[1] | 服部 明子さんからのコメント(2000年10月16日 21時26分07秒 ) | パスワード |
「平治物語絵巻」
信西巻:
重要文化財
13世紀
紙本着色
42。7センチX1001。7センチ
静嘉堂文庫美術館
都大路を意気高く進む武士の集団。
その先頭、なぎなたに藤原信西の首がくくりつけられている。
牛車のすだれの奥から恐る恐るながめる貴族たち。
構図・人物描写の見事さで評価が高い。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2000年10月16日 22時04分33秒 ) | パスワード |
「平治物語絵巻」その他の巻:
平治物語絵巻は平治の乱の軍記物語をもとに、
鎌倉中期、複数の絵師が描いたとみられる。
もとは15巻あったといわれる。
「三条殿夜討巻」さんじょうどのようちのまき
と
「信西巻」
東京国立博物館所蔵の「六波羅行幸巻」ろくはらぎょうこうのまき
の3巻が現存。
および
「六波羅合戦巻」から切り取った断簡がいくつか残っている。
「三条殿夜討巻」はボストン美術館が所蔵。
火炎表現が見事で「館蔵日本美術品の中で屈指の作」。
2000年春、姉妹館名古屋ボストン美術館で公開された。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2000年10月17日 09時06分30秒 ) | パスワード |
「平治物語絵巻」
先頭を生首がゆく。
死刑を復活させて
自分も首を斬られた男
藤原信西入道の首だ。
それからほぼ850年。
この男が復活させた死刑が
いまも日本で生きている。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2000年10月17日 09時16分51秒 ) | パスワード |
平治物語絵巻
「復活した死刑 我が身に及ぶ」
京都府宇治田原町。
京都御所から約25キロ。
850年の昔、藤原信西という貴族が武士に追われ、ここまで逃げて来た。
信西の塚は茶畑のあいまの田んぼの農道わきにひっそり隠れていた。
大きな土盛り。
こけむした墓石。
人気は無い。
信西はこの辺りで源氏の追っ手に捕まり
首をかき切られた。
兵士はなぎなたの柄にその首を結わえ
意気揚々、京に戻り、
三条の牢獄の門にかけて、見せしめに。
絵巻はその場面を描いている。
貴族の牛車をかき分けて
都大路を兵士が行く。
平安貴族から源平のあらくれ武士の手に時代が移る。
そんな象徴的な絵でもある。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2000年10月17日 09時21分39秒 ) | パスワード |
信西という男。
そのころ指折りの知識人だった。
家柄こそ超一流ではなかったが
妻が後白河天皇の乳母になったことから
天皇側近ナンバーワンに。
権力を一手にしてラツワンを振るった。
貴族の内紛に源平武士が加勢して保元の乱が起きる。
信西は平 清盛らの力を借りて勝ち、
負け組みの兵士を容赦なく処刑した。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2000年10月17日 09時28分00秒 ) | パスワード |
実はこのときまで約350年間、
日本には死刑が無かった。
海の向こうではありとあらゆる残虐刑が繰り広げられていたのに。
当時の「大宝律令」には死罪があった。
しかし歴代26人の天皇は、死刑を流刑、禁固刑に減じた。
「死者また生くべからず」
(死者は生き返らない)
聖武天皇の言葉が残されている。
仏教思想?
いや怨霊を恐れた?
いやいや
日本古代学協会長の角田文衛さん(87)は
「平安貴族は血を見るのを嫌ったから」とみる。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2000年10月18日 04時40分25秒 ) | パスワード |
信西は「律令」をたてに死刑復活を断行した。
勢いづく源平の武力を押さえ込む狙いもあった。
源平の武将にそれぞれ敵方に回った父子・叔父らを処刑させた。
「時代が処刑を求めたのでしょうねえ」
と東大教授の五味文彦さん(54)。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2000年10月18日 04時46分06秒 ) | パスワード |
信西に恨みが集中した。
牛若丸・源 義経の父もその1人。
兵を挙げる。
平治の乱だ。
その緒戦に敗れた信西に自分が復活させた死刑が降りかかった。
以来、日本の死刑はついに今日まで続く。
しかも、いまや日本だけが「先進国」の中で死刑を続けている国である。
信西、悔やんでいるかもしれぬ。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2000年10月18日 04時50分10秒 ) | パスワード |
信西のために弁護すれば
かれは単なる茶坊主ではなかった。
官位こそ低かったが
歌舞音曲に明け暮れ
たがが緩んだ王朝政治を
律令に乗っ取って立て直そうとした。
流行歌の「今様」にうつつを抜かす後白河上皇を
自分の主でありながら
「古今に例なき暗王」と批判もしている。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2000年10月18日 04時53分19秒 ) | パスワード |
信西は乱後、容赦なく敵方の親や兄弟の処刑を配下の武将に命じた。
その数70余人。
「残党狩りの執拗さも
かれの性格らしい・・・・・・」
と吉川英治は書く。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2000年10月18日 04時55分58秒 ) | パスワード |
七十余人の武将の処刑をめぐっては
当然
朝廷で大激論があった。
信西は久しく死文化している律令の死罪を適用すべし、
と主張。
「多数の凶徒を諸国に遠流すれば、乱のもと。
悔いを残す」
と押し切った。
以上
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