[1] | 服部 明子さんからのコメント(2001年09月07日 21時35分39秒 ) | パスワード |
平 貞能とはどういう人物かというと
平 家貞の嫡男で清盛の嫡男・重盛の家に仕えた人です。
平家が都落ちする時に戻って
忠盛・清盛・重盛の墓を掘って火葬に付し
遺骨を首にかけて高野山に納め
その後、宇都宮氏を頼って東国に落ちて行った
という人です。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2001年09月07日 21時44分36秒 ) | パスワード |
源三どのの書き込みをこちらにも掲載:
大友能直は、九州の守護、大橋肥後守平貞能の末葉である。
平 貞能は、平家の滅亡後、肥後守は肥後国大橋という所に蟄居した。
宇津宮に仕えて常陸に赴き、出家して三河国に移り住んだ。
その場所を大橋という。
その後、尾張国熱田に隠れ住んだ。
そこで農家の女二人を妾として、おのおの二人の娘を成した。
頼朝は貞能を捜索した。
尾張国の、原の太夫高春が扶助していると耳にして、
梶原源太景季に命じて原の城を攻めさせた。
貞能は、景季の陣に行って、自ら捕らわれた。
景季は貞能を虜にして鎌倉に下り、そこで比企谷の土牢に入れた。
貞能の妻が肥後国で産んだ男子、一妙丸(後の貞経)が、
父の生死を知るために鎌倉に下った。
鶴ヶ岡八幡宮に毎日毎夜参詣して、法華経を高声に読誦し、
父のことを祈ること数カ月に及んだ。
その容色は、とてもただ人とは思われなかった。
世間の人々が奇異の思いをなしている事を、頼朝卿の御台所が聞こし召され、
事情を聞いて頼朝卿にお告げになった。
そこで、頼朝卿は一妙丸を召して、意趣を聞かれた。
一妙丸は泣きながら父の事を詳しく言上した。
頼朝卿は憐愍を加えられ、貞能の命を助けて所領安堵の下文を賜り、九州に帰された。
これが大橋の元祖である。
この一妙丸が貞能の家をお継ぎになった。
貞能を尾張で扶助していた原の太夫高春は、千葉上総介広常の外甥で、薩摩守平忠度の外舅である。
貞能の子、大橋太郎貞経の後裔は、代々尾張、三河に居住した。
貞能が尾張で成した四人の女子(二人の妾が同月同日に二子を産んだ)を、
後に頼朝卿が鎌倉に召して、
一人を三浦の佐原太郎平景連に下された。
これが真野五郎胤連の母である。
一人を佐々木三郎兵衛西念に下された。
これは小三郎盛季の母である。
一人を安芸国羽山介宗頼に下された。
そして一人を大友四郎経家に下された。
これは豊前守大友能直の母である。
この四人の女子の生まれた里は末代までの験(しるし)として、四女子と名づけられた。
その後、四女子の母を祭った社がつくられた。
後にこれを、間違えて頼朝の宮と呼んでいるという。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2001年09月07日 21時49分03秒 ) | パスワード |
二女子とか、三女子という地名は確かに名古屋にあります。
熱田に近いというより
名古屋駅から南に行く途中にあります。
変な地名だと思っていたのですが「四女子」のお話を知ったので
その名残りだったのか、と。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2001年09月07日 21時53分32秒 ) | パスワード |
尾張の大橋氏は日本史で有名な人物で話すと蜂須賀小六の継母が大橋氏出身です。
大橋氏は伊勢・尾張の南朝方の拠点であっった尾張の津島神社の神官で
後醍醐天皇の皇子を戴いて転戦した家です。←浪合記参照
後醍醐天皇のひ孫?に娘を嫁がせています。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2001年09月07日 22時11分43秒 ) | パスワード |
「平 信兼」のスレッドの源三どの作成の系図をこちらにもコピーさせて頂きます:
平 貞能:
≪平正度≫の子孫
貞季(駿河守)
範季(筑後守)
家貞(筑後守、保元・平治の乱や殿上の闇討ちで勇名をはせた。北伊賀平氏所領の代官)
息子
★貞能
(筑後守。平清盛郎党として鹿ヶ谷事件の鎮圧、九州平定などに活躍。
平家都落の際出家し肥後入道と称した。
のち宇都宮朝綱の縁で源頼朝に罪を許された。)
息子
★家長
(平 知盛さまの家人。
知盛さまと手に手をとって壇の浦に入水した乳兄弟の家長は
私は家長の息子の方ではないかと思っていますが)
息子
★家継または家次
(平田冠者、平氏滅亡後、伊賀で源氏に反乱(伊賀三日平氏の乱)を起こした。)
[6] | 石田肇さんからのコメント(2006年01月17日 14時51分36秒 ) | パスワード |
よい話を承りました。
[7] | 慈徳院一仙(坊主)さんからのコメント(2010年05月10日 21時37分49秒 ) | パスワード |
URL=http://blog.ap.teacup.com/yamabushi/ |
各地に貞能の伝説は多くあるが、史実かどうかは判然としない。ただ平家物語や源平盛衰記などから推察できることは宇都宮朝綱との関連で、塩原の明雲寺や益子の安善寺、茨城県城里町小松との関係があることは有力な説である。地方にある平家の落人伝説は貞能一行の枝葉が各地に落ちのびてゆき、そのものが貞能自身の伝説や平家谷伝説に成長したことは十分考えられる。
[9] | 吉田さんからのコメント(2012年02月29日 14時09分20秒 ) | パスワード |
仙台からの報告
仙台人が「定義(じょうげ)さん」と呼んで、今も絶大なる人気の定義如来西方寺の開寺伝説によると、貞能(さだよし)が名を定義に変えたが後にじょうぎと呼ぶようになったとあります。おもしろいですね。
[10] | 定義山【平家】末裔さんからのコメント(2012年04月08日 06時23分00秒 ) | パスワード |
仙台からの報告に補足させていただきます。
仙台の定義如来西方寺(定義山)に眠る平 貞能公ユカリの者です。
平家の落人伝説の話を、爺さんや親戚から聞いて育ちました。
今から約800年も昔の話なので詳しいことはよくわかりませんが、定義山を囲むように5つの部落があり定義山を守っていたそうです。また、我一族(平家)は、1600年以前までは、身内同士で結婚していたそうです。外部とはほぼ、無縁だったとも聞いております。話によると…
しかし、1600年頃に伊達家が領地替えで仙台に居住し、領地検分の際、定義山は発見され没収され、今日に至ります。
※没収以前は、重臣である早坂一族が定義山を守っておりました。
[11] | 相良四郎さんからのコメント(2023年03月18日 17時45分05秒 ) | パスワード |
貞能の子孫についての話一部見逃していました。
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