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 投稿番号:100076 投稿日:2001年01月07日 23時20分02秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平田家継:平田城跡=明昌寺:三日平氏の乱

コメントの種類 :史蹟  パスワード

伊賀の方より所在地を送って頂きました。

[4]服部 明子さんからのコメント(2001年09月04日 12時33分10秒 ) パスワード
  

平田家継:家系図:源三どの作成の系図より


≪平正度≫の子孫
貞季(駿河守)
範季(筑後守)
家貞(筑後守、保元・平治の乱や殿上の闇討ちで勇名をはせた。北伊賀平氏所領の代官)
息子
★貞能
(筑後守。平清盛郎党として鹿ヶ谷事件の鎮圧、九州平定などに活躍。
平家都落の際出家し肥後入道と称した。
のち宇都宮朝綱の縁で源頼朝に罪を許された。)

息子
★家継または家次
(平田冠者、平氏滅亡後、伊賀で源氏に反乱(伊賀三日平氏の乱)を起こした。)
[5]服部 明子さんからのコメント(2001年11月19日 12時54分18秒 ) パスワード
  

以下は「ご先祖さまを捜しています:反田氏・石見氏」のスレッドの
隈さんの書き込みのコピーです。


平氏系の「半田」さんなら備後向島にたくさんいらっしゃいます。

手元の資料では、
「同族の口碑によると半田姓元平田氏なり、
平田氏は平家の末裔、小早川に属して、
豊田郡沼田村(現・広島県三原市沼田)に住していたが、
小早川隆景死し、毛利氏長防(山口県)に去るに及び、
本島(向島のこと)津部田に来たり、
福島、浅野(何れも江戸時代の広島藩主)等源氏に対して平氏を隠すためと
一は毛利一族という名を隠すため、
平の字の上「一」を下に移して半田を名乗りたるものであると称し、
今も沼田村米山寺墓地に祖先を祭るものがあると同時に、
津部田五烏神社境内にその一族が小早川神社を建立しているものもある。」
となっています。

なお、小早川家の先祖は坂東平氏の土肥実平(源平合戦の時は源氏方についた)。
上記の沼田という所が小早川家の本拠地です。
戦国時代に毛利家から養子に入って小早川家を乗っ取った?のが小早川隆景です。

*********************************


向島の「半田氏」は平家の「平田家」の出身ですか。
そうすると伊賀の服部家長の兄弟の家継の一族になります。

大山田の平田を継いだ「家継」の一族でしょう。
壇の浦で滅びてから向島に落ち着いたのか?
やはり南朝方として向島に落ち着いたのか?
それは分かりませんが。

家継の一族は備後にも生き延びていたのですか。
姓を半田と替えて。


大山田の喰代砦の百地三太夫はひょっとすると平田家継の一族かも。
それで千賀地の服部半蔵の家が宗清の末裔を名乗ってるから
自分の家の方が家長に近いから対抗意識を燃やしてたのかも。

半蔵の2代目が失脚した時
伊賀では造反有理として「我らの方が身分が上だった」と主張してる事も
宗清の子孫には従い兼ねるという事だったのかも。
[6]さちこさんからのコメント(2001年11月20日 12時49分54秒 ) パスワード
  

なんかまた少し怖い話になってきました(?)
私の叔母が服部家から半田家へ嫁いでるのです。
祖母が伊藤家から嫁いできたのと同じ弥富。
平島という所なのですが半田、伊藤、服部姓多いです。
向島とはやはりなにか関わりがあるのですね。きっと。

話はそれますが、半田、長田は秦氏系になると読んだ事があるのですが。
[7]さんからのコメント(2001年11月22日 10時14分10秒 ) パスワード
  

調べてみると、半田姓にもいろいろ流派があるみたいです。
桓武平氏でも、三浦氏の系統もあるのだそうです。

向島の「半田」姓は、仕えていた小早川氏と同じく「桓武平氏良文流」と記されているんですよ。
でも、それならわざわざ「平田」を「半田」に変えてまで隠れる必要も無いような気が?
小早川隆景の死後、他の家臣はかつての敵方である岡山の池田氏に仕えたりしていて、毛利遺臣であることを気にしている様でもないし。

