[1] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月16日 22時57分32秒 ) | パスワード |
結構言い得て妙でしたからコピーします。
愛知県
伊藤/加藤/山田/水野/渡辺
新聞は中日、車はトヨタ、野球はドラゴンズ、銀行は東海銀行、お
歳暮は松坂屋というのが平均的名古屋人のパターンだという。名古
屋が偉大なるイナカとよばれる由縁らしい。姓も大都会のわりに特
徴的だ。水野・鬼頭・木全・余語・日比野・蟹江・浅井・丹羽・犬
飼・祖父江・大矢・久野・布目・水谷・立松などが愛知らしい姓。
毛利氏から名を許された毛受(menzyuu)という姓もある。
岐阜県
加藤/渡辺/山田/伊藤/高橋
大野・大洞・大嶽・大竹・大武・大橋などが多くみかける姓。岐阜
県らしい姓は、篠田・野々村・可児・棚橋・鷲見・小木曽・各務・
度会・宇留野などだ。
三重県
伊藤/中村/山本/加藤/小林
柘植・世古・出口・別所・川北・大市・古市・中久木・山際・野
呂・生川などが三重県らしい姓。世古・世古田・中世古の姓も三重
県に多い。これは伊勢市などで細い通りを世古という。セコは細く
行き詰まった谷の意で、それが名字に使われたようだ。宇治土公
(usitoko)・禰宜田谷(negitaya)は伊勢神宮の古い家柄の姓。御巫
(mikanagi)・御子・垂髪(unai)なども伊勢の国らしい姓だ。、、
[2] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月16日 23時25分21秒 ) | パスワード |
1番下に江戸時代は「尾張」の服部氏がちょっと出てますが
ここでは「伊勢」の服部となってますけど
戦国時代迄当時は確かにあの辺りは「伊勢領内」でした。
服部友定公は代々伊賀守を名乗っていました。
正月祝いに北畠家に挨拶に行き織田信長の罠にかかって自害しました。
服部(服織)氏
古代職業部の機織り部門を担った機織部の服部(hatoribe)に由来
する姓氏。「ハタオリ」「ハトリベ」から「ハトリ」そして「ハ
ットリ」と呼ぶようになった。衣食住の「衣服」に関係する職能
部族には「綾部」「錦織部」や「衣縫部」「赤染部」などがあ
り、それぞれ姓氏として名残をとどめているが、その中でも服部
氏が一番多い。その居住地が服部の地名になった。
服部は、文明が高く人口の多い畿内から、全国の主要地に配置
されていった。それらを中央で統轄する伴造が服部連であった。
この系統の有力な服部氏は、山城・大和・摂津・河内・伊賀・伊
勢・三河・武蔵など、当時の文化地域に進出していった。
代表家紋は「矢車」と「矢筈」。
■各地の服部氏の由来
■大和の服部
和名抄 当国山辺郡に服部郷を収め、波止利と註し、東大寺要録に
服部の荘を載せたり。又、延喜式 城上郡に服部神社あり、皆 こ
の部の在りし地なり。又、後世 高市郡の医師に服部時寿(子篤)
あり、宗賢と号す。高取藩に仕う。名医なり。
■摂津の服部
和名抄 当国 島上郡に服部郷を収む。又、延喜式に服部神社、荘
園目録に服部御領を載せたり。又、服部城あり、松永久秀築く。
当国には、服部連(諸国の織部を総領す)住す。又、後世、大阪 神
戸などに服部氏多し。
■山城の服部
当国にもこの部民多かりしならん。又、後世 伊賀服部氏の後の服
部氏は、その系図に「大膳貞長−時貞−貞信(美濃別当、伊賀国呉
服明神の神職、後に山城国宇治田原に住す、後 家康に属す)−貞
富、家紋 車輪竪二本矢、七本矢、矢の字桔梗」と。
又、京都の人に服部元喬あり、もと伊賀の服部より出づと云う。
荻生徂徠門の俊才にして、南郭と号し、服 南郭と称す。宝暦卒。
その長男 惟良は夭折し、次男 惟恭、詩名ありしも、また早世
す。よりて門人 西村元雄を季女に配して家を継がしむ。又、国学
者服部中庸は、元居門にして、水月と号す。
又、服部敏夏あり、これも本居門にして、通称を中川屋五郎右衛
門と称せり。又、剣客に服部藤次兵衛あり、神後伊豆守の門(新陰
流)、皆 京都の人なり。
■遠江の服部
延喜式、当国 長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり、共に
古代服部の奉齋せし、神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の
名族あり。
