マイホームフォーラム 小川もこ シャベリン(アーツ)
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
 投稿番号:100043 投稿日:2000年10月26日 10時21分49秒  パスワード
 お名前:皇竹
伊勢平氏の叛乱
キーワード:伊勢平氏
コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

しばらく御無沙汰しておりました。
壇ノ浦後の伊勢平氏の叛乱について私のHPにUPしました。

平家は壇ノ浦で滅び、平家を追いつめた木曽義仲は義経に葬られ、
その義経は頼朝に、その頼朝の鎌倉政権は妻政子と北條時政により
次々と抹殺されていく。
世の中は無情ですね。

中でも平家は後の世の人達が様々な伝説を生んで、ロマンを語り
伝えてきている。私はその辺に平家の魅力を感じます。
また、お便りします。

[1]服部 明子さんからのコメント(2000年10月26日 22時05分58秒 ) パスワード
  

拝見致しました。
本貫地での抵抗がいくつも書かれていて、
さすが地元の方のお調べになったことは詳しいですね。

>伊賀で平田家継が蜂起、伊勢で富田進士家資、前兵衛尉家能、家清らが蜂起、
>平信兼、その子兼時、信衡、兼衡らも立ち上がった。
>しかし、時の勢いには勝てずいずれも失敗に終わった。(1184年)

900人が殺されたそうですね。
この時、伊勢の藤原(伊藤)忠清は捕らえられていますよね。

私は俗姓「富田」氏については全く見逃していました。
[2]服部 明子さんからのコメント(2000年10月26日 23時05分17秒 ) パスワード
  

平田家継の名が出ましたので、関連記事をコピーします。

<甲賀に於ける戦い>


寿永3年(1184年)7月伊賀の平氏・平田四郎家継(源平盛衰記では貞継)は、
伊賀伊勢二國の兵を平田城に集め、7月19日、甲賀郡に進軍した。

甲賀でこれを迎え撃ったのは、70才を越えた近江源氏の将佐々木源三秀義で、
(佐々木盛綱などの父)
急いで国中の兵を集めて油日谷に至った。
甲賀郡内の諸氏も、これを聞いて馳せ来る者が多かったという。

また、その時、大鳥神社に戦勝祈念のため弓と矢を奉納したといわれる。
もっともこの大鳥神社は今の場所にあったのでなく、当時は北方の磨臼谷(うわばだに)にあった。

平家側は家継と壬生野能盛が中心で、三百余人を率いて柘植から余野を経て田堵野、
上野に出て南方の高地に陣どり、秀義は油日川を隔てて北方に陣をしいた。

平家側は死に物狂いで矢を射かけ、源氏もまた応戦して多くの死傷者を出した。

この時秀義は馬にまたがり陣頭に立って兵を励まし指揮をとった。

能盛は、これをのがさず矢を放ったので、秀義は矢に打ち抜かれ落馬して死んだ。
秀義の部下は、その首を取られないために切り落としてのがれさった。

将を失った源氏勢は、それでも懸命に応戦したので、平家方の将平田家継も戦死し、
戦意を失った平家勢は伊賀へ逃げ帰った。


<源平盛衰記>

寿永3年7月伊賀国山田郡の住人平田四郎貞継法師という者あり。
これは平家の士肥後守貞能の弟なり。
平家西国に落ち下り安堵し給わずと聞こえければ日比の重恩を忘れず
当家に志ある輩伊賀伊勢両国の勇士を催し、
平田の城に集会し近江の国をうちしたがえて都に入るべしと聞こえければ、
佐々木源三秀義は我が身老体なれば東国西国の軍には子息共を差し遣わし下向せず。

近きほどに敵の籠りたるを聞きながら黙止するに非ずとて、国中の兵を催し集めて伊賀国に発向す。

甲賀上下の郡の輩馳せ集まりで相従いけり。
秀義は法勝寺領大原の荘に入り、平家は伊賀の壬生野平田にあり。

行程三里を過ぎざりけり。
伊賀の国の住人壬生野新源次能盛というもの計いけるは、
当國は分内狭し、大勢乱れ入りては国の煩人の歎きなり。

近江國へ打ち出て鈴鹿山を背にあてて軍せんに、
敵弱らば蒐んとす、敵健ならば山に引き籠り一戦せざるべしとて、
源次能盛貞継法師三百四騎を引率して柘植の郷与野の道芝打ち分けて、
近江国甲賀郡上野村渋窪篠鼻田堵野に陣をとりて北に向かいて控えたり。
両陣七八段に過ぎざりけり。
[3]服部 明子さんからのコメント(2000年10月26日 23時13分19秒 ) パスワード
  