彼らも畿内から逃げてきて、小早川氏に匿ってもらったとか・・・。

弥富の「半田」さんは、やっぱり元「平田」さんなのでしょうか?
それとも「長田」さん関連=秦氏系?
[8]さちこさんからのコメント(2001年11月27日 15時24分08秒 ) パスワード
  

弥富の半田家についてはほとんど何も判りません。
ただ弥富の地名に平のついたものは多いです。
平島、川平、前ヶ平、楽平(これでヨシヒラと読みます。)
これだけで平家と関連づけることはできないですが。
町の歴史には平家関連のものはないみたいです。
でも何かでてくるかも機会があればいちど調べてみます。

平田だったのを半田にかえた。
もしかしたら以前は秦、波陀(ハタ、ハダ)などを名のっていて、
平家滅亡後に字を変えて半田にしたとも考えられるのですが。
まったくの想像ですが。
宗清が平から柘植に変えてますが、
伊賀から少し大阪の方へむかうと都祁というインターがあります。
同じくツゲと読みます。
この都祁というのは古くからあって、日本書紀にもでてくるとか。
三輪山の近くに弓月嶽というのがあったらしく、
昔は秦氏など新羅系の帰化人の始皇帝に関する信仰の地だったそうです。
そこに服部と都祁の地名が並んで出てくるのです。
なんか無関係に思えなくて・・・。
平家以前都祁を名のっていたのを柘植の字に変えたのではと。
なんの根拠もない勝手な推測ですが。
どう思われますか?



[9]さんからのコメント(2001年11月28日 11時07分33秒 ) パスワード
  

>もしかしたら以前は秦、波陀(ハタ、ハダ)などを名のっていて、
>平家滅亡後に字を変えて半田にしたとも考えられるのですが。

私も秦氏についてあまり知らないので分からないけれど、
大陸から渡ってきた人々の発音は今の韓国語に近いものだった様ですから、
もともと「ハタ」と「ハンダ」の区別は無かったはず。
それと昔の日本語、特に古代の地名・人名は当て字ですものね。

さちこさんの説、私は頷けるものがあると思います。

>伊賀から少し大阪の方へむかうと都祁というインターがあります。
>同じくツゲと読みます。

地図を見て、奈良県山辺郡都祁村を確認しました。
ツゲって読むんですね・・・
読めないもんだから、ピンと来ませんでした。

都祁村の東隣が室生村。
さらに東(北東)へ行くと三重県名張市。
柘植だけでなく名張・室生も服部氏所縁の場所、という話題を最近書いたばかりですが。

この地域での服部氏と秦氏の関わりを示唆しているような・・・

やっぱり私も無関係だとは思えないですね。
[10]さちこさんからのコメント(2001年12月04日 12時59分54秒 ) パスワード
  

明子さんが秦氏にかんするスレッドをたてて下さったので、
柘植に関することはまたそちらで。
雅楽と服部家に関することもでてきました。
でも私にはややこしくて???今整理中。

このスレッドとは関係ないのですが、
日曜日に弥富の服部家ホンヤさんへ行きました。
服部家一族という各地の服部家の由来や家系図を書いたもののコピーを見せていただきました。
縁側でお茶をすすりながらポカポカ暖かくてこのまま寝ちゃいそうなんて思ってみていたらたら。
二代将軍秀忠の生母お愛は、西郷清貞の養女で実父は伊賀の服部平太正尚。
というのがでてきたのです。

これってよく知られてることなのですか?
私は初耳だったのですが。
それともこんなの嘘だよ本当はこうだよとか、
何かご存知の方がいれば教えていただきたいのですが。

その系図は、伊賀の服部某からはじまっててやたら某が多いのですが、
観世家と祖を同じくする服部家ということです。
そしてその正尚のいとこが名張城主服部保章で
その娘が明智光秀の妻となっているのです。(女子としか書かれてません)
光秀のプライバシー(?)てあまり知られてないですよね。
私が知ってるのは細川玉子が光秀の娘だったことぐらで。
光秀の妻って?

