[1] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月02日 23時34分05秒 ) | パスワード |
中西氏の姫君でいらっしゃいますか。。。
へぇ〜
(ひたすら感心するワタクシ!)
[2] | 源三さんからのコメント(2001年08月03日 08時19分08秒 ) | パスワード |
中西氏ってけっこうよく聞く名前だが、氏の由来や発祥などしりませんでしたが
この度、調べました。確か大和国発祥の大中臣氏だとか。藤原氏の出身母体である
中臣氏の前流の一族。
僕も関西に住んでいるので、大中臣氏の友達いるのにびっくり彼らをそんな目で見て
いなかったので改めて時代って連続して続くフラクタルなものなんだと改めて感激。
中西氏や伊香氏はん中臣氏なんだね。
昔のクラスメートに平家の名前もあるので尚びっくり、歴史もそーゆうみかたする
と面白いですね。平家の元クラスメート、塩崎、生島など。僕は源氏なので複雑。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月03日 09時48分32秒 ) | パスワード |
私もねぇ、「平」という人や「源」という人、どういう心境だろうかな〜
って思うのですよ。
「源」さんは、ま、いいとして
「平」さんは、軟弱とか、悪口言われるのが多いんじゃないかな、と。
[4] | 芹 摘 姫さんからのコメント(2001年08月04日 12時42分22秒 ) | パスワード |
そうですね。今まであんまり気にしたことがなかったのです。
源三さんありがとう。藤原氏の流れなんですね。
服部さんありがとうございます。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月05日 00時27分25秒 ) | パスワード |
大台町を管轄する行政の教育委員会に問い合わせてはいかがでしょう?
それか三重県教育委員会。
もしかすると良い返事があるかも知れませんよ。
木瓜紋は愛知県に多い紋です。
ということは三重県と愛知県の境には多いでしょうね。
藤原氏は中臣鎌足の子孫が称したのですから
中臣氏または藤原氏の出身ということは言えますね。
それに藤原秀郷の子孫ということは充分考えられます。
これは途中で狩野氏を称し、その後伊勢に移住した伊藤氏とも取れます。
平家の軍事部門を担当していた平 忠清は藤原姓や伊藤姓や古市姓も名乗ってます。
平家の一門として「平」姓でも記載されてますし。
源三どのの書き込みの「中西氏は中臣氏出身」からすると
藤原秀郷の子孫の忠清系の姫君というのが有力だと思います。
あくまで想像ですが。
返信用封筒(切手貼付)を添えて教育委員会の問い合わせたら良いと思いますよ。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月06日 00時36分52秒 ) | パスワード |
大台町:
皇竹さんの平家物語研究会のスレッドの中で
>信兼の菩提寺は現飯南町有馬野字神原の浄源寺です。
に<飯南町>が出て来ますが
<大台町>とは南北関係の町なんですねぇ。
大台町の旧家でしたら記録が残っていそうですね。
町役場などで分かってはいないのでしょうか?
[7] | 皇竹さんからのコメント(2001年08月06日 18時22分47秒 ) | パスワード |
あの辺は平氏の流れの多いところです
維盛系の人達が点々と隠れ住んだ伝承もあります
私の郷里に近いので一度調べてみます
[8] | 芹 摘 姫さんからのコメント(2001年08月06日 22時40分44秒 ) | パスワード |
服部さん 皇竹さん ありがとうございます。
服部さん
大台町の教育委員会ですね。問い合わせてみます。
皇竹さん
心待ちにしております。どうぞよろしくお願いします。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月09日 12時41分55秒 ) | パスワード |
隈さんを調べてて福田さんを調べてたら「中西さん」が出て来ました。
上記の藤原姓の中西さんではなくて
伊勢内・外宮の社家に「度会氏・荒木田氏・橘氏」各流中西氏がある
と出てました。
お捜しの上記の姫君の場合は場所からして「度会系」かも知れませんね。
[10] | 芹 摘 姫さんからのコメント(2001年08月09日 13時37分14秒 ) | パスワード |
服部さん ありがとうございます。
伊勢内・外宮の社家(渡会系)も含めて調べてみます。
なんかわくわくしてきます。何か知っているような懐かしさがあります。
[11] | 源三さんからのコメント(2001年08月10日 15時54分44秒 ) | パスワード |
折摘姫さんはじめまして!お捜しの姫は折摘姫なのでしょうか?
名前はなんていうのでしょうか?
