株式会社 エミ 小川もこ アクアジャンクション
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
 投稿番号:100065 投稿日:2000年12月09日 01時47分42秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平忠度

コメントの種類 :人物
スタッフによりコメントは削除されました。 2012年08月27日 09時58分12秒
[1]服部 明子さんからのコメント(2000年12月09日 01時50分31秒 ) パスワード
  

「行き暮れて 木の下かげを宿とせば 花や今宵のあるじならまし」

平 忠度41歳。
えびらに短冊を結びつけていて
その覚悟の最期が高く評価を受けました。
[2]服部 明子さんからのコメント(2000年12月09日 06時50分42秒 ) パスワード
  

以下は1989年高校2年生の古文の添削のマニュアルの写し:


歌を詠んで名を明らかにしたものを自分のえびらに結んで付けていたというのは
忠度が戦場での死を覚悟していたからであり
忠度の武将としての潔さが窺える。


我が身の最期を悟ってから死に至る迄の忠度の潔い態度は
六野太に「良い大将討ったり」と思わせた。
それが更に確信出来たのはえびらに結び付けられた歌によってであった。


「行き暮れて 木の下かげを宿とせば 花や今宵のあるじならまし」
この歌には「旅宿花」という題が付けられている。
[3]服部 明子さんからのコメント(2000年12月09日 06時56分23秒 ) パスワード
  

「平家物語」の「忠度の最期」

「薩摩守とは知りてんげれ」について:

「知りてんげれ」は「知りてけれ」よりも語勢が強い。
「平家物語」は琵琶法師が語り伝えたものと言われているので
このように調子の良い表現が多く見られる。


他にも
「追つ付く」
「あつぱれみかたには」
「につくいやつかな」
「ふつと切り落とす」
など
[4]服部 明子さんからのコメント(2000年12月09日 07時02分49秒 ) パスワード
  

薩摩守の死を聞いて
「ああ、気の毒に、武芸にも歌道にも熟達しておられた人なのに。
惜しい大将軍だったのに」と敵も味方もその死を惜しんだと述べられている。
[5]服部 明子さんからのコメント(2000年12月09日 07時28分11秒 ) パスワード
  

「忠度の最期」解説:

無念にも最期を迎えようとする忠度は覚悟を決めて声高く念仏を唱える。
そしてそのえびらには「旅宿花」と題された辞世の歌が結び付けられており
名前をしたためてあったので六野太は自分が討ったのが薩摩守だと理解したのだ。
旅の途中で日が暮れて桜の木の下陰を宿とするなら桜の花がもてなしてくれるだろうと
忠度は詠んでいた。

戦場にあってどこで死んでもおじけづかない潔さ、
桜に自身の魂を込めて詠んだ一首の美しさは
歌に武道に秀でた忠度の人となりをよく表わしている。

六野太の勝ち名乗りを聞いた敵も味方も文武両道に長じた大将軍の死を惜しんで泣いた描写で終わっている。
[6]服部 明子さんからのコメント(2000年12月16日 23時03分47秒 ) パスワード
  

註:下記の記事は「江戸川柳で読む平家物語」のスレッドにフクソウします:


************************************

以下は多分朝日新聞の「論説委員室・窓」からの記事だと思います。


<薩摩守>

電車などに運賃を払わずに乗ることを「薩摩守」という。
平家の武将、平 忠度が薩摩守だったことからくる。

名前が「ただのり」だから「だた乗り」である。


ひと昔前までは「薩摩守御用」と言えば
無賃乗車犯が捕まったことだ、
と注釈無しで意味が通じたように思う。


「江戸川柳で読む平家物語」(安部達二著・文春新書)という本がある。
すでに江戸時代から篭の乗り逃げを薩摩守と呼んでいたという。

本の中で著者の安部さんは
これが死語になりつつあり、忠度のことも知る人がいなくなった
と嘆いている。



薩摩守忠度は、すぐれた歌人でもあった。

源氏に追われて都落ちする際、
歌の師である藤原俊成に
「さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山ざくらかな」
の歌を託した。