そして正尚が本能寺の変を家康に告げたとあるのです。
この系図がなんか本能寺の変についての見識が変わりそう。
あっ時間がないのでまた。
[11]服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 20時50分55秒 ) パスワード
  

2代目将軍秀忠の生母・お愛さんは家康最愛の女性で
お愛さんのマザーの後夫が伊賀の服部なんです。
ですからちょっとややこしいんですけど
ホンヤさんの資料では「実父」となってたのですか。

だからお愛さんは家康晩年の子が尾張藩主になって下だった時に
母替わりとして尾張に来てると聞いたことがあります。

弥富の服部家と徳川家の関係というのは
かなり古くからあったと思ってます。

だから家康からいろいろなお墨付きを頂いてて
これが今でも話題になったりするのですよ〜

とにかく尾張藩主が8代将軍と喧嘩して首になった時は
将軍からのお達しの席に同席し
次の尾張藩主に服部家ホンヤさんで育てたのをつけてるし

今でも

というのは当然さちこさんもご存じでしょうし。

あんまりホンヤさんのお家の事情というのを書きますとプライバシーに触れていきますので
最近のお話は止めておきます。
[12]服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 20時54分10秒 ) パスワード
  

>伊賀の服部<平太>正尚

これがポイントです。
<平太>というのは平氏の太郎という意味です。

平氏の三男だと<平三>になります。
今でもこういうお名前の方がいらっしゃいます。

ですから、お愛さんの父親は平氏をちゃんと称していらっしゃったのですねぇ。
感慨深いです。
[15]服部 明子さんからのコメント(2001年12月04日 22時36分40秒 ) パスワード
  

ちなみに源氏だと
源家の長男は<源太>と呼ばれます。
有名な所では<源太の産着>というのがあるそうです。
長男だけが相続する刀とかも。

源家の三男だと<源三>になります。


ちなみに<小太郎>というのは小さい太郎で次男の事だと聞きました。
でも最初に生まれた男子<長男>だからと言って家督を継ぐ<嫡男>というわけではなく
正妻でない腹から生まれた最初の男子の場合=長子=は<太郎>とは言わないようですね。

NHKの「北条時宗」の中でも時輔さんは長子だけど<三郎>とされてましたっけ。
正妻の子ではない、嫡男ではない、という差別区別なんでしょうね。


昔は約束事が沢山あったようです。
今はそういうのが消えて訳が分からなくなってるけど。
[17]服部 明子さんからのコメント(2002年10月13日 01時57分06秒 ) パスワード
  

http://www3.ocn.ne.jp/~mh23/heike232.htm

「平家物語」 下巻32話では

同じく18日、肥後の守・定能の叔父・平田入道定次ほか、伊賀と伊勢両国の官兵が、
近江の国まで討って出ましたが、源氏の末葉らと合戦に及び、たちまち、討たれてしまい
ました。平家に連なる家人達で、平家のよしみを忘れない者達でしたが、余りにも無謀な
戦いでしたから、世にこれを、三日平氏と言われました。


とあるそうです。
よく分かりませんが
という事は平田家継は平家貞の息子に生まれ家貞の弟(貞継)の所に養子に行った?
[18]服部 明子さんからのコメント(2002年11月08日 05時32分47秒 ) パスワード
  

源平盛衰記41章:

