[1] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月10日 09時17分33秒 ) | パスワード |
漫画に「吾妻鏡」というのが出てるそうですね。
その説明を送ってくれましたからご紹介致します。
漫画「吾妻鏡」ですが、これは漫画で「吾妻鏡」というものを描いたのではなく、
「吾妻鏡」を漫画で表現したものなんです。
ですから、作者の意志は殆どないのです。
あるとすれば、「吾妻鏡」は意図的に欠落していますよね。
その部分は、作者の想像で描かれているため、作者の考えが入っていると言えます。
ですが、大部分は誰でも知っている内容ですから、目新しいものはありません。
私が、初めて知ったのは、三浦が石橋山に応援(?)に行く途中、大庭一族の村を焼
いたことでしょうか。
面白いのは、その炎上する火を見て大庭が、「まだ三浦は遠い。存分に頼朝と戦う時
間はある」と味方を鼓舞したこと。
私は、やっぱりとほくそえみましたね。
わざと、三浦は遅れたのです。
一刻も早く石橋山に行きたいのだったら、途中でそんな焼き討ちなんかしないでしょ
う。
どこまで来てるか分からないから、大庭は三浦の到着を怖がっていたんです。
それを、わざわざ自分の位置を知らせるような、馬鹿なことはしませんよね。
三浦はやっぱり、日和見の典型的なずるがしこい一族です。
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月10日 22時02分51秒 ) | パスワード |
レスを頂きました。「三浦遅参」
石橋山の合戦は8月23日。
頼朝がもっとも頼りにしていた三浦一族は、22日に石橋山から
僅か10K南東の小田原近辺にいました。その気になれば駆けつけることは出来たのです。
しかし丸子川が雨のため増水したということで、合戦には間に合いませんでした。
しかし「増水」が理由では、確かに疑問ですよね。さほど大きな川ではないし、
しかも海沿いの豪族である三浦は船を持っていた。
この遅参の理由は、戦いを避けたことの言い訳だと考えることも出来るわけです。
北条氏と三浦氏は、鎌倉政権樹立後に手を組んで、力を持つ豪族を倒しています。
1.頼朝・北条氏vs範頼・大庭氏・岡崎氏(富士の巻き狩り)
三浦は範頼擁立側、しかし処分なし
2.北条氏vs梶原氏
梶原景時追い落としに、三浦義村は率先して参加。
3.実朝・北条氏vs頼家・比企氏
北条と三浦の連合軍は、無抵抗の比企一族を皆殺し。
4.北条氏vs畠山氏
畠山をおびき出したのは三浦一族。小勢の畠山を多勢の北条が倒す。
5.北条氏vs和田氏(和田合戦)
三浦は親類の和田義盛を裏切り、北条に荷担。
三浦がついに倒されたのは、5代執権時頼のころです。だまし討ちを繰り返してきた三浦も、北条のだまし討ちで滅びました。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月10日 22時20分19秒 ) | パスワード |
ありがとうございました。
三浦のじいさんにしてみれば
自分には血の繋がりの無い頼朝をなんで助けなくてはならないのだ
という腹があったと思いますね。
それを畠山に(三浦は一応娘が義朝の妻だったのだから当然源氏方だろう)と思われて
攻められて三浦のじいさんは仕方なく源氏に付かざるを得なかった、と。
鎌倉時代に陰湿な性格の人間を挙げろ、と言われたら三浦一族は北条・梶原と3点セットで
思い浮かびますね。
それにしても三浦の孫の義平は何故京都に舞戻ったのでしょうね?
[4] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月10日 22時54分53秒 ) | パスワード |
レスを頂きました:「義平」
>陰湿な性格の人間を挙げろ、と言われたら三浦一族は北条・梶原3点セット
なんといっても、梶原景時でしょう(笑)。でもこの人は後代の石田三成に似たところがあって、捻じ曲げられた観がありますね。
彼は(伝説を信じれば)頼朝の命を助けた人物ですが、そのことで恩を着せることもなく、頼朝にとって「目の上のたんこぶ」だった平広常を暗殺したり、血筋の上でライバルになりうる範頼・義経を倒してきました。また仇討ちで有名な曾我兄弟の命乞いを必死になっている姿も見られます。意外と良い人です(笑)
頼朝の死後は頼家への忠誠心が反って仇となり、比企を除く有力大名から睨まれることになりました。もし梶原・比企が手を組み北条に当たれば、歴史は変わっていたかも知れません。
>三浦の孫の義平は何故京都に舞戻ったのでしょうね?