討ち取られた時は、
矢を入れるえびらに
「行きくれて 木の下かげを宿とせば 花や今宵の主ならまし」
の1首を結びつけていた。


江戸川柳で平家物語が豊富に扱われるのは
「当時の庶民には常識だったからです」
と安部さんは言う。


薩摩守は歴史的な「おやじギャグ」だと言えば叱られるだろうか。
それが成立したのも
江戸庶民が忠度に共感していたからでもあろう。


とはいえ、そんなことを知る人が少なくなっても心配あるまい。
平家物語のような古典は少数であっても
いつの時代にも必ず読まれるものだ。


壇の浦で平 知盛が入水した時の
「見るべきほどの事は見つ」は
破綻した企業の関係者に重く響くのではないか。


朝日新聞データベースには1985年以降
能・狂言の紹介などで
薩摩守が十数件、忠度は約60件の記事がある。


しぶとく生きている。
[7]那須誠さんからのコメント(2001年07月18日 22時58分05秒 ) パスワード
  

さざ波や志賀の都はあれにしを
昔ながらの山桜かな→鉄道唱歌44番

四四 むかしながらの山ざくら
     にほふところや志賀の里
   都のあとは知らねども
     逢坂山はそのまゝに
ということでした。
[8]服部 明子さんからのコメント(2001年07月19日 00時29分26秒 ) パスワード
  

私個人は「行き暮れて 木の下かげを宿とせば 花や今宵のあるじならまし」の方が
好きなんですが

「さざ波や志賀の都はあれにしを
昔ながらの山桜かな」の方が名歌なのでしょうね。

「行き暮れて 木の下かげを宿とせば 花や今宵のあるじならまし」の方は
情景が歌の世界に留まらないので印象深いということで好きなんでしょうね。


むかしながらの山ざくら
にほふところや志賀の里
都のあとは知らねども
逢坂山はそのまゝに

これもいいですね。
古典からの替え歌というのは日本の文化だなと。
ありがとうございました。
[9]たまねこさんからのコメント(2002年08月28日 00時18分16秒 ) パスワード
  

秦氏で思い出しました、大津京。
大津に都があったのは、わずか5年間。

壬生の乱で焼け落ちてしまった大江大津宮を偲んで、柿本人麻呂が詠んだ歌。

『楽さざなみ浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ』

柿本人麻呂が詠んだ長歌「近江荒都を過ぐるときの歌」は、大津京で栄華の日々を送り、滅びていった人々への鎮魂の歌。それを踏まえて、本歌取りとして詠んだ歌が、

『さざ浪や 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな』

この歌は1160年代に、藤原為業の歌合の席で詠まれたものですから、平家の全盛期だったのでしょう。自分たちも”大津京の人々”になるとは思っていなかったのでしょうね。それとも、将来を予知していたりして?当時の評価は、いかほどだったのか?

この歌が千載集に撰入されなければ、「都落ち」の際のエピソードも作られなかったはずです。また、あのエピソードがなければ、「千載集」という勅撰和歌集の名も、それほど知られていなかったかも。相乗効果なのでしょうか?

「詠み人知らず」としてでも、選ぶ価値のある歌だったというよりは、当時の話題(芸能、スポーツ、スキャンダル?)として、取り込まれたのだろうか…何だか、悲しい気もする。
[10]服部 明子さんからのコメント(2002年08月28日 09時10分50秒 ) パスワード
  

今日はこのスレッドに対してお誉めのメールを頂きました。
ありがとうございました。
[11]川口 信さんからのコメント(2002年08月29日 11時22分35秒 ) パスワード
  

歌の道が好きだった平忠度が恋した女の人がいた。22歳の男が45歳の才女に憧れを抱く気持ちが分かりますか?。現代においてもこんな感じがあるのでしょうか?私には遠い昔のことですが。

 小侍従には『古今著聞集』に後白河天皇のご寵愛を受けた話があり、若いころ、のち内大臣となる源雅通と愛し合い、村上源氏伝来の久我の水閣と呼ばれた伏見の久我にあった別荘に小侍従は招かれ、雅通と濃密な時間を過ごしている。小侍従は、のち太政大臣藤原伊通の子息伊実(中納言に至る)の妻として子を設けた。伊実三十六歳で没、そののち小侍従は源頼政と愛し合い、また平家の公達・二十二才の平忠度が、当時四十五歳であった小侍従に愛を告白している。小侍従は小柄な美人であったとされる。