S4104 三日平氏付維盛旧室歎(二)夫別(一)並平氏歎事

同八日、去晦日、平氏備前国に責来る。
甲斐源氏に板垣患者兼信、〈 信義次男 〉美濃国を出(有朋下P539)て、
備後国に行向て合戦しけり。

平氏の船十六艘を討取間、両方命を失ふ者其数を不(レ)知、依(レ)之(これによつて)
兼信、美作(みまさかの)国司に任ずべき由言上しけり。


伊賀国山田郡住人(ぢゆうにん)、平田四郎貞継法師と云者あり。
是は平家の侍肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)が弟也。
平家西国(さいこく)に落下て、安堵し給はずと聞えければ、日比(ひごろ)の重恩を忘れず、多年の好みを思て、当家に志ある輩、
P1021
伊賀伊勢両国の勇士催し、平田城に衆会して謀叛を起し、近江国を打従へて、
都へ責入べしと聞えければ、佐々木源三秀義驚騒ぎけり。

我身は老体なれば、東国西国(さいこく)の軍には、子息共を指遣不(二)下向(一)、
近き程に敵の籠たるを聞ながら、非(レ)可(二)黙止(一)とて、
国中(こくぢゆう)の兵を催集て、伊賀国へ発向ければ、
甲賀上下郡の輩、馳集て相従けり。

秀義は法勝寺(ほつしようじ)領大原(おほはらの)庄に入、
平家は伊賀壬生野平田にあり、
行程三里には不(レ)過けり。

源平互に、勝に乗べきか、敵の寄るを待べき歟と評定しけり。


平家の方に伊賀国住人(ぢゆうにん)壬生野新源次能盛と云ふ者の計ひ申けるは、
当国は分限せばし、大勢乱入なば国の煩人歎也、近江国へ打出て、鈴鹿山を後に当て軍せんに、
敵弱らば蒐てんず、敵健ならば山に引籠、などか一戦せざるべきと云ければ、
然べしとて、源次能盛、貞継法師、三百(さんびやく)余騎(よき)の兵を引率して、
柘殖郷、与野、道芝打分て、近江国甲賀郡、上野村、■窪(ふしくぼ)、篠鼻田、堵野に陣を取て、
北に向て引へたり。

(有朋下P540)
佐々木は、大原(おほはらの)庄油日明神の列、下野に南へむけて陣を取。
源平小河を隔て扣へたり。
両陣七八段には過ざりけり。
互に名対面して、散々(さんざん)に射殺ぬる者もあり、手負者も多し。

平家は思切たりければ、命も惜ず戦ふ。
源氏の軍緩なりければ、源三秀義一陣に進んで、平氏は宿運既(すで)に尽て西海に落給(たま)ひぬ、
残党争源家を傾くべき、蒐よ若党、組や者共と下知しける処に、
壬生野の新源次能盛、十三束三伏を、よ引竪めて放つ矢に、透間を射させて馬より落。

秀義が郎等、敵をもらさじと目に懸て、暫竪めて放つ矢に、能盛馬より下へ射落さる。
敵に頸を取れじと、乗替の童馬より飛下、主の頸を掻落して、
P1022
壬生野の館に馳帰る。

源氏郎等共(らうどうども)も、今日の大将軍源三秀義を誅して、
五百(ごひやく)余騎(よき)轡を並て、河をさと渡して、揉に揉てぞ蒐たりける。

西国(さいこく)の住人(ぢゆうにん)等散々(さんざん)に蒐立られて、
自先立者は遁けれ共、後陣は多討れにけり。
今は返合するに及ずとて鈴鹿山に引籠。
夫よりちり/゛\にこそ成にけれ。

平家重代之家人也、相伝恩顧の好難(レ)忘して、思立ける志は哀なれ共、大気なしとぞ覚えたる。
三日平氏と笑けるは此事也。
[19]服部 明子さんからのコメント(2002年11月24日 15時28分09秒 ) パスワード
  

1180年12月1日

[玉葉]

夜に入り人伝えて曰く、
伊賀の国に平田入道と云う者(俗名家継、故家定法師男、定能兄と)有り。
件の法師近州に寄せ攻め、手嶋の冠者を伐ち
(党類郎従、相併せて十六人梟首、二人搦め得ると)、
また甲賀入道(義重法師なり)の城を追い落しをはんぬと。

