[1] | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月30日 10時43分11秒 ) | パスワード |
上記URLは「いつも通りすがりさん」からご紹介頂いた物です。
長田氏の元のお話:隈さんの書き込みより
高槻藩主は、江戸初期を除いて代々永井家が務めました。
この永井家、元は「長田」姓で、本姓平氏。
・・・そう、先祖はあの長田忠致。源頼朝の父、義朝をお風呂場で不意打ちにした人です。
長田家は忠致が頼朝に処刑された後、弟が後を継いだそうです。
後世、子孫が徳川家に仕えることになり、
「ウチの先祖を家来の先祖が殺した、というのはマズいから」と、
改姓させられたのだとか。
以前服部さんにご紹介して頂いた家紋のHPに、長田氏の子孫の事が書かれていました
(戦国武将の名字・永井氏の項)。
徳川家康の父・広忠に仕えた後、
家康に仕えて嫡男信康の近習を務めたり、
長久手の戦いで秀吉方の将・池田恒興を討ちとり、軍功を挙げたりと、
ずいぶん活躍したようです。
関が原の戦いの後も家康の片腕として重用され、出世したのです。
家康に「そちの先祖は・・・」と、当てこすりの一つも言われたかも知れませんが、かなり気に入られていたようだし、少なくとも戦国〜江戸時代には「汚名返上」できていた様ですね。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月30日 10時49分18秒 ) | パスワード |
「比企一族」をお書きの林原さまから教えて頂いた事:
<血筋によって召し抱え>というのが江戸時代初めに行われたのですねえ。
長田氏も平氏の一族ですから
全国で召し抱えという栄誉に預かった長田氏がいらっしゃったかも知れませんね。
[3] | 隈さんからのコメント(2001年11月02日 16時06分24秒 ) | パスワード |
服部さん、すみません。新たに長田氏のスレッドを立ててくださったのですね。
私が書き込みするとだんだん話が逸れていくものだから・・・(汗)
長田氏にとって、藤沢も所縁の地だったのですね。
関東にいた時代のことは全く知りませんでした。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2001年11月03日 00時25分38秒 ) | パスワード |
>私が書き込みするとだんだん話が逸れていくものだから・・・(汗)
いえいえ、どう致しまして。
お話が膨らんで新しい話題ということでスレッドを立てさせて頂きました。
埋もれては惜しいので。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2001年11月04日 07時14分07秒 ) | パスワード |
日本から送られて来たパンフレットを見てたら
シンポジウムの出席者のお1人に「長田豊臣」立命館総長・大学長さんがいらっしゃいました。
またまた立派なお名前で・・・とよおみ氏・・・とお読みするのでしょうが。
[6] | 隈さんからのコメント(2001年11月05日 11時21分06秒 ) | パスワード |
学長さんらしい、威厳あるお名前ですね。
名前負けしなくて良かったですね〜なんて要らぬお節介かな?
[7] | さちこさんからのコメント(2001年11月06日 13時02分44秒 ) | パスワード |
土曜日友達と紅葉でも見に行こうかと約束してたのですが、
あいにくの雨のため愛知県の知多半島へ魚を食べに行くことに。
ずっと海岸を走っていたら友人が、
「あっ、野間の大坊。この前よってったね。」と。
「なんだったけ?」と私。
「ほら頼朝のお父さんが風呂場で殺されたとこ。」
「・・・・。」
そういえば4、5年前に友人と行ったんですよね。
その頃はあまり歴史に興味なかったのでなんとなくみてきたというかんじでしたが。
でそこで服部家ホンヤさんにお聞きした話を思い出した。
美濃にいた義朝が知多の野間に逃げるために
船底にかくれてたどり着いたのが弥富の荷之上。
ホンヤさんのすぐ近くなんですよね。
偶然とはいえなんか・・・。
[8] | 隈さんからのコメント(2001年11月07日 09時55分22秒 ) | パスワード |
先週土曜日のことなのですか?すごいタイミングですね!
特に最近、こちらで書く話が引き金になっているみたいに、いろんな事が繋がって起きるみたい。
今、私の母方の先祖の事を調べているのですが、先祖の居た広島県向島にも、結構「永井」さん(元・長田さん)がいらっしゃるみたいです。
彼らも足利義昭公について来たのかな?
[9] | さちこさんからのコメント(2001年11月08日 13時49分16秒 ) | パスワード |
先週の土曜日3日のことです。
本当に驚きました。
弥富町のパンフレットがあったのでそのまま下に書きます。
町指定文化財 史跡 柴ヶ森
平治元年(1159年)12月27日の待賢門での戦い(平治の乱)
に敗れた源義朝は美濃の青墓宿へ都落ちしたが、平家の追討が厳しいため、
知多の野間へ逃げることになった。
しかし、途中の国府津に平家が関を設けて通行人を調べていたので、
家臣の鷲巣玄光が義朝を船底にかくし、柴木を積み重ねて杭瀬川を船で下り、
この地(市江嶋)まで来てもう安心だと船荷を上げたところから荷之上村と改められ
柴木を積み上げたので柴ヶ森と呼ばれた。
荷之上村は江戸時代服部家が庄屋をしていて、
この史跡と服部家ホンヤさんとはホントにすぐ近くなんですよ。
もちろん当時はまだ服部家はここにいなっかたけど。
[10] | 隈さんからのコメント(2001年11月10日 11時46分44秒 ) | パスワード |
自分でも知らないうちにご先祖様所縁の地を訪れていたって事、結構あるんですね・・・。
私も、昔名古屋に住んでいたのは何かの縁かも知れない、と思っているんですが、野間や弥富の近くまでは行ったことがあるんですよね。
当時勤めていた会社の海水浴ツアーで内海へ泊まりに言ったり、研修で津島の施設を利用したり(周りを田んぼに囲まれた、田舎だったような気がする)。
私も当時は自分の先祖のことなど知りませんでしたから(祖母の実家が「服部」であることすら知らなかった)、その場所に大した印象も無く通り過ぎてしまいましたが。
偶然かなあ?それにしても不思議ですよね・・・。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2001年11月10日 12時01分32秒 ) | パスワード |
あれ?
隈さんの書き込み読んでたら
秋篠宮妃殿下の母方って
杉原氏だか杉崎氏と
服部家の組み合わせでしたよね。
紀子さんのお母さまのご実家のことですが。
[12] | 隈さんからのコメント(2001年11月12日 10時18分14秒 ) | パスワード |
>秋篠宮妃殿下の母方って
>杉原氏だか杉崎氏と
>服部家の組み合わせでしたよね。
母方のお祖父様は杉本さんとおっしゃったそうです。
98年に亡くなられたそうですが。
http://www.sankei.co.jp/databox/paper/9801/20/paper/today/dead/20dea005.htm
[13] | 隈さんからのコメント(2001年11月22日 10時28分06秒 ) | パスワード |
こんなHPを発見しました。
「知多のむかしばなし」より
http://www.chitanet.or.jp/users/kawasemi/mukasi-sengoku.html
やっぱり地元では源義朝に対する同情の声が強かったのでしょうか。
この中の「勝崎」姓についての話を読んで、大学の先輩に「勝崎」さんがいたことを思い出しました。
確か知多出身だったと思う。またも知人のご先祖様を発見!?
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