伊賀の風土と背景:コピー


伊賀の国は地質学上、古琵琶湖層群とよばれる湖盆の国原
で、四周を山に囲まれ伊賀一国からなっている。盆地の中
央やや北寄りに浸蝕からとり残された上野台地がある。

この台地は中世末まで集村の形成をみない荒野であった
が、北辺の高所には後白河法皇の勅願を承って平清盛が造
営したと伝えられる上野山平楽寺、薬師寺の二院が建てら
れ教学の聖域となった。

この縁起は古代伊賀における平氏一門の繁栄を物語るもの
である。ところで平氏には諸流がある。伊勢平氏の始祖平
維衡は寛弘3年(1006)伊勢守に叙されて任地に勢力
を拡げた。維衡の子は正度である。長男は維盛、四男は安
濃津左衛門尉貞衡と名乗り伊勢平氏の正統をつぎ、五男は
出羽守正衡と称した。

その頃、平氏の一族が鈴鹿山を越えて伊賀に住み、所領を
拡張して強力な武士団を形成した。平氏の勢力が伊賀の各
地にのぴると、伊賀で古代氏族の流れをくむ服部氏はとも
に平氏を称し、平氏の諸流は伊賀の全土に割拠した。

芭蕉の祖先と伝えられる弥兵衛尉平宗清も伊勢平氏正度の
次子駿河守貞季流であり、貞季の次子正季から範季−季房
を経て、季房の嫡子有兵衛季宗の子が宗清である。季房の
次子筑前守家貞は伊賀国鞆田庄現地代官として在地に住
み、嫡子家次は伊賀国山田庄平田に住んで平田冠者と称し
た。

これらの一族は寿永3年(1184)6月鎌倉幕府の守護
職大内惟義が伊賀に下向すると惟義を攻めた。幕府は加藤
五景員、首藤経俊を動員して伊賀に平氏の残党を攻め九百
人を討ち取りこれを鎮圧した。この事件で家次、家能、家
助らは討たれたが、反乱の中心人物である信兼の子兼衡、
信衡、兼時らは国外へ逃げ去った。

その後も伊勢、伊賀の平氏は勢力の挽回を企て反抗をくり
返したが文治元年4月平氏の乱は平定された。

一方、伊賀平氏のなかにも源氏に味方して平氏討伐に馳せ
参じた者が多く、弥兵衛尉宗清流で拓植村の住人拓植十郎
有重は源行家に属して播磨で討死にしている。また服部郷
の服部平太保行は御家人に取り立てられ、領地を与えられ
た。

服部・柘植氏はのち寺領荘園との悪党対捍を通して領主化
への途を開こうとしたが、これを脱し切れずに一部の領主
権を獲得する程度にとどまり、小豪として割拠した。その
生態はきわめて流動的で国中に分散して在地土豪となっ
た。これらの中世土豪も天下統一の機運が熟した戦国未
期、天正9年(1581)織田信長の侵略にあい壊滅的な
敗亡を喫して多くは討死し、あるいは国外に逃れたが、翌
年明智光秀の謀反によって信長が自害、再ぴ政局の混乱が
生じると、ひそかに故地に帰り、農に従った。だが、豊臣
秀吉の農兵分離政策が進むなかで農兵的性格をもつこれら
の土豪は完全に武器をすてて新しい体制へとくみ替えられ
ていった。

天正13年(1585)豊臣政権のもとで近世初の封建領
主となった筒井伊賀守定次は天正の兵乱で廃虚に帰した平
楽寺、薬師寺の跡地に城郭を構えて伊賀を領治したが、慶
長13年(1608)に改易、あとの領主となった藤堂和
泉守高虎は移封まもなく故城を改修して城下町の建設に着
手し、城下町に名望ある旧土豪層を移住させて町商人とし
た。また在郷の旧土豪を庄屋役、無足人層に編入した。
[4]服部 明子さんからのコメント(2000年10月27日 00時26分35秒 ) パスワード
  