[20]服部 明子さんからのコメント(2002年11月24日 16時12分06秒 ) パスワード
  

1184年

7月5日 辛卯
  大内の冠者惟義の飛脚参着す。申して云く、去る七日伊賀の国に於いて、平家の一族
  等の為襲わるるの間、相恃む所の家人、多く以て誅戮せらると。茲に因って諸人馳参
  し、鎌倉中騒動すと。


7月8日 甲午 晴 [玉葉]
  伝聞、伊賀・伊勢の国人等謀叛しをはんぬ。伊賀の国は、大内の冠者(源氏)知行す
  と。仍って郎従等を下し遣わし国中に居住せしむ。而るに昨日辰の刻、家継法師(平
  家の郎従、平田入道と号す)大将軍として、大内の郎従等悉く伐ち取りをはんぬ。ま
  た伊勢の国、信兼(和泉の守)已下鈴鹿山を切り塞ぎ、同じく謀叛しをはんぬと。こ
  の事に因って院中物騒す。喩えを取るに物無し。



7月18日 甲辰
  伊賀の国合戦の間の事、その沙汰を経らる。平家隠逃の郎従等を討ち亡ぼすべきの由、
  大内の冠者並びに加藤五景員入道父子、及び瀧口の三郎経俊等に仰せらると。雑色友
  行・宗重両人、彼の御書等を帯し進発すと。



[玉葉]
  伝聞、昨日伊勢謀叛の輩、近江の国に出逢い、官兵と合戦す。官軍理を得て、賊徒退
  散す。宗たる者を伐ち取りをはんぬと。


7月21日 丁未 [玉葉]
  伝聞、謀叛の大将軍平田入道(家継法師)梟首せられをはんぬ。その外両三人大将軍
  たる者伐たれをはんぬと。忠清法師・家資等山に籠もりをはんぬと。また官軍の内、
  大佐々木の冠者(名を知らず)伐たれをはんぬ。凡そ官兵の死者数百に及ぶと。


8月1日 丁巳 晴 [玉葉]
  或る人云く、鎮西多く平氏に與しをはんぬ。安藝の国に於いて、官軍(早川と)と六
  ヶ度合戦す。毎度平氏理を得ると。


8月2日 戊午 雨降る
  大内の冠者の飛脚重ねて参着す、申して云く、去る十九日酉の刻、平家の余党等と合
  戦し、逆徒敗北す。討亡者九十余人、その内張本四人、富田進士家助・前の兵衛の尉
  家能・家清入道・平田の太郎家継入道等なり。前の出羽の守信兼が子息等並びに忠清
  法師等は、山中に逃亡しをはんぬ。また佐々木源三秀能、五郎義清を相具し合戦する
  の処、秀能平家の為討ち取られをはんぬ。惟義すでに会稽の恥を雪ぐ。抽賞に預かる
  べきかと。


8月3日 己未 雨降る
  大内の冠者の使いを召し、委細の御書を賜う。その趣、逆党を攻撃する事、尤も神妙
  なり。但し抽賞せらるべきの由を進し申せらる。頗る物儀に背くか。その故は、一国
  の守護に補すの者、狼唳を鎮めんが為なり。而るに先日、賊徒の為家人等を殺害され
  をはんぬ。これ用意無きが致す所なり。豈越度に非ずや。然れば、賞罰は宜しく予が
  意に任すべしてえり。また御使を京都に発せらる。今度伊賀の国兵革の事、偏に出羽
  の守信兼子息等の結構に在るか。而るに彼の輩圍みの中を遁れ、行方を知らずと。定
  めて京中に隠遁するか。早くこれを尋ね捜し、踵を廻さず誅戮せしむべきの趣、源九
  郎主の許に仰せ遣さると。安達の新三郎飛脚として首途すと。





8月26日 壬午
  源廷尉が飛脚参着す。去る十日、信兼子息左衛門の尉兼衡・次郎信衡・三郎兼時等を
  宿廬に招き、これを誅戮す。同十一日、信兼解官の宣旨を下さると。


