[1] | 服部 明子さんからのコメント(2001年03月05日 11時27分43秒 ) | パスワード |
三浦と千葉がつるんでたのは全く理解してなかったのです。
例の「犬」のエピソードで両家は仲が悪いとばかり思い込んでたのです。
三浦:千葉の子犬は寝床を知らぬようだな。
千葉:三浦の犬は友(和田)を喰らうとか。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2001年03月05日 21時10分43秒 ) | パスワード |
横須賀氏よりレスを頂きました:
へー、「時宗」はロスでも見れるんですか? 時の流れを感じる……。
それはいいとして、千葉も三浦も亡んだわけではないですよ。
千葉氏のばあい、千葉秀胤が討たれただけで、
千葉嫡流はずっとつづいてます(秀胤が嫡子だったかは知りませんが)。
三浦も泰村一統は滅びましたが、庶流である「さはら」氏が存続しました。
後に北条早雲に滅ぼされる三浦氏はこっちの流れです。
千葉氏のばあい、蒙古合戦に際し九州に嫡流家が移転します。
このせいで、。南北朝時代には嫡流をめぐって、後嗣争いが起こります。
くだんの「犬」のエピソードは、鎌倉幕府が倒れた後、千葉/三浦両氏が後醍醐天皇に対面した際、三浦氏(時継か)は千葉氏と対等に扱えと主張したってやつですね。当時、千葉氏は相当な勢力を保持してましたが、三浦氏は今の神奈川県三浦市一帯しか勢力下に収めていなかったそうです。最盛期に比べると、ずいぶん衰退しちゃってたんですね。そんでも千葉氏と対等に扱えと言ったんで、万座の失笑を買ったとか。
三浦氏は鎌倉時代には北条氏の「みうちびと」になってたようです。
でもロスにいるのか。うらやましい。僕は東京湾フェリーに乗ったとき以外、本州から離れたことすらないんで……。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2001年03月11日 20時49分49秒 ) | パスワード |
昨日は足利と京都の元将軍と毛利の妻(三浦の娘)の陰謀が発覚して
潰されるというエピソードでした。
足利泰氏が出家することに
「義家の置き文」
というのが語られていたけど
私は後世の作り話と思うのですがねぇ。
義家って野心家じゃなかったと思うので。
父親の頼義はそうだったかも。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2001年03月19日 00時02分41秒 ) | パスワード |
「兄弟の争い」の話を見ました。
難しいですね。
正妻の子・側室の子。
それをめぐる周りの人々。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2001年03月19日 00時04分03秒 ) | パスワード |
御家人達の間では
自分達は「北条」とは対等だった
という過去が捨てられない
ってことだったのですねぇ。
[6] | 江州さんからのコメント(2001年03月22日 13時51分46秒 ) | パスワード |
まさか御家人の千葉って家が二軒もあるなんてご存知ないでしょうね。実は三浦と共に滅んだのが上総の千葉でして、下総の千葉は北条にべったりでした。べったりどころか、時頼が後添えをもらったのが下総千葉につながる千田尼で彼女は時頼の出家で尼さんになって付き従ったようです。それから、千田尼の兄で千田次郎泰胤に至っては娘達を甥で下総千葉の当主頼胤と金沢顕時に嫁がせて、両家の接着剤の役目さえ果たしていました。でも皮肉なことに頼胤と顕時の孫達は新田義貞の鎌倉攻めの時にはお互い敵味方になって相打ちする羽目になってしまいましたが・・・。
それから、あの三浦との犬の件で揉めていたのが下総千葉の胤綱で上総千葉の秀胤とは従兄弟になりますね。この胤綱は泰胤の直ぐ上の兄でしたが、21歳くらいで若くして亡くなっています。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2001年03月22日 23時10分19秒 ) | パスワード |
はい、全然気が付いてなかったです。
でも当然ですよね。千葉氏と言ったってたった1つ存在してる訳じゃない。
ありがとうございました。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2001年03月25日 13時57分02秒 ) | パスワード |
時頼が旅に出るのが来週からになります。
今日は時頼が息子に家督を譲るまで
繋ぎに長時を執権(眼代)に据えたお話で
息子が執権になった時困った時は以下の人間に相談しろ
という話がありました。
重時
政村
泰盛
実時
時宗の正妻は泰盛の娘?!
