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 投稿番号:100141 投稿日:2001年07月11日 23時04分59秒  パスワード
 お名前:服部 明子
鎌倉幕府滅亡

コメントの種類 :ニュース  パスワード

蒙古襲来後の戦後処理・恩賞の配分に不満を残した
というのが定説になっていますね。

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年07月11日 23時11分58秒 ) パスワード
  

メールを頂きました:


日本はつくづく「時宗」ブームらしく、今日もNHKでモンゴル襲来がやってましたよ
(もっともブームの火付け役NHKだから、煽ってるだけか?)。

そこでちと不服に思ったことをチェックしよう。


まず、松平アナウンサーが言ってた、
「鎌倉幕府は武士でない人たちにも、恩賞を与え、総力戦体制を布いた」
という問題。


さて初歩的な質問。「幕府」(特に鎌倉幕府)って、本来どういうものですか? 
もう少し正確に言おうか?
「幕府ってそもそも何のために作られたの?」


ここを理解してない人が実に多い。
幕府は本来、関東武士の利益と権利を守るために作られた。
幕府に属する武士を「御家人」と呼んだのはそのため。
頼朝に帰服した武士が御家人と呼ばれたのも、そもそも「頼朝公に仕える武士」を意味したからですね。


だから、逆に言うと、頼朝に仕えなかった武士は「御家人」じゃなかったわけ。


何も武士の全部が鎌倉と「契約」したわけじゃない
(いかにもドライな物言いだが、中世の人間は現代人よかずっとドライだった。理念やカッコつけで武士になったわけじゃない)。

そういう自由はいくらもあった(特に西国では)。
幕府に直属しない武士を「非御家人」と言った。


御家人制度は特権制度でもあった。
つまり、御家人になるということは幕府から種々の恩恵を蒙ると同時に、
大きな負担もしょいこむことを意味した。

簡単に言っちゃうと、鎌倉が「おまえ今日から九州行って来い」と言えば、それに従わなければならなかった。全部の武士がそんなことできるわけがない。特に京都の朝廷の力が強い地域では、何も御家人になる必要などなかった。


だから、幕府が非御家人の協力も要請したことは大問題になった。
関東武士、それに敵対する勢力、その双方の利害に抵触しちゃったから。
そんなきれいごとじゃないんですよ、これ。
だって、外国人労働者問題と同じですよ?
日本の経済のためになるなら、外人に大量に国籍やっちゃってもいいのかな〜? 

それって単純に「いいこと」ですか?
(僕は拝外主義者じゃないけどね。アメリカではもっと深刻になってるでしょう?)

もちろん幕府(実際には北条氏)はこのことを計算に入れて、非御家人の「取り込み」を計った可能性も高い。

鎌倉時代は東西に二つの政府があっただけじゃなく、そのどちらにも属さない「第三勢力」がいっぱいいた時代でもある。そういう連中を参加に入れちゃえば、幕権の強大化にもなる。北条氏の家臣(御内人)にはそんな連中が実際多かった。鎌倉時代が経済の急成長し始めた時代だったことを考慮すれば、新興勢力を取り込もうという北条氏の努力は理解っできないものじゃない。


しかし、この「非御家人」問題がのちのち鎌倉の滅亡に到る遠因になったことも事実。

旧特権層(関東武士)と新興勢力の対立も激化しちゃったし。当然、幕府に権益を侵害された京都朝廷や寺社も不満を持った。北条氏は史上空前の大権力を有したが、反発を一身に浴びることにもなった。

・・・歴史って、単純じゃない・・・。 
[2]服部 明子さんからのコメント(2001年07月14日 10時04分02秒 ) パスワード
  

友人から:



鎌倉時代の、特に後期の歴史を勉強してると、権力が一元化されていないことがいかに大問題を生じやすいか実感できる。


鎌倉時代の幕府と朝廷関係は足利・徳川時代と全然違う。

鎌倉時代の朝廷は、旧時代の権益を十分確保し、幕府に劣らない「経済力」を有していた。
鎌倉末期の皇室は実に800カ所もの庄園を所有してた(数では北条氏に勝る)。
皇室がこんだけ持ってたのなら、五摂家だって相当持ってたはずだ。
奈良の興福寺(興福寺は藤原氏の菩提寺)は、事実上、大和盆地全土を領有してた。
北条氏に次ぐ大武家の足利氏が、幕府滅亡寸前の時期に、たった35カ所しか所領を持ってなかったことを考えると、いかに京都の力が強かったことか・・・。
しかも、名目上は幕府より上だったわけだし;比叡山や寺社は、幕府ではなく、朝廷に権益を保障されていた。


となると、いろいろな問題が生じてくる。


「非御家人」問題はその典型で、二つの権力が並立すると、どっちにも仕えないような連中が増えてくる。商業問題でも、北条氏に税金払ってる連中と、京都に税金払ってる連中とで衝突が起こる。北条氏の「得宗専制」の背景にはこういう問題もからんでる。

南北朝時代、次第に朝廷の権力が縮小され、足利氏のもとに一元化されていった理由もここに求められると思う。

日本の特殊な事情が生んだ「二重権力」構造も、最終的には葬られる運命だった。
だから、「義時、泰時あらば後醍醐の帝を・・・」といった議論は無意味。むしろ、後醍醐天皇だってバカじゃなかったんだから、ある程度はこういう事情に立脚して「謀反」したのでは・・・?
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