平治の乱の後ですか。義平は関東に戻らず、北陸道で打倒平氏の味方を募っていました。しかし義朝が暗殺され、北陸の豪族が協力を渋るようになると、義平は清盛暗殺のために京都に潜入したのだと思います。義朝を殺したのが腹心鎌田の舅。義平はそれを知って、三浦も信用できなくなったのではないでしょうか。
それにしても、先に保元の乱で武勇を後世に残した為朝、平治の乱で平家の大軍を蹴散らした義平。その境遇はよく似ていますね。子供の頃から京都から離れた土地で暴れていました。
為朝が流されたのは伊豆大島。義平の祖父・三浦氏の本拠地から近所です。ここで二人の邂逅があったら・・・・・小説のネタになりそうですね。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月10日 23時06分36秒 ) | パスワード |
ありがとうございました。
ま、三浦のじいさんの腹黒さを孫なりに聞いていれば
なんとか頼って落ちて行っても
自分を捕らえて平家に差し出したかも知れませんしね。
それなら自分で清盛暗殺を企んだ方がいいかも、
と思ったのかも?
[6] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月11日 22時41分01秒 ) | パスワード |
「義平」について更にレスを頂きました。
平治の乱では、僅か10数人で200ほどの平家軍を追いまわした。戦い破れ、疲れ傷ついた
体で逃げる時も、30人ほどで荒法師数百人を倒しているのだからすごい。
義平は小柄ながらも勇猛で、末弟の義経をほうふつさせるものがあります。
でもこの人は、どうも戦術は得意でも戦略は無能ですね。
平治の乱では、皇居にこもって戦っていたのに、一時優勢になっただけで平氏の大軍に突入
し、ここで勝ったのはいいけど平家の別働隊に皇居を占領された。
つづいて平家と戦う間、「味方」といって悪ければ「中立」の源頼政を蹴散らしたのは、好ん
で敵を増やしたようなもの。後先のことを考えない、直情傾向の代表ですね(笑)
以下は余談。
直情径行といえば、三浦一族の和田義盛。彼の四男朝比奈義秀は、「為朝の再来」といわれた
暴れん坊です。この人は義盛と巴の間に生まれたという伝説があります。巴というのは、やは
り直情径行の木曽義仲の妻。義仲の死後行方不明になっていました。実際はどんなものなんで
しょ。
[7] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月12日 22時16分46秒 ) | パスワード |
「丹後局」についてメールを頂きました。
戸塚に寄って「丹後局」の供養塔と隠れ家があった、丹後山とを見てきました。
「丹後局」と言えば、あの後白河法皇の愛妾で有名ですが、
こちらの「丹後局」は比企能員の妹で頼朝の愛妾の方です。
その子が、島津氏宗家の島津忠久。
ただ、問題は丹後局は惟宗広言とも結婚してる。
ここが、大きな問題。
1192年、頼朝はこの忠久を近侍として取上げ、
破格に薩摩・大隈・日向の守護に命じている。
これがおかしいんだ。
丹後局が愛妾だったから与えたのか、忠久が自分の子だから与えたのか。
一番、よく知っているのは丹後局なんだけどなあ。
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月12日 22時19分04秒 ) | パスワード |
私からのレス:
比企家は何重にも頼朝と係わっているのですねぇ。
島津が元々はそういう関係の家だとは知りませんでした。
比企が失脚した時全部没収されても文句を言えないのに
1ヶ国だけ?許されたのは頼朝との関係でしょうね。
丹後局が頼朝の子を妊娠しているのを知らず
下げ渡してしまったのかも知れませんね。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月12日 22時24分06秒 ) | パスワード |
今、ちょっと調べましたら、やはり惟宗家の祖は頼朝の庶子との説もある、
と書いてありました。
こういうのって女性しか分からないことですね。
ふふふ
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月12日 23時51分23秒 ) | パスワード |
レスを頂きました。
>『惟宗の祖はやはり頼朝の庶子の出という説があるそうですね。』
噂というか伝説というか。
東国ばかりではなく、西国にも同じことが言われているそうです。
うーん、追っ駆けをするまで価値があるかどうか、判断に迷うところですねえ。
>『矢張り女性しか本当のところは分かりませんよね。』
ですよね。
父親というのは、何人もの男と交わった場合は特定できません。
でも、母親は間違いなく自分の腹から出るんですから、間違いっこない。
丹後局に聞く以外ないのかなあ。
>『比企は何重にも頼朝と係わっているのですねぇ。』
どうしてどうして、比企も隅に置けない輩の一人ですよ。
みんなそうしてるけど、比企は露骨過ぎたかもね。
>『島津が元々はそういう関係の家だとは知りませんでした。』
落胤かどうかは別として、
主従関係ではかなり「いい関係」だったみたいですね。
>『比企が失脚した時全部没収されても文句を言えないのに、1ヶ国だけ?許されたの
は頼朝との関係でしょうね。』
かなあ?
