小川もこ 近藤栄次朗 シャベリン(アーツ)
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 投稿番号:100108 投稿日:2001年05月07日 01時24分42秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平家物語の史跡を訪ねて その11

コメントの種類 :史蹟  パスワード

メールを頂きました:


静岡県と神奈川県の県境に近い、山北町に都夫良野という所があります。
その山の上に、「頼朝桜」なるものがあるんです。

普通の染井吉野より、半月か一ヵ月遅いんです。
どんな花か、見たこともありません。
ただ、その木は大きく立派です。

駄目でした。
風が強過ぎて、歩くのも厳しいくらい。
どうしようもなく、帰ってきました。
やっぱり、今年のゴールデンウィークはおかしい。

何で「頼朝桜」なのか、何の説明も無いという、それは不親切な山の中です。
少し奥の丹沢湖の近い所に、「頼政神社」たる物もあり、
この辺は摩訶不思議な場所です。

[1]服部 明子さんからのコメント(2001年05月07日 01時27分21秒 ) パスワード
  

別の方よりのメールご紹介:


あの辺は山北に川村氏、松田に松田氏という豪族が割拠していましたが
(この両氏は同族)、
鎌倉幕府からは「にらまれていた」存在でしたから、
鎌倉時代は冷遇されていたようです。

わかりやすく言うと、西湘は?沿海部に中村氏(土肥、土屋など)、?
内陸部に波多野氏(松田、川村など)が対立していて、

頼朝の蜂起は、実は相模の豪族の対立によるものだったのです。



松田氏は、南北朝時代には新田氏に協力していたようです。
新田義興が鎌倉を追われた後(1352)、
あの辺に潜伏していたと言われています。



松田/川村両氏が次に脚光を浴びるのは、後北条氏の時代。
「松田憲秀」という北条氏の重臣は松田氏の末裔なんだとか。



松田は町名に残っていますが、
川村は残念ながら消失してしまい、今では小学校の名前として残っているに過ぎません。

ちなみに豊後の大友氏は波多野氏の一族でした。
今も、小田原市には大友という地名が残っています。
[2]服部 明子さんからのコメント(2001年05月07日 04時21分14秒 ) パスワード
  

こちらもメールを頂きました:


僕は昨日今日と、あっちゃこちゃに旅行してきました。
昨日5月4日は伊豆韮山に、
今日5月5日は鎌倉に、とね。


韮山では、源頼朝が流されていた「蛭が小島」、
北条氏旧邸(以上、址のみ)、
北条義時の墓所がある「北条寺」、
江川太郎左右衛門(韮山に洋式溶鉱炉を造った人)の邸宅、
等々を見てきました。


韮山は狭い盆地状の町で、蛭が小島〜北条邸はせいぜい2〜3q。
頼朝と政子の恋物語も、この狭い盆地で、年頃の男女が織りなしたものだったんだなと、実感しました。
頼朝が送った「愛の歌」もあったのかな?


今日は鎌倉。
大学の先輩と、ビデオ片手に材木座〜由比ヶ浜〜稲村ヶ崎を歩きました。
曇ってて、あんまし眺めが良くなかったのが残念。
江ノ電の混雑があんなひどかったのも初めてでしたね。
鎌倉に行くんなら、絶対平日がいいですよ。連休中なんて、とんでもない。
[3]服部 明子さんからのコメント(2001年05月07日 04時24分00秒 ) パスワード
  

これもメールです:


きょうは頼朝の夢枕に云々の、北野神社(別称・牛天神)に行ってきました。
文京区にあります。
そこに「手で撫でながら願い事をすれば、それが叶う」という「ねがい牛」があるんです。
牛の寝姿に似た石です。
[4]服部 明子さんからのコメント(2001年05月14日 23時03分42秒 ) パスワード
  

メールを頂きました:


今日は、茅ヶ崎まで歩きました。
20Kmは軽く超えてるでしょう。

途中、「梶原七士の墓」とも「梶原一族の墓」と伝わる墓に寄ったりして、
春の香りを満喫。

この墓は、以前の書には「一族の墓」となっていたけど、
最近は「梶原に仕えていた七士の墓ともいわれる」と変わってきたみたいなの。

史実から、「やばいなあ、どうもこれは一族じゃないみたいだなあ」と思ったんじゃないかなあ。



私は、以前から「景時の本当の墓はこれ」と思っていたんだけど、覆りそうな気配。
だって、鎌倉に伝わる墓は、間違い無く嘘。

となると、首くらいはここに戻ってきたんじゃないかと思っていたんだけどね。

景時ちゃん、何処に葬られたんだろう。
[5]服部 明子さんからのコメント(2001年05月14日 23時10分58秒 ) パスワード
  

<続き>


梶原景時について:


『梶原君は嫌われ者だった』
坂東武者は、梶原の「掟の番人」という役目を理解できなかった。
その点、頼朝の御家人は、知能が低かった。
極く少数の、腹黒い連中を除いては。

『葬られた場所なんて誰も気にしなかった?』
腹黒連中は、「梶原など眼中にない」と強がったんでしょう。
実際は、梶原ほど怖い存在はなかったのにね。
だから、墓など知らん、ということかな。

『頼朝が死んでしまえば、凋落が待っていた?』
まあね。
頼家が、梶原を追放したあと気がついても、もう遅いわ。
先が読めず、後ろを振り返って「さあ、大変だ」という将軍では、
腹黒連中に手玉に取られて当り前。

『義経を良く言う為に梶原が悪く言われる。』
これは道理です。
誰かをよく言う為に、悪者をつくらなきゃならない。
これは、昔からの常套手段です。

判官贔屓の日本人は、義経を美化する為に、頼朝・梶原・平家まで、皆悪者にする。
流石に、後白河法皇までは言わないけど。
[6]服部 明子さんからのコメント(2001年05月14日 23時42分07秒 ) パスワード
  

<続き>

>判官贔屓の日本人は、義経を美化する為に、頼朝・梶原・平家まで、皆悪者にする。
>流石に、後白河法皇までは言わないけど。



後白河法皇が「聖域」だったということ:

私:
『聖域なのですから後白河法皇の悪口は言えません。
そうなると誰の悪口になるかと言ったら当然頼朝であり景時になる。』

彼:
日本人って、権力や高貴なものに弱いんでしょうね。
だから、日本では革命は起きなかった。
カラメテを攻めて、多くの人が血祭りに上げられたんです。
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