[1] | 服部 明子さんからのコメント(2001年02月16日 22時09分16秒 ) | パスワード |
「関」さんとおっしゃるんでしたら
まさに資盛公ゆかりの方ですね。
[2] | 皇竹さんからのコメント(2001年02月17日 09時21分21秒 ) | パスワード |
桃林寺の外観です
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2001年02月17日 11時35分26秒 ) | パスワード |
芭蕉のお話が出たので:
花垣村の方は服部半蔵の部落だったそうで
松尾芭蕉の方は大山田の百地の部落出身だそうで
「一里は皆花守の子孫かや」というのは対抗上からかってるのかな?と。
[4] | 皇竹さんからのコメント(2001年02月18日 09時33分52秒 ) | パスワード |
成る程。
芭蕉にしてはチョット皮肉っぽい句ですものね
[5] | 皇竹さんからのコメント(2001年02月18日 10時23分06秒 ) | パスワード |
30数年振りに世義寺(伊勢市岡本)へお参りしました
この世義寺は天平年間(729-748)聖武天皇の勅願を奉じて
僧行基が建立したものだが、当初外宮の奥、前山にあった。
当寺は大峰山修験道の先達寺院として盛時には十九坊の
塔頭を数えたという
伝承によると、壇ノ浦脱出後の知盛を匿ったという
その後大火などあり現在地へ移った
今残るのは護摩堂であった威徳院と聖天堂のみである
前山の寺跡から陶経筒が発掘(江戸時代か)されている。
平安遺文によると
敬白
奉施入如法経筒一口
右志者為教豪尊霊出離
生死頓證菩提施入如右敬白
治承二年七月十二日造之
願主 僧 寛喜
造手 藤井成重
敬白
と書かれている。
平清盛が中宮徳子の無事安産を祈願したものではないかと言われている
当時前山は外宮への祈願所であった。徳子が入内したのは承安元年十二月(1171)、
着帯の儀が執り行われたのは治承二年六月(1178)であるから、清盛にとっては実に
七年目のお子誕生となるわけであった
無事安産をのためその怨霊退散を祈願したものと思われる。<br>
この陶経筒が作られたのは治承二年七月十二日とある。
この世義寺は大峰山などで修行する修験者の先達の所属寺でもあったので、星祭の
7月7日に護摩会(日本三大護摩の一つ)が催される
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2001年02月18日 16時01分43秒 ) | パスワード |
7年目にしてやっと懐妊でしたか。
待ちに待った孫だったのですねぇ。
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