 上記文は「辛酉夜話:12章・小侍従と平忠度、藤原実定」のなかに歌人伝:太皇太后宮小侍従(待宵小侍従)のタイトルで書かれた一節です。このHPの作者は80歳余のひとで製作意欲・研究熱心さには心打たれるものがあります。

  http://homepage2.nifty.com/H-Suga/ の中
  http://homepage2.nifty.com/H-Suga/koji14.html
[12]服部 明子さんからのコメント(2002年08月29日 14時55分45秒 ) パスワード
  

小侍従

理想の女性ですねぇ。
そうありたく思います。

忠度という若者もなかなかですね。
大人の女性の魅力をちゃんと知っている。
ふふふ
[13]たまねこさんからのコメント(2002年08月30日 03時13分39秒 ) パスワード
  

男の方って、若い頃は、母親に似た女性に憧れるものなのでしょうか。(そして、年老いたら、娘ぐらいの若い女性へと…)

平家物語では、都落ちの際に馬を引き返し、藤原俊成邸に行って歌集を手渡し、勅撰集への入集を依頼する場面がありますが、もちろん、事実ではないようですね。

都落ちの前年である1182年に編纂された『月詣和歌集』がありますが、これを編む際の材料として、家集『忠度集』が賀茂神社に奉納されているそうです。
それとも、この巻物以外に百首ほど書かれたものが存在しているのでしょうか?
(あの大変な時期に、のんびりと歌を詠んでいる暇があったのか?)

都落ちするまで、平家が危ない状態だと気付かないほど呑気で、
今は一家の一大事だという時に、「自分の歌を選集に入れてくれ。入れてくれないと、草葉の陰で泣いてやる〜」と迫るほど、女々しい男だったのか?
そうではなかったと思いたいですね。

俊成邸やお世話になった方々に対しては、早々と御挨拶に伺って、今後の身の振り方を御相談していたのかも。
[14]ミッサンさんからのコメント(2005年11月14日 03時41分10秒 ) パスワード

服部明子様

きっと、貴女の勘違いとは思いすが、薩摩忠度とは清盛の息子であり、とあり

ますが、忠度は1144年、平忠盛の七男として生まれ、清盛の異母弟で26歳もの

違いのある末弟でした。ご参考になれば幸です。
[15]服部明子さんからのコメント(2005年11月14日 09時25分40秒 ) パスワード

ありがとうございました。
[16]服部明子さんからのコメント(2005年11月14日 09時29分18秒 ) パスワード

表題の書き込みのことです。
下に書き換えさせて頂きました。


無銭乗車のことを「薩摩守」と言いますが
平薩摩守忠度とは清盛の弟であり
武勇と共に歌人としても高い評価を得ています。
[17]今井四郎さんからのコメント(2005年11月14日 22時59分08秒 ) パスワード
URL=http://www.cometweb.ne.jp/ara/

