[1] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月31日 01時26分15秒 ) | パスワード |
http://village.infoweb.ne.jp/~fwig7844/
皇竹さんの「山里の詩」というHPのご紹介です。
皇竹さんは平家の落人の里を訪ねられたということで
平知盛公や維盛公そして六代の君についてお書きです。
お寺さんのご本名が「小松」氏というのも
壇の浦あたりから伊勢平氏はやはり伊勢に戻って来ていたようですね。
註:維盛公の実家は小松家を名乗っていらっしゃいました。
[2] | 皇竹さんからのコメント(2000年09月03日 15時34分09秒 ) | パスワード |
服部明子さんよりご紹介頂きました皇竹です。
まだこれから勉強中の身故、大したことは出来ませんが、
伊勢発のニュ−スを送りたいと思います。
とりあえずご挨拶まで。
[3] | なかにしさんからのコメント(2000年09月03日 20時34分07秒 ) | パスワード |
皇竹さん、いらっしゃいませ。ここのお世話係のなかにしと申します。平知盛公の所領彦島からです。今後ともよろしくお願いします。
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月04日 04時03分26秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2000年09月04日 07時52分58秒
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月04日 07時52分14秒 ) | パスワード |
皇竹さんよりご紹介頂いた伊勢平氏会:
伊勢平氏会
住所:三重県津市中央3−31
電話:059−226−6947
会長:中村一彦氏
平家を研究する郷土のグル−プ。
中村会長は将来この地に平家博物館を作ろうという夢をもっていらっしゃいます。
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月04日 08時06分24秒 ) | パスワード |
「伊勢平氏」を検索したところ以下のURLを見つけました。
http://www.pref.mie.jp/TANBO/BUNKA/mieb05.htm
伊勢平氏の活躍と忠盛塚伝説
平氏はもともと関東地方を根拠地とした武士ですが、承平5年(935)の 平将門
(まさかど)の乱の後、将門を討った平貞盛(さだもり)らが伊勢国 に移り住み、
その子維衡(ただひら)も伊勢守(いせのかみ)に任じられる などして、貞盛・維
衡・正度(まさのり)と続く一族が伊勢国に定着しました。これが「伊勢平氏」の
起こりです。
正度のあと、子たちも伊勢・伊賀の各地を支配し、伊勢平氏の力を、より 強固な
ものにしました。貞衡(さだひら)は安濃津三郎を名乗り安濃津を、 正衡(まさひ
ら)は伊賀北部を、季衡(すえひら)は北勢を治めていました その中で、正衡の一
門が一層勢力を強め、正衡の子忠盛(ただもり)は検非 違使や播磨・伊勢・備前の
国守、追捕使(ついぶし)などでの活躍が認められ、武士の中で初めて昇殿を許さ
れることとなります。
しかし、貴族にとっては、地方の武士が殿上人の仲間入りをするのは承服でき
ず、忠盛を怒らせて宮中で刀を抜かせて罪におとし入れようと策略を練 るのです。
それが『平家物語』でよく知られている「伊勢平氏はすがめなり けり」の一節で
す。伊勢産の粗末な素瓶と、斜視であった忠盛とをかけてあ ざわらったわけです
が、忠盛は武力、財力以外にも和歌など宮廷の教養も身 につけ、着実に宮廷におけ
る平氏の地位を高めました。そして、忠盛の子清盛は太政大臣にまでなりました。
ところで、現在津市の西、産品地区には「忠盛塚」といわれる小塚があり 「史蹟
平氏発祥伝説地」の石柱が建てられています。また、忠盛にまつわ る胞衣塚(え
なづか)、産湯池(うぶゆいけ)、館跡(やかたあと)などの 伝承もあります。こ
れらの歴史的事実を文献で立証することは困難なようで 忠盛出生地のことも未だ伝
説の域を出ませんが、ただ、古くより伊勢国の重 要な地であった安濃津だけに、歴
史を大きく動かした平氏との関わりが、いくつかの伝説となったのかもしれませ
ん。
(平成元年11月 川合健之)
参考文献
高橋昌明『清盛以前−伊勢平氏の興隆−』平凡社選書 昭和59年
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月04日 08時14分45秒 ) | パスワード |
津市の西、産品地区の「忠盛塚」写真:
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月04日 08時31分30秒 ) | パスワード |
