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 投稿番号:100036 投稿日:2000年10月18日 23時39分55秒  パスワード
 お名前:服部 明子
後白河法皇

コメントの種類 :書籍・文献  パスワード

2000年8月27日付け朝日新聞日曜版「名画日本史」後白河法皇像より


権力の頂点にある者の趣味は「権力」である場合が多い。
でも、なかには方向違いの趣味を持つ権力者もいる。
ただ、この人の場合、趣味といってしまっていいのかどうか。


ということで「今様」好きの後白河法皇のお話であります。
「今様」に興味のある方はそちらでどうぞ。

[1]服部 明子さんからのコメント(2000年10月19日 00時47分49秒 ) パスワード
  

肖像画の始まり


肖像画は古来、礼拝用に使われていたため
顔は理想化され
実物とは関係ない場合が多かった。


鎌倉時代に入り
似ていることを重視した「似絵」ーーにせえーーが盛んになる。

創始者は藤原隆信・信実ーーのぶざねーー父子。

宮内庁の「天子摂関御影」も代表的な似絵の1つ。
3巻に分かれ、
第1巻に鳥羽から後醍醐まで20人の天皇と
「今上」と記された北朝の後光厳天皇が個性豊かに描かれている。

鳥羽だけが左向きで後の天皇を従えているように見える。
鳥羽からの18人が信実のひ孫・為信の筆と伝えられる。
[2]服部 明子さんからのコメント(2000年10月19日 07時59分21秒 ) パスワード
  

東京大学史料編纂所i鞫恷j料解析センターでは
古文書や絵巻の収集・解析が行なわれていて
肖像画は350人分が保存されている。

http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/index-j.html
現われる画面に従い「後白河」「男」「皇族」と打ち込むと
2つの画像が現われる。

京都・妙法院蔵と神護寺蔵。

妙法院蔵の方は太目でモデルが違ってるかも知れない。
どちらかと言うと鳥羽法皇に似ている。

近年肖像画の研究が進み
教科書でおなじみの顔が別人だとされるケースが目立っている。
後白河にも疑いがかかっている。
[3]服部 明子さんからのコメント(2000年10月19日 08時04分34秒 ) パスワード
  

「梁塵秘抄」は後白河が選定した今様集で
題名は「梁ーーうつばりーーの塵ーーちりーーを動かす」という中国の故事に由来している。

名人が歌うと声の響きで天井裏の梁に積もった塵が舞い上がって
何日も落ちて来ないというのだ。

後白河には今様マニアというもう1つの顔がある。
歌いに歌って、はりの上のちりをずいぶん動かしたらしい。
[4]服部 明子さんからのコメント(2000年10月19日 10時43分23秒 ) パスワード
  

源頼朝は「日本一の大天狗」と称した稀代の策謀家の後白河法皇のポートレートとしては
でっぷり太った妙法院蔵がふさわしいかもしれない。


しかし今様を軽やかに歌い・舞ったりした後白河を想像するなら
でっぷりした姿は違うのでは?
と。
[5]服部 明子さんからのコメント(2000年10月21日 22時40分44秒 ) パスワード
  

<青墓>という街


濃尾平野の最深部に位置する岐阜県大垣市。
その山際、伊吹山を間近に望むところに青墓という名の静かな集落がある。


東海地方では最大級の前方後円墳があり
「大きな墓」あるいは「王の墓」が「おおはか」「あおはか」となり
青墓の字が当てられたらしい。


古代には権力の中枢だったと思われ
また中世には東山道で指折りの宿場町として賑わった明かるい土地である。


閉園末期には
人形をあやつり歌を歌いながら旅をする「くぐつ」という芸能集団やら
遊女がゆきかう歓楽街としてその名は都まで届いていた。


庶民の間で歌われていた「今様」と呼ばれる歌謡曲は
この地の「くぐつ」によって完成され全国に伝わっていった。


「遊びをせんとや生まれけむ。戯れせんとや生まれけむ」
「仏は常にいませども うつつならぬぞ哀れなる」

後白河法皇はこの今様のとりこになった。
[6]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 00時57分34秒 ) パスワード
  