■駿河の服部
当国安倍郡に服職庄あり。而して、後世 服部氏多く、又、府中浅
間社家に服部氏見ゆ。
■武蔵の服部
和名抄 当国都筑郡に高幡郷、幡屋郷、また、男衾郡に幡々郷、ま
た、久良郡に服田郷を収む。服部の部民の多かりしを知る。後
世、久良岐郡の名族にこの氏あり。新編風土記に「服部氏(弘明
寺村)。先祖を玄庵道甫と云う。村内 寶林寺の開基なり。相伝
う、元は伊賀国名張の城主なりしと云えど、正しき伝えはなし。
後、故ありて跡をくらまし、当所に来て隠棲し遂に農民となれ
り。されど系図は無し、先祖より持ち伝えし物とて、甲冑二領、
刀、短刀五振、文書四通を蔵せり」と。又、足立郡服部氏は、二
本矢を家紋とす。
■両総の服部
和名抄、下総国埴生郡に酢取郷を収む。後世、羽鳥村の残るを見
れば、羽鳥の誤りにて、この部のありし地ならん。後世、豊田郡
下石毛村の人 服部謙蔵・波山は、書家として名あり。
■常陸の服部
真壁郡に羽鳥郷あり、この地より起りしもあらん。
■近江の服部
和名抄、野洲郡に服部郷を収め、八土利と註し、高山寺本には、
波止利と訓ず。後に服部村あり。この地名を名乗りしもあらん。
■美濃の服部
和名抄、当国安八郡に服織郷あり。
■奥州の服部
磐城国標葉郡、岩代国会津郡などに羽鳥の地名あり。この部民の
ありし地か。この地名を名乗りしもあらん。田村家臣に服部氏あ
り。又、新編会津風土記に「耶麻郡猪苗代 進功霊社。社司服部安
休尚由の社なり。安休は初め春庵とて、林道春の弟子にて、後、
保科正之に仕え、侍臣となる。天和五年没す」と。
■越前加賀の服部
天平神護二年の越前国司解に「余戸郷戸主 服部子虫、鹿蒜郷戸主
服部否持」など見え、又、和名抄、今立郡に服部郷を収め、波止
利と註す。又、神名式に「江沼郡服部神社」見ゆ。
■因幡の服部
和名抄、法美郡に服部郷を収め波止利と註す。又、神名式、法美
郡に服部神社を載せたり。後世、服部庄起こる。この地より起り
しもあらん。
■伊賀の服部氏
当国阿拝郡に服部郷あり。延喜式、阿拝郡に小宮神社あり。伊賀
考に「小宮は、服部氏の惣社にして、伊賀国二之宮」と云い、三
国地誌に「昔は服部の輩、阿拝郡を領地せる故に、服部の社もあ
りと、永閑記に見ゆ。土俗なべて服部氏を秦人の裔となすは、非
なり」と。この氏族滋蔓して、伊賀一洲に散在す。平内左衛門尉
家長が源平盛衰記に現われ、その名最も高ければ、この族を桓武
平氏となすもの多し。
又、東鑑 文治二年六月二十八日條に「左馬頭能保の飛脚参着す。
去る十六日、平・仗 時定(平家物語には、服部六郎時定)、大和
国宇陀郡に於いて、伊豆右衛門尉源有綱(義経の婿)と合戦す。而
して有綱、敗北し、右金吾相具し、深山に入りて自殺し、郎従三
人傷死し了んぬ。残党五人を搦めとり、右金吾の首を相具し、同
二十日、京都に伝う云々。これ伊豆守仲綱の男なり」と。又、円
覚律師、これは服部広元の子にして、京都 法金剛院、及び清涼
寺の僧侶たりしが、慶長元年卒すと。
■三河の服部氏
服部系譜に「将軍義晴 臣 服部半三保長(石見守・三河に来たり
松平清康に仕う)−石見守正成(半三・遠江国八千石)−石見守
正就、弟 伊豆守政重(半蔵・三千石・後 松平定綱家臣)」と。
編年集成に「服部半蔵正成、伊賀組 二百人にて、谷村城を守る」
と。寛政系譜に「家紋、八桁車の内竪矢筈二、十六桁矢筈車、十
六葉菊、むかい蝶矢車」と。
■伊勢の服部氏
和名抄 奄芸郡に服部郷あり、八止利と註す。この地より起りしも
あらん。永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、
北畠氏に属す。
[3] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月16日 23時31分34秒 ) | パスワード |
上記の最後に「永禄中、服部友定あり、長島砦を修し、ここによりて、北畠氏に属す」
と書かれていますので長島砦城のもともとの持ち主である伊藤氏についてコピーします。
伊藤/伊東氏
伊藤氏は秀郷流藤原氏で、佐藤姓を名乗った公清の曾孫基景が伊勢に
居住して名乗った。
一族は源平合戦のころ平家に属し、多くの武勇の士を出した。悪七兵
衛景清、上総介忠清が知られている。その後、伊勢から尾張・三河・美
濃を経て各地に広がっていった。武田・今川・朝倉・などの戦国大名の
家臣にも名がみられる。
