[1] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月13日 00時30分04秒 ) | パスワード |
生没年不詳
でも死んだのは1184年か1185年でしょうね?
平 盛兼の子。
桓武平氏(平家)の一門で
伊勢国鈴鹿郡の関を名字とし
壱志郡にも勢力を有す。
鳥羽院政末期から検非違使などとして活躍。
久寿2年(1155)路頭で左大臣藤原頼長と闘乱
解任されるが
翌年の保元の乱で後白河方として参戦。
独立した軍事貴族として行動したが
のちに平 清盛に従属
「家人」と評される。
河内・和泉・出羽守などを歴任。
正5位下に至る。
治承4(1180)年源頼朝挙平の際に討たれた山木兼隆は子。
平家都落ちには同道せず
官職も保持したが
元暦1(1184)年7月
平田家継・藤原忠清と共に蜂起
鈴鹿山を切りふさいだ。
この為、翌月源義経によって子息は殺害され
信兼も追討を受けた。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月13日 00時40分14秒 ) | パスワード |
皇竹さんの書き込みより:
(三重県大台町や飯南町の辺りで)
平信兼が西国の平家に呼応して兵を挙げるが、
義経軍と戦い敗れ、
滝野城にこもって自刃してしまう
信兼の菩提寺は現飯南町有馬野字神原の浄源寺です。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月13日 06時49分43秒 ) | パスワード |
皇竹さんの「平家物語研究会」のスレッドより:
http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100147_19.html
<10>皇竹さんの書き込み:
平 信兼は貞季の流れで、伊勢鈴鹿郡に本貫地があり
その為か関 信兼ともいわれていますね。
一方<資盛−盛国−実忠ときて「関谷」を名乗り、
その裔関四郎が関家を、
その嫡子を神戸へ
次男を国府に、
次を亀山の家督を継がせ、
一人は鹿伏兎、
ひとりは峰に据え置いた。
また、この実忠は藤原秀郷流関氏との説もあり、
この辺のところは私にはよく分かりません。
もう少し勉強します。
平 信兼は平家一門の都落ちに同行せず、一の谷合戦も静観。
しかも頼朝の代官としての義経に合力している。
しかしその後同士を募り頼朝に叛乱をしている。
この辻褄の合わない行動は何なのか。
宗盛や知盛との約束事があったのかも。
一門が西海へ落ちた後、後方撹乱を意図したのか、
一門がもし滅びた時再興を期すためであったのか。
信兼の菩提寺は現飯南町有馬野字神原の浄源寺です。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月13日 06時54分29秒 ) | パスワード |
皇竹さんの書き込みコピー:
ある旅行社の資料を見ておりましたら、
片山津温泉の老舗の一流旅館「せきや旅館」は
平氏 関氏の末裔だそうです。
実忠は父盛国が関東で歿後、
鈴鹿郡関谷を領地して関を姓として地頭職に補せられ、左近太夫将監に。
鎌倉に住んで将軍に臣仕し、次いで足利氏に仕えて繁栄した。
それより五世にわたり左近と称し、
十一代四郎盛政は将軍尊氏に近仕し、
十二代織部とその子十三代七郎は将軍の家臣畠山義続に所属した能登の地頭
長英連に臣仕した。
・・・とあり、
今の「せきや旅館」の当主はその末裔とのことです。
どなたか片山津温泉へ行かれたら、確かめてきて下さい。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月13日 07時27分22秒 ) | パスワード |
「姫君の行方捜索願い」のスレッドから:
http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100150_16.html
<11>の源三どのの書き込みより抜粋
関氏や亀山氏について。
伊勢国(三重県)鈴鹿郡関から起こった。
壇ノ浦で入水した平資盛(清盛嫡男の重盛の子、維盛弟)の子孫という。