わかっているのは「中西家」だけですか。雲をつかむ様な話ですが案外地元の人
や市町村史に載ってるのではないでしょうか。地元の市町村の図書館の郷土史
コーナーなど利用されてはいかがでしょう。それが一番得策です。
・中西氏・・・大和国中西荘から起こった藤原氏をはじめ、伊勢神宮祀官の度会姓、
荒木田姓などに中西氏がある。190位 家紋・沢瀉、六曜、三つ柏。(日本姓氏総覧)
・中西氏・・・伊勢外宮神官は渡会氏族、内宮は荒木田姓と伊勢神宮神官にみえるが、他伊勢では北畠氏に属して豪族の系もある。備前国邑久郡中西から児島氏一族で三宅姓、美作(岡山)には菅原姓の戦国豪族、讃岐郡(香川県)三好郡田井庄中西にも名流が。他西日本各地に多流分布。 家紋 沢瀉、六曜、三つ柏、※木瓜。
前述の・度会氏・・・伊勢神宮外宮の禰宜家で天日別命(あめのひわけのみこと)の子孫という。鎌倉期には伊勢神道を提唱し南北朝期の度会(村松)家行によって完成。神宮を庶民に結びつけ全国的なものとした。(桧垣、松木、久志本、佐久目、河崎、宮後(みやじり)、の六氏を重代家と称し、他多くの分流がある。家紋 橘、※木
瓜、梅鉢、片喰 文献 度会氏系図(郡書類従)度会氏重代家系図(三重・静嘉)
・荒木田氏・・・伊勢神宮内宮の禰宜家は天見通命(あめのみとおしみこと)を祖とし、垂仁天皇創祀以来の家系である。新田開拓により新墾田(あらきだ)の姓を賜る。十一世紀の石敷の子から一門と二門に分かれた。 文献 荒木田氏系図一門二門(綜)。
・北畠氏・・・村上源氏で太政大臣久我雅実が京都の北畠に住んで称した。その曾孫・親房は後醍醐天皇に仕え、後に南朝に属して常陸小田城を中心に活躍、親房の三男・顕能は伊勢国壱志郡多気に居住し、後裔は伊勢国司として力をもった。次男・顕信の系は陸奥国司として津軽浪岡に居住し浪岡氏を起こした。なお伊勢北畠氏支流は次の通り(木造、田丸、大河内、坂内(ばんない)、藤方、大坂、阿坂、波瀬(はせ)、八下(はちげ)、星合。 家紋 桐、割菱、 文献 北畠系図(郡)北畠正史(神宮)
・追加・中西氏・・・旧幕臣中西氏は大和国中西に起こり、藤原氏。伊勢内、外宮の社家に渡会氏、荒木田氏、橘各流中西氏がある。備前邑久郡中西に起こるものは三宅氏の後。美作には菅原氏の後というものがある。
★僕が思うことは織田信長家臣や越前・朝倉氏家臣また北畠氏家臣の氏を調べることが先決でしょう。すると案外すぐわかるのではないでしょうか?
あっそれと服部氏(うじ)いや服部さん、先にふれた昔の知り合いの大阪の生島氏は・生島氏・・・(摂津河辺郡生島に起こる氏は桓武平氏・平経正(政)(平清盛の
三弟の平経盛の子で平敦盛の兄)にはじまる。
『・平経盛(忠盛三男、清盛弟)−経盛−経政(正)(摂津・生島祖)−・・・』
また・塩崎氏には紀伊牟婁郡塩崎に起こるものは平清盛の四弟・平頼盛の曾孫・保定にはじまる。んだそうですね。
『・平頼盛(忠盛四男、清盛弟)−保盛(頼盛七人の子の三男)−頼清−保定(塩崎祖)−・・・』
また関氏や亀山氏などもいるけど伊勢平氏で有名なんですね。伊勢国(三重)鈴鹿郡関から起こった。壇ノ浦で入水した平資盛(清盛嫡男の重盛の子、維盛弟)の子孫という。(一説に否定的な意見もあるが、ここでは通説に従う)資盛の子・盛国は北条氏に助けられて鎌倉に育ち、その子・実忠のとき鈴鹿郡関を領した。国府・亀山・鹿伏兎(かぶと)・峰の支流諸家と共に関五家とよばれて鈴鹿地方に栄えた。
・関氏・・・平清盛−重盛(嫡男)−資盛(維盛弟、壇ノ浦入水)−盛国(北条氏に仕える)−実忠(関氏祖)・・・・・・俊盛(伊勢亀山城主)−胤盛−盛雄−※盛信(織田信孝に従った)−・・・。
・平資盛−盛国−長崎(平)盛綱(関実忠は兄弟)・・・−長崎高綱(円喜)−高資(鎌倉幕府内管領、執権北条高綱のとき幕政独占専横を極めた。新田義貞に攻められ自刃)
★鈴鹿郡関町や亀山市には亀山城ほかゆかりの城址が多い。戦国期に関一政があり、鳥取黒坂五万石を領したあとに内紛により改易、旗本五千石にとどまった。伊勢平氏関氏は信濃(長野)伊那郡、上野国(群馬)甘楽郡に移って同地で成長した系統もあり、今も群馬県、長野県、新潟県に関さんが多い。関氏には他に、秀郷流や桓武平氏岩城氏流などがある。
★折摘姫さんの家はこの関氏とは関係ないのでしょうか?
