[1] | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月14日 23時20分01秒 ) | パスワード |
千葉さん
お久し振りでございます。
新しいURLでは私のロスのマシンからは行けないのですが
このハワイのマシンでは行けました。
ロスに戻ったら調べてみますね。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月15日 03時37分21秒 ) | パスワード |
「彦熱」の「まいふぇばりっとな大河ドラマ その3」で
藤沢の紹介を頂いたところ
葛原親王ゆかりの地がありました:
これでは葛原親王は第3皇子になっていますね。
「御所見」という名は菖蒲沢字大上にあった塚から始まります。
言い伝えによれば桓武天皇第三皇子、葛原親王より出た坂東平氏の一つ長田氏が、
平安時代、葛原を領地として屋敷を構え、ここを村の人は「垂木御所」
(たるきのごしょ)とよんだそうです。
小高い塚の上からながめられたので、
いつしかこの塚は「御所見塚」といわれるようになりました。
葛原・菖蒲沢・用田・打戻・宮原・獺郷をこの塚にちなんで「御所見地区」として、
その名をとどめています。
皇子大神と滝不動尊にある鰐口
滝不動
滝不動は、もと明滝山長盛寺の廃跡にあるお堂で皇国地誌には、「寛永元年(1624年)地頭長田権三郎重正 感ずるところあって不動像を滝の辺に得て寺を建て長盛寺とし……その像を安置して長田家の祈願所とした」とあります。また「風土記稿」には「正保三年(1646年)に亡くなられた僧祐栄のよって長盛寺は開山され、その本尊は大日如来であるとし慶安五年(1652年)村民与右衛門は夢のお告げがあって境内の滝のそばから不動像をみつけた」とあります。社殿前には鰐口(亨保十一年銘)がかかっています。明治維新、大戦中の軍需供出などで残っているものは少なく市内では3〜4の例しかない貴重なものです。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月15日 03時39分07秒 ) | パスワード |
上記URL
http://www.cityfujisawa.ne.jp/kankou/ht_haik/index.htm
[4] | 源三さんからのコメント(2001年12月11日 06時38分13秒 ) | パスワード |
★江藤新平(1834〜74)本名江藤新平胤雄、桓武平氏九州(小城)千葉宗家流一門
佐賀藩出身。異彩の政治家である。彼は制度改革の急先鋒として明治政府
にその名を轟かせた。近代司法制度の生みの親であり、人権擁護の姿勢は
一貫して変わらない強力な民主主義論者であった。その政治思想は常に
「人民のために」である。
法治主義国家を目指した彼は法律の面でその才能を遺憾無く発揮し、次
々に改革を断行している。江藤は大久保ら外遊組、すなわち岩倉使節団
(1871年出発)の洋行中に人員補充の形で国家最高職の参議に昇進した。
明治5年(1872)には司法卿に就任し、司法省の顔として幅広い活躍をした。
江藤は徹底的に汚職を弾圧した。いくつかの事件でその司法力を行使して
いる。また、その弾圧は主に長州藩閥に向けられていたといっていい。藩閥
を徹底的に排除したかったのであるが、特にその矛先は長州人に向けられ
ていたのである。長州人の井上馨(1835〜1915)や、山県有朋(1838〜1922)
はこうした江藤の行動に煮え湯を飲まされた。
また、江藤は希代の弁舌家でもあった。同郷の大隈重信(1838〜1922)も、
その論舌のすさまじさを言い、彼の言葉の前には誰もが負かされてしまうとい
うような意味のことを言っている。
さて、そういう江藤の性格であるが、彼は自己の正義を絶対のものであると
した。そして、理屈の通らぬ存在は馬鹿であるとし、そういう者は人間では
ない、という奇抜な意識を持っていたという。そうした自己の感覚に固執する
性格は他人の恨みを買い、破滅の悲劇に向かわせる。
江藤新平は政界を去った後、板垣退助(1832〜1911)らとともに自由民権
運動の先鋒をきり、在野からの政府改革を企てていたが、明治7年(1874)に
佐賀へ不平士族の鎮圧に向かう。結局彼ら士族に島義勇(1822〜1874)とと