のちに、伊東氏との混同もあるにせよ三重・愛知・静岡・岐阜・秋
田・島根に多い。
名古屋・松坂屋の伊藤家は伊勢松坂の出で織田家に仕え、後に呉服商
になった。
伊豆の伊東は、藤原南家流の名門工藤氏の後裔。工藤氏は藤原武智麻
呂の子孫為憲を祖としている。為憲は平将門の追討に功のあった常陸介
藤原惟幾の子で、木工介であったことから工藤を称した。
為憲の孫維景は駿河守として伊豆国狩野に住し、狩野氏の祖となっ
た。その子維職は田方郡伊東に居を構え、伊東氏を名乗った。
だから伊東氏も藤原氏の出ということだ。伊藤氏を称しても不思議で
はない。実際、多くの伊東氏が伊藤を称したので混同が起こった。しか
し、伊藤氏が伊東を名乗った例は少ない。
同じ藤原氏の出自とはいえ系統が違うので、両家の代表紋も異なって
いる。伊藤氏は「藤(上り・下り)」で、伊東氏は「庵木瓜」が代表紋と
なっている。
■各地の伊藤/伊東氏の由来
伊藤氏と伊東氏のそれぞれの地域における出自をみてみると、
伊藤氏
■秀郷流伊藤氏
秀郷流藤姓
秀郷五世 孫 公清の裔 基景 伊勢に住すを以って伊藤と号す。源平戦乱
の頃 平家に属し、武勇に秀でし士を多くだせり。寛政系譜、この流伊藤
氏十一家を載せ、家紋 上り藤の丸釘抜撃、 尊卑分脈に
基景−基信−景綱┬忠清−忠光−景清
└景家−景高−兼高
伊豆伊東流伊藤氏
伊豆伊東氏は、伊豆伊東庄より起りしにて、伊東と書くを正とすれど、
音、同じにより最初伊東にして、後に伊藤と混用されしもの多し。相良
系図に「維安−維職(号す、伊藤・伊豆国の押領使、伊豆工藤元祖、相
州の武将)、弟 維重(入江権守・駿河権守・駿河工藤・伊勢伊東長野こ
れなり)−維清」とあるも、甚だよろしからず。曾我兄弟六代の祖 維職
をその子とするなど時代の混乱甚だし。この系図に依れば、曽我兄弟は
南北朝以後の人となってしまう。寛政系譜 この流 伊藤氏四家を載す、
家紋 月九曜、庵に木瓜、横木瓜。
伊勢の伊藤氏
伊東氏と互用するものあり、伊勢は伊藤氏発祥の本国なれば、後 伊藤と
称するもの甚だ多きも、系を藤原南家工藤流と称するものも少なから
ず。後世 桑名郡に北勢四十八家の一なる伊藤氏あり、長野氏と同族工藤
家と称す、文明年中(或は弘治・又、永禄)伊藤四郎重春あり、松箇島
城(長島城)に拠り、押付、殿名、竹橋の三処(桑名志には五処)に砦
を築いてこの地を押領せしが、後 一向門徒に破られ、城を奪わると云
う。
その盛時、押附砦には伊藤蔵人、殿名砦には伊藤修理、竹橋砦には伊藤
与三右衛門、或は伊藤自徳 拠りしとぞ。又、桑名の東砦は伊藤右近居守
す、一説 武左衛門実倫、悪七兵衛景清の末 兵部少輔実房の男なり(三
国地志)と。次に員辨郡中津原城には伊藤行秀なるものありしが、元亀
二年長島の役に死して城廃す(名勝志)と。
三国地志には「上木砦、按ずるに上木九郎左衛門(或は伊藤)居守」と
見えたり。次に庵芸郡椋本城は白河天皇の時、伊藤貞好なるもの居る
(五鈴遺響、勢陽雑記拾遺)と。又、安濃郡殿城は応永中 伊藤満高ここ
に居る(名勝志)と云う
参河の伊藤氏
設楽郡に伊藤氏多し、即ち、山上城(設楽村古屋舗)は伊藤左京隠居の
地なりと云い、又、山上城(川瀧之内奈根村古屋舗)は伊藤丹波の居
城、布里草の内別所村古屋舗は伊藤市之丞(父 左京)居住なりとぞ。
又、八名郡神郷村下宮天文十三年棟札に伊藤左近将監、又、宝飯郡、犬
頭神社の社家に伊藤氏など ものに見ゆ。
武蔵の伊藤氏
新編風土記豊島郡條に「伊藤氏、上駒込の旧家なり。先祖伊藤伊兵衛こ
の所に住し、萬治元年三月十八日死す。子孫 伊兵衛政武の時、享保十二
年三月十一日有徳院殿 経過せらる」と又、多摩郡條に、「伊藤氏、先祖
伊藤太郎左衛門は本姓 大石なりと云う、これも御獄棟札に見えし人な
り。
家に蔵する大石系図一巻あり、その系図を閲するに大石播磨守定仲の妻
は伊藤若狭祐重の娘なりとあり。かかる縁によりて、大石と名乗りしこ
ともありにしや。大石は当国 著名の家なれども、今その子孫たまたま残
りたるも、家伝も確かならぬと。又、先祖使用の刀なりとて、備中長船
祐光の刀を蔵せり」と見ゆ。
伊香氏流
伊香氏系図に「由井保房の子、盛安(伊藤太)、宗安(伊藤次)」と見
ゆ。近江甲賀郡の伊藤氏は、丸木瓜を家紋とす。
美濃の伊藤氏
「石津郡福江村古城址、伊藤兵庫の城跡なり」と新撰志に見ゆ。
諏訪の伊藤氏
家紋 丸に木瓜、丸に横木瓜、木瓜、庵木瓜、上り藤、花澤潟、角菱。諏