凄い人間関係にビックリ。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2001年03月25日 22時03分22秒 ) | パスワード |
>時宗の正妻は泰盛の娘?!
娘じゃなくて妹みたいですね。
もっとビックリ。
昔は1夫1妻じゃないから人間関係が難しいです。
[10] | 江州さんからのコメント(2001年03月26日 13時25分08秒 ) | パスワード |
政村が娘の一人を実時の室に入れて、時宗の実弟の室に入れて、北条氏内でもややこしい人間関係を構築していく。(これは3回くらいあとの放映で出てくると思います。でも当時に離縁というようなことがあったのかな???実は実時が正室を離縁して政村の娘を正室にするって放映で出てきます。)
そんなにしないと自身の立場が安定しない?そんなに不安定な時代だったのかな?
全然今回の大河ドラマに顔を出さない千葉氏も北条氏や他の鎌倉御家人と姻戚関係を繋いで地位の安泰を図ってましたから、他家も押して知るべし、なのかも知れません。とっても複雑な人間関係が鎌倉時代を終わっていたら出来上がっていた、って訳ですね。
>時頼が旅に出るのが来週からになります。
最初に鉢の木の話が出てきますよ。でも少しあっさり過ぎる仕立てになってました。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2001年03月26日 17時16分40秒 ) | パスワード |
本当に複雑ですね。
私の母方(伊予の河野)も正室は北条からでした。
我が家の先祖は得宗家同様長子(母は江戸氏の娘)でしたから
家督を譲られませんでした。
この不満が後に我が家を南朝方にしました。
それにしても時頼が「長時を殺せ、時輔を殺せ」と言って死んでいくのは
凄いストーリーですね。
イメージがぶち壊れです。
このストーリーは2ヵ月後ロスで見られるそうで。
[12] | 江州さんからのコメント(2001年03月27日 18時37分51秒 ) | パスワード |
御家にはそういう経緯があったんですね。だから南朝に傾斜したということでしたか。
長子だから家督を継ぐとは限らないのは歴史上でもありますが、それでも腹違いの弟の家臣なり、下風に立たざるを得なかったご先祖様の無念ややり場のない怒りは如何ばかりか・・・。それが子々孫々にまで引き摺ってしまったのでしょうか?それくらい怨念に満ちたものだったのかも知れませんね。
時頼って人物は冷徹な人間で、非情さも持ち合わせていたのかは、いろいろな話を繋ぎ合わせても分からない面がありますね。でも北条家にあって時頼・時宗の親子は御内人の力などを頼らずに自身で政治ができた最後の得宗だったわけで、意外と人間味さえ感じることができるように私には思えます。(どうも貞時・高時の親子の代では御内人や内管領といった人々が権力を掌握してましたから、表向きのことは彼らに任せて遊興に耽ってしまったような印象が強いですが・・・)
まあ、ドラマだから、と割り切ってしまうのも見方が偏ってしまうかもしれませんが、ただ一つだけ時頼は後世の娯楽に影響を与えたものがありますね。例の鉢の木の話がベースで最明寺入道時頼が諸国を廻国したという逸話があって、それを基に江戸後期に時頼を徳川光圀に置き換えて、水戸黄門漫遊記というお話しが確立されました。
こちらは泣く子も黙る印籠をかざしての勧善懲悪のTV番組にまで仕立て上げられましたが、今度4月から放映される分では四代目として石坂浩二が登場し、今までのイメージを打破した黄門像を構築するらしいですよ。トレードマークの白い顎鬚もなく、肝心の午後8時46分頃では印籠を出さない、といった噂まであるようですから・・・。
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