延慶本には、もう一首載っています。巻七より
廿九 \そ/の-なか/に\やさしく\あはれ/なり/し\こと/は、\さつま/の-かみ-ただのり/は\たうせい\ずいぶん/の\かうし/なり。\そ/の-ころ、\くわうだいこうくう/の-だいぶ-しゆんぜい/の-きやう、\ちよく/を\うけたまはり/て\ぜんざいしふ\えらば/るる\こと\あり/き。
P2-585
\すで/に\ぎやうがう/の\おん-とも/に\うち-いで/られ/たり/ける/が、\のりがへ\いつき/ばかり\ぐし/て、\よつづか/より\かへり/て、\か/の\しゆんぜい/の-きやう/の\ごでう-きやうごく/の\しゆくしよ/の\まへ/に\ひかへ/て、\かど\たたか/せ/けれ/ば、\内/より\「いか/なる\ひと/ぞ」/と\とふ。\「さつま/の-かみ-ただのり」/と\なのり/けれ/ば、\「さて/は\おちうと/に/こそ」/と\きき/て、\世/の\つつまし-さ/に\へんじ/も\せ/られ/ず、\かど/も\あけ/ざり/けれ/ば、\そ/の-とき\忠度、\「べち/の\こと/にて/は\さうらは/ず。\こ/の-ほど\ひやくしゆ/を\し/て\さうらふ/を、\げんざん/に\いら/ず/して、\ぐわいと/へ \まかり-いで/む\こと/の\くちをし-さ/に、\持て\まゐり/て\さうらふ。\なに/かは\くるしく\さうらふ/べき。\たち/ながら\げんざん-し\さうらは/ばや」/と\いひ/ければ、\さんみ\あわれ/と\おぼし/て、\わななく-わななく\いで-あひ\たまへ/り。\「世\しづまり\さうらひ/な/ば、\さだめ/て\ちよくせん/の\こう\をはり\さうらは/むず/らむ。\み/こそ\かかる\ありさま/に\まかり-なり\さうらふ/とも、\なから/む\あと/まで/も、\こ/の\みちに\名/を\かけ/む\こと、\しやうぜん/の\めんぼく/たる/べし。\しふせんじふ/の\なか/に、\こ/の\まきもの/の\内/に\さる/べき\く\さうらは/ば、\おぼしめし-
P2-586
いだし/て、\いつ-しゆ\いれ/られ\さうらひ/な/む/や。\かつうは\また\念仏/を/も\おん-とぶらひ\さうらふ/べし」/とて、\よろひ/の\ひきあはせ/より\百首/の\まきもの/を\とり-いだし/て、\かど/より\内/へ\なげ-いれ/て、\「忠度\いま/は\さいかい/の\浪/に\しづむ/とも、\こ/の-よ/に\おもひ-おく\こと\さうらは/ず。\さら/ば\いら/せ\たまへ」/とて、\なみだ/を\のごい/て\かへり/に/けり。\しゆんぜい/の-きやう\かんるい/を\をさへ/て\内/へ\かへり-いり/て、\ともしび/の\もと/にて\か/の\まきもの/を\み/られ/けれ/ば、\しうか-ども/の\なか/に、\「こきやう/の\はな」\/と-いふ\だい/を。
\さざなみ/や\しが/の-みやこ/は\あれ/に/し/を\むかし/ながら/の\やまざくら/かな K137
\「しのぶ\こひ」/に。
\いか/に\せ/む\みやぎがはら/に\つむ\せり/の\ね/のみ\なけ/ども\しる\ひと/の\なき K138
\そ/の-のち\いく-ほど/も\なく/て\世\しづまり/に/けり。\か/の\しふ/を\そうせ/られ/ける/に、\ただのり\こ/の\みち/に\すき/て、\みち/より\かへり/たり/し\こころざし\あさからず。\ただし\ちよくかん/の\ひと/の\名/を
P2-587
\入るる\こと、\はばかり\ある\こと/なれ/ば/とて、\こ/の\にしゆ/を\「よみびと-しら/ず」/と/ぞ\いれ/られ/ける。\さ/こそ\かわり-ゆく\よ/にて\あら/め、\てんじやうびと/なんど/の\よま/れ/たる\歌/を、\「よみびと-しら/ず」/と\いれ/られ/ける/こそ\くちをしけれ。

この後に、

かしかまし\のもせ/に\すだく\むし/の-ね/や\われ/だに\もの/は\いは/で/こそ\おもへ K139

の歌話も有ります。
[18]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2005年11月15日 04時35分45秒 ) パスワード

書き直してみました:


「こきやうのはな」 ←これだけは知ってました
さざなみや しがのみやこはあれにしを むかしながらのやまざくらかな K137


「しのぶこひ」
いかにせむ みやぎがはらにつむせりの ねのみなけどもしるひとのなき K138


かしかまし のもせにすだくむしのねや われだにものはいはでこそおもへ K139


いいですね〜(うっとり)
[19]弓丸さんからのコメント(2005年11月15日 11時22分41秒 ) パスワード

かからじと思ひしことを忍びかね恋に心をまかせはてつる

【通釈】こんなふうに正気を失うことはあるまいと思っていたが、それも堪(こら)えかねて、とうとう恋に心をゆだねきってしまった。

忠度の恋歌は、とても正直で情熱的な歌なので、ちょっとドキッとしてしまいました。
今もドキドキです。
[20]夏月さんからのコメント(2005年11月18日 17時54分27秒 ) パスワード


今井様

延慶本にあるもう一首の歌
『いかにせむ 御垣が原に摘む芹の ねにのみ泣けど 知る人のなき』は
治承三十六人歌合によれば、実は忠度の歌ではなく、兄経盛の歌です。
谷山茂『平家の歌人たち』でも、経盛の歌とされていました。なぜ、延慶本
で、忠度の歌とされているのかは、私にはよくわからないのですが。
ただ、『さざなみや〜』『いかにせむ〜』のこの2首は、藤原定家が、古今集
から新古今集までの秀歌を選んで編んだ『定家八代抄』にともに入っており、
定家は千載集の秀歌として、高く評価していたようです。
[22]今井四郎さんからのコメント(2012年08月25日 21時56分20秒 ) パスワード
URL=http://www.asa-kikaku.com/