(一説に否定的な意見もあるが、ここでは通説に従う)
資盛の子・盛国は北条氏に助けられて鎌倉に育ち、
その子・実忠のとき鈴鹿郡関を領した。
国府・亀山・鹿伏兎・峰の支流諸家と共に関五家とよばれて鈴鹿地方に栄えた。
・関氏・・・平清盛−重盛(嫡男)−資盛(維盛弟、壇ノ浦入水)−盛国(北条氏に仕える)−実忠(関氏祖)・・・・・・俊盛(伊勢亀山城主)−胤盛−盛雄−※盛信(織田信孝に従った)−・・・。
・平資盛−盛国−長崎(平)盛綱(関実忠は兄弟)・・・−長崎高綱(円喜)−高資(鎌倉幕府内管領、執権北条高綱のとき幕政独占専横を極めた。新田義貞に攻められ自刃)
★鈴鹿郡関町や亀山市には亀山城ほかゆかりの城址が多い。
戦国期に関一政があり、鳥取黒坂五万石を領したあとに内紛により改易、
旗本五千石にとどまった。伊勢平氏関氏は信濃(長野)伊那郡、上野国(群馬)甘楽郡に移って同地で成長した系統もあり、今も群馬県、長野県、新潟県に関さんが多い。
関氏には他に、秀郷流や桓武平氏岩城氏流などがある。
[6] | 源三さんからのコメント(2001年09月03日 00時38分49秒 ) | パスワード |
わかりました。
関氏は平資盛の子・盛国からでてるだけだと思ったけど、平信兼流の氏もあったんですね。
平氏(武門)
●桓武天皇−●葛原親王−●高見王−●平高望(平朝臣の姓賜り上総介に任じられ、土着して関東平氏の基礎を築いた。)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
●平国香(常陸大掾、鎮守府将軍、おいの将門に殺され平将門の乱となった)−●貞盛(将門の乱になったとき京にいたが直ちに帰郷、叔父良兼とともに将門に向かったが、敗れて京に戻った。その後再び帰国、藤原秀郷と強力して将門を攻め乱を平定、その功により、鎮守府将軍、丹波守、陸奥守)−●惟衝(上野、常陸介、伊勢陸奥出羽伊豆の守を歴任、とりわけ、伊勢守になって一族が栄え、★伊勢平氏として発展していった。)−◆≪正度(≫出羽守、越前守)−−−−−−−●正衝(出羽守)−●正盛(伊勢、因幡、讃岐守、配流先の隠岐を脱出して出雲で暴行を働いた源義親を(八幡太郎源義家嫡男、頼朝曾祖父)を追討し一躍★伊勢平氏の勢力を高め、延暦寺僧兵の神輿ぶり、強盗鎮定等で武名を上げた)−●忠盛(1096〜1153播磨、伊勢、備前守、検非違使など歴任、山陽、南海の海賊を討ち、また鳥羽上皇の命により得長寺院を造営、但馬守から刑部卿に進み昇殿を許された。日宋貿易を進め、和歌もよくし「金塊集」に歌を残している。弟★忠正は保元の乱で源為義と共に崇徳上皇側で後白河天皇側と戦い、敗れて捕われ、子の長盛、忠盛、政盛、道正らと共に死罪となった。)−−−−−−−−−−−−−−−−−→−
→●平清盛−重盛(嫡男)−●資盛(維盛弟)−盛国(北条氏に仕う)−−★関実忠−(略)−俊盛(伊勢亀山城主)−−つづく。 長崎盛綱・・・高綱(円
喜)
┌兼季(貞季子)−兼季−盛兼−★平信兼(和泉守)−★平兼隆(〜1180検非違使となっ
|が父に訴えられて伊豆国山木郷に流され、●山木判官と呼ばれた。やがて伊豆の目代
|となったが、源頼朝旗揚げの血祭りとして討ち取られた。彼は北条政子と結婚することに
|なっていたが、政子は逃げ出し頼朝のもとに。)
|
├正季(貞季子)−範季−季房−季宗−宗清(弥平兵衛、平治の乱に敗れ東国に逃れる
|途中の父・義朝にはぐれた源頼朝を尾張国で捕らえた)
|
└−−−−−−−−−−−−−−− ┐
◆平信兼系図◆≪平正度≫−貞季(駿河守)−範季(筑後守)−★家貞(筑後守、保元・平治の乱や殿上の闇討ちで勇名をはせた★北伊賀平氏所領の代官) └−−−−−−−┐
|
┌−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
├ −★貞能(筑後守。平清盛郎党として鹿ヶ谷事件の鎮圧、九州平定などに活躍。平家都落
↓ の際出家し肥後入道と称した。のち宇都宮朝綱の縁で源頼朝に罪を許された。
↓
→−−−家次(★平田冠者、平氏滅亡後、伊賀で源氏に反乱(伊賀三日平氏の乱)を起こした。)
↑の平田冠者家次からも★関氏でてるんですね?!