8月28日 甲申
  新造の公文所に門を立てらる。安藝の介・大夫屬入道・足立右馬の允・筑前の三郎等
  参集す。大庭の平太景能経営し、酒をこの衆に勧む。




1185年

5月14日 天晴 [吉記]
  忠清法師、一日比姉小路河原の辺に於いて梟首せられをはんぬ。去る比伊勢の国鈴鹿
  山に於いて搦め取られをはんぬ。天下毒害不当の者なり。



5月16日 戊戌
  忠清法師六條河原に於いて梟首すと。今日、前の内府鎌倉に入る。観る者垣墻の如し。
  内府は輿を用い、金吾は乗馬す。家人則清・盛国入道・季貞(以上前の廷尉)・盛澄
  ・経景・信康・家村等同じく騎馬これに相従う。若宮大路を経て横大路に至り、暫く
  輿を留む。宗親先ず参入し、事の由を申し入る。則ち営中に招き入るべきの旨仰せら
  る。仍って西の対を以て彼の父子の居所と為す。夜に入り因州仰せを奉り膳を羞むと
  雖も、内府敢えてこれを用いず。ただ愁涙に溺れるの外他に無しと。この下向の事、
  並びに同父子及び残党の罪條々の事、二品経房卿に属き奏聞せらるの処、その沙汰有
  り。招き下すべし。また死罪に行わるべきの旨、勅許すでにをはんぬ。但し時忠の事
  に於いては、死罪一等を宥めらるべきの由と。これ内侍所無為の御帰坐は、彼の卿の
  功に依るが故なりと。


5月17日 己亥
  卯の刻左典厩(能保、去る七日廷尉と同日出京)到着す。直に営中に入れらる。昨日
  極熱の間、聊か霍乱の気有り、逗留の由これを申さると。昨日、左典厩の侍後藤新兵
  衛の尉基清が僕従と、廷尉の侍伊勢の三郎能盛が下部と闘乱す。これ能盛献餉を沙汰
  するの間、基清彼の旅舘の前を馳せ過ぐ。その後旅具を持たせむ所の疋夫等進行する
  の処、能盛が引馬基清の所従を踏む。仍って相互諍論に及ぶ。この間基清が所従刀を
  取り、件の馬の鞦・手綱を切り奔行す。能盛この事を聞き馳せ出て、竹根の引目を以
  て、残る所の疋夫を射る。彼等叫喚せしめ馳せ騒ぐ。基清またこれを聞き駕を廻らし、
  能盛と雌雄を決せんと欲す。典厩頻りにこれを抑留し、使者を廷尉の許に発せらる。
  廷尉またこれを相鎮められ、無為すと。この事典厩強ち訴え申さずと雖も、自ずと二
  品の聴に達す。能盛が下部等驕りを成すの條奇怪の由、御気色甚だしと。


5月19日 辛丑
  京畿の群盗等蜂起す。敢えて禁じ難きの間、相鎮むべきの子細、今日沙汰を経らる。
  先ず平氏の家人等の中、戦場を遁れ出るの族、本の在所に閑散せしめ、猶田園を知行
  す。剰え都鄙に横行し、盗犯を事と為すと。次いで近日、遠江の国居住の御家人等、
  武威を以て恣に内奏せしめ、或いは院宣を申し下し、或いは国司・領家等の下文を掠
  め取り、地利を貪り公平を缺くと。次いで伊豆の守仲綱が男、伊豆の冠者有綱と号す
  る者、廷尉の聟として、多く近国の庄公を掠領すと。この[條々の事、その聞こえ有
  るに依って、殊に奏聞を経て、悉く以て糺断せしむべきの由定めらると。]



5月21日 癸卯 雷雨、即ち晴に属く。晩涼甚だし。
  二品左典厩を相伴い、南御堂の地に渡御す。造営の躰を巡見し、堂舎の在所等を談合
  せしめ給うと。また南都の大仏師成朝、御招請に依って参向す。これこの御堂の仏像
  を造立せんが為なり。