僕はその土地の氏の由来をまず同地の大族や(大)豪族から探っていくことにしています。意外とそこから氏の由来がかなりの割合でわかります。違っても家来筋ってことが多くあり。その上でも同地の大族や豪族を探っていくことは常套手段でしょう。
あとはそこからもれた氏族をあたればいいのでこれが一番早く見つける基本になります。
余談・・大阪の女性の漫才師の方に、名張出身の亀山房代さんがいますが彼女って、もしかして桓武平氏平清盛(資盛)流伊勢の関氏一族なのかな?相方の人が里見まさとということは清和源氏義家流新田族?源氏と平家のコンビ、現代版源平漫才合戦をしてるんですね。(笑)
僕の昔の友達に関ちゃんっていたけど彼もそうなのかな?歴史って過去のものじゃなくって続いてるんですね・・・。あらためて感心々々・・・・・・源三でした・。
[12] | 芹 摘 姫さんからのコメント(2001年08月10日 18時31分57秒 ) | パスワード |
源三さんありがとうございます。
戴いた情報で調べを尽くしておりますがE−mailと違って少しずつ進んでおります。
源三さんの情報でまた新たな展開を望んでおります。
お知らせするには未だ資料がそろっておりません。そろい次第報告させていただきます。
[13] | 芹 摘 姫さんからのコメント(2001年08月10日 18時58分14秒 ) | パスワード |
ありがとうございます。 源三さん
大台町には住んでおらず東京におります。纏めて休みはとりにくい仕事しております。芹 摘 姫はハンドルネームですが子供の頃から姫からなんとなく離れがたくて親しい人には自分のことを姫って言っていたようです。(因みに芹摘姫は聖徳太子が愛した女性の名)あるお坊さんに言われたことですがわたしの前世は平氏ゆかりの姫君平家の武将と泣く泣く別れを余儀なくなくされた。戦ゆえに仕方のないことだった。姫君は落ち延びて寂しい、逢いたい、辛い、せつないと泣き暮らしたそうです。その武将に逢いたいと成仏してないそうです。わたしに恋人ができると
逢えない日が続くと寂しい、逢いたい、辛い、せつないと激しくなるでしょう。
(言われてみれば思い当たるふしがあり)その姫君を探して報告して供養してあげなさいそうすれば成仏できるでしょう。そんな話でしたが姫君の名前聞き損ねたかそれとも気にもしてなかったら記憶しなかったか今となっては確かめる術はありません。そのお坊さんは故人だから。父方先祖は長崎県平戸にお墓があるのですが平家の落人と聞かされております。機会があれば確認して来ようと想っています。
[14] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月10日 23時14分22秒 ) | パスワード |
源三どの:
<11>は新しいスレッドにまとめて下さいよ。
ここに埋もれさせては勿体無いので。
「関氏」などが調べたい時にこのスレッドは見逃すと思いますから。
芹摘姫さん:
お相手はどなたでしょうね?
名前を聞けなかったのが残念ですね。
私の親友(幼稚園以来の関係ね)のご先祖は長野の出身なんですけど
井上靖の義仲の小説を読んでた時に
彼女の名字の侍大将が出て来たので(ご先祖かな?まさか)と思ってたのですよ。
彼女にも知らせずに。
そのウチに彼女が凄い大病になってしまって
国が面倒みてくれるお金のかからない病気なんですけど
無事命が繋がることになって
どうして次から次にと大病をするのか身延山の坊さんに訊いた所
「源平時代に部下を戦さに連れ出して餓えで死なせたから
食べ物と包帯を備えて部下を慰霊して欲しい」と言ったというのですよ。
その侍大将の名前を聞いてもうビックリ!
井上靖の本に書かれてた人物の名でした。
慌ててその本を捜したのですけど
日本の母に送ったのか?捨てたのか?
見つかりませんでした。
[15] | 皇竹さんからのコメント(2001年08月11日 12時23分53秒 ) | パスワード |
芹摘姫さん
2,3の人に当たってみましたが、
源三さんが詳しく書いておられるように、
大体この地の中西家は三つの流れより派生しているようです
先ず北畠の家臣に中西図書頭という人がいたようです
この流れと、播磨の赤松家から出ている流れ
もうひとつ神宮に関係する荒木田氏、渡会氏です
姫、捜索の手かがりとしては、
大台町の中西家(平氏)、落ち延びて来た姫君、家紋の木瓜紋しかありませんね。
勝手に推測しますと、
天正4年(1576)、南朝を支えた北畠家は織田信長に滅ぼされてしまいます
この時に落ち延びた北畠(家臣を含む)の関係の姫君かと思われます
この地で平信兼が西国の平家に呼応して兵を挙げるが、
義経軍と戦い敗れ、滝野城にこもって自刃してしまうのですが、
その残党が多く住みついて、やがて北畠の家臣団の吸収されていきます
北畠後は藤堂藩、紀州藩に召し抱えられていったようです
この地へ「落ち延びた姫君」に該当するような言い伝えなどないかと
聞いてみたのですが、心当りはないということなので、
地元の郷土史(町史)など調べられては如何でしょう
平信兼の郎党の妻で「お熊の方哀話」というお話はありますが、
時代が違いますね。
今回は
落ち延びた姫君の消息まで、迫れなくて申し訳ありません
又それ以外に周辺情報が取れましたら、書き込みして下さい。
当方も何か新しいネタが見つかれば報告します
[16] | 芹 摘 姫さんからのコメント(2001年08月11日 18時14分54秒 ) | パスワード |
ありがとうございます。
服部さん そうですね。その頃は御霊さん見えても否定していたために。
大事なことを聞き逃してしまったのです。悔やんでもせんことないこと。
