竺(インド)〜(中国)〜百済(韓国)〜本朝(日本)に流転しながら、『仏像』を経て『思想』が伝わったものとも考えられる。〜』となります。
寺の創建は皇極1年(642年)ですから、『大化の改新』の少し前になります。この前立本尊は、欽明天皇13年(552年)に百済の『聖明王』から贈られたとされ、推古10年(602年)に信濃に祀るとされています。
蘇我氏と物部氏の戦いで難波の堀江に沈められた仏像を『本田善光』が拾い出し、自ら背負って信濃に運んだとされています。
『http://www.zenkoji.or.jp/ 』
『http://www.asukanet.gr.jp/tobira/taika/taikanokaishin.htm 』など
私・・・???『秦さん』のレスを見ていて不思議に感じています。
なぜなら
>6世紀後半、日本史上最初の激戦と言われるのが仏教導入をめぐる
>物部氏 vs 上宮王家+蘇我氏連合軍の戦いです
と続き
>それで秦の始皇帝の風貌が肉体的にユダヤ人の特徴を持っていると書かれているとか
>蘇我氏の迫害から逃れてきたとか蘇我氏に流されたとか伝わっているようです。
>鞍馬寺の創建には、秦氏の影があるのは言うまでもないようです。
>広隆寺の弥勒菩薩です。かつて広隆寺の境内にあった大辟神社の祭りである牛祭りで登場するのが〜・・・
>近くには牛頭天王社もあるそうです。
>なんと朝鮮に牛頭山(別名:伽耶山)というところがあるそうです。
>牛頭を韓国流に発音すると牛=ソ、頭=モリ、でスサノオが新羅でいったという
>ソシモリ(曾尸茂梨)に通ずるという説があります。
>八幡太郎義家の兄弟の名を新羅三郎義光と言うそうですね。〜(頼朝と善光寺)
>新羅三郎は甲斐源氏、武田氏の先祖です。〜(甲斐善光寺)
とレスが『牛に引かれて善光寺参り』を連想するのです。
また、
>大秦国〜ローマ
>アフガニスタンのジャララバード
>陰陽師ば闇の部分で天皇家も動かしていたのだと思います。
で私、昨日、天竺まで行ってみたのですが、帰り道
天竺〜カシミールを通って〜ガンダーラ〜大月氏国???
そりちゃんさんこんな所に『大月さん』が・・・?
〜大乗仏教に乗り〜敦煌〜後漢〜東晋〜百済〜日本に帰って来ました。
こ、これって『シルクロード』?『仏教』の道ではないの・・・?
その途中『前秦』もありました。『高句麗』に続いている様でした。
しかし、河南省(少林寺など)の竜門石窟で休憩していると
『開封・北宗の都「清明上河図」の町』?
『http://www.china.co.jp/cnta/henan/ 』
百済の『聖明王』に続き、ここでは「清明上河図」です。
なぜか、『新羅』より『百済』に『秦さん』を感じてしまうのですが・・・?
む!?むむ
やはり、『新羅』に行ってみないと・・・?
〔玄奘三蔵研究〕
[105] | さちこさんからのコメント(2002年07月20日 23時45分02秒 ) | パスワード |
わ〜!
すごいですね。
平熱で秦氏専門と自負してきた私も脱帽です。(他のこと知らないと言う意味)
本当、私の知識など些細なものと実感しました。
平熱では秦熱は少数派と思ってまして肩身が狭かったのですが、
今は毎日パソコンに向うのが楽しみです。
私も実は桓武天皇は秦氏(新羅)なのではと考えてます。
なにしろ、服部家は桓武平氏なのですから。
秦氏の協力なくては平安遷都は考えられないと思うのです。
これを考えるには壬申の乱が絡んでくるのですが、
これを調べるとまたまた??・・です。
桓武天皇のママは百済系とされてますが本当に?
秦氏も百済系、アヤハトリ、クレハトリも百済関係。
伎楽
(秦河勝の子孫がミマシより学んだものその後、多氏により宮廷雅楽へ、
東儀家などには四天王寺へ受け継がれた。)
これも百済からとされているのですが絶対変です。
歴史の真実が百済系によって書き変えられているかもです。
迷える子羊さん
壮大な旅をなさったのですね。
うらやまし〜。
秦氏に百済を感じるのはあなた様の百済系のお血筋ででございます。(笑)
秦さん秦氏やっぱり差別されているって。
先日誰ぞやが日本人は単一民族といって問題になりました。
その批判記事として当然のことながら、
アイヌ、琉球、現在多くの在日外国人の事などがあげられました。
それと一緒に帰化人の秦氏のことも書いて書いてありましたよ。
その記事は古代日本が色々な渡来文化によって形成されたものという、
筆者の結論なので納得するところではありますが。
秦氏等の渡来民族があるので日本人は単一民族ではないそうです。
そりゃないよ〜。
アイヌ、琉球等は近年まで独自の文化を保ってきたけど。
秦氏は日本人と同化してるはずなのに。
でも面白く感じました。
[106] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月21日 15時53分37秒 ) | パスワード |
さちこさんへ
>秦氏に百済を感じるのはあなた様の百済系のお血筋ででございます。(笑)
あ!はは・・・
そうかも?てっきり『黒曜石』(“矢じり”の石)を日本全国に販売して
『http://kekkeyui.hoops.livedoor.com/hpbasu/ban.html 』(う、ふふ)
『先端技術を持つ秦氏』をこっそり伺って『技術を盗んだ』(産業スパイ)の
一族かと思っていました。(爆)
>播磨風
どうやら、そりちゃんさんの
>「播磨国風土記」に「別部の犬」という・・・の様です。
『http://web.pref.hyogo.jp/nakaharima/donnatoko/konnatoko/fudoki/index.html 』
[107] | 秦義則さんからのコメント(2002年07月21日 19時15分43秒 ) | パスワード |
今日は息子小6のサッカーの試合に、
京都府八幡市にいって来ました。
岩清水八幡宮がある男山のふもとでのサッカーでした。
この頃行く先々で秦氏ゆかりの地名を探してしまいます。
やはり秦氏は新羅系のほうが納得できるのですがね。
百済は仏教国ですが、
新羅の方が西域の文化が多く流れています。
それと、DNA鑑定も必要かもしれませんが、
その前にお尻のアザ「蒙古斑」を調べてみれば、大陸のどの地域からの血が
より濃く流れているかわかるのでは?