訪志料に「伊藤氏、元 工藤にて、始め伊東を称す。大織冠鎌足十一代
為憲の孫 時信に至り、伊豆伊東を領し、氏とす。その孫 維永、その子
維景(駿河守)、その男 維職(伊豆工藤の祖)、その男 家継(工藤大
夫)、その子 祐家に至り二家に分かれ、一を祐親・伊東次郎と称し、後
入道、その男 祐清・伊藤九郎と称す。而して祐清は、義仲に従い、功あ
り家記に 当 伊藤氏は祐清の男 清長より出づと。
清長(伊藤九八郎)−祐義−祐信(伊藤久左衛門)−祐朝(伊藤八郎左
衛門)−祐重(伊藤八十郎)−祐政(伊藤主計)−祐時(伊藤八左衛
門)と相続、代々 武田家に仕う、祐時は信虎、信玄二代に仕え、功あ
り。祐行(伊藤八郎)は、祐時の男なり、勝頼に仕う、武田滅亡の後 浪
人し、小坂の里に潜居 帰農す。次は 重隆八郎左衛門にして、敬神の志
篤し云々」と。
白河の伊藤氏
古事考に「三城目の鷹栖館は、往古 伊藤大学と云う人、大和国より来た
りて住居せり。今の村長の祖なり」と。この家代々 祐字を通字とす、よ
りて、安積伊東氏と関係あらんか。安積郡には、村村に伊藤氏ありて、
他姓はなかりし程なり。且つ皆 祐字を通字とす、仙道表鑑、積達古館辨
などを見て知るべし。然らば大和より来ると云うは誤りにて、安積にて
伊藤大和など云える人の分家ならんかと。
安積の伊藤氏
中地村小倉山館(一に鶴島城)は伊藤氏代々の居城にして、天正の頃薩
摩守盛恒居住し、そのほとり多くを領す。伝説に依れば、盛恒、天正十
七年 横澤彦三郎と戦いて敗れ、福良村に奔り、再び戦いて討死にすと云
う。又、本郡大槻館は伊藤将監高久、その子 高行の居城にして、高行は
永禄五年卒去、長泉寺にその牌ありと。又、赤津村館蹟伊藤弾正築く始
め名馬城と称すとなり。安積伊藤の族なるべし仙道雑記に片平村城主伊
藤大和守と申すは、工藤左衛門祐経の次男 伊藤六郎左衛門助(祐)長の
後なりと。(新編会津風土記に鶴山館、いつしか伊藤氏の築く処と云
う)。
会津の伊藤氏
河沼郡野沢本町館跡、大槻館と云う、延徳の頃、伊藤長門守盛定と云う
もの住して大槻氏と称す。又、古坂下村館跡、天正十年伊藤勘解由住す
(新編風土記)と。又、伊藤大膳、大沼郡黒澤館(往古 伊藤駿河某と云
うもの住す)、耶麻郡塩谷村熊野宮神職 伊藤近江(その先を日向政国と
称す、享保中 この社の神職となる)等見ゆ。大槻城主 伊藤長門守藤原
盛定は、如法寺の記禄に見ゆ、安積大槻の伊藤氏と同族ならんかとの説
あり、舟津四村の領主なりしとぞ。
西田面村興泉寺、至徳中 安積郡横澤の地頭、伊藤右金吾某、草創す。文
亀元年 蜜侶弘盛 居住し、天正十九年右金吾の遠孫・藤三郎某、伊達政
宗に属せしより寺産を失いしと云う。
平姓
寛政系譜平氏支流に収む。正知より系有り。家紋 庵に木瓜、十曜。伊
勢伊藤氏は、平家の家人たりしより平姓とするもの有り。中興系図も平
氏に収む。
加賀藩の伊藤氏
伊藤平右衛門(紋、蕨角内片喰)、伊藤主殿(紋、角内木瓜)伊藤喜久
馬(紋、割角内木瓜)、伊藤条之助(紋、丸内九曜)伊藤小平(紋、九
曜)、伊藤与九郎(庵木瓜)等見ゆ。
丹後の伊藤氏
天田郡の伊藤氏は、その先祖伊勢国より綾部公のお供にて来る。又、氷
上郡の伊藤丈左衛門は、射芸の達人にして強弓を用うと。
越智姓の伊藤氏
伊藤博文の家は、伊予 河野氏の族にして、系譜は次の如し
河野通有−通直−通朝−通尭−通義−通久−通兼−通村−通忠┐
┌――――――┘
└林 淡路守通起┐
┌―――――――――――――――――――――――――┘
├通元
├通代
├通重−信勝−信吉−又左衛門−源蔵−與┐
├通好 ┌―――――――┘
├通定 └右衛門−助左衛門−十蔵=博文
├通形
├通永
└通末
*博文の養父 伊藤彌右衛門は、周防佐波郡相畑の人、博文幼少の頃 越
智 釜太郎と号す。
筑前の伊藤氏
豊薩軍記に伊藤八郎あり、秋月配下の将なり。当国上坐郡の伊藤氏は、
肥後 菊池氏の末葉と伝え、寛永の頃、伊藤五郎左衛門と云う人に至り、
帰農したりとぞ。家紋、上り藤の中に井桁、又、庵に木瓜を用いるもあ
り。
伊東氏
■南家流伊東氏
藤原南家河津流
伊豆国田方郡伊東庄より起る、南家の族常陸介維幾の子為憲・木工助た
るによりて、工藤と称す。其の裔伊豆国押領使となりて 伊東の地を領
す。これ伊東の起源なり。尊卑分脈に
武智麿四男乙麿−右大臣是公−中納言雄友−伊賀守弟河−右衛門権佐高
扶┐