皇竹さん
わたしは物こころ着いてから藤の花が大好きです。理由はわかりません。
そして紫色も変わらずに大好きです。藤棚の下ににいると心が落ち着きます。
一時義経伝説追いかけて見たことがあります。(北海道〜シベリア〜中国)
チンギス・ハーンになったという説。だけど鎌倉由比ガ浜で平氏の若武者に出会った源氏の武将が合いまみえて若武者の希望で介錯して歳を聞くと我が子と同じ。
敵前逃亡して仏門にはいった武将。その話を聞かされて若武者が愛おしくてなみだしました。一緒に行った友人もかわいそうな話だけどあなたは異常だよって言われてしまいました。源氏が嫌いと言う訳でもないのですが平氏と聞くと心が震えます。そしてわたしには蘇我のDNAも入っているようです。未だ調査中ですが。
万葉集は表歌集裏は真の日本史。調べているうちに春=天智系、夏=天武系 秋=蘇我系、冬=藤原系。歴史がどうなっていても秋が好き。夏は嫌いになれない。冬は鍵がありそう。歌はそれぞれにすばらしい。理由なくそうなってしまった。
そして父方の先祖には平氏と深い関わり。藤堂藩、北畠氏調査の必要性感じました。
服部さん、皇竹さん ありがとうございます。がんばってみようと想います。
何かわかり次第報告させていただきます。
[17] | 皇竹さんからのコメント(2001年08月26日 09時43分38秒 ) | パスワード |
芹 摘 姫さん
核心には迫れませんが、中西家に関する情報です
三重県度会郡下外城田大字岩出49番屋敷
旧和歌山藩地士中西篤三郎相続人 中西鎮治(M20.10.27生)さんによる
「由緒並地士歴代書」です
それによると、
「中西氏其祖先 多気郡西山ノ城主西山将監ニ出ツ
西山氏世々国司北畠氏ニ仕フ
後天正4年北畠氏三瀬ノ御所ニオイテ滅亡セシニ付
始メテ度会郡岩出村ニ居住ス
世ノ聞エヲ憚リ氏ヲ中西と改ム
数世ノ後元和5年徳川頼宣ノ所領トナリ
亦後和歌山藩ニ隷属シ地士トナリ文武ノ通ニ従事ス」云々
この中西家は城主西山将監の母方の姓だそうです
何かのヒントにでもなれば幸いです
[18] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月26日 10時17分48秒 ) | パスワード |
まぁ、凄い情報ですね。
ワタクシからも皇竹さんに感謝致します。
母方の姓でしたか。
[19] | 芹 摘 姫さんからのコメント(2001年08月30日 05時36分31秒 ) | パスワード |
皇竹さんありがとうございます。
貴重な情報ですね。
実は年寄りたちの話しは明智光秀につらなることだから口を閉ざしていたと聞き出しました。織田家にも関わりあるとか。なんぜ?今ごろになってこんなこと言い出したのか解らずじまいです。
早速調べておりますので解り次第ご報告させていただきますね。
服部さんmailで知らせていただいてありがとうございます。
服部さんのお母様の姓であるということはどこかで繋がるかもしれないですね。
[20] | 皇竹さんからのコメント(2001年08月30日 16時29分51秒 ) | パスワード |
北畠氏落城後、残党の中に明智光秀に味方をした一団がいたのです
落城の翌年(天正5)、北畠氏再興を計ろうと兵をあげた主君北畠具教の弟具親と
大宮多気丸の一党です
この時は失敗したのですが、山中に隠れ住み機会をねらっていたのです
5年後、織田信長が本能寺へ入るという情報を得た大宮多気丸、鳥屋尾内蔵助、
安保大内、、芝山小次郎、家城文覚ら、残党は、
主君北畠具教を汚い謀略で暗殺した信長に怨みを晴らさんと本能寺の近くに
潜んでいた。特に大宮多気丸は自分の父も信長に討たれている
そこへ早馬が飛んできて「信長、明智光秀に討たる」。
「しまった」「一足遅かったか」と嘆いてはみたが、怨敵信長が討たれたことは
めでたいことだと祝宴をあげた。
今後は明智光秀にお味方しようと、安土城にいる光秀の傘下に入ったという。
秀吉の時代になれば謀反人光秀に味方をしたとなればそれは大問題だつたのでしょう
[21] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月31日 00時37分36秒 ) | パスワード |
ここで明智光秀と繋がるのですか。
四国でも
織田信長の四国遠征に明智方と結んで織田方を迎えようとした側は
信長が光秀に討たれてから微妙な立場に置かれ
結局は秀吉が権力を握ってから大変なことになりました。
日本全国でそういう悲劇は起きたのが分かりますね。
[22] | 源三さんからのコメント(2001年09月01日 16時02分22秒 ) | パスワード |
服部さん、皇竹さんこんにちは!色々お話を拝見させていただいています。
さて折摘姫さん、天正時代の伊賀地方の本がありましたので紹介しますね。
●『伊賀天正の乱』 横山高治著・四六判215頁1456円
★三重郷土物語。美しい隠れ国の歴史文化・壮絶な血戦・凛たる国の栄光と歴史物語、その
「伊賀天正の乱」を「伊勢平氏の系譜」や「藤堂高虎」など郷土物語ではなじみの著者がユニーク
な史観と新資料で執筆。この一冊で伊賀が、戦国がわかる。美しい山河と歴史ロマン。
新風書房 Osaka tel06-6768-4600 fax06-6768-4354
toukyo 03-3359-3221 fax03-5360-1579
この本などに何かヒントなど載っていたらいいですね!僕はまだ読んでいませんが・・・。
★そして、折摘姫さんの、父方の先祖が長崎平戸の平氏系?平家系の話とても
興味があります、もし差し支えなければ、上の名前はわかりますでしょうか?