藤原房前(北家祖)−魚名−藤成−豊沢−村雄(下野大掾)−●秀郷(田原藤太又は俵藤太剛勇をもって鳴り、一時罪を犯して配流されたが、のち、許されて下野掾押領使うとなる。平将門の乱のとき、いったんこれに呼応したが、将門の行動が軽はずみで共にことをなすことができないと判断、平貞盛と共に将門を討ち、その功により下野、武蔵の両国主、鎮守府将軍となった。近江三上山の「むかで退治」で有名。)−千常(鎮守府将軍)−−−−−−−−−−−−−−−→−
→文脩−−文行−−−−近藤脩行(兄)−行景−景親−景頼(貞成)−能成−★大友能直
|
[7] | 源三さんからのコメント(2001年09月03日 00時44分01秒 ) | パスワード |
先の系図間違い
長崎盛綱は関実忠と兄弟。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2001年09月04日 00時34分40秒 ) | パスワード |
信兼+家継+宗清はかなり近い一族なのですねぇ。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2001年09月04日 12時21分12秒 ) | パスワード |
>信兼+家継+宗清はかなり近い一族なのですねぇ。
それぞれのおじいさんの代が兄弟だったから
お互い大伯叔父のそれぞれ子孫の関係なのですね。はとこ or また従兄弟の関係だったのですね。
宗清の家は池殿の家で家老をしてたからたもとを別つ事になったけど
信兼と家継が(忠清も交えて)最後まで手を組んだというのは
近い親戚だったからなのですねぇ。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2001年09月04日 12時49分10秒 ) | パスワード |
平 信兼・山木兼隆父子の系図:上記源三どの作成の系図を整理してみました
≪平正度≫
貞季(駿河守)
兼季(貞季子)
?兼季?同じ名前の子供?
盛兼
★平信兼(和泉守)
★平兼隆
(〜1180検非違使となったが父に訴えられて伊豆国山木郷に流され山木判官と呼ばれた。
やがて伊豆の目代となったが源頼朝旗揚げの血祭りとして討ち取られた。
彼は北条政子と結婚することになっていたが政子は逃げ出し頼朝のもとに。)
[11] | 源三さんからのコメント(2001年09月06日 00時52分06秒 ) | パスワード |
http://www4.justnet.ne.jp/~katsufusa/page30.htm
源氏軍の山木(平)兼隆館襲撃と源氏軍のこのとき最初に放った矢が源平の戦いの最初になった。
[12] | 源三さんからのコメント(2001年09月06日 00時55分58秒 ) | パスワード |
平兼隆館跡 (伊豆国田方郡韮山山木 )襲撃!
治承4年(1180年)8月17日伊豆国一宮三島神社(静岡県三島市大宮町)の祭礼の日、安達藤九郎盛長は戦勝祈願の為三島神社から帰参し、奇襲攻撃するばかりと なっていたが佐々木兄弟が遅れてまだ来ていない為、伊豆の目代(国守の代官として国務を執行する役人)山木郷に住む平兼隆を討つことが出来ない。未刻(午後2時)頃佐々木兄弟、太郎定綱・次郎経高が北条館に到着した。頼朝は事の決着を急いだ。北条四郎時政・子息三郎宗時・同小四郎義時・佐々木太郎定綱・同次郎経高・同四郎高綱以下40人の軍勢が北条館を出発したのは子刻(午前零時)であった。頼朝は北条館に留まり佐々木三郎盛綱と加藤次景廉等が其の守護にあたった。山木館に向かった、軍勢は原木を北行して肥田原を通り、軍を二手に分けた。山木兼隆を後見する堤権守信遠を信遠の館で佐々木定綱・高綱が信遠に襲いかかり血祭りにした。一方山木館に向かった北条時政の一行は雪崩の如く攻め込んだ。兼隆の郎中の多くは三島神社祭礼に出かけ黄瀬川宿(沼津市)あたりで酒宴に興じていた為、目代館の警備は手薄であったが、伊豆国中から動員された精兵がいたので苦戦を強いられた。
頼朝は佐々木兄弟らが北条館を出発してから落ち付きを失った。攻撃開始と同時に目代館に火を放つはずが一行に火の手が上がらない。頼朝は北条館の裏手にある、守山神社の境内から、加藤次景廉・佐々木三郎盛綱。堀藤次親家を山木館に応援に行かせた。特に景廉には薙刀を与え必ず兼隆の首を上げて持参するように命じた。こうして新手の3人が山木館に立ち入り首を獲る事に成功した。勢いに乗った時政らは兼隆の郎従等を皆殺しにして館に火を放ち、兼隆の首を高々と上げ頼朝が待つ北条館へ帰参した。目代を討った事で頼朝は実質的に伊豆の国が機構を掌握した。
[13] | 服部 明子さんからのコメント(2001年09月06日 10時25分59秒 ) | パスワード |
ありがとうございました。
山木襲撃に佐々木兄弟のことが出てたので
平 信兼と平田家継(と藤原忠清)が
伊賀で兵を挙げ
佐々木兄弟の父親の秀義をまず血祭りにあげた時の息込みが
分かったような気がしました。
[14] | 八巻新吾さんからのコメント(2002年12月17日 12時30分39秒 ) | パスワード |
山木兼隆の事を調べていたら見つけたサイトです。私は兼隆の子孫と言われています。山木襲撃のあと姓を山木から八巻に替えたそうです。どうしても調べたかった事がいろいろ分かりました。八巻同族会と言う団体が宮城県仙台市にあります。8月の兼隆公の命日には韮山に集まるそうです。
[16] | 服部 明子さんからのコメント(2002年12月17日 14時03分13秒 ) | パスワード |
八巻さん
初めまして!