[玉葉]
  昨日流罪を行わる。僧俗併せて九人と。上卿通親卿、参議兼光と。
    時忠卿(能登)     信基朝臣(備後)     時實朝臣(周防)
    伊明(出雲)      良弘(前の大僧都、阿波) 全眞(前の僧都、安藝)
    忠快(前の律師、伊豆) 能圓(法眼、備中)    行命(熊野別当)


5月23日 丁巳
  参河の守(範頼)二品の命を受け、対馬の守親光の迎えの為、船を対馬島に遣わすべ
  きの処、親光平氏の攻めを遁れんが為、三月四日高麗国に渡ると。仍って猶高麗に遣
  わすべきの由、彼の島の在廰等に下知するの間、今日すでにこれを遣わす。当島守護
  人河内の五郎義長、同じく状を親光に送る。これ平氏悉く滅亡しをはんぬ。不審を成
  さず、早く帰朝せしむべきの趣これを載すと。





5月27日 己酉
  源蔵人大夫頼兼申して云く、去る十八日、盗人禁裏に推参せしめ、昼御座の御劔を盗
  み取る。蔵人並びに女官等動揺してこれを求む。頼兼が家人武者所久實、左衛門の陣
  の外に追奔しこれを生虜り、御劔を本所に返し置き奉る。件の犯人搦め取らるるの時、
  自戮せんと欲するの間、すでに半死半生の由、只今その告げ有りと。然る如きの勇士、
  殊に賞を加えらるべきの由、二品感じ仰せらる。則ち劔を取り出し、彼の男に與うべ
  しと称し、頼兼に賜う。この人御気色快然と。


5月29日 辛亥 雨降る [吉記]
  前の大納言頼盛卿、東大寺に於いて洛餝出家す。
[21]服部 明子さんからのコメント(2002年11月24日 16時30分42秒 ) パスワード
  

1184年7月19日に家継亡くなったようです。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2003年06月05日 06時40分30秒 ) パスワード
  

太郎さんの書き込みより:


平田家継はものによって書かれ方が違うようですね。

@肥後守貞能の伯父平田入道定次 「高野本」 
A家貞の長子、貞能の兄平田冠者家次 「尊卑文脈」
B家継法師 「玉葉」
C平田入道(貞能兄) 「山かい記」
D貞能カ兄平田入道 「延喜本」
E貞能舎弟平田入道 「四部合戦状本」
F源平盛衰記では 貞継?
[24]太郎さんからのコメント(2003年06月07日 19時34分44秒 ) パスワード
  

<平家貞の息子たちについて>

池宮彰一郎氏の「平家」を読んでる最中ですが、中巻の58ページに、
平家貞の息子たちの説明が出てきます。

家貞の死後「家督を継いだ家実や、別家を立てた家継は、一門の統制に当り、三弟の貞能と末弟の平六家長は常に清盛の身近に仕え、いずれも清盛の腹心として、忠節に励んでいる」

上の記述から、
@家貞の嫡男は家実であること、
A別家「平田家」を立てたのは家継であること、
B貞能が後に筑前守となったのは清盛に身近に仕えた結果であること、
C平六家長というからには家長は六男で、あと二人兄がいること、
などが考えられますね。

それにしても池宮さんは上の情報をどこで得たのだろう。系図のようなものがあったのかな。もしそうだとすると、あと二人の名前も載っていそうな気がしますね。
そのうち出てくるかは、読み進まないと分かりません。
[25]太郎さんからのコメント(2003年06月28日 17時04分48秒 ) パスワード
  

池宮平家の下巻に、家貞関係の系図が載っていることをひそかに楽しみにしていたわたしでしたが、残念ながら載っていませんでした。
[26]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2007年03月06日 11時15分59秒 ) パスワード

<3>一部削除しました。


明昌寺というお寺は、大山田村平田にありますが、
もし行かれるのでしたら

名阪中瀬IC→R163→7km・・・コスモGSとアニーズの信号交差点から150mです。
コスモGSで道が聞けると思います。


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