僕は肥前佐賀、長崎や筑後の歴史や氏族を主に個人的に興味をもって勉強しています。一氏族(氏姓)を知ることもより客観的にするいみでも、他の氏族(氏姓)の歴史や由来などをまんべんなく網羅して探っています。すると色々いもずる式にヒント
や答えがでてくることがよくあります。これがまた面白くて病みつきになっております、(より客観的に)知れば知るほど歴史はおもしろいですね、だから今回、平氏や
平家サイドからの歴史もしりたいと思い興味もって勉強しています。源平の戦いも
ドラマなどの描き方は悪者平家で描かれていること多いですよね、でも悪者は平清盛
であって他の平家(時忠←このひと別、平家にあらずんば・・言った人、?)の人は
家族、兄弟思いのけっこういい人の集団だったのでは?清盛の長男・重盛を筆頭に。
彼は再三再四、父を諌めていますね・・・。確かそうでしたね?服部さん??
今回は本の御報告までに・・・。ではでは・・・・。
[23] | 源三さんからのコメント(2001年09月01日 16時14分13秒 ) | パスワード |
訂正
清盛は子供達、兄弟、を思うばかりに(自分達平家のため)悪者になった。
源氏方は兄弟を思わないのとは対照的
なぜか?それは兄弟などよりも頼朝は自分を支えている部下(御家人)が一番
大事、いわば平家は同族経営これはだめ。今の企業社会にも通じますね。
企業を下から支えている一般の社員が大事、またそれを実践している会社は
伸びてるし、会社経営がしっかりしていますよね・・・。
要はは身内より部下(社員、御家人)。身内以上に部下(社員、御家人)・・・・
・・・ですか・・・。
[24] | 芹 摘 姫さんからのコメント(2001年09月06日 04時50分14秒 ) | パスワード |
源三さんありがとうございます。
父方は平戸城の姫君の乳母をしていたとの話もあります。
墓に着いてる家紋が想い出せなくて母にも聞かせての電話いれてみたのですが。
母も覚えていなくて墓参りに行ったときに家紋の写真を頼んでみました。
お寺で聞かされた話では平氏縁の公家紋だそうです。そのときは姫君捜索することになるとは想わずにいいかげんに聞いたことを悔やみます。(苦笑)
言い訳ですが仕事の関係でままにならない捜索です。未だ本線でない資料が多くて
後は魚屋と肉屋の話。・・・・たらとか・・・・ればとか。そんな話は知りたいことと違うんです。(笑)
本は早速探してみます。きっと名前に何か懐かしさを感じるのでヒントになるのではと想います。藤堂と言う名は特に気にかかっているのです。
皆さまありがとうございます。わたしの方もわかり次第お知らせいたします。
[25] | 源三さんからのコメント(2002年01月08日 23時52分31秒 ) | パスワード |
折摘姫さん、こんばんわ、書き込み今、気が付き読ませていただきました。
源三さんありがとうございます。
父方は平戸城の姫君の乳母をしていたとの話もあります。
★源三・よかったら御尊名をお聞かせねがいますでしょうか?
墓に着いてる家紋が想い出せなく、家紋の写真を頼んでみました。
お寺で聞かされた話では平氏縁の公家紋だそうです。
★平戸藩と関係がるのでしょうか?
藤堂と言う名は特に気にかかっているのです。
★藤堂氏は確か、江戸期は伊賀上野城主でしたが?
なにか御関係がおありか?(でしょうか?)
★平戸あたりはまだ勉強足らずなのでこれを気に気にかけて
勉強してみたいものです・・・。(おわり)
[26] | 鳥屋尾さんからのコメント(2002年01月20日 21時38分25秒 ) | パスワード |
こんばんは、ここは誰でも参加できますか。
[27] | 服部 明子さんからのコメント(2002年01月21日 00時30分49秒 ) | パスワード |
鳥屋尾さん
初めまして。
平家に関する話題・源平に関する話題・それから派生した話題など
どうぞ新しいスレッドをお立てになってください。
[28] | まろんさんからのコメント(2005年08月09日 21時01分17秒 ) | パスワード |
はじめまして。
こんばんは。自分の苗字と家紋についていろいろと調べていたら、こちらのHPにたどり着きました。
私の父は三重県多気郡の出身です。
祖父が一度、話してくれたことがあります。
祖父はもう他界して、結局わからずじまいのことがたくさんあります。
本家に行けばいろいろ教えてくれるのでしょうが、祖父が他界した後、なかなか三重にも行けずじまいです。
今になって懐かしく思い、いろいろと調べてしまいました。
私も幼かったので、断片的な会話しか覚えていませんが、
平氏の出で、津から多気に移り住んだ(壇ノ浦の戦いの後の事と記憶しています)ことと、
祖先の造った城跡(壇ノ浦の戦いの前か後かわかりません)が山の上にあるということ。
それだけです。
家紋は三つ柏です。
何か教えてくださる方がいらっしゃいましたら、教えてください。
宜しくお願い致します。
[29] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年08月09日 21時20分10秒 ) | パスワード |
三重は源平戦のあと鎌倉には従わず
更に織田信長との戦いもあり
それでそこら中に城が置かれ
今でも昔の名残りがそこら中にありますし
わたくしの三重の友人達の御家もそれぞれ御名字の名のついた城持ちでした。
そういう一覧表も見たことがあります。
まろんさんの御名字が書かれてないので日頃協力なさる方も協力の仕方がないと思いますよ。
もし御名字を伏せたいのでしたら
多気で柏紋ということで三重県のHPで問い合わせたら簡単だと思いますよ。
特に多気関連のHPでしたら御一族が見つかり易いと思います。
ここは日本中(北海道〜沖縄)にお住まいの方や海外在住者が参加してますので
あまりにも漠然としてますと調べてみようという気がそがれてしまうと思いますよ。