確かに「山木」と「八巻」の両方史書にありますね。
私はどちらかいうと最近は「八巻」で見掛けます。
そうでしたか。
仙台に?
平家の子孫は青森まで落ちて行ったそうで
鈴木京香さんはバリバリの平家だって聞いています。
新しいスレッドをお立てになりまして御先祖さまの事などお書きになって下さい。
ここは殆ど素人の集まりですのでいろいろな事をお知らせ下さい。 家紋なども。
[17] | 服部 明子さんからのコメント(2002年12月17日 14時19分15秒 ) | パスワード |
http://www.j-text.com/seisui/gs20.html
別スレッド「電子図書:源平盛衰記」では<<八牧夜討事>>となってますね。
八巻さん・山木さん・八牧さん
みなさん御一族なのですねえ。
[18] | たまねこさんからのコメント(2002年12月17日 21時45分16秒 ) | パスワード |
八巻さん、初めまして。
たまたま、今、家紋と名字の本を読んでいましたので…
「平安末期の山木判官兼隆は、源頼朝の旗揚げの時、平氏に
ついて討死し、一族は福井県や山梨県に逃れた。
山梨県での山木氏は、武田氏家臣だが、滅亡後は各地に
仕官を求め、伊達氏や上杉氏に仕えて東北に移り、
福井県に入った系統は、後に新潟や山形に移動した。
なお、山梨県の八巻氏は、先祖を山木判官とし、八巻・山木は
同族という。」
家紋は、山木さんが二引両。八巻さんが剣方片喰。
[19] | 服部 明子さんからのコメント(2002年12月17日 22時43分41秒 ) | パスワード |
>家紋は、山木さんが二引両。八巻さんが剣方片喰。
あらら〜
「山木氏」は二引両ですか・・・
どういう経緯だったのでしょうね?
将来御子孫は家紋から「自分とこは源氏」なんて思ってしまうかも。
[20] | 服部 明子さんからのコメント(2002年12月17日 23時20分57秒 ) | パスワード |
調べて来ました。
二引両紋の平氏:
織田・柘植・杉原・岩城・佐藤・高井・山中・野辺・小栗・増島・早川・佐原・荻野・畠山・猪狩・曽我
[21] | 服部 明子さんからのコメント(2002年12月21日 10時33分56秒 ) | パスワード |
昨日サンタモニカ八百半(現・ミツワ)で無料誌を貰って来た中に
八巻さんとおっしゃる武道家の記事がありましたが
どうやら捨ててしまったらしい。
[22] | 皇竹さんからのコメント(2003年02月06日 19時15分24秒 ) | パスワード |
ある古い(10年位前)冊子を見ていましたら、
平信兼が斉藤五宛に出した書状を見つけました。
某民家からの出てきた古文書とのことです。
一筆申上候、先御願申上候首題件付、我等平氏一族今勝運見離候所
時節柄中鎌候間来八月十一日有間野滝野城楯籠候、源氏勢最後ノ一戦
交合度候段、源兵一矢成共与度候、我等一同旗元、伊勢武士白装束死
持本懐遂度候、先取急御協力御願申上候
一一八五年八月七日 平左衛門尉信兼 花押
上様
斉藤五郎実信殿
というもっともらしいものですが、
これが当時書かれたものかどうか何か腑におちません。
私も古文書、候文はイマイチ読み慣れていませんので。
皆さんはどう思われますか。
ま、それはそれで、
上様というのは六代君のことで、
六代君は斉藤兄弟に相談した結果、
32名の兵を、滝野城に籠もり最後の決戦に挑む信兼の元へ
派遣したのです。
(この時、斉藤兄弟はこの近くの森本日川に隠遁していた六代君を
お守りしていたのです。)
結果は皆さんご承知のように、信兼軍は
押し寄せる義経軍に、多勢に無勢敗れてしまい、
信兼は、城に火を放ち、自害したのです。
[23] | 服部 明子さんからのコメント(2003年02月07日 02時56分01秒 ) | パスワード |
>一一八五年八月七日
この部分は元暦二年八月七日の事でしょうね?