もに佐賀の総大将に祭り上げられ、政府軍に破れた。逃亡したがすぐに捕
まり、佐賀裁判所で死罪判決を受け斬刑に処された。享年41歳。
江藤新平における国家建設の目指すところは上記したように頑丈な法治国
家であり、民主主義国家である。しかし、国家においてはその改革と思想が
奇抜すぎ、また急進的であり過ぎた。いかにその施策が優れていようとも、
時代がそれを許さない事は多々ある。彼の不幸はそうした趨勢を読むところ
が希薄であった事であろうか。
しかしそうした彼はやはり偉大である。西郷とはまた違う意味で「道」を目指
していた事に違いはない。汚職の弾圧にしろ、藩閥への抗戦意識にしろ、そ
れは全てが実際的であり、ことごとく現実主義である。こうした政務家の存在
は貴重であった。彼だからこそ司法制度や法体制構築の産みの親の栄誉を
担う事ができる。彼の死によって法制度の完成、憲法準備が遅れてしまった
事も確かなのであった。
歴史研究家の毛利敏彦氏は、彼の時代において西郷や桂などとは違って
、江藤新平には代わりを務める人物はいないと提言している。いささか極論
気味ではあるが、しかしながらそうした江藤の位置を見る事は、明治維新の
ある一側面を垣間見る上でとても重要なことである。
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●司馬遼太郎著 『歳月』講談社文庫 895円
主人公は江藤新平です。肥前佐賀藩の出身者で、維新後、法律の整備に尽力します。明治政府の法律関係の基礎はこの人が築いたと言っても過言ではないでしょう。司法卿にもなっています。この人は佐賀藩の出身ということもあり、薩長藩閥体勢に不満を持っていた一人です。藩閥について少しだけ説明すると、幕末、最も活躍したのは薩摩・長州の二藩で、それに次いで土佐があり、肥前佐賀は幕末期はあまり活躍せず、明治になってから活躍することになります。江藤の他に佐賀藩で明治維新後に活躍した人には、立憲改進党の党首になったことや早稲田を開設したことでも有名な大隈重信や、西郷隆盛もその人格を敬愛していた外交家の副島種臣などの人物がいます。藩閥の話に戻しますと、維新後は薩・長の出身者が最も権勢をふるい、土佐藩や佐賀藩出身者はあくまでその下といった雰囲気がありました。薩長土肥と言っても 薩長>土>肥 という感じだったようです。
で、江藤の話になりますが、江藤はそのような薩長専制の政府に対して不満が募るわけです。自分のほうが優秀なのになぜ薩長出身というだけで偉そうにしてるのか、と(なんか俗っぽい言い方になってしまいましたが)。江藤は現状の明治政府を転覆してやろうと考えるわけですね。第二の維新を起こしてやろうといろいろ考えるわけです。そのように思っているところに世に有名な「征韓論争」というやつが起こるわけですね。征韓論争については以下で詳しく述べることにして、江藤は結局この征韓論争に敗れ西郷や板垣退助なんかといっしょに政府を辞職するわけです。明治六年の政変(1873)というやつです。
その後、佐賀に戻った江藤は政府に対して反乱を起こすわけです。佐賀の乱(1874)ですね。まあ、江藤にしてみれば、あれよあれよという間に周囲に担ぎ出されてしまった、といった感じだったようですが。結局、大久保利通率いる政府軍によって鎮圧されてしまいます。江藤はその後、しばらく逃亡生活を続けるわけです。西郷の元を訪れたり四国へ逃れたり、といろいろやるのですが結局捕らえられてしまいます。そして大久保の元、処刑されてしまいます。すごかったのがその処刑法で、梟首(さらし首)という近代法においては考えられないほどの残虐な刑を言い渡されるわけです。これを残虐性からは程遠いところにいる大久保がやってのけたのだから驚きです。大久保がなぜこのような決断を踏み切ったかについては以下に私の意見を書こうと思います。
この小説で描かれているのは、幕末の本当に終わり頃から佐賀の乱が失敗し江藤が処刑されるまでです。
§江藤新平という人物