新羅の人には蒙古班があったとききますが、
百済や隋の人にもあったのかな?
[108] | さちこさんからのコメント(2002年07月22日 00時57分32秒 ) | パスワード |
新羅の人は蒙古斑があったのですか?
ちなにに私はなかったそうですが。
新羅系じゃないの〜私。??
迷える子羊さんに蒙古斑があったりして(笑)
ユダヤ人はどうなんでしょうね。
ハンガリー人に蒙古斑がある話は聞いたことがありますが。
血液型も面白いですよね。
明子さん=O型
隈さん=A型
秦さん=B型
あたってる?
[109] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月22日 03時17分27秒 ) | パスワード |
私のは当たってますよ。
[110] | 『迷える子羊』さんからのコメント(2002年07月22日 09時20分12秒 ) | パスワード |
皆さん、おはようございます。
>その前にお尻のアザ「蒙古斑」を調べてみれば、大陸のどの地域からの血が
>より濃く流れているかわかるのでは?
そうなんですか?
残念!わたしには、ありませんでした。(笑い)
でも、親戚筋には、あったかも・・・?(再笑)
>蒙古斑
旧ソ連領の『タジキスタン』って私達にそっくりな民族があります。
〜顔が同じ〜
それに『おおいなる天然?』・・・?(確かこんな名前だった様な・・・?)
日本の唱歌が、『民謡』にありました。
さちこさん
B型?
そりちゃんさん
A型?
たまねこさん
A型?
私〜『金型』〜「さぶ!」〜まずい!会社でしか通用しない!?
[111] | 服部 明子さんからのコメント(2002年07月22日 09時55分02秒 ) | パスワード |
<2>を立てましたので
そちらをご利用下さい。
[112] | 溝口 玄さんからのコメント(2003年06月22日 20時35分35秒 ) | パスワード |
このサイト楽しみにしてますが、最近はなにもないのですか
小生今壬申の乱と古事記について勉強している、関ヶ原の在住の
ものです。なにかありましたら教えて下さい。
[113] | さちこさんからのコメント(2003年06月22日 22時12分16秒 ) | パスワード |
あれ?
もしかして、くみんさん?
ちがったらごめんなさい。
カン違いです。
でも何処かでお会いした気がしたのですが。。??
今、秦熱3がありますよ!
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100362_92.html
秦熱2はこちら。
http://hikoshima.com/bbs/heike_slink/100337_95.html
よろしくお願いします。
私も壬申の乱勉強中です。
[114] | さちこさんからのコメント(2003年06月23日 21時17分29秒 ) | パスワード |
溝口さん、はじめまして。
メールアドレスを少し記憶していて気になる方があったのです。
私の間違いでした(反省)
天下分け目の関ヶ原、
壬申の乱の舞台にもなり、
もっと昔には、
伊吹山、日本武尊の話もあります。
熱田神宮と草薙の剣。
溝口さん、
こちらこそよろしくお願いします。
投稿お待ちしてます。
[115] | 初さんからのコメント(2003年10月26日 18時02分11秒 ) | パスワード |
勝る 劣る
蘇我東漢 VS 山背秦 644
藤原(鎌足)VS 蘇我東漢 645
百済 VS 新羅 国内情勢
新羅 VS 百済 白村
唐 VS 新羅 その後
天武 VS 天智 唐によしみ
不比等(藤原) 秦氏が神社建立 書記
光明 景教か?
桓武 秦氏が都をつくる
[116] | 初さんからのコメント(2003年10月26日 18時12分29秒 ) | パスワード |
こんな面白い掲示板があったなんて・・ でも更新されてないんですね。
秦=景教の仮説で、
記紀成立が 天皇+景教+秦 の守護目的でみると、
秦川勝を追い出した、蘇我氏だけが絶対悪であり、
藤原は、1・その蘇我をやっつけた 2・ふひとの頃記紀ができた 3・その頃神社が秦氏により建立され 4・娘の光明皇后も景教
という点で評価が高く、百済派か新羅派はもはやどうでもいいようだ。
藤原と秦は、ふひとの頃からずっと協調的である。
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