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美学者:尼ケ崎 あきら(木扁+杉)
<藤原俊成>の<古来風体抄>
日本の美学思想を研究しようとした私はたちまち頭を抱えた。
西洋の学問の基準からいけば概念は曖昧模糊、論理は支離滅裂なばかりなのだ。
「日本人には論理的思考能力がないのか」と落ち込んでいた私の眼から
鱗を落としてくれたのが藤原俊成の「古来風体抄」だった。
800年前の藤原俊成という歌人は現代の西洋哲学者たちがようやく言い始めたことを
仏教思想の中に見出し、さらに先へ進んでいた。
それまで歌を作るとは美しい花を見て
その感動を言葉に表すものだと思われていた。
日本でも中国でも、いや西洋でも19世紀までそうだ。
ところが俊成は
「春の花を尋ね秋の紅葉を見ても、歌といふものなからましかば、
色をも香をも知る人もなく」
(春の桜や秋の紅葉を見ても歌というものがなかったならその美しさを分かる人はいな
い)
と書く。
自然の美などというものはなく、歌人が言葉によって作り出したにすぎないと言うのだ。
この背後には、
私達の知る世界とは人が言葉によって作り出したに過ぎない
という仏教の言語論がある。
俊成はこれを踏まえて延長した。
単語が特定の記号と意味との組み合わせであるように
和歌は特定の言い回しと美の型との組み合わせである。
言語システムが私達の日常世界を構築しているように
数百年の歌の伝統はもう1つの世界を構築している。
その美の世界こそが「歌の道」に他ならない。
「歌道」の観念は俊成に始まり、日本の芸道は歌道に始まる。
その核心を語る言葉が常に非合理なのは
合理的な言葉では合理的な世界しか説明できないからだ。
私はようやく古人の声が聴こえたと思った。
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