┌―――――――――――――――――――――――――――――――
―┘
└上総介清夏−常陸介維幾−木工助為憲−工藤判官代時理−駿河守時信
┐
┌―――――――――――――――――――――――――――
―┘
└維氷−駿河権守維景−伊豆国押領使維職−狩野九郎維次┐
┌―――――――――――――――――――――――――┘
└狩野大夫家次−工藤左衛門尉祐経
*この流は、工藤二階堂系図、河津系図、相良系図などそれぞれ微妙に
異なる。
尾張の伊東氏
河津系図に
工藤大夫祐隆┬祐継−犬房
└祐親┬祐重−祐成
└祐清−祐信
備中国 岡田侯伊東氏は、祐親の男 祐清の後なりと称す。その祖七蔵長
久は、尾張国の住人にして、羽柴家に仕え、天正十一年 柴田勝家との戦
中、病死す。その子 長実丹後守と称す。
大坂の陣 秀頼に属せしが、徳川氏これを許し 諸侯に列せしむとぞ。系
図は丹後守長実−若狭守長昌−甚太郎長治−信濃守長貞−播磨守長救−
若狭守長丘−伊豆守長詮−播磨守長?−長裕−長蔵−久実。備中岡田一
万三百石、明治 子爵、家紋、庵に木瓜 丸に折入 九曜。
藤原南家工藤流
祐経は 頼朝挙兵に際し、功あり、頼朝の寵を得ること頗る深く 伊豆国
を始め三千八百余町を賜る。伊東系図に
工藤祐経−祐時−祐光−祐宗−貞祐−祐持―伊東祐重┐
┌――――――――――――――――――――――┘
└−祐安−氏祐−祐堯−祐国−尹祐−祐充−義祐−義益−義堅┐
┌――――――――――――――――――――――――――┘
└祐兵−祐慶−祐久−祐由−祐實−祐永−祐之−祐隆−祐福┐
┌――――――――――――――――――――――――――――┘
└−祐鐘−祐民−祐丕−祐相−祐帰−祐弘−祐淳
家紋 月に星、九曜、庵に木瓜 一文字
武蔵の伊東氏
新編風土記荏原郡羽田村伊東氏條に「伊豆伊東の末葉とのみ伝えて、こ
れも詳ならず」と。又、下北沢伊東氏條に「先祖は膳場将監、その後 伊
東氏となりしは、中古 母方の姓を冒せるよし云えり」と。又、多摩郡に
伊東氏あり、「先祖を伊東日向介と云う、天文の頃の人なりとぞ。その
子 十左衛門も後に、日向介と云えり。その子を 淡路介とて八王子城主
陸奥守北條氏照の鉄砲頭を務め、三十貫の地を領せしが、八王子城落城
の日、討死にせり。その子 将監は、文禄慶長の頃 由木村に住せしと
ぞ。御嶽棟札に伊藤将監としるせしはこれなり。連綿せる系図を伝えた
り」と。
安積の伊東氏
工藤祐経の次男 六郎左衛門尉祐長の後なり。祐長のことは東鑑に見え、
又、日向記に伊東薩摩元祖とあり。その後裔奥州安積郡に栄ゆ。老人物
語に「工藤右衛門祐経、初めて奥州安積を始め、田村の内、鬼生田村な
どを領す。嫡家伊東大和守祐時、嫡流たるにより伊豆に住す。これ日向
伊東の先祖なり、次男 祐長、安積伊東の祖なり」と見えたり。
下って応永十一年七月の連署起請文に伊東下野七郎藤原祐持など見ゆ。
その後裔に伊東摂津守あり、郡山城に拠る、その子 太郎左衛門尉、郡山
を称号とし、子孫 仙台に有り。同郡片平に大宮権現あり、伊豆、箱根、
三島の三神を祀る、伊東氏の氏神なりと。
[4] | 隈 さんからのコメント(2000年07月17日 11時25分33秒 ) | パスワード |
余談ですけど実は私、学生時代は名古屋にいました。
確かに、言い得て妙ですね〜。でも、ビンボー学生に松坂屋は無縁だったけど〈涙〉。
知人の中に何人か、該当する名前もあります。鬼頭さんとか、丹羽さんとか。懐かしいな。
[5] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月17日 11時35分41秒 ) | パスワード |
あらら?
実はワタクシは名古屋人です。
不思議ですね。
これも何かのご縁かも、ですね?
「加藤・鬼頭は太閤さん以来の名門」って言うのだそうです。
加藤清正も鬼頭(福島)正則も太閤秀吉の親戚だから。
あとは「横井」さんも名古屋が本場の名字です。
[6] | 隈 さんからのコメント(2000年07月18日 09時47分27秒 ) | パスワード |
名古屋には、学生時代と会社勤めをしていた時を合わせて、計6年間住んでました。
もしかして、一度ぐらい名古屋ですれ違ったことがあるかも!?奇遇ですねぇ。
私の学生時代の友人が「鬼頭さん」です。一見いたって庶民的なのに、時々”案外お嬢様なのね”といわれる人でした。やっぱり、本当はお嬢様・・・?