江藤新平とはどのような人物だったのか、それをこの場で少し説明することにします。彼を言い表すとするならば、「自信家」という一言につきるのでないでしょうか。彼は徹底した論理的思考をもとに法整備にあたり、明治政府の土台を築こうとしました。そして事実土台を築いたと断言してもいいでしょう。彼の自信は能力を伴ったものです。それだけの自信家であり、有能な創造者(制度の)であった彼からしてみれば、幕末の功績をたてにえばりちらしていた薩長の連中には腹にすえかねるものがあったのだろうと思います。実際、当時の薩長出身者の中には商人と癒着して私腹をこやしていた者も多かったわけです。大きなものに山城屋疑獄事件というものがあり、これは長州の山県有朋が山城屋和助に不当に融資していたことが明るみにでた事件です。実際、これを摘発するのは江藤なのですが。
しかし、特筆すべきは江藤が最も憎んでいた相手は、当時の政府で最も私欲のなかった大久保利通であることです。実際に汚職をしていた山県や井上馨(長)、黒田清隆(薩)ではなく大久保を最も憎んでいたというのはなぜでしょうか? (もっとも、山県や井上などに対しても相当憎んでいたとは思いますが) これは大久保に対する一般的な偏見と通じるものがある、と私は思います。当初の明治政府は大久保政府といわれるくらい、大久保の力が大きいものでした。ゆえに、藩閥の親玉と思われていたのも無理はありません。ただ、大久保自身はまったく私欲のない人で、彼は確固たる体制を築きたかっただけなのです。そうなんです。根っこにあるものは大久保も江藤も同じなんですね。そして、大久保のほうは江藤と自分が似ていることに気付いていたようなのですね。江藤のほうは気付いていなかったようなのですが。大久保については後述します。
さて、江藤ですが、頭脳明晰である彼がなぜ政府のTOPにたつことができなかったか? 肥前佐賀出身ということもあるのでしょうが、それについては同藩出身の大隈重信は大変うまくやります。大久保の下につき自分の力も着々のばしていきます(彼は後の明治十四年の政変で政府をおわれ、その後は政党活動することになるのですが)。だから佐賀出身ということはあまり問題ではないようです。問題はどこにあったのか? それは江藤個人の性格とでもいいましょうか、彼には政治的な配慮というものがまったく欠けていたのです。政治や権力といったものは Power Balance といったものが大変重要になってきます。権力なるものは相手とのバランスをとることで成り立っているわけで、だから細心の配慮がなされなければいけないわけです。しかるに、江藤はこのような配慮がまったく欠けていた、これは政治家としては致命的です。つまり、彼は制度創設には多大なる能力を有していたにもかかわらず、政治家としては子供っぽすぎたということが言えるでしょう。この二面性が江藤を悲劇へと導いた、と言っていいと思います。
§征韓論争
征韓論争を説明するには、当時の政府がどういう状態だったのかを説明する必要があります。明治政府設立早々、政府の首脳達は欧米へ一大視察へ赴きます(岩倉遣外使節 1871-73、cf. 大政奉還は1867)。これはいわゆる「不平等条約」を解消するために、海外の情勢を政府の根幹に居座る人達自ら見て回るといった趣旨で行われたものです。右大臣岩倉具視を全権大使とし、副使としては大久保・木戸孝允・伊藤博文・山口尚芳という豪華な顔ぶれでした。岩倉は公卿であるにもかかわらず維新成立に動き回った人です。大久保・木戸は維新三傑と言われているうちの二人ですね(もう一人は西郷)。伊藤は初代総理大臣ということで有名です。つまり、政府の首脳陣が政府成立間もない時期に自国を二・三年留守にしたわけですね。今思うとぞっとするようなことですが、当時、条約改正という問題はそれぐらい差し迫った問題だったのです。
で、日本本国には留守政府と呼ばれるものができます。この留守政府の主なメンツは、西郷・板垣・大隈・副島です。この留守政府の人達が主として征韓論なるものを主導していくことになるわけです。ただ、大隈は大久保にべったりであり、大久保が残した目付という立場にあったので征韓派ではありません。征韓論とは、簡単に言えば韓国を属国化してロシアからの脅威に備える、という考え方です。この征韓派の人達は、首脳陣が欧米へ視察に行っていることをいいことに、征韓論を押し進めていきます。で、問題は欧米から大久保や木戸が帰ってきたときに表面化します。大久保や木戸は「征韓論を実行にうつすほど国力は充実していない、まずは国力の充実こそが急務である」といった立場をとります。こちら側の考えをする人達を征韓派に対して内治派といいます。