頼朝との関係も確かにあったようですが、島津は急速に力をつけたみたいですね。
手が出せなかった、が正解ではないでしょうか。
>『丹後局が妊娠しているのを知らず下げ渡してしまったのかも知れませんね。』
でしょうよ。
昔は辺ぴな田舎だったところに隠れたのは、
政子の嫉妬
と供養塔には書いてありました。
下げ渡された方は、こりゃたまらんわ。
[11] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月14日 22時28分33秒 ) | パスワード |
このようなメールを頂きました。
>去年市原に行きました。
>国分寺跡に行きました。
いやあああ。驚きました。
よーーーく知ってますよ。国分寺。
遺跡が出るんですね。よく。だから、住宅の建設がバラバラです。
確かに市原の町はそんな感じがありました。
それで今でもたんぼのままなのですね。
[12] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月14日 23時30分29秒 ) | パスワード |
別の方からレスを頂きました。
あの付近は、古墳群・貝塚など大きいものが5カ所ほど確認されています。
従って、何とか遺跡などと呼ばれるものが多いのです。
國分寺の関係は、中世ですから発掘が容易だったんでしょうね。
國分寺、國分尼寺、國分寺塔の跡は発見されているのはご承知の通りです。
ただ、遺跡のために開発がバラバラとか、遅れているとかの説は疑問です。
ベッドタウンには遠過ぎ、交通の便は極度に悪い。
何を買うにしても、遠くまで行かなければ買えない。
その上、バブルの崩壊であんな所まで手を出す業者も、買う人もいない。
これが現実でしょう。
[13] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月24日 11時19分18秒 ) | パスワード |
義仲寺のお問い合わせがございました:
私は1987年に出掛けておりました。
大津市馬場1丁目。
粟津が原と呼ばれた所だそうでございます。
電話:大津23ー2811
国鉄膳所下車で北へ。(または京阪ぜぜ駅下車。北へ)
西武百貨店へ行く方向で
平野小学校を通り越して左へ。
その向こうに大津警察署があり。
今井兼平の墓は
京阪ぜぜから石山寺方向へ4つ目の「あわづ」で下車。
確か青嵐町だったと思います。
1987年には
木曾の宮越の徳音寺へも義仲や兼平や樋口の墓もお参りに行きました。
[14] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月30日 22時07分14秒 ) | パスワード |
夏の京都に行ってきました。
夏の京都もいいものですよ。
第一人がいないことが、かえって静けさを満喫させてくれる。
長楽寺なんか、入ってから出るまで人と出会わなかった。
お陰で、じっくり「平家物語」を味わえた。
「祇園精舎の鐘のこゑ」の鐘だけど、ボーンって一つ鳴らしちゃった。
住職さんも何も言わなかった。
「こんな暑い日に来て頂く人に、悪いお人はおまへんです」と思ったかどうか。
身震いして、800年前にタイムスリップしてきた。
私も浮気もんだね。
建礼門院が、長楽寺に行ったら好きになってしまった。
安徳天皇の衣。
剃髪。
十三重御塔。
全てが、悲しい運命の落し子のように思えてね。
今回の中心は、後白河天皇陵の参拝、その皇子の以仁王の墓を見ること、頼政の墓を
見ることだった。
確かに頼政の墓は、平等院だから簡単だ。
ただ、切腹の場が残してあったのは少し驚き。
以仁王の墓は一寸行けないね。
車だから行けたけど、電車じゃそれだけで半日コースだよ。
辺鄙な片田舎で訪れる人もいない。
地元の人以外で、ここを訪れる人は一年で何人いるだろう。
それほど、遠い地という感じがした。
天皇の子でありながら、哀れだね。
可哀想で、思わず目頭が熱くなった。
気がついたら、ひざまづいていた。