<のどが腫れ、湯水も通らない>


「梁塵秘抄」の「口伝集」
つまり
後白河自身が今様と自分の関係について語った記録によると

春は花見、秋は月見にかこつけ
夏冬の暑さ寒さをもものともせず
夜を徹して歌い続けた。

「声をわること3ケ度なり」
「喉はれて、湯水通ひしも術ーーずちーーなかりしかど
かまへてうたひ出だしき」

さすがは「遊びをせんとや生まれけむ」である。


当時の教養は漢詩であり
社交のたしなみとして和歌が詠めるというのが貴族の心得だった。
現代に例えれば歌会始の代わりにカラオケ大会を催すようなもの。

良識派の目には低俗な音楽にうつつを抜かしているように見えただろう。
[7]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 01時01分11秒 ) パスワード
  

後白河が周囲の目にどれほど異様に写ったかは
側近として政治改革や首都の整備に剛腕を振るったあげく
平治の乱で殺された藤原信西が
「和漢の間、比類少なき暗主なり」
と酷評している。

日本にも中国にもこれほど出来の悪い君主はいない、と。
[8]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 01時12分46秒 ) パスワード
  

後白河に今様の手ほどきをしたのが青墓出身の「くぐつ女」の乙前である。

保元2年(1157)鴨川の河原で隠遁生活をしていたところを
後白河に請われ84歳で亡くなるまでさまざまな歌謡を伝授した。


この乙前を青墓から見出だしたのが
源清経。

西行法師の母方の祖父に当たる人物で今様マニアだった。

尾張から帰国する際、青墓に立ち寄り
まだ12〜13歳だった乙前の歌を聴いて
「すばらしい声だ。将来が楽しみだよ」と褒めた、と「口伝集」は伝える。

当時の青墓には延寿・大大進ーーだいだいしんーー・小大進・和歌・さはのあこ丸
といった歌姫がきら星のごとくいた。


源清経はそのうち「目井」という歌手をひいきにし
京都まで連れ帰って夫婦同然の暮らしを送るが
乙前はその目井の弟子である。


源清経は老齢の目井が故郷の青墓に里帰りしたいと訴えると
連れて行き、また連れ戻るというこまやかな愛情を見せている。
[9]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 01時25分30秒 ) パスワード
  

後白河の乙前に対する態度もまたこまやかだった。

乙前が死の床い伏した時
お忍びで見舞いに出掛け
「歌を聞かせて」
と頼まれると、こんな歌を歌った。

「像法転じては、薬師の誓いぞ頼もしき。
ひとたび御名を聞く人は
万ーーよろずーーの病無しとぞいう」

後白河は乙前の一周忌にも追悼文を贈り
「十有余年にわたって慣れ親しんだ間柄になっていただけい
大層悲しく忘れがたい」
と綴っている。
[10]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 01時49分22秒 ) パスワード
  

青墓と同じように遊女の街として栄えたのが
今の大阪市東淀川区にある江口で
後白河は江口の遊女もひいきにした。

その1人、丹波局を側室に迎え
間に生まれた承仁法親王を天台座主に据えている。


江口もまた鎌倉時代以降急速にさびれ
西行と歌を交わした高名な遊女「江口の君」ゆかりの
江口君堂・寂光寺が住宅地の中にぽつんとあるだけである。
[11]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 02時17分29秒 ) パスワード
  

現在の青墓には今様を生んだオシャレな街の面影はほとんどない。

既に鎌倉中期の1280年にこの地を訪れた
飛鳥井雅有という歌人が
「昔は有名なところだったが
今は家も少なく遊女もいない」と記している。


当時をしのばせる数少ない場所といえば
平安初期の創建という円興寺くらいだろう。

寺自体は後に引っ越したが
9世紀に作られた聖観音立像が奥まった収蔵庫に安置されている。
衣のすそが少し後ろに流れ
中世の風のそよぎが感じられた。


後白河は「口伝集」の中で青墓に何度も言及しているが
法皇の訪れた足跡は無い。
[12]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 02時35分21秒 ) パスワード
  