当然の帰結として、征韓派と内治派の対立が起こるわけです。で、敗れた征韓派の連中は政府を去って下野するわけです。これが前述した明治六年の政変ですね。明治六年の政変で下野したのは西郷・板垣・江藤・副島・後藤象二郎の5人です。
以上が征韓論争の大まかな流れです(って、本当におおまかな説明ですが)。
§大久保利通との確執
最後に、江藤の政敵とでも呼べる存在の大久保について私なりの考えを述べます。政敵と言っても、大久保と江藤の間には大人と子供くらいの力の差があったので、多少語弊がありますが。
この小説で司馬氏が言っていることでもありますが、大久保も江藤も制度を創設する能力、すなわち創造者としての能力があったわけです。imagination ではなく creativity ですね。それ以外の者、伊藤、山県、井上、黒田などは実務能力は優れていたが、創造性はなかったと言っています。そういう点で、二人は非常に似ているのです。大久保は内務省を基盤に、江藤は司法省を基盤に、体制を築いていこうとします(事実大久保は内務省を基盤に政府の礎を築き上げました)。このように似たような志を持っていた彼等がなぜ対立したのでしょうか? もちろん、藩閥というものも大きな要素となっているでしょうが、二人の mental な部分が非常に大きな要素となっているのではないかと私は思います。
江藤は大久保を認めません。大久保の類い希なる創造性や卓抜した政治力を認めず、「大久保が権力を握るのは、私腹を肥やさんがため」と曲解しています。実際、大久保は公私混同するようなこともなく、純粋に日本を近代国家として成立させるために尽力した人物です。大久保は近代国家を成立させる過程として専制政治を行ったまでです。それを江藤は上記のように曲解しているわけです。江藤の大久保観がこのように歪められてしまったのは、やはり藩閥による、と考えてもいいと思います。すなわち肥前佐賀藩出身ということからくる江藤の complex が、大久保に対する見方を歪めてしまったと、そう思います。「自分は有能である」という overconfidence と「自分は肥前佐賀藩出身である」という complex 、その二つの mentality が江藤自身の大久保観を歪めてしまったと、そう判断するのです。
一方、大久保のほうですが、どうしてあそこまで江藤を憎悪したのか、私にはよくわかりません。私は大久保のイメージとして「公平無私」「沈着冷静」といったものを抱いていたのですが、そのイメージと江藤に対して向けられた残虐性がどうしてもかみ合わないのです。大久保は、佐賀の乱にあたり、自分に全ての権限を与えるよう上奏しています。そして、実際にすべての権限を得て鎮圧に臨みます。大久保の江藤に対する容赦のなさが最も端的に現れているのが前述した処刑方法です。すなわち梟首刑ですね。この梟首刑というやつは、近代刑法では野蛮であるとして採用されなかった刑で、江藤自身、政府にいた頃に刑法からこの刑罰を除外しているのです。それにもかかわらず、大久保はこの梟首刑というやつを引っぱり出してきて、江藤に科すのです。つまり、大久保はわざわざ江藤に対して最も屈辱的な刑罰を科したのです。このことは当時の政治的な状況などを考えてもわからないと思います。確かに、見せしめとしての効果はあると思いますが、わざわざ梟首刑にする必要はないわけです。日本を近代国家として確立させようとしている大久保にとって、近代的な法の枠外にある刑罰を取り入れることは明らかに「後退」を意味する行為です。そこまでしてなぜ大久保は江藤を憎悪したか? 私は大久保の mentality にその原因があるのではないかと思います。同じ創造力という能力を持った江藤に対して同種族嫌悪というやつを抱いていたのではないかと、そう思うのです。憶測の域を出ませんが、とりあえず私の意見です。
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[5] | 服部 明子さんからのコメント(2001年12月11日 12時00分57秒 ) | パスワード |
江藤新平の独立したスレッドをお立てになれば
もっと多くの人に読んで頂けると思いますが。
私は個人的には大久保という人物は好きじゃないです。
多分「西郷さん」と対立したからだと思いますけど。
江藤新平は梟首刑だったのですか。
時は明治というのに。。。
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