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 投稿番号:100111 投稿日:2001年05月07日 21時16分24秒  パスワード
 お名前:服部 明子
歴史街道6月号:義仲 vs 頼朝

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

5月2日発売の「歴史街道6月号」は
謎に迫る:木曾義仲が源頼朝に滅ぼされた本当の理由
が載っています。

その他「名君たちの金科玉条:毛利敬親と島津なりあきら」など

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年05月07日 23時05分39秒 ) パスワード
  

レスを頂きました:


木曾義仲が源頼朝にほろぼされた本当の理由ですか?

まあ、ありきたりのことしか書いてないでしょう。
覚えていたら、明日でも見てきます。

1.自分より先に、征夷大将軍になったので、アッタマにきたのだ。
2.巴という、男勝りの美女にアッタマにきたのだ。

義仲は、寄せ集め軍団でしょ。
放っておいたって、いずれ弱体化しますよ。
それをわざわざ滅ぼしたのは、1.の理由が70%だね。
「ちきしょう、俺より先に法皇に取り入りやがって。本当は俺だって貴族の仲間に
なりてえんだ」

2.の理由は30%程度。
巴の美人振りは、頼朝の耳にも入ったはずでしょ。
助平な頼ちゃんが、黙っているはずがない。
邪魔な義仲を殺して、巴を手に入れたかっただけ。
だから、その証拠に義盛の女にしたじゃん。
あの頃は、自分の女を主人に差し出すのは当り前。
[2]服部 明子さんからのコメント(2001年05月09日 00時56分14秒 ) パスワード
  

別の方よりレスを頂きました:



残念ながら、まだ読んでいません。でも木曽殿の敗亡については、僕なりの考えがあります。
木曽殿は鎌倉殿に敗れました。従来は、「自分の勢力基盤を十分に固められなかったのに、畿内にまで進
出したのが誤りだった」、という見解が一般的でした。
でもこの見解は暗黙裏に、「ゆえに鎌倉殿・源頼朝の政治力はすばらしかったのだ」と言っているのだと
思います。無理もない、徳川幕府が終結するまで、頼朝は武士にとって最高のカリスマだったのだから。
武士にとって頼朝「公」は、京都貴族のくびきから自分たちを解放してくれた「英雄」だったのだから
(庶民にとってはどうでもよかったのでしょうが)。
でも最近は、特に網野善彦先生が強調している、「東国独立国家論」がけっこう重要視されているんで
す。要するに、関東地方は昔っから独立願望が強く、関東人は京都の支配から脱した、完全な独立国家を
造りたかったんじゃないか?・・・という考えです。考えてみれば、交通も不便で、関東と九州なんて今
の外国より遠かったはず。イギリスでも、スコットランドはイングランドと全く別の国でした。関東一帯
(今の福島県と山梨県も含んで)の有力者からすれば、「自分たちの権益を、京都の連中に横取りされる
ことのない、『自由な』国家を造りたかった」というのは偽らざる心情でしょう(今でも独立国の誕生原
因なんてそんなものですから)。
僕もこの見解に部分的に賛成です。
というのも、鎌倉幕府は他のどの時代の政権よりも、「相互契約」の概念が強かった政府でした。幕府の
制度そのものが、まるで「関東だけで国家が造られているような」ものじゃないですか? 御家人は所得
格差が非常に大きかったにも関わらず、一応「一天万乗の君」鎌倉殿の前ではみんな平等でした。北条氏
が得宗専制を開始しても、幕府にとって一番重要な仕事は「裁判」だったしね。
あと、見逃してはいけない側面がある。当時の経済情勢と人口規模。
昔っからよく言われてはいたんですが、1180〜85は西日本で大飢饉が続いた時期で、そのために平
氏は経済基盤を失って亡んだ。勿論それだけじゃないとは思います。さらに、近年の研究では、頼朝の時
代、日本で一番人口が多かった地域は関東地方だった、とされています。それまでは畿内が最高の人口集
中地帯でした(畿内5カ国だけで、日本の総人口の20%以上を占めていた)。つまり、「皇帝」頼朝が
誕生した背景には、経済の発達があったわけです。人口は経済規模と連動しますから(封建時代は現代以
上に)。
僕は、鎌倉幕府が成立したのは、この2つの要因があってのことだと思います。どっちかって言うと、後
者が大きかったと思いますが。つまり頼朝は、その時代に「経済的に一番有利な土地」を支配してたわけ
です。
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年05月14日 23時15分43秒 ) パスワード
  

メールでご報告を頂きました:


拝啓、明子さん。
木曽義仲の記事をやっと読んできましたので、ご報告します。

掲載誌は「歴史街道」でした。
著者は「武光誠」という学者で、明治大学か明治大学の教授。

分量は5〜6ページのちっちゃな記事でした。
内容も、格別新しいことは書いてありませんでした。
でも、学者らしい良心的な記事でしたよ。木曽殿の敗因を、

1.木曽氏の支配領域はせいぜい信濃中部に過ぎなかった
2.信濃(特に伊奈地方)には甲斐源氏の勢力も伸びていた
3.木曽殿の直轄軍は2,000程度だった
この3点から分析したものでした。

斬新さはありませんでしたが、学者の良心は確認できましたね。


でも、結局、木曽殿は、頼朝に比べると、ずっと小規模な地方武士でしかなかったみたいです。
木曽殿が子息を人質に出したのも、圧倒的な実力差あってのことでしょうね。
その記事を読んでたら、「これじゃ秩父平氏や千葉一族のほうが大きかったんじゃないか?」って思えたぐらいだから。


木曽殿が有名になり過ぎている理由は、悲劇的な最期があまりに感動的だから
(義経と比較せよ!)、でしょうね。



これも「平家物語」あってのことか。
「平家」の作者は京都近郊の人だったはずですが、
平清盛と並ぶ悲劇の英雄を哀惜したのかも知れませんね。
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