当時は一一八五年という西洋暦の表記は存在しなかった筈ですから。
1184年7月あたりに源氏との戦いがあったのですから
信兼は1年1ヵ月生き延びたのでしょうか?
平信兼の没年はハッキリしてないので生きてたのかも知れませんね。
上記の書状からは息せき切った支援要請が読み取れますよね。
[24] | 皇竹さんからのコメント(2003年02月07日 12時59分01秒 ) | パスワード |
そうですよね。
原文はどうなってたか分かりませんが、
確かに西暦表示はおかしいです。
私もよく確認もせずそのまま発表しちゃって申し訳ない次第。
それに明子さんが指摘されるように、1185年は間違いだと思います。
それともミスプリントなのか?
信兼が伊賀の平氏平田家次らを誘って蜂起したのは
1184年、7月19日のことです。
この時信兼父子、忠清は逃げのがれ、再起を期した。
同年8月11日滝野城に篭城、源氏軍と戦い敗れ、
城に火を放って自害した。(源平盛衰記41)
ということなのですね。
又、六代君(妙覚)のことを上様と呼んでいたのか。
当時こういった書状に候文を使ったのか。など。
信兼の死亡時、何歳だったのか分かりません。
信兼の生年がはっきりしませんので。
[25] | 服部 明子さんからのコメント(2003年02月07日 16時27分20秒 ) | パスワード |
候文って
私の世代はよく分かりませんが
古文では「そうろう」は「さぶらふ」で書いてあったと思うのですが
平家物語の文の中でも「候」を使ってるそうなので
おかしくはないと思います
ワタクシの独断では
信兼の文章を後世の人が訳したのが伝わったのでは?と
思います。
明治以降の人が書き直したのでは?と。
ですからそういう依頼の手紙が存在したと思います。
更に平信兼の死亡の日というのが特定出来ないので
矢張り生きてたのではないかとも思います。
鎌倉幕府は信兼の死亡を掴んではいないという事と思います。
六代どの斬首の蔭にこの手紙の件もあったかも知れませんね。
なかなか面白いと思います。
[26] | 皇竹さんからのコメント(2003年02月07日 16時39分32秒 ) | パスワード |
2月7日は私の誕生日、同時に一の谷合戦の日でもある。
これは一寸おいといて、
私見信兼論。
伊勢の山里で育った信兼は若くして都へ出、北面の武士として
大志を抱いていた。
はやる心を抑えていた信兼も、若者らしいうっぷんを晴らす
事件が起きてしまった。
久壽2年(1155)2月1日、
世間に悪名高いあの頼長の行列に矢を射かけ、乱闘騒ぎを
起こしてしまったのだ。
こうして生意気な若者として武名?を挙げた信兼は
保元の乱には80余騎を従え天皇方に味方、義朝らと共に
万一の時には宮中へ召しだす5人の武将の一人に数えられた。
ちなみに後の3人とは源義康、頼政、平実俊である。
この時既に信兼は清盛やその息子達よりも、はるかにその実力が
認められていたのである。
世代的には清盛の重盛、宗盛ら息子達と同世代である。
そして保元の乱を勝利に導いた戦功により正五位下に昇進、
出羽守(1156〜1161)、河内守(1161〜1171)、和泉守(1172〜1180)、
に任じられたのである。
しかし信兼は清盛らの中央でのむき出しの権門欲に対し、
武人としての誇りが許さず、伊勢の所領に帰ってしまうのである。
又乱後、清盛から同族の平康弘の断罪を命じられたことにも
世の無常さを感じたのであろう。
伊勢においては鈴鹿、関を本貫地とし、摂関家領の領所となったり
着々と勢力を築いていた。
相反する性格の宗盛とは、合わなかったと思うが、
一門の都落ちには動向せず、なぜか一時的にせよ頼朝の代官を引き受け、
義経に強力してしまうのである。
軟弱な平家の息子達に比べると、頼朝の武士政権樹立の志に共鳴する
ところがあったのかも知れない。
さてその信兼も一の谷の敗戦を聞き、都に平家一門の首が曝されては
黙っているわけにはいかない。武士の魂が甦ってき、抑えることかなわず
伊勢、伊賀の兵を集め源氏に一矢を報いようと立ちあがったのである。
こんなサラリ−マンいるよな-。
信兼について書かれたものは余りありません。
飯高町史、飯南町史を参考にしました。
[27] | 服部 明子さんからのコメント(2003年02月08日 01時10分38秒 ) | パスワード |
皇竹さま
お誕生日おめでとうございます。
私の感触では平信兼は年代的に清盛と同じ世代だったと思いますが
久寿2年に何歳だったかそれが分かるといいですね。
10代の終わりか20代前半?1155年にそれぐらいだったのでしょうか?