[30] | まろんさんからのコメント(2005年08月09日 23時27分41秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラー様
こんばんは。
いろいろとありがとうございました。
すぐにご返答いただき嬉しく思っています。
苗字は中村と申します。
祖母の着物を見ると、三つ柏と丸に三つ柏の両方があり、
親族は丸に三つ柏が家紋であるといいますが残された者ですので本当のところ解らないのです。
祖母の旧制の家紋も調べていないので、よくわからないのが実情です。
恥ずかしいことに、祖父が平氏の話をしたときにはボケているのかと思い、
半信半疑で話を聞いてしまったのが心残りでおります。
(現在は東京に住んでおりますのでその地で住んでいる方よりも情報が少ないのです)
なにかご存知のことがありましたら教えていただきたいです。
祖先のことを知って、私の生活が変わるとは思わないのですが、
調べてみたいと思います。宜しくお願い致します。
[31] | 暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年08月09日 23時53分48秒 ) | パスワード |
まろんさん
中村さんでしたら平姓中村氏は多いそうですよ。
歴史的には坂東平氏系・伊勢平氏系・その他。
三重でしたらやっぱり伊勢平氏の平家系でしょうね。
三重は伊勢平氏=平家=の本貫地ですから。それから南朝方、反織田信長です。
三重ではこういうのが主流です。
柏紋が平家系というのどこかに書かれてたと思います。
わたくしでしたら自分から逆上って戸籍謄本を取りまくり
明治初期の御先祖さま(たいてい江戸末期生まれ)の住んでた場所を知ります。
場所が特定できれば全国の電話帳の三重版で調べて
該当の中村さんに返信用封筒(切手を貼付したもの)を同封してお訊ねになったら良いのです。
100も送れば1つ2つ返事がありますよ。
またホンヤにあたる方の情報が得られると良いですね。
とにかく昔の戸籍謄本は大家族主義なので全てのメンバーの情報が載ってます。
その方達は血の繋がった御親戚なのでお手紙も送り易いと思います。
>恥ずかしいことに、祖父が平氏の話をしたときにはボケているのかと思い、
>半信半疑で話を聞いてしまったのが心残りでおります。
三重県出身でしたら「平家」が当たり前なんですから
特に多気あたりは戦国時代は北畠家の影響があって
バリバリの平家+南朝方+反信長と思いますよ。
そうでない御家は肩身が狭かったと思います。
ひょっとすると平重盛・維盛系関係じゃないかと思います。
どういう関係かの詳しいことはやはり一族の方からお聞きするより方法はないと思います。
それがまろんさんのアイデンティティ=御出自=ですから
他人にとやかく言われることじゃないので
御家の由来に誇りを持って後世に伝えてくださいね。とぎれないように。
[32] | 小林雅成さんからのコメント(2005年08月09日 23時58分32秒 ) | パスワード |
URL=http://ww1.tiki.ne.jp/~chigusaya/bframe.htm |
中村様へ
伊勢平氏会の前の会長が中村さんでした。たぶんお亡くなりになっているでしょうけど。
[33] | まろんさんからのコメント(2005年08月10日 21時02分53秒 ) | パスワード |
暇潰しのギャンブラー様、小林雅成様
貴重なお話をありがとうございました。
皆様の知識の深さにには関心の一言です。
なんだかとても嬉しい気持ちになりました。色々と教えていただいて・・・。
ありがとうございました。
私の父以外の親族は、まだ三重におりますので、話を聞くのは簡単なのですが・・・。
>恥ずかしいことに、祖父が平氏の話をしたときにはボケているのかと思い、
>半信半疑で話を聞いてしまったのが心残りでおります。
というのが、心情です。祖父亡き後なかなか訪ねる機会が無く時が過ぎてしまいました。
幼少時から東京に住んでおりますので、教科書に出てくるような氏が自分の祖先と関係しているのは考えもつかず、信じておりませんでした。
三重には城郭も多いのですね。自分の知っている(連れて行かれた)城跡も石しか置いておらず、よくわかりませんでしたがもう少し調べてみます。
芹 摘 姫様の記載(2001年08月02日 22時29分55秒)された姫様のお話も、祖父に聞いた「戦に負けた後、姫様を連れて逃げ、かくまって城を建て住んだという」話と似ているような・・・。城といっても名古屋城のようなたいそうなお城でなく、小さな小さな神社のようなものだと思います。
はっきりと覚えていないので、詳しいことをお伝えできませんが、色々と調べてみたいと思います。
何かありましたら教えていただきたいです。無知なものですから・・・。
ありがとうございました。
[34] | 箱柳永田さんからのコメント(2005年08月18日 10時25分11秒 ) | パスワード |
まろんさん 暇潰しのギャンブラー様
>三重でしたらやっぱり伊勢平氏の平家系でしょうね。
三重は伊勢平氏=平家=の本貫地ですから。それから南朝方、反織田信長です。
三重ではこういうのが主流です。
柏紋が平家系というのどこかに書かれてたと思います。
伊勢平氏長田系(平公雅系)後の尾張平氏が好んで使っています、その子孫は
源氏の全盛期に正しく伝えなかった可能性があります。
[35] | 8王子中西さんからのコメント(2005年09月02日 00時49分32秒 ) | パスワード |
皆様へ
あぁ良いところへたどり着きました。東京からです。<中西>家紋や姓を探していたのですが伊勢の神官までした。私先祖は○につる柏です。そして、氏神様として、<鈴鹿神社>を多摩の地にもってきています。先月もお祭りをしましたが氏子は中西姓だけの10人凸凹。伊勢系は確実なのですが、何故ここにいるのだろうか?