後白河の本拠地:法住寺殿


京都の建物は落雷や戦火でほとんど残ってないのが実情である。
平 清盛が後白河のために造営した三十三間堂も
1266年に再建されたものだ。

三十三間堂付近には後白河が院政を執った法住寺殿があった。

当時は背後に巨大な池を控え
五条から八条まで広がっていた。

今は法住寺の名を残す小さなお寺と法皇の陵墓が残るのみだ。

陵墓は法皇自身が生前に指定した場所にある。

「ここから西方浄土の方角に
三十三間堂の千一体の千手観音像が
朝はすがすがしい光に照らされ
夕は後光が差すような感じで見渡せる。

後白河が見たのと同じ風景です」
[13]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 02時44分12秒 ) パスワード
  

<未完の情報系法皇説>


これまで源頼朝のネガ、
つまり
武家社会の到来を妨害する敵役と見られがちだった後白河のイメージを
引っ繰り返そうとしたのが棚橋光男・金沢大助教授だった。

棚橋助教授はその著書「後白河法皇」で後白河をこう位置づけている。

「芸術文化の保護育成者になることで
運輸業者や陰陽師、遊女、白拍子、くぐつら
諸国を渡り歩く者達の交通情報ネットワークを握り
武家に対抗する新しい王権統治を目指す改革者だった、と。



その学説が充分に検証されないまま
棚橋助教授は肺癌に倒れた。
47歳だった。
周囲の人達にとっても
後白河にとっても
残念な死だったに違いない。
[14]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 03時33分56秒 ) パスワード
  

妙法院蔵「後白河法皇像」は現在東京国立博物館に保存されている。

何年間に1度展示される。

東京台東区上野公園13の9
03ー3822ー1111JR上野から徒歩10分
月曜休館
[15]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 03時37分43秒 ) パスワード
  

「天子摂関御影」は宮内庁三の丸尚蔵館にあるが
次の展示は未定。


東京都千代田区千代田1の1

03ー3213ー1111宮内庁

営団地下鉄大手町から徒歩5分
月・金曜休館

昭和天皇が収集した旧御物約7000点を収蔵
順次展示している。
[16]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 03時43分19秒 ) パスワード
  

「天皇摂関御影」は徳川美術館が所蔵。
その後白河法皇像も頭頂部に特徴がある痩せ型。

つまり頭の天辺が平ら。

9月6日から10月1日まで常設展で展示される。


名古屋市東区徳川町1017
052ー935ー6262

JR大曽根から徒歩10分
月曜休館
[17]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 03時47分35秒 ) パスワード
  

神護寺蔵「後白河法皇像」は毎年5月1日から5日まで一般に公開される。

他に伝・源頼朝像・伝・平 重盛像など著名な肖像画を所蔵している。

京都市右京区梅ケ畑高雄町5

075ー861ー1769

京都市バス、JRバス山城高雄から徒歩20分
[18]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 03時53分35秒 ) パスワード
  

円興寺


岐阜県大垣市青墓町5の880

0584ー71ー4539

JR大垣から車で15分


伝教大師最澄が790年に創建したと伝えられる。
本尊の聖観音立像は重要文化財。
ヒノキの1本造りで頭部や衣の形に弘仁・貞観期の特徴がある。

戦国時代、織田信長の焼き討ちに遭い、外へ運び出した際、
しばらく岩の上に置かれていたという。

その時に出来たへこみが右頬に確認出来る。
[19]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 04時31分16秒 ) パスワード
  

三十三間堂

京都市東山区三十三間堂廻町

075ー561ー0467

京阪七条から徒歩7分

平 清盛が後白河法皇のために
1164年に創建。

約80年後に消失したが
すぐに再建された。

中にある1001体の千手観音像のうち124体が創建時のもので
残りは鎌倉時代のもの。


清盛の父・忠盛も鳥羽法皇のために
大量の観音像を寄進しており
それが当時の流行だったらしい。
[20]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 04時36分46秒 ) パスワード
  