古代の伊勢・伊賀:
壬申の乱と古代の伊賀・伊勢
飛鳥時代に起こった壬申の乱は、天智天皇の死後、その皇位継承をめぐっ ての争
いでしたが、この三重の地と深い関わりがありました。
天智天皇には、自分とともに政治に参与してきた実弟大海人皇子(おおあ まのお
うじ)があり、だれもが皇位を継ぐものと思っていました。しかし、 天皇には当時
21歳になる息子大友皇子があり、大友皇子を太政大臣に任じ後 継者としました。こ
のことが内乱を起こす原因となったのです。なお、この 大友皇子の生母は、伊賀妥
女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)で伊 賀国山田郡の郡司の娘と言われて
います。
こうした天智天皇の措置に対し、大海人皇子は僧形となって吉野宮に隠棲 し、大
友皇子が弘文天皇となって、近江宮で政治を司りました。しかし、そ のころの我が
国は、朝鮮半島での敗退、大津京経営による人民への負担の増 大などで、朝廷に対
する支持は失われつつありました。
それを見抜いた大海人皇子は壬申年、西暦 672年、ついに挙兵し、わずか 20人ほ
どの従者と女官とともに、東国への要所である伊賀・伊勢に向けて吉 野を出発しま
した。『日本書紀』によると、一行はまず伊賀国に入り名張の 駅家(うまや)を焼
き兵を募りましたが、誰も来ませんでした。大海人皇子 は前途に不安を感じ、占う
と「天下両分、皇位は我に」と出ました。これで 勢いをつけさらに伊賀郡に進み伊
賀の駅家を焼き払い、その時、初めて阿拝 (あえ)・伊賀郡司らが数百の兵を率い
て一行に加わりました。翌25日、積 殖(つみえ。現在の伊賀町柘植)で大海人皇子
の長男・高市(たけち)皇子 と合流し加太(かぶと)越えで鈴鹿の関付近に入りま
した。そこで伊勢国司 の三宅連石床(みやけのむらじいしとこ)らが参加し、500
の兵をもって山 道を防ぎ、敵の追撃に備えました。
そして翌26日、朝明郡迹太(とほ)川の辺で伊勢神宮のある方角を拝み、 戦いの
勝利を祈るとともに、朝明の郡家を経て桑名に着きました。吉野を発 って三昼夜で
約140 キロの行程を進んできたわけです。こうした果敢な進撃 で、ついに7月、近
江瀬田の戦いを勝ち抜き、弘文天皇は自殺し、この乱は 幕を閉じました。
大海人皇子は天武天皇となり、飛鳥の浄御原宮を営み政治を動かすことに なった
のです。そして、この戦いに加わった伊勢国司、阿拝郡司らは勢力地 盤を固め、募
兵に応じなかった名張郡司は弾圧されたようです。ともあれ、 古代の天下を分ける
戦いに伊賀・伊勢の豪族が大きく関わっていたのでした
(平成元年10月 前田深香)
参考文献
直木孝次郎『壬申の乱』塙書房 昭和36年
中貞夫『名張市史』名張市役所 昭和49年
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月04日 08時43分17秒 ) | パスワード |
>将門を討った平貞盛(さだもり)らが伊勢国 に移り住み、
>その子維衡(ただひら)も伊勢守(いせのかみ)に任じられるなどして、
>貞盛・維衡・正度(まさのり)と続く一族が伊勢国に定着しました。
>これが「伊勢平氏」の起こりです。
維衡を<ただひら>と読むのは初めてでした。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月04日 08時48分04秒 ) | パスワード |
>大海人皇子は天武天皇となり、飛鳥の浄御原宮を営み政治を動かすことになったのです。
>そして、この戦いに加わった伊勢国司、阿拝郡司らは勢力地 盤を固め、
>募兵に応じなかった名張郡司は弾圧されたようです。
>ともあれ、 古代の天下を分ける戦いに伊賀・伊勢の豪族が大きく関わっていたのでした。
伊勢・伊賀平氏が中央進出出来た地盤が古来から無かった訳ではない、
という事件だったように思います。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月07日 08時58分05秒 ) | パスワード |
ある人からの質問で「妙見信仰」と「星宮神社」を調べていたところ
平貞盛と星宮神社が出て来ました。
どうやら北極星を中心とする陰陽道のようですね。
妙見:http://city.yokohama.jp/yhspot/ysc/izumo/myoken.html
星宮神社:http://www.fureai.or.jp/~kyoji-m/minwa/hosinomiya.htm
[12] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月07日 09時02分07秒 ) | パスワード |
<若柴の伝説>
というのにこんなのがありました。