上記2つのURLを書き込もうとするのですが
マシンが拒否するのです。
そして不正アクセスまで生じてしまいました。

さらに平田家継の城のあった場所を地図で見ようとするのですが
消えています。

バスが走っていましたから(バスで行けるのね)と思いましたし
近くの学校や農協も地図に出ていたのに
探しても見つかりません。

平家関連は不思議なパワーが働くようで、これが初めてではありません。


平田家継の平田村は百地丹波で知られた喰代砦の麓あたりだった筈です。
平田の城は現在の明昌寺の裏あたりだそうですが
このお寺も見つかりません。
[5]服部 明子さんからのコメント(2000年10月27日 09時14分09秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2000年10月27日 09時15分05秒
[6]服部 明子さんからのコメント(2000年10月27日 09時25分30秒 ) パスワード
  

上記の写真もおかしいのですよ。

最初、掲載出来たかチェックしてみたら
画像が壊れている印になったので
入力間違いと思い削除して友人から入って来たメールに返事を書き
この画面に戻ってもう1度画像を入力しようとしたところ
削除した筈なのに今は画像が出ています。

でも私は削除したのですが。。。
[7]服部 明子さんからのコメント(2000年10月27日 09時28分41秒 ) パスワード
  

今、6番目の書き込みを見直そうとしたら画像が削除になっていました。

なんか、不思議です。

ではもう1度「平田城跡の土塁」の写真を掲載し直します。

[8]皇竹さんからのコメント(2000年10月28日 18時24分33秒 ) パスワード
  

服部明子さん
いろいろ参考になる資料有難うございました。

画像が消えてしまったり、削除した画像がまたあらわれたり
何か平家のものからシグナルを送られているような感じですね。
それにしても不思議なことがおこりますネ。

>900人が殺されたそうですね。
>この時、伊勢の藤原(伊藤)忠清は捕らえられていますよね。

藤原(伊藤)は忠清は平信兼と逃げたという人もいますが、どうなんでしょうね。
一緒に戦った平信兼の息子達は追いつめられて、飯高町の局ケ岳の山麓で自害したのに親父だけは逃げ延びられたのでしょうかね。

壇ノ浦後、平家の残党達は平家再興を夢見て10数年は抵抗をしたようですね。
私のHPでは頼朝を京都で暗殺を試みたのは、平忠房と書いておりますが、
家資だという説もありますね。
平忠房は元歴元年頃、湯浅宗光にかつがれて、叛旗をひるがえしております。
当時源氏に組していたこの湯浅宗光は、屋島より脱出した維盛が熊野の山中に
いるところを発見され、これを見逃したと聞いております。
平家の武士だった湯浅宗光は源氏に寝返って、また平家に寝返る何か心境の変化が
あったのでしょうか。

私のHPでは平知忠の叛乱については余り詳しく書いておりませんが、
彼は知盛の第二子で、都落ちの時はまだ幼く(7才くらいか)、足手間といに
なるというので、橘為範(知盛の乳母の夫)に預けられたようです。
橘為範は各地に潜伏しながら、好機到来を待っていたようですが、この反乱は
失敗、無残にも為範、知忠ともに自害して果てたようです。
この叛乱も壇ノ浦後10年ほど経ってからのことですから、まだまだ平家再興の
夢を強烈に持っていたのですね。
この時、藤原景清はまたも脱出をしています。しかし彼はこの戦には参戦して
いなかったという人もいます。
いずれにしてもよく分からないというところが、平家ファンにとって興味が湧く
ところです。
[9]服部 明子さんからのコメント(2000年10月29日 09時42分32秒 ) パスワード
  