救いは、流石に天皇の皇子だけあって、宮内庁がきちんと管理してくれていたことか
な。
「こんな、人里離れたところまで」と感心した。
[15] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月30日 22時09分14秒 ) | パスワード |
上記はメールで頂いたものです。
[16] | 服部 明子さんからのコメント(2000年08月30日 22時43分04秒 ) | パスワード |
続きを頂きました:
そうそう、書き忘れた。
義仲寺に行ったと思いたまえ。
大体、朝から門を開けない寺なんてありか?
朝の6時半頃、義仲寺に着いたんだ。
何と、門が閉まってるんだよ。
「開門10時」だって。
あとから来ればいいや、と思って京都に向かった。
数日後の月曜日に、わざわざ京都から膳所に行った。
どうなったと思う?
何と、月曜は休寺だって。
普通、お寺に休みってありか?
もう来てやるもんか、って「アッカンベー」してやった。
おまけにだよ。
八坂の塔の法観寺にある「義仲供養塔」も見れず終い。
だって、開門時間になっても、門が開かないんだ。
翌々日に行ったけど、やっぱり門は閉まったまま。
何で?
倒産したのかな。
もう来てやるもんか、ってここも「アッカンベー」してきた。
よっぽど、義仲に嫌われたんだ。
それとも、義仲はやっぱり変わり者なのかな。
[17] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月03日 01時06分51秒 ) | パスワード |
メールを頂きました:
{青梅聖天}
鎌倉七切通の一つに、小袋(巨福呂)坂切通がある。
その名は有名であるが、
坂の途中にある「大聖歓喜天」の神社は意外と知られていない。
題名に「青梅聖天」と書いた由来は、次のようなところから来ている。
鎌倉将軍が病臥に伏せられた時、季節が外れていたにもかかわらず、
「梅を食したい」
との仰せがあった。
そこでやっと見つけたここの青梅を食したところ、一晩で病が治癒したという。
この言い伝えから、江戸時代までこの「大聖歓喜天」は「青梅聖天」と呼ばれ、
小袋坂を通る者は立ち寄ってはお参りをしたという。
今、この大聖歓喜天は、一間四方程度の小さな神社になっている。
境内とは言えない狭い敷地だが、梅の木が沢山植えられている。
また、神社は30段程の階段を登ったところにあるが、その途中も梅の木でいっぱいである。
蝉時雨がいっぱいの夏に行ったが、何故かその爽やかさに暑さは感じない。
頼朝の三浦三御所のように、桃之御所という名にもかかわらず
桃の木が3本程度しか植えられていない某寺のようでは、これだけの爽やかさは味わえないだろう。
梅の花咲く春と、実のなる初夏には必ず行きたいと思う。
梅の香りと、色づく梅の実が優しく迎えてくれるような気がして・・・。
「鎌倉事典」を見ても、神社の案内板を見ても、鎌倉将軍とはどの将軍を指すのか
どれにも書いてはいない。
当然のことながら、頼朝ファンの小生は鎌倉将軍といえば「源頼朝」と解釈している。
[18] | 服部 明子さんからのコメント(2000年09月03日 01時59分37秒 ) | パスワード |
追記:
ここの本尊は男と女が抱き合っている姿なんですって。
ご開帳されていませんので見れませんが、「仲良し」の守り神らしいです。
[19] | 林原英祐さんからのコメント(2001年07月14日 12時12分26秒 ) | パスワード |
58歳の疲れかけた男性ですが、最近、天なる声が聞こえて来まして、母の里(比企)に興味を持ちまして、いろんな方にお手紙を差し上げて、最近では少し嵌っている感じです。面白半分にPCを購入しまして最初に開いたホームページが貴方のものでありました。見知らぬ方に大変失礼とは存じますが、少し面白半分にコメントしてみることにいたしました。最近まとめました「比企家」のレポートを貰ってくれる方がおりません。女房殿(三恵子)に、読んで欲しいと申しますと、馬鹿にされて、寂しくしております。子供達も全く興味ガ無く、昔の元気なころの自分の姿を見るようです。