星宮神社の伝説
駒止の石
平将門の乱の時代、平貞盛の乗った馬が石の前で突然動かなくなった。
不審に思った貞盛が周囲を見渡すと、星大明神の祠があった。そこで、
この祠を懇ろに参詣すると馬は再び動き出した。以後この石は「平貞盛
の駒止の石」と呼ばれ、今でも星宮神社境内に残っている。
うなぎを食べない村
若柴では決してうなぎを食べない、それは若柴の鎮守、星宮神社の神様
の使いが、うなぎだからだと言う。ある人がその禁を犯し、うなぎを食
べてしまった。するとその人は病気になり三日三晩苦しんだという。
病気快癒祈願
若柴では病気になったら、星宮神社の椎の木に藁の人形を作って杭で埋
めてお祈りすると治ると云われている。更に病気が重く、危篤の場合は
この神社でお百度参りをした。
境内にある石碑、道緑神様(ドウロクジンサン)にお祈りすると足の病
気が治ったと云われている。
ものもらいにかかった時は、近所の家に行ってオムスビを貰うと治った
そうです。
この社の祭神は天御中主大神で、天地開闢の時に、高天原に最初に現れた造化三
神の元首で高天原即ち天の真中に坐し、神徳遍く宇宙主宰無始無終、全和全能の
造物主といわれている。
天の真中とは北斗七星(北極星)と考えられ、星宮神社の名の所以となってい
る。
延長二年正月十三年肥後ノ国八代の神社から分霊勧請されたという。ちなみに、
八代神社は天御中主命を祭神とし、別名を妙見宮と称している。
天慶四年四月十三日に常陸国太守平貞盛によって社殿、拝殿を建立、寄進され
た。平貞盛はこの神の信仰篤く再々参詣されたと伝えられている。
現在の社殿は天保十二年に全氏子に依り再建、平成元年全氏子に依って社殿は修
理され拝殿は改築されたものである。
[13] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月07日 09時10分15秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2000年09月07日 09時12分40秒
[14] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月07日 09時18分03秒 ) | パスワード |
平貞盛公駒留め石
[15] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月07日 09時20分34秒 ) | パスワード |
星宮神社
[16] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月07日 09時31分05秒 ) | パスワード |
この2枚の写真、皆さんは何にも感じませんか?
特に下の写真、星宮神社の白い空間は何にも感じませんか?
オンミョウドウのことは古い占いぐらいの認識しかありませんが
何やら不思議なパワーを感じます。
そういう世界って本当に存在したんだ、って思ってしまいます。
それで「若柴伝説」についてコピーしてみました。
[17] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月08日 01時12分38秒 ) | パスワード |
レスを頂きました。
服部さん、見ましたよ。
屋根の上に不思議な生き物がいてその後ろに巨大な人影、さらにその
右上には大蛇が...
その右にも!!
服部さん
僕には、髪の短いおかっぱ少女が見えます。
や、マジで……
[18] | 皇竹さんからのコメント(2000年09月08日 15時19分22秒 ) | パスワード |
伊勢発。
伊勢市矢持町床木(知盛の平家のかくれ里)に、
二位の尼の庵跡があるという情報を得て、行ってきました。
しかしガセネタだったのか、探しあてることは出来ませんでした。
土地の有力者やいろいろきいたのですが、残念でした。
[19] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月09日 01時01分37秒 ) | パスワード |
>二位の尼の庵跡があるという情報を得て、行ってきました。
伊勢・伊賀は平家の本貫地でしたから
壇の浦の後、落ちて来たということは充分考えられますね。
「平家物語」は作り物なので事実とは違っているとも思いますし。
[20] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月12日 12時41分19秒 ) | パスワード |
レスを頂きました。
星宮神社の写真をみましたが、右側に強い霊気を感じます。
木に蛇のようなものが、しかし蛇ではないですね。
いろいろ木に絡まってますね。
この写真は光りの屈折のしかたがなんか変です。
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