「横井さん」も確かにいました、クラスメートに。
[7] | 隈 さんからのコメント(2000年07月18日 10時46分53秒 ) | パスワード |
家紋のHPに行ってきました。蝶紋の由来について書かれていたので、そこから一部抜粋します。
>【主な使用家】
平家の代表紋のようにされている。たしかに平家流の公家の西洞院、平松、交野の諸氏は揚羽蝶を家紋にしている。また戦国時代・江戸時代に平家を称する家はほとんど蝶紋を用いている。しかし、清和源氏流の中川、池田、逸見、窪田の諸氏、宇多源氏の建部、間宮、喜多村の諸氏、ほかにも藤原氏流の諸家も蝶紋を用いている。平家の子孫を称した織田氏も木瓜紋とともに蝶紋を使用していた。
で、その後に幾つか蝶紋の図があり、その中にうちの女紋と同じ”対い蝶”もありました。
それから、「見聞諸家紋」の一部が掲載されていますが、その中に幾つか”対い蝶”があります。対い蝶を使用していたのは、
@平氏伊勢守貞親 A三井 B西面
ただし、やはりというか、少しずつ違います。@は斑紋の丸が2つ、Aは3つ。Bは「一つ引両に対い蝶」、つまり蝶の上に一文字があって、斑紋の丸は3つ。
うちの紋は、丸3つです。
・・・で、三井氏って、何処の方・・・?(歴史オンチなので分からない〉
ちなみに女紋の解説も見てみると、母から娘へ受け継ぐ風習があるのは尾張地方などで、どちらかというと現在では”少数派”の様です。
・・・ん?尾張地方?名古屋?やっぱり私って、名古屋に縁があるのかな〜?
[8] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月18日 11時43分52秒 ) | パスワード |
なんだか不思議ですね。
「三井」:越後屋:
三井越後守高安は信長に攻められて伊勢安濃郡一色邑に逃れ
子の高俊の時に松阪に出て酒屋兼高利貸しになり
その子高利が三井財閥の祖となる。
三井300年の歴史はそもそも関白道長4男長宗から出、
その5代目信正が近江三井に移って姓とし、
さらに15代の成定が近江源氏佐々木高久を養子としたので
祖は藤原氏とも源氏とも言われる。
その他の「三井氏」
筑後三井氏:
大和宇陀郡三井氏:
能登渡合城の三井氏:
美濃各務郡三井氏:
平氏流甲斐三井氏:
信濃三井:藤原秀郷末
土佐高嵩郡三井氏
など
だそうです。
[9] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月18日 11時58分25秒 ) | パスワード |
「彦熱」の新スレッドに「お宅の家紋は何ですか?」というのをアップしました。
[10] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月18日 22時59分36秒 ) | パスワード |
http://www.asgy.co.jp/kamon/kamon.html
をご紹介頂きました。
[11] | 隈 さんからのコメント(2000年07月19日 09時50分19秒 ) | パスワード |
三井財閥の三井氏って、もともとは武士だったんですね、知りませんでした。
ただ、三井氏といっても沢山おられるから、現時点ではどの三井氏が対い蝶を使用していたか分からないですね。
[12] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月19日 12時04分03秒 ) | パスワード |
三井財閥の「社紋」は井戸の井でしたでしょ。
(昔勤めてた所の社紋を忘れてる、馬鹿!)
武士を止めて商人として成功した例ですね。
信長に敗れてから蒲生氏の世話になったり
なかなか面白い一生を送ったようですね。
[13] | 隈 さんからのコメント(2000年07月19日 14時26分07秒 ) | パスワード |
彦熱でACCさんが紹介してくださったHPに行ってきました。
丸に揚羽蝶・・・34位 揚羽蝶・・・56位
一匹の揚羽蝶は結構使われているんですね。
ところで、とうとう家紋辞典を買いました。実は、今まで本屋さんで立ち読みしてたんです(本屋さん、ゴメンなさい)。
自分の留袖を広げて辞典やHPと比べてみると、結構細かい違いが分かります。羽の模様だけでなく、足の数、胴体の形、口らしい突起物が付いているかどうかとか。
源氏系の池田氏・建部氏や、北条氏の対い蝶紋はかなり形状・模様が違っている様です。
そうやって見ていくと一番近いのは、結局「見聞諸家紋」にあった平氏伊勢守貞親の家紋(=辞典にある、対い蝶の基本形)みたいです。違いは斑紋の数だけ。もちろん、だからと言ってうちが平氏系だと断言できる訳ではないのですが。
ただ、おそらくうちの先祖は平氏系か、そうでなければ平氏系の家紋を気に入って(それが平家の紋だとは知らずに・・・〉真似たのではないかということは言えると思います。
[14] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月19日 18時06分52秒 ) | パスワード |
○にナンとか、というのは元が「武家」出身だ、と聞いてますが。
神社出身でも「武士」に転身した家だってありますから
狭義に考えてしまうとまずいと思いますが
ちょっとの違いが大きいらしいようですね。
ご先祖が採択した経緯を記るして置いて下さったら
子孫は?と思わなくて済みますのにね。
[15] | 隈 さんからのコメント(2000年07月20日 10時33分20秒 ) | パスワード |
そういえば一つだけありました、「丸に対い蝶」。
西山三郎左衛門という方のだそうです。
でも、対い蝶は何故かあんまり丸に入ったのが無いみたいですね。
せめてお墓に、家紋といっしょに家の由来を彫ってくれたら助かったのにな。
戦いでの武将の名乗りみたいに。
[16] | 隈 さんからのコメント(2000年07月20日 11時32分20秒 ) | パスワード |
もう一つ、名古屋に関する余談。
以前、服部さんはよくデジャヴ(初めての場所や人なのに、前に見たような気がする間隔)を感じるといっておられましたよね。
