[1] | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月08日 21時24分17秒 ) | パスワード |
「徳政令」についてちょっと調べて来ました:
債権・債務契約の破棄を命ずる法令。
土地の返還・貸借関係の破棄を命じるもの。
永仁5年(1297年)
御家人救済の為鎌倉幕府が発令した永仁徳政令が最初。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月08日 21時29分20秒 ) | パスワード |
中世の「徳政令」について教えて頂きました:
中世日本の徳政令はですねえ、
当時の事情を詳しく知らないと誤解しちゃうんですよ。
徳政令はいわゆる借金棒引き例とは違うのね(徳川時代の「棄捐令」)。
あの時代特有のものなんです。
まず考慮しなきゃなんないのが、当時の土地に対する考え。
中世は土地がたとえ売却されても、開発者の権利は持続してるんだ、
という考えがあったんです。
ちょっと宗教じみてますね。
だから、本来持っているべき人が持っていない、
だったら本来権利を持ってる人に返してやろう。
これが中世の徳政令。
もちろん、売却してから20年経過すると、
もう権利は無くなるという考えもありましたから、
それほど無理な法令でもないのね。
あと、この当時は高利貸しが多かったことにもよる。
当時の高利は、月に5−6%くらいの金利だったんです。
ですから、年利50−60%になっちゃうのね、金借りると。
ただ、もちろん、高利貸しが権力と癒着して腐敗してた、なんて短絡しちゃあいけない。
その代わり、元金の2倍以上の利子をかけることは禁止されてましたし。
この当時は商業が莫大な利潤をあげた時代なんです。
たとえば、
日本から中国にモノを売ると、
だいたい数倍、時によっちゃ20倍もの利潤(原価の、だよ?)をあげたんですよ。
それは国内でも同じだったのね。
たとえば、今の埼玉県北部から鎌倉までモノ持ってくると、
だいたい輸送費だけで、原価の60%ぐらいになったんです(金沢文庫に資料がある)。
逆に言うと、それだけ莫大な利潤をあげられたんですよ、中世商業は。
面白い一例を挙げると、
戦国時代の瀬戸内海の海賊は商品価格の10〜20%を輸送費としてたんです。
今考えると暴利でしょ?
でも、当時としては慈善事業みたいな感覚なのね。
こういうぼろ儲けが可能な時代でしたから、高金利は不思議でも悪徳でもなかったのです。
じゃあなぜ、徳政一揆が発生したか、と僕なりに考えると:
経済は常に順調なわけじゃない(景気循環)。
うまく行かなくなるときが必ず到来する(恐慌)。
そうすると、
借金返済が不可能になり、一揆で借金棒引きを要求するしかなかったんじゃないか、と。
でも、こういう事情を知ると、
悪いのは高利貸しではなく、無計画に借金した人たちだって気がするけどね。
ま、借金しなきゃならない事情があったんでしょう。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月08日 21時31分50秒 ) | パスワード |
御家人は
貰った土地での治安維持とか
鎌倉警備や京都警備とか
それから武器の調達維持管理とか
自前だとNHKで説明してました。
それで大変だったようですね。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月08日 22時03分28秒 ) | パスワード |
更に教えて頂きました:
封建時代は武器自弁なんですよ。
これ大原則。
つまり、武器を大量に用意できるやつだけが武士になれたんです
(だから、地方豪族とかが武士になりやすかったわけ)。
誰でも武士になれたんですよ。
足軽も武器自弁でしたから。
だから、金のある部将が強かったの。
時代下るけど、太田道灌みたいに。
道灌は関東で一番経済力が強かった江戸一帯を領有してたから、
いくらでも足軽を雇えたわけでして。
でも、逆に言いますと、そのせいで没落御家人が増えたんです。
どんな貧乏でも武器自弁ですから。
御家人は貧富の差が非常に大きかったから、
北条泰時の時代にはもう没落御家人が問題化したんです。
それで、没落した武士はたいてい有力御家人の家臣(被官)になってく。
梶原、海老名などは足利氏の被官になりました。
また、没落しても、財産ゼロになっても、
鎌倉に(御家人になった時)登録しただけの負担は課せられたんです。
だから、貧富の差は拡大する一方。
徳政令の背景にはこういう問題があったんです。
ですからまあ、
徳政令を発すれば、借金棒引き、先祖の土地は返ってくる。
御家人はこれで満足したようです。
よく言われる、
「蒙古合戦の恩賞が払えなかったので、幕府に離反する御家人が増えた」
はウソです。
だって、北条氏の専制が頂点に達するのは1285年以降じゃないですか?
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2001年10月08日 22時26分21秒 ) | パスワード |
更に更に教えて頂きました:
封建時代は武器自弁だって書きましたね。
だから、
貧乏御家人は逼迫し、
有力御家人はどんどん裕福になっていく
という悪循環が繰り返された。
北条氏の専制と善政は、皮肉なことに同じ根っこを持つ。
また、当時の土地所有制度は非常に複雑で、土地をめぐる裁判が至る所で繰り返された。
土地が誰の所有か不明確なばあいが多かったから。
鎌倉末期は日本史上未曾有の訴訟社会で、
幕府は御家人だけでなく非御家人の裁判まで担当せにゃならなくなった。
本来ですとね、幕府は御家人しか裁判しちゃいけないんです。
幕府自体が契約で成り立ったものだったから。
本来、契約外の人間には権限が及ばない原則なんですね。
こういう矛盾が後醍醐天皇や得宗専制の根っこなんです。
矛盾がひどすぎるし、政権が複数あると解決できない問題が多い(上の裁判とか)。
別に北条氏が悪かったからでも、
後醍醐天皇が中国かぶれの妄想狂だったからでもないの。
大改革が必要な時代だったから。
でまあ、こういう時代だったから、
足利さんが天皇になってもいいんじゃないか?・・・
いや、なるべきなんじゃないか?・・・って風潮にもつながってくる。
右翼は怒るかも知れないが、
足利義満が天皇になろうとしたことは、かなりの人が望んでたことなんですね。
ちんたらしてちゃ、矛盾は解決せん。
ここは一つ、巨大な権力にどうにかしてもらおうじゃないか、という。
これをさあ「逆賊」なんて言うのは、
当時の問題と、
それを解決しようとした人の苦労を理解してない証拠だよ。
せっぱつまってたんだからさ。
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