延慶本(原文版)巻九より、忠度の最後の場面です。
廿二〔薩摩守忠度被討給事〕 一谷ノミギワニ西ヘサシテ武者一騎落行ケリ。齢四十計ナル人ノヒゲ黒也。黒皮威ノ鎧キテ、射残タリトオボシクテ、エビラニ大中黒ノ矢四五残タリ。白葦毛ナル馬ニ遠雁シゲク打タル鞍置テ、小ブサノ鞦カケテゾ乗タリケル。葦屋ヲ指テ下ニ落ケルヲ、武蔵国住人、岡部六矢田忠澄ト云者馳ツヾキテ、「コヽニ只一騎落行ハ誰人ゾ。敵カ、御方カ。名乗給ヘ」ト云カケヽレバ、「御方ゾ」ト答タリ。忠澄馳並テ、サシウツブヒテ内甲ヲミケレバ、ウスガネ付タリ。「源氏ノ大将軍ニハカネ付タル人ハオワセヌ者ヲ。キタ
P3135(六八オ)
ナクモ敵ニ後ヲバミセ給物カナ」ト云ケレバ、其時忠度、「御方ト云ハヾ云セヨカシ」トテ、六矢田ニ押並テ組テ、馬二疋ガ間ニ落ニケリ。忠度落サマニ三刀マデ指タリケリ。一ノ刀ニハ手ガヰヲツキ、二ノ刀ニハクケヰヲツキ、三ノ刀ニハ甲ノ内ヘツキ入タリケレバ、ホウヲツキツラヌヰテ、六矢田ガ後ヘ刀三寸計ゾ出タリケル。六矢田ガ郎等落合テ、打刀ヲ以テ忠度ノ弓手ノ小ガヒナヲカケズ切ヲトス。サレドモ忠度スコシモヒルマズ、メテノカヒナニテ六矢田ヲノセテ、三イロバカリ被投一タリ。忠澄ヲキアガリテ、忠度ニ組。ウヘニ乗ヰテ取テ押テ、「誰人ゾ。名乗給ベシ」ト、「己レニ合テ一度モ名乗ルマジキゾ。己ガ見知ラヌコソ人ナラネ。サリナガラモヨキ敵ゾ。定勧賞ニ預ラムズラムゾ」ト云ケレバ、六矢田ガ郎等落重テ、忠度ノ鎧ノクサズリヲ引上テ是ヲサス。忠澄刀ヲ抜テ指カトミヘケレバ、
P3136(六八ウ)
頸ハ前ニゾ落ニケル。忠澄頸ヲ大刀ノサキニ指貫テ、「『名乗レ』トイヘドモ名乗ラズ。是ハタガ頸ゾ」ト云テ、人ニミスレバ、「アレコソ太政入道ノ末弟、薩摩守忠度ト云シ歌人ノ御首ヨ」ト云ケルニコソ、始テサトモ知タリケレ。忠澄、兵衛佐殿ニ見参ニ入テ、勲功ニ薩摩守ノ年来知行ノ所五ヶ所アリケルヲ、忠澄ニ給テケリ。
[23]空の青海のあをさんからのコメント(2012年08月26日 03時58分48秒 ) パスワード

今井四郎どの


忠度の最期は「平家物語」の美しい段の1つですね。

久し振りに読んで、
角川文庫の「13忠度最期の事」も読んで

また泣けました。



描写が美しいし
手に汗握る一騎打ちもあるし
忠度のユーモアもあるし
貧しい下級武士の必死さも書かれているし

本当に素晴らしい1段です。


岡部は所領を5つも頂いて「武士の誉れ」を果たして・・・

    岸和田の殿様の岡部はこの人の子孫なのかな?と連想しました。


忠度の最期は、読後、ズシンと来ます。
豪傑的な体躯の持ち主が和歌に優れていて
どちらにしても「惜しい」。

それも岡部のような下っ端の武士に首を取られてしまうとは。


でも岡部も名を残して、後世まで記憶されて、武士の誉れです。
[24]空の青海のあをさんからのコメント(2012年08月27日 09時55分55秒 ) パスワード

本日の「平清盛」の回。

いかに平家の人々が優れていたか、の回でしたね。
「清盛、50の宴」です。


忠度どのが歌に優れていること
咄嗟の席でみごとに九条兼実の歌を凌いだ。

    基房と兄弟だったのですか。


相手の歌を良く聞いて
それに返歌するのに、相手以上の技術を駆使して、
より良い歌で、返歌する。


   ま、熊野の人ですから、京の都に負けない教養を母方から躾られたのでしょうね。
[25]今井四郎さんからのコメント(2012年08月27日 22時11分03秒 ) パスワード
URL=http://www.asa-kikaku.com/