法住寺


京都市東山区三十三間堂廻町

075ー561ー4137

三十三間堂の東隣


後白河法皇が院政を執った法住寺殿の名を残し
代々後白河陵を管理してきた。

明治維新の際に
「大興徳院」と改名したが
1955年に再び「法住寺」に戻った。

毎年10月の第2日曜日には
日本今様歌舞楽会が主催し
平安貴族の装束で舞い歌って往時をしのぶ「今様歌合わせの会」が開かれる。
[21]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 04時46分17秒 ) パスワード
  

青墓で活躍した今様歌姫の子弟関係



1代)なびき

2代)四三(しさん)

3代A)目井(西行祖父・源清経をパトロンにした)
3代A弟子a)乙前(後白河の師)
3代A弟子b)大大進おおだいじん
3代A弟子bの弟子)小大進こだいじん

3代B)おとど
3代B弟子)延寿えんじゅ(源義朝の妻の1人で夜叉姫の生母)

3代C)和歌
3代C弟子)さはのあこ丸
[22]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 04時57分46秒 ) パスワード
  

新訂梁塵秘抄

佐々木信綱
岩波文庫
500円

後白河法皇が編集した平安後期の歌謡集。

口伝集の部分に後白河の手になるものではないが
鎌倉期のものも入っている。



人物叢書 後白河上皇

安田元久
吉川弘文館
1650円

後白河評伝の定番。
激動の時代を渡りきった法皇の生涯を
政治史的視点ゐ中心に描く。



選書メチエ 後白河法皇

棚橋光男
講談社
1700円

政治家というだけでなく
後白河という人間をまるごとみるべきだと主張する著者の遺稿集。
学者らしからぬ熱い筆致は文学に近い面白さがある。

壮大な構想は構想で終わったが
著者が健在でもこの構想を実証するのは困難を極めただろうとも言われる。



遊女と天皇

大和岩雄
白水社
2330円

神たる天皇と遊女の深い関係を
歴史学や民俗学などを駆使して分析する。

神武に始まり多くの天皇が登場するが
最も紙数を費やしているのが後白河。

後白河に向けられた著者の視線はかなり好意的だ。




[23]服部 明子さんからのコメント(2000年10月22日 05時12分10秒 ) パスワード
  

後白河法皇「梁塵秘抄」編集の経緯


漢詩や和歌と異なり
はやり歌の今様は
遠からず消え行く運命にある。

早くも誤った歌い方が広がりつつあるではないかーーー。

子供の時から今様を愛し続けた後白河法皇は50を過ぎてから
そんなことを考えていた。

今様の魅力を後世に伝えたいという気持ちが彼に「梁塵秘抄」を編ませることになった。


「徒然草」の時代にはほぼ完全な形で残っていたようだが
歌詞集10巻と歌い方を解説した口伝集10巻の殆どは
後白河の願いもむなしくいつのまにか散逸してしまう。

江戸時代には
いわゆる後書きにあたる「口伝集巻10」を残すのみになっていた。


1911年佐々木信綱らが一部を発見。
翌年出版した。

現在復元されているのは
歌詞集の巻2全部と巻1の1部、
口伝集の巻10全部と巻1の1部。
それだけだ。

昨年2つの断片が発見された。
これまではなかった歌い方の部分があって話題になった。
しかし「梁塵秘抄」全体から見れば1割程度に過ぎない。


1912年の出版では森鴎外や芥川、斎藤茂吉、佐藤春夫らに影響を与えたという。

特に傾倒していたのは与謝野晶子。
自作に積極的に取り入れた。


佐々木信綱は「全巻残っていたら
第2の万葉集になっていただろう」とその散逸を惜しんでいる。



以上
[24]なかにしさんからのコメント(2000年10月22日 22時48分05秒 ) パスワード
  

「東京大学史料編さん所」のホームページのご紹介ありがとうございました〜。
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