[36] | 8王子中西さんからのコメント(2005年09月02日 01時24分12秒 ) | パスワード |
つづき
ここは勅牧:由比の牧だったようです。献上馬の産地です。鈴鹿社を辿ると神奈川の座間市などに有り、川の流れが繋がりその先は江ノ島です。TV<義経>で熊野の水軍の人が遭難して鎌倉に流れ着いてたし〜陸路で来たのか海路なのでしょうか?ここには白旗橋が有り源氏縁の<糠信氏>(ヌカノブ)発祥地でもあります。不思議です。どなたかご指導下さい、よろしくお願いします
[37] | 旧姓:中西さんからのコメント(2005年11月03日 17時25分29秒 ) | パスワード |
はじめまして 愛知県在住の42歳会社員です。
この書き込み欄を偶然発見して数ヶ月、書き込もうかどうか迷いました。
ここでその行方が話題になっている中西家の末裔ですが、多分僕の妻のことと思われます。旧姓は中西で、大台町のお寺に先祖代々の墓があり、年に数回墓参りに行きます。
お墓もお寺の境内に複数あり、古くから続いている家柄のようです。妻の祖父の代まで(
戦前まで)は、商売の成功により、大変な資産家であったらしいのですが、農地解放で不在者地主であった大台町周辺の土地を失ったと前々から聞いておりました。なんでも昔は大きな蔵があり、火縄銃や刀、よろいなどの古物品が大量にあったらしいです。
先祖は平家だと義父が申しておりました。
ちなみに家紋は、丸に三柏(まるにみつがしわ)です。
[38] | 中西橘さんからのコメント(2013年01月21日 10時58分25秒 ) | パスワード |
私の旧姓も「中西」です。伊勢松坂櫛田というところにある
「安楽天神社」の境内に先祖の小さいお墓が複数あり、
江戸時代の年号が刻んであります。
今まで何の興味もなかったのですが最近気になりだしました。
伊勢神宮外宮の神官の子孫(傍流)なのでしょうか?
家紋は橘。
どなたか参考になる情報をお持ちでしたら
ぜひ書き込んでいただければ幸いです。
[39] | イルカさんからのコメント(2013年07月16日 21時28分06秒 ) | パスワード |
私も中西です。1338年に岩手県の花巻に移住しています。
それ以前は入鹿八幡の宮司でしたが、北畠親房の家臣だったので南朝についていました。
阿倍野の戦いの後、後醍醐天皇の命により、南部の花巻に移りました。
この時に家紋を賜りました。
おそらく家紋はこの時代あたりから流行りだした様です。
中西姓は物部や中臣など沢山の流れがあるので、厳密に遡るのは難しいですが、家紋で捜すのも一つの方法ですね。
ちなみに、本当は藤原鎌足の流れは中臣国子と血統は違うのですが、記述はできません。
中西橘さんの先祖の墓が江戸時代に安楽天神社にある事から推測すると、江戸末期までその神社の神主だった可能性が高いと思います。宮司だった場合、太政官令の時に追い出されたのでしょうが、その場合は墓は神社の土地の外に移される事が多かったようです。
参考にならないでしょうが、切り口の一つとして御考察下さい。
[44] | のぶさんからのコメント(2013年11月15日 12時57分22秒 ) | パスワード |
山形県の渡会(わたらい)です。
家紋は丸に三つ柏です。
一連のコメントを読ませて頂きました。
自分のルーツとか、歴史を散策するのは良い事ですね。
大変勉強になりました。<m(_ _)m>
[45] | 平家中西さんからのコメント(2014年02月15日 10時36分06秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2014年05月01日 19時43分10秒
[46] | 空の青海のあをさんからのコメント(2014年02月16日 06時18分15秒 ) | パスワード |
平家中西さん
””中西家が減り3軒になってしまったらそこを掘れ””
三重県で多気なら、落人というより、本物の平家の末裔でしょ?
にっこり
「3軒になったら掘れ」というのはどういう意味なんでしょうね?
そして「そこを掘れ」って、ものすごく夢のある言い伝えですね。
御先祖さまは何を子孫に残したのでしょうね?
ロマンをこの先も伝えるためにもたくさん男子が生まれたらいいですね。
この先もずっと「掘らなくて」良いようにと願っています。
[48] | 中西秀則さんからのコメント(2015年08月20日 12時21分48秒 ) | パスワード |
四国徳島につるぎ町があります。そこに、地蔵寺という、観音さまがあります。
於安という、姫がいて、(天正時代)後に於安御前といわれ、
寺につたえられた、於安御前縁記というのに、姫が出てきます。
一度,於安御前をみてください。
[49] | 中西秀則さんからのコメント(2015年08月20日 13時18分07秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2015年08月20日 13時18分57秒
[50] | 中西秀則さんからのコメント(2015年08月20日 13時21分20秒 ) | パスワード |
私のコメントはどこへいったのでしょうか?