そういえば私も名古屋に住んだ当初、よく感じてました。大学の近所の町並みとか、クラスメートに対して。でも、もともと自分に霊感なんて無いと思ってたから、
”きっと山口県も愛知県も保守的な土地柄だから、共通点が多いせいだ”
と勝手に解釈してました。
でも名古屋に住んでいる間だけ、うっすらと(?)霊感が宿っていたような気もします。
学生時代に友人と北海道へ旅行した時、立待岬に寄ったんです。
ハイヤーの運転手さんに
「ここは昔から自殺の名所でね〜、こないだも人が落ちて死んだよ」
と脅されたけど、そのときは「へぇ〜」って軽く聞き流してた。
ところが、帰ってから現像してもらった写真を見ると、断崖絶壁の岩肌から浮き出るように、白い着物の女の人が立って、まっすぐこっちを見てる。
「どうしよう!?ここに女の人が・・・」
と怖々写真を友人に差し出しても、彼女は見ようともせず(本当は見たくない〉
「そんなの、いない、いない!」
と、取り合ってくれない。
”困ったなぁ”と思いながら次の写真を見て、”おや”と思った。
それは、みんなで岬に立てられた石碑の前で撮ったものだった。
その石碑に、今度は男性の顔が小さく写っている。
年老いてはいるけれど、「おじいさん」と呼ぶには語弊のある、いかめしく髭をピンと生やした老人。
「武芸の達人」風のその人はこちらを見てはいないせいか、前の写真の女性ほどは怖くなかった。
そのとき私はぼんやり、
「この人は私の守護霊で、私達があんまり邪気の強い所に居るから心配して見にきてくれたのかも」
なんて勝手に想像してた。
私の数少ない"オカルト体験”です。夏だからって怪談作ったんじゃないって〜本当だってば〜〈汗〉
ちなみに女性の写真は帰省したとき家族に見せたんだけど、母や弟にはどうしても見えないらしく、他の場所ばかり「これ?」と指差したあげくに
「岩の模様がそういう風に見えるだけ」
と笑われ、父だけが
「この猫みたいな顔のか?」
と女性を指差してました。謎だ・・・。
[17] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月20日 12時19分51秒 ) | パスワード |
私は怖がりですが。。。
クラスメートに1人どうしても「犬」それも白い子犬に見える人がいました。
大学2年生の時の先生が今でも大変なお友達???です。(出来の悪い学生でした)
97年に久し振りにお宅に伺った時、
ひょんな事から
先生は私に「何」とは言えないけど何か私に引き合うモノがある
とおっしゃってました。
どうやら千葉か茨城あたりのご出身らしく
その縁のようです。
ですから多分「平氏系」のつながりと思います。
先生のお母さまの方と私の父方の繋がりのようです。1000年を超える繋がり
更に書けば
先生のお母さまの方と私の母方とも繋がります。こちらは500年ぐらいの繋がりです。
はっきり目で見たり手で触ったりは出来ないけど
先生のオーラと私のオーラが懐かしがってるみたいです。
昔の事を今更話し合っても仕方が無い・今の親しさで充分という感じがあるので
別に取り立てて語り合ったことはありませんが
私を見守ってくれて下さる方でいらっしゃいます。
[18] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月21日 02時38分35秒 ) | パスワード |
メールを頂きました:服部さんとおっしゃいます
今現在は東京に住んでます。
しかし、本籍が愛知県名古屋市東区泉なんです。
父親は大阪で育っているし、親戚が名古屋にいるわけでもないし、
なんで本籍が名古屋なのと子供のころから疑問に感じてました。
パスポートのために戸籍妙本とかをもらうのもめんどくさいし。
父親に聞いたところ、
江戸時代に服部家の屋敷があったところだとか。
もう一つ子供のころからの疑問が、
服部家の家紋を本とかで見ると、源氏車ですっけ、
なんかよくわかんないけど、めちゃくちゃかっこいいのに、
うちの家紋ときたら、丸に並び切り竹矢筈とか言うらしいんですけど
めちゃくちゃシンプルな家紋でなんでやねんって思ってました。
片カナの「ク」の字に似てる「家紋」かしら?と思います。
名古屋市東区というご出身は尾張藩の武士だったということと思います。
[19] | 隈 さんからのコメント(2000年07月21日 10時00分59秒 ) | パスワード |
家紋辞典で矢紋の項を見たら、同じ名称ではないけれど「丸に横二つ切竹矢筈」というのがありました。
短いリボンの両端に切り込みを入れたみたいな形を想像してください(こんな説明で分かります?〉。
これが「切竹矢筈」で、二つ並行に並んだら、「並び切竹矢筈」。
それが丸の中に入って、「丸に横二つ切竹矢筈」。
本籍が名古屋の服部さんの家紋は、切竹矢筈が縦に並んでるのかも知れないですね(もし違ったらゴメンなさい〉。
確かに、かつて尾張に矢紋の服部さんがいらっしゃったってことですね。
やはり、先祖の尾張の記憶が私のDNAに刻まれてるんですかねぇ。
こうなったら、私もぜひ向島へ行って服部家の家紋を確認したい!と思うんですけど。
向島・服部家の墓の場所が分からないのだ、これが。
母の話では、第二次大戦後までは広い土地・屋敷を持っていたのが、農地改革で土地を没収されてしまって〈悲〉、本家の人間も元の場所にはいないのではないかと。
祖母も2年前に他界しているから、当事者不在。
島内の寺院の数は限られているから、私一人で飛んでって現地調査すれば分かりそうだけど。
主人や子供(まだ2才)まで付き合わせられませんしね・・・。
それじゃあ夏の旅行は しまなみ海道へ!と誘って向島へ・・・と目論んだりするのですが、自分の先祖にすらほとんど興味を示さない主人のこと、菩提寺探しをどう説得したものやら。
あ〜、独身の頃みたいに一人旅したい・・・。
とうとう最後は愚痴になってしまいました、スミマセン。
でも負けないゾ。
[20] | 服部 明子さんからのコメント(2000年07月21日 12時24分46秒 ) | パスワード |
ありがとうございます。
ホントに単純なデザインの家紋のようですね。
先祖がちゃんと書き残しておいてくれないと
子孫はこんなに苦労してしまうのにね!
