コメントの種類 :書籍・文献
パスワード
先日、三重久居市で開催されたシンポジュウムに出席しました
その内容の一部をご紹介します
「平氏家人制と源平合戦」について
先生は著書「清盛以前」でおなじみの神戸大高橋昌明氏
主な内容:
平氏のご家人は、清盛に一元的に統率されるのではなく、
平家一門のそれぞれと個別に主従関係を結ぶ存在。
(家人支配に対する一門他家からの干渉などは有り得ない。)
政界進出によって清盛の子弟がそれぞれ貴族としての
家政機関を持ち、侍所を通して侍(家人)を統制するよになった結果である。
清盛後の主な家人
●小松家・重盛−清盛が実質的に握っていた国家の軍事指揮権を継承。
父の家人の相当部分を引き継いだ。
その代表格は藤原忠清の一族、筑後守家貞の子孫。
●一門主流派・宗盛−忠清の弟景家の一族、盛国の子孫、阿波民部太夫など。
●知盛−源為長とその子、伊賀平内左衛門家長、武蔵三郎左衛門有国など。
●重衡−後藤兵衛尉盛長、盛国の子盛綱、盛俊の弟盛久、正盛の子、時盛の子など。
●頼盛−弥平兵衛宗清、相伝の家人は忠盛から譲られた。
宗盛は巨大権門の公的な代表。直接兵を率いて戦場に出ることは有り得ない。
宗盛の家人の指揮を任されたのは主に重衡。
知盛は一門を構成する武将とそのご家人の多くが参加し、
統一指揮に強力な指導を求められる時、起用される。
重衡・維盛は宗盛に率いられた一門主流派と小松家、という平氏内
二大勢力を軍事的に代表するとともに、混成部隊たる遠征軍を
とりまとめる最高指導部を構成。
富士川の合戦、北陸遠征軍も二大勢力のうち一方のみの派遣。
片肺飛行、最高指導部が弱体(侍大将の主導権争い)。
重衡を欠いた遠征で維盛の役割は大きい。
大局的見地から、両勢力の要求や利害を考量し、一丸となる
体制作りに維盛は失敗した。
|