一方流の『京師本』より、「忠度」の章を、紹介します。一方流諸本では、「忠度最期」(葉子十行本は、「薩摩守の最期」)です。
忠度
 薩摩守忠度は、一の谷の西の手の大将軍にておはしけるが、その日の装束には、紺地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧に、黒き馬の太うたくましきに、鋳懸地の鞍を置いて乗り給へり。兵百騎ばかりが中にうち囲まれ、いと騒がず、ひかへひかへ落ち給ふ所に、武蔵国の住人、岡辺六野太忠純、よい敵と目をかけ、鞭鐙を合はせておつかけ奉り、「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも、敵に後ろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と言葉をかけければ、薩摩守「これは味方ぞ」とてふり仰ぎ給へる内甲を見入れたれば、金黒なり。
「あつぱれ味方に、かね付けたる人はなきものを。いかさまこれは平家の公達にておはしますにこそ」と思ひ、おしならべてむずと組む。これを見て百騎ばかりの兵ども、みな国々の駆り武者なりければ、一騎も落ち合はず、我先にとぞ落ちゆきける。
 薩摩守は、熊野育ちの早業大力にておはしければ、六野太を掴うで、「につくい奴が、味方ぞと言はば言はせよかし」とて、馬の上にて二刀、落ち付く所で一刀三刀までこそ突かれけれ。二刀は鎧の上なりければ、とほらず、一刀は内甲へ突き入れられたりけれども、薄手なれば死なざりけり。取つておさへて、首をかかんとし給ふ所に、六野太が童、遅ればせに馳せ来たり、急ぎ馬より飛んで降り、打ち刀を抜き、薩摩守の右のかひなを、肘(ひぢ)のもとよりふつと打ち落とす。
薩摩守、今はかうとや思はれけん、「そこのき候へ、十念唱へん」とて、六野太をつかうで、弓長ばかりぞ投げのけられたる。その後西にむかひ、高声に十念唱へ給ひて、「光明遍照十方世界、、念仏衆生摂取不捨」と宣ひも果てねば、六野太後ろより寄つて、薩摩守の首を討つ。
 六野太よき大将軍討ち奉つたりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるに、箙に結びつけられたる文を取つて見ければ、「旅宿の花」といふ題にて、歌をぞ一首詠まれたる。
  「ゆき暮れて木のしたかげを宿とせば花やこよひのあるじならまし
忠度」と書き付けられたりけるによつてこそ、薩摩守とは知りてんげれ。六野太なのめならず喜び、首を太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を揚げて、「この日頃平家の味方に聞こえさせ給ひつる薩摩守殿をば、武蔵国の住人、猪俣党に岡辺六野太忠純が討ち奉つたるぞや」と、名乗りければ、敵も味方もこれを聞いて、「あないとほし。武芸にも歌道にも優れて、よき大将軍にておはしつる人を」とて、皆鎧の袖をぞ濡らしける。
[26]空の青海のあをさんからのコメント(2012年08月28日 01時08分48秒 ) パスワード

今井四郎どの


ありがとうございます。

本当に美しい段です。


忠度は文武両道。
かくありたい、という武士の鑑ですね。


敵も味方も賞賛する人だったのですね。


やっぱり「人として」敵も味方もその死を泣いてくれるというのは「人間として」こうありたい、こうあるべき、という姿ですね。


薩摩の守忠度
いい人ですね。

そして本当に歌も素晴らしい。
「旅宿の花」は毎年桜の季節にひっぱり出される歌ですね。


「ゆき暮れて 木のしたかげを宿とせば 花やこよひの あるじならまし」

いいなあ〜
日本人が桜を愛する限り、この歌は永遠です。
  
   貫之も西行も良いけれど
   忠度には戦さの中で詠んだという更なる風雅を感じます。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.08 by Rapha. WEB design Rapha.