[51] | 中西秀則さんからのコメント(2015年08月21日 11時19分43秒 ) | パスワード |
私のコメントはどうしたのでしょうか?
[52] | NAKANISHIさんからのコメント(2018年12月01日 22時02分12秒 ) | パスワード |
本日こちらを拝見致しました。
個人では取得できないような情報の数々、大変ためになりました。有り難うございます。
ところで芹 摘 姫さんの先祖捜索しは完了されてのでしょうか?とても気になります。
なぜかと申しますと、芹 摘 姫さんのお話が私の父方母方の話を足したような話だからです。
情報としましては、
私の父方先祖は30代以前城主をしておりましたが、戦に負けた際乳母が幼い子息を連れて逃げたそうです。その城址は現在村おこしに貢献しています。子孫は農地改革でほとんどの農地を取り上げられてしまいました。家紋は五三桐です。
さて母方はこちらでお世話になっている中西です。こちらは分かっているだけですが、私の世代で一七代目です。立派かどうかは分かりませんが鎧兜は伝わっており、一族が適当に適当な部分を持っていると思いますが、探すのが面倒なので蔵にあると言うにとどめています。
倭姫宮由来の神社は、川に面する一方を除く三方が先祖の地所でかこんでいます。祖父の代までは伊勢神宮の宮司をしていた者もおりました。
はじめは偶然似ているのかなと思いましたが、突然書き込まれた『年寄りたちの話しは明智光秀につらなること』を読んでハッとしました。中西の家紋が桔梗だからです。
上記理由から芹 摘 姫さんの結果がとても気になっております。
結果が出ておられたら書き込み宜しくお願いします。
[53] | あげはさんからのコメント(2022年05月03日 12時40分34秒 ) | パスワード |
こんにちは。和歌山県北部の奈良県境にいる中西です。
江戸時代は庄屋をしていた中西です。家紋は下り藤です。やはり藤原氏から来た者でしょうか?
紀伊国・中西・下り藤でご存知の方、よろしくお願い致します。
[54] | ごどさんからのコメント(2022年05月03日 13時46分32秒 ) | パスワード |
あげはさん
こんにちは。
お話からして現在龍神近辺で居られるのでしょうか。
私ですと永田の引き倒しになりますが。
上記を見直して、
少し調べてみます。
[55] | ごどさんからのコメント(2022年05月03日 19時16分43秒 ) | パスワード |
あげはさん
我が里の方は何故か先程モヤモヤが解けましたが、
紀伊 無論三重も含めますと
闘鶏國造などありますから私だけでは把握しづらい点があります。
コメントを皆様と照らし合わせますと、
少し先祖が覗いたようで来ました次第です。
[56] | 相良四郎さんからのコメント(2022年05月03日 20時25分07秒 ) | パスワード |
こちらのサイトさんが気に入ってます
無断で貼り付け
http://yamaiga.com/tunnel/k (utin)o2/main.html
括弧を外してからどうぞ
[57] | 相良四郎さんからのコメント(2022年05月03日 20時34分03秒 ) | パスワード |
於安さん 見てます
まだいらっしゃってますか?
[58] | ごどさんからのコメント(2022年05月03日 21時01分35秒 ) | パスワード |
こんばんは。
まわりくどいのはすいません。
家族で許して貰ってない事があります。
1時間以上もかかる所です。
硲というところがあるんです。
そのうち説明ができたらばと思います。
[59] | 相良四郎さんからのコメント(2022年05月04日 11時31分35秒 ) | パスワード |
こんにちは。
以下を使わさせて頂きます
http://akadama.blog.shinobi.jp
中臣氏の出自と名義 - akadama
その中臣氏は神八井耳命の系譜と言われています。 多氏がまず佐賀から大和の多神社へ、その多神社が常陸の大生神社となり、
続きはURLにで
[60] | 相良四郎さんからのコメント(2022年05月04日 21時29分04秒 ) | パスワード |
中村は いるのですが
本居神社は検索されにくいですね??
四十八家は覚えてしまおうかと思っています。
[61] | 相良四郎さんからのコメント(2022年05月05日 19時19分19秒 ) | パスワード |
松代が出てきました。
↓アマノコヤネ↓
『日本書紀』の一書には、中臣連の遠祖 興台産霊(こごとむすひ)の児とあり
https://genbu.net › saijin › koyane
貼れてるでしょうか。
玄松于さんお世話になってます。
[62] | ごどさんからのコメント(2022年05月07日 18時56分30秒 ) | パスワード |
初めまして。
湯西川でしたでしょうか、
あげは とHNになってるので其方からでは なんとなくです。
こちらでしたら揚羽から直ぐに くっ付いた引き両があります、
でもやはり
大台でしょうが と言われそうですが。。
桧山姓があるのですね。
[63] | ごどさんからのコメント(2022年05月07日 19時00分28秒 ) | パスワード |
中西は聞いたことあります
下がり藤は、
上のサイトさんに上り藤じがありますね
本人が云うのだから当て外れではないと(川頭の広告塔のつもりです)
【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る 】 |
|
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇ DB-BBS-system V1.08 by Rapha. WEB design Rapha. |