子の山木兼隆が北条政子と結婚しようとしましたから
1180年頃に20〜30歳ぐらい?
その父親なので40〜50歳ぐらい?
こうして考えて来ると信兼生存説も理解出来るような気になります。
死んだと見せかけて脱出したのかしら?と。
英雄が生きていたのかと空想する事は楽しいですね。
私は今迄信兼は忠清や家継あたりの年代と思ってましたが
55歳から60代
皇竹さまの御指摘で(もうちょっと若かったの?)と幅が広がりました。
[28] | 皇竹さんからのコメント(2003年02月08日 10時02分29秒 ) | パスワード |
明子様
色々コメント、アドバイス有難うございます。
信兼は私も興味をもっている人物の一人ですので、
これから調べていきたいと思っています。
[29] | 川口 信さんからのコメント(2003年02月11日 08時47分12秒 ) | パスワード |
>私の感触では平信兼は年代的に清盛と同じ世代だったと思いますが
>久寿2年に何歳だったかそれが分かるといいですね。
ちょうど図書館から「桓武平氏系図:第一巻」を借りてきたら平信兼の系図が載っておりました。
兼季(従五下上総介)―盛兼(和泉守大夫掾 佐渡守)―信兼(正五位下左衛門尉 和泉河内出羽等守)―兼隆(従五位上山木判官 左衛門尉)
兼隆の兄弟に兼時(三郎)―、信衡(次郎)―兼衡(春宮帯刀長 左衛門尉)
貞季―兼季―盛兼―信兼―兼隆
貞季―範季―家貞―貞能―通貞
貞季の兄弟の正衝から
正衝―正盛―忠盛(1096〜1153)―清盛(1118〜1181)―重盛(1137〜1179)などとありほぼ同年代と推察されます。
同年代かを推察するのに良い方法があります。
散見する平信兼及び先祖に関係する文章を年代順に並べますと。
(1147年)久安3年7月「本朝世紀」
今日仙院御覧武士。如日来儀也。佐渡守平盛兼。平盛時。源親弘。散位源義国。主殿助同時光。各渡御前。義国以男義康為代官。自身不参云々。
(1156年)保元元年7月「兵範記」
蔵人大輔雅頼勅、召仰検非違使等令停止京中武士、左衛門尉平基盛、右衛門尉惟繁、源義康等参入奉了、
去月朔以後、依院宣、下野守義朝並義康等、参宿陣頭守護禁中、
又出雲守光保朝臣、和泉守盛兼、此外源氏平氏輩、皆率随兵祇候于鳥羽殿、
蓋是法皇崩後、上皇左府同心発軍、欲奉傾国家、其儀風聞、旁被用心也
(1156年) 保元の乱の時、天皇方の参集武士の中に平信兼の名が見出せる。
(1180年) 治承4年 源頼朝 伊豆山木判官兼隆を討つ、死亡。
(1184年)平氏叛乱 伊賀で平田家継が蜂起、伊勢で富田進士家資、前兵衛尉家能、
家清らが蜂起、平信兼、その子兼時、信衡、兼衡らも立ち上がった。(この段は皇竹様の「伊勢平氏の乱」に詳しく記載されております。)
盛兼(1147年)、最後の兼隆(1180年)が40歳で討たれたとすると、兼隆の生誕年は1140年、50歳で討たれたとしても1130年となり同世代数の平重盛と同じ年代です。33年間(1147〜1180)に4世代の名前があり前後に30年をプラスすると93年となり各々ダブリを入れて1世代20〜25年ぐらいとなり、まあ普通はこんなものでしょうか。
そこで兼隆没年時の平信兼の年齢を計算すると1180-1156=24で兼隆が30歳で討死したとすると24+30=54、40歳で討死したら24+40=64となりかなりご老体になります。そこで逆算して生誕年は1180-54=1126年、1180-64=1116年、後者の方が清盛の生誕年に近くになり、同年代。これはあくまでも推理(遊び)であって正確なものではありませんが、だいたいの目安にはなると思います。
やっていて頭がこんがらかってしまいましたので間違いがありましたらご容赦のほど。
どうですか、頭の体操になりましたでしょうか。
[30] | 服部 明子さんからのコメント(2003年02月11日 10時16分34秒 ) | パスワード |
川口さま
ふふふ
ほんとうにこんがらがりますよね。
私は最初に信兼について知った時