さて、本題に移りますが、比企家は「女系」の家系であるとある方から聞かされたのが、頭から離れなくなり、学習を始めた発端になりました。(天の声)
NTT のタウンページを探しても、驚くほど「比企」と言う姓は拡がりがありません。武蔵国から江戸時代にかけて越前福井松平藩に仕えたとされる「比企」の家にも、女系の謎が続いています。特に貴方様が女性であることを鑑みまして、女系と申しますよりも「後家(尼)」系と表現しておきます。もしご興味がありましたら、小生の作成した「大作レポート」を差し上げたいと考えております。本音を言いますと、何とか貰って頂けませんかということです。ネット上でお送りする技量がまだ備わって降りませんので、できれば郵送したいと思っています。あて先をご連絡頂ければと考えます。もし、ご了承されるなら、メールの技量もありませんので、連絡をお待ちします。以上
[20] | 服部 明子さんからのコメント(2001年07月14日 22時41分36秒 ) | パスワード |
是非「比企氏の歴史」なる新しいスレッドをお立ての上
掲載なさって下さい。
どなたかの参考になることだけは間違いありませんから
助かります。
よろしく!
[21] | 新納昭秀さんからのコメント(2001年08月11日 05時02分24秒 ) | パスワード |
自分のルーツをたどっていましたら、
こちらのホームページまでお邪魔することになりました。
面白かったです。
[22] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月11日 12時48分50秒 ) | パスワード |
新納さん
初めまして。
しんのうさんっておっしゃるのですか?
<にいろさん>かと思いました。
是非「新納家」について新しいスレッドをお立てになって公表なさって下さい。
[23] | 新納昭秀さんからのコメント(2001年08月15日 05時11分47秒 ) | パスワード |
ありがとうございます。
400年ほど前は「にいろ」と呼んだそうです。
親族から聞かせれていた伝説と歴史がぴったり一致しています。
島津家から別れた新納(にいろ)家が先祖です。
豊後の大友攻めの際、大分県の南部に住み着き、
呼び名を変えて「しんのう」としたそうです。
ちなみに、実家は大分県の南部です。
現在は東京都国分寺に住んでいます。
ということは、おいらの一族は偽名のまま400年過ごして
しまったということですね。
このホームページは先祖の新納忠元〜島津家〜惟宗家〜丹後局
〜比企一族〜武蔵武士団へと向かう途中で立ち寄りました。
[24] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月15日 10時23分00秒 ) | パスワード |
矢張り「にいろ氏」ユカリのお方でしたか。
立派なご先祖さまを戴いたお家って子孫は大変でしょうね。
「新納忠元公」と言えばその武勇と人間性で日本史に燦然と輝く武将ですから
すぐに新納姓=忠元公と連想になります。
是非是非あちらのスレッドにどんどんお書きになって下さいね。
[25] | 服部 明子さんからのコメント(2001年08月15日 10時37分01秒 ) | パスワード |
九州でしたら源三どのがお詳しいですね。
源三どのからの書き込みも参考にさせて頂きますね>源三どの
[26] | 新納昭秀さんからのコメント(2001年08月16日 09時25分11秒 ) | パスワード |
ありがとうございます。
家が代々そういった直系というかたちで継承が行われていれば大変かも
しれませんが、私の家は分家ですから特別は感じません。
まぁ、九州ではありがちな「おまえは武士の子だから・・・」とか
「先祖は立派な方で・・・」云々はありましたよ。
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