皇竹さま:
珍しい情報をありがとうございます。


>藤原(伊藤)は忠清は平信兼と逃げたという人もいますが、どうなんでしょうね。


忠清は志摩に逃げて結局は捕まり
翌年平家が壇の浦で滅亡してから5月16日に斬られていますね。

信兼はどうしたのでしょうね。
逃げおおせたようでございますね。
この人は北条政子の最初の結婚相手だった山木兼隆の父ですね。


平 知盛の2男は男の子を残していますね。
伊賀の北で育てられて「北」姓を名乗ったそうです。
この男子の子孫は足利義満暗殺に失敗して処刑されています。

平 知盛の3男は対馬でしたか「宗」氏の祖になっていますね。
[10]服部 明子さんからのコメント(2000年10月29日 12時14分52秒 ) パスワード
  

「平田村」は阿山郡大山田村役場のすぐ近くにございました。
多分バスが出ているかも知れませんね。
行けそうでございます。
[11]皇竹さんからのコメント(2000年10月30日 11時43分40秒 ) パスワード
  

服部さん
どうもいろいろ有難うございました
平田村は現鈴鹿市の平田町かとおもってたのですが、
大山田村のほうですか。
ここから近いことですし、「平田城跡の土塁」と併せて
一度行ってきます。
[12]服部 明子さんからのコメント(2000年10月30日 22時52分59秒 ) パスワード
  

はい、是非いらっしゃって下さい。

写真もお願い致します。
皇竹さんのHPでアップなさって下さいましたら
わたくしが「彦島」に転載いたしますので。


ところで伊賀忍者の服部は
大服部・中服部・小服部と3つに分かれていたそうです。
どう分かれていたかはまだわたくしには分かりませんが
知っていることを書きます。


東湯舟の藤林長門守:伊賀に於ける対信長戦争の首謀者
東湯舟はつつじで有名なJR与野(余野?)の西ですね。
地図に出てます。


喰代砦の百地丹波守:この人は逃げおおせたそうですね。
<ももじ>と本当は濁るそうです。
松尾芭蕉は百地の流れだそうでございますね。


千賀地の服部半蔵:月ヶ瀬村すぐ近くの予野という所に
花垣神社という所がございますが
ここのあたりが服部半蔵の代々の城があった所だそうでございます。

花垣村のことを芭蕉が詠んでいますね。
花守の村と。
予野の桜は今は植え替えられていて小さな若い木でした。
八重なので4月の終わりでないと咲きませんね。


もしいらっしゃいましたら紀行文をよろしくお願い致します。

[13]服部 明子さんからのコメント(2000年10月30日 22時58分49秒 ) パスワード
  

それから
三重県の「有山」という姓または場所についてご存じでしたらお知らせ下さい。
昔は城というか砦というか
信長に対抗して敗れたということでございます。


[14]服部 明子さんからのコメント(2000年11月03日 04時47分31秒 ) パスワード
  

元伊賀上野市長で忍術研究家の奥瀬平七郎さんが
「忍術 その歴史と忍者」1963年刊と「忍法 その秘伝と実例」1964年刊の
新装版を出版。

「忍術・・」の方は古代・奈良から江戸期までの忍術を時代ごとに考察。
「忍法・・」の方は忍法の基本やさまざまな忍術を紹介。
いずれも新人物往来社発行。各3000円。

奥瀬氏の著書は多くの著述家が参考にしているという。
[15]皇竹さんからのコメント(2000年11月07日 10時19分32秒 ) パスワード
  

しばらく伊勢に行っておりました(介護の応援)
伊勢神宮の中に清盛の楠や、清盛が築いたという
清盛堤の跡などみてきました。
この清盛の堤跡は大間廣神社(おまびろさん)
の中に有るということでしたが、わかりません。
今は立派な堤防が出来ておりますので、
消滅したのでしょうか。
清盛の楠はあったのですが、
今、神楽殿を新築しておりまして
中へ入れてもらえませんでした。
これも変な話で、実は重盛が勅使として
伊勢へ参向した折りに、この楠の枝が
乗輿の屋根に当たるというので、重盛が
切らせたというのを、誤って清盛のと伝えられた由。
大した事件でもないのに、言い伝えとはいい加減なもの。



いろいろ調べること出てきましたね
年末まで美術展の準備などいろいろありまして
少し時間を下さい
[16]服部 明子さんからのコメント(2000年11月07日 22時12分06秒 ) パスワード
  

清盛という人は公共事業をしているなかなか立派な人だったようでございますね。
でも伊勢でのことは初めてでございました。
ありがとうございます。
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.08 by Rapha. WEB design Rapha.