平家が滅びて3御老体が頑張って蜂起して源氏に1矢報いた
と読んだので
3人とも清盛世代だったのかしら?と思い込みました。
60の皺腹を賭けたのか?と。
でも、分からないですよね。結局。
ちゃんとした戸籍があった訳でなく
幕府方にも記録が無いのですから。
昔は17歳ぐらいで最初の子が(それも男の子が)生まれたりしてますから
山木兼隆が適齢期としてもパパも男盛りだったかもしれないし。
普通の人の年齢など当時は意味が無かったかも知れませんし。
頼朝とか義経などとの関係で対する敵の名と年齢が残ったのかも知れませんし
若い人達は皆壇ノ浦に行ってしまったその留守を御老公達が守ってたのかも知れませんし
こういう空想って楽しいですね。
[31] | そりちゃんさんからのコメント(2003年02月11日 10時43分34秒 ) | パスワード |
こんにちは、そりちゃんです。
実は私の家系も「八巻」と関係があります。
明治2年に亡くなっている「おふき」という女性が
八巻藤七に嫁にいっています。
また慶應年間には八巻という姓の名主がいました。
朽木氏のときもそうでしたが、調べ始めるとだいたい「平熱」に
スレがあがるので、
助かるやら、ちょっとびっくりやら・・・。
やはり、オカルトサイトなのでしょうかね(^^)。
[32] | 皇竹さんからのコメント(2003年02月11日 17時34分03秒 ) | パスワード |
川口様
いや、いや、ご苦労おかけしちゃって恐縮です。
計算して見ます。
暖かくなりましたら、滝野城跡をみてきます。
標高286Mの険しい高城山頂には、
土塁、壕の跡が今でも残っているそうですから。
[33] | 服部 明子さんからのコメント(2003年02月12日 00時58分26秒 ) | パスワード |
皇竹さま
是非是非写真など撮って来て下さいね。
写真を皇竹さまのHPにアップしていただければ
こちらにもアップできますのでその時はわたくしが頑張ります。
新しいスレッドを立てましょうね。
[34] | 服部 明子さんからのコメント(2003年02月12日 12時30分59秒 ) | パスワード |
<21>の八巻さん
極真流の八巻健弐さんとおっしゃいます。
[35] | 小山さんからのコメント(2004年05月05日 22時29分02秒 ) | パスワード |
山木兼隆のことを調べていたら、このサイトに辿り着きました。実は私の妻の
旧姓が山来(やまき)なのです。八巻同族会では、この山来も同族のように
書かれていたのですが、その由来が知りたいのです。妻の父は千葉県佐原市の
出身だそうです。わずかなヒントでも結構です。何かご存知の方がいたら、書き込みお願いします。
[37] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年05月06日 02時31分27秒 ) | パスワード |
小山さん
初めまして。
タイトルをちょっと変えますね。
鹿児島では「市来」という姓が多いと思いますが最近「一木」姓の人を知り(へえ〜)と思ってました。
*地名の一ツ木は「ひとつぎ」と読むのですけどね。
そして「山来さん」ですから、またまた(へえ〜)です。
山来という地名があるのでこれにも(へえ〜)です。
茨城県稲敷郡桜川村南山来
http://www.vill.sakuragawa.ibaraki.jp/data/origin/013.htm
南山来(みなみやまく)
>四箇集落の東、南には古代霞ヶ浦(信太流海)の小支湾であったとみられる水田(沖田)を対し、
>東は須賀津に隣接し北には稲敷台地の東端の山林(丘陵)を背負うように位置している。
>山来の地名は山がしだれくるという地形から出たともいわれる。
>集落の沿革は四箇と大方同じだが正保から元禄の期間に四箇村から分村し
>明治二十二年の旧阿波村誕生まで南山来村を名乗ってきた。
>元禄年間は旗本新庄氏と幕府の相給、幕末期は旗本安藤氏の知行所であった。
