新風会(アーツ) 近藤栄次朗 小川もこ
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 投稿番号:100197 投稿日:2001年11月05日 21時14分17秒  パスワード
 お名前:いつも通りすがり
よみがえる中世瀬戸内の港町「草戸千軒」
キーワード:備陽六郡志
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

広島県福山市を検索中見つけました。
「草戸千軒」/鈴木康之氏 広島県立歴史博物館学芸員
            (財団法人広島県埋蔵文化財調査センターに派遣中)
http://www.mars.dti.ne.jp/~suzuki-y/index.html
> 広島県福山市を流れる芦田川の河口に、鎌倉時代から室町時代にかけて存在した、
> 幻の中世集落の名前です。

> まず、
> 明徳2年(1391)の『西大寺諸国末寺帳』には「草出(クサイツ)常福寺」
> という記載があります。
> 常福寺というのは、
> 現在も遺跡のすぐ西にある明王院という寺院の古い名前ですから、
> 14世紀末にこのあたりが「草出」(クサイヅと読んだのでしょう)
> と呼ばれていたことがわかります。

> 『太平記』には、
> 貞和5年(1349)備後に在国した足利直冬が、鞆→「草津」→尾道
> と移動したことが記されており、
> この「草津」(クサヅと読んだのでしょう)が遺跡周辺を指すのではないか
> と考えられます。

> また、観応2年(1351)には
> 上杉朝定が「草井地」(クサイチあるいはクサイヂと読むのでしょうか)
> 高師泰・師夏を追撃したという記述があり、
> これも草戸の古名かと思われます。

> さらに、文明17年(1485)の熊野那智大社の檀那注文には
> 「草出津」と記されています。
> 一方で、文明3年(1471)の西国寺文書には「草土」の名が見えるほか、
> 応仁・文明の乱に際しては、「草土」に西軍方の城があったと記されており、
> この頃から「草土」(クサド)と呼ばれるようになったことがわかります。

> さらに、天正19年(1591)の小早川隆景の書状には「草戸」と記述されており、
> これ以降近世にかけては「草戸」と呼ばれるようになったようです。

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年11月05日 23時52分26秒 ) パスワード
  

「洪水で消えた集落」
ロマンがありますね。
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