>村高は元禄郷帳で七九石余、天保郷帳には二九三石余、旧高簿では五〇石余となっているが、
>余りにも較差の違うことの原因は不明である。
>明治二十四年の戸数は七戸、人口三五人、馬二頭であった。
茨城県山来でしたらもともと坂東平氏の活躍圏内ですからそういう平氏系の名字が存在してて不思議じゃないですね。
山木兼隆がどういう経緯で山木姓を名乗ったのかそれが分かると良いですね。
彼の伝記だったら載ってるかも。
平信兼の先祖が茨城の山来に土地を持ってたのかも。
先日三重県で行われた素人のど自慢で「山木姓」の人が出てました。
山木姓の元は本来は山来だったかもですね。
[38] | 玉瀧秀男さんからのコメント(2014年10月22日 14時49分37秒 ) | パスワード |
平信兼を調べていたらこのサイトに出会いました。
最近私のル−ツを調べていたところ、玉瀧姓は姓氏家系大辞典によると、伊賀市玉瀧荘から起こり、平信兼の子孫とあります。大変驚いています。今まで玉瀧姓は聞いたことがありません。どこにもないと思っています。玉瀧と平信兼のつながりが分かる物があれば,書き込みをお願いします。
[39] | 箱柳永田さんからのコメント(2014年11月18日 00時09分45秒 ) | パスワード |
玉瀧秀男さん
力不足で申し訳ないです、もし近くにお住みであれば
>http://yaokami.jp/1246929/ 玉瀧禅寺
何かの縁でと訪問する手もあります、手紙からですかね。
寺の名に地名を付ける例は少ないので、かなりの可能性を
感じています。
[40] | 玉瀧秀男さんからのコメント(2014年11月19日 10時06分24秒 ) | パスワード |
箱柳永田さん
コメント有難うございます、早速玉瀧禅寺と近くの玉瀧神社へ(一時間ほどで行けます)行ってきたいと思います。又何かあれば教えて下さい。
[41] | 蝉丸さんからのコメント(2015年09月06日 19時03分05秒 ) | パスワード |
はじめまして。自分のルーツ探しをしていて行き詰っている者です。
平家一門落ち武者の家か?
姓:杉山 家紋:丸に揚羽蝶
伊勢平氏清盛流関氏に杉山氏がありますが、誰が杉山姓を名乗ったのか
ご存知の方、教えていただけませんでしょうか?
よろしくおねがいします。
[42] | 山木さんからのコメント(2015年11月14日 23時41分57秒 ) | パスワード |
私は、山形の山木と申しますが母から先祖は平氏なんだと言われました。
天童に住んでますが、本家は南陽市です。
平家一族なのでしょうか?教えてください。
[43] | 蝉丸さんからのコメント(2016年02月22日 00時30分56秒 ) | パスワード |
桓武平氏関氏族
伊勢関氏 八代・左近将監盛治(忠興)の男
五郎大夫盛経(石井氏の祖)の後裔にして
北畠氏に仕へ、後、尾張徳川家に仕ふ。
(姓氏家系大辞典 太田亮著より 抜粋)
北畠氏で調べてみますと、杉山菅右衛門尉という方が
おられました。尾州藩士 杉山氏も関係ありそうです。
気長に探してみます。
合掌
[44] | 吉野の杉山さんからのコメント(2017年02月12日 08時22分14秒 ) | パスワード |
蝉丸さん
私もルーツを探して来た杉山氏の者です。
伊勢安濃津藩藤堂家家臣の伊勢杉山氏が伊勢平氏清盛流関氏の関盛治を祖と
称していたようです。
伊勢杉山氏は江戸時代の針医杉山和一検校の実家です。家紋は九曜。
私の祖父は吉野の山奥の出身ですが杉山検校の縁戚であるとの家伝があり、
検校の父や家を継いだ妹婿と同じ「重」という通字を持ちました。
当該地域も藤堂藩領だった時代があるようです。
ところが関ヶ原戦後津軽に逃れ、津軽杉山氏の祖となった石田三成次男杉山源吾重成にも晩年伊勢で藤堂高虎に仕えたという伝承があるようで、困惑しながら
研究しているところです。ちなみに石田家の家紋も九曜です。
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