何かに書いてありましたが
岡山の服部氏は浮田(宇喜多)関係らしいですよ。
多分「服部」で引いた時にそのような紹介文が目に入ったのだと思います。
確かURLがありましたが「 not found 」が出たと思います。
大坂方で、関ヶ原に敗れてから、武士を止めたのかも知れませんね。
向島の菩提寺でしたら何か分かるかも知れませんね。
岡山の服部氏のことはウキタ氏関係でも調べてみて下さい。
私のオカルト系のパワーはかなり低くなっています。
強い時には知りたいことが向こうから飛び込んで来ましたが
最近はそういうの全くありません。
隈さんに移ったのかも?
ふふふ
[21] | 隈 さんからのコメント(2000年07月21日 15時25分20秒 ) | パスワード |
ひぇ〜 まっ、まさか!?くわばら、くわばら・・・!
私って小さい頃は一度もそういう体験なかったんですよね。
下関の”崇り騒ぎ”のときも何も感じなかったし。
高校受験の頃からかな、たまに不思議だな〜と思う事に出会うようになったのは。
幽霊を見た?のは先述の写真だけだけど、学生の頃に予知夢はよく見てた。
それもすべて、試験結果の発表の夢。
受かった夢を見ると、必ず本当に受かる。全然自信なくても。
試験を受けた後なら自分でも予想がつくからと思うんだけど、受験の前に夢を見たり、たまにいっしょに受けた友達の合否まで当たったりして(夢で掲示板に書いてあった)、ちょっと怖かった。
宇喜多秀家は、関ヶ原の戦いで敗れた後に八丈島に流されてしまったそうですね。
その後岡山の服部氏は何処へ行ったのか・・・
その線でも調べてみます。
[22] | 佐藤 司さんからのコメント(2002年01月03日 01時50分50秒 ) |
本人によりコメントは削除されました。 2002年12月18日 00時25分28秒
[23] | 服部さんからのコメント(2002年10月17日 10時17分34秒 ) | パスワード |
Re: [15] & [16]
遅ればせながらごめんくださいませ。
私も服部です。家紋もおっしゃるところの「丸の中に両端がリボン切りの矢筈が上下2つ並列」されております。何十年も前に死亡しております祖父は愛知県の出身とのことです。博学でいらっしゃいます皆様、以上により当家は桓武平家と識別できますでしょうか?
[24] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月17日 11時34分47秒 ) | パスワード |
服部さん
初めまして
尾張藩士の服部さんとこが矢筈です。
昔の、1970年代あたり迄の戸籍謄本をお持ちでしたら
士族だとか平民とか書いてありますから
どなたかお持ちだといいですね。
明治維新の頃の戸籍が始まった頃に遡れば住所が分かりますから
当時名古屋市内在住でしたら尾張藩士の住んでた所が
今でも大きな図書館の地図で分かりますよ。
服部氏もいろいろありますね。
平氏系・源氏系・服部氏系それに藤原氏系なんてのもあると聞いて驚いています。
源氏系も本来の源氏系と頼朝の命を助けてから源氏を名乗ってる源氏系もあって
私自身驚いています。
愛知県の南西部の服部さんでしたら桓武平氏=バリバリの平家でしょうね。
[25] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月17日 11時36分23秒 ) | パスワード |
それから「矢」でしたら
もうミエミエの武士のご子孫ですね。
[26] | 服部改め紫虹さんからのコメント(2002年10月18日 00時20分16秒 ) | パスワード |
明子様:
さっそくありがとうございます。
(前回、本スレッドを先に読み進むうちに勘違いしたらしく、Re:[15]&[16]としましたが、Re:[18]&[19]の誤りでした。明子様、隈様、失礼いたしました。明子様、当家と同じような家紋をお持ちの[18]の方が尾張藩士の家系のお家でいらっしゃるのですか?)
当家の男性は、代々背が高く顔が長く鼻が高いことが写真から覗えます。それは良いのですが、困ったことに早死に傾向にあり、一人っ子の祖父ばかりか父も20年近く前に死去しており、母は「昔の戸籍謄本は私の知る限り誰も持っていないはず」などと申しております。さてどうしたものでしょうか?
なお、服部さんが多数いらっしゃるこのサイトに名前を服部として送信した私、浅はかでしたね。お花の雅号の紫虹(意味不明ですね)に変更いたします。
[27] | 服部 明子さんからのコメント(2002年10月18日 04時02分08秒 ) | パスワード |
服部紫紅さま
服部孝徳さんとおっしゃる方のご先祖さまが尾張藩士で
お住居も名古屋市の東区にあった高級藩士住宅街の並びでした。
尾張藩の家老だった「竹腰家」などのお話もメールでお伺いしました。
http://bbs.c-studio.net/heike/100027.html
「切り竹矢筈紋」と呼ぶそうです。
ご自分から遡って明治の初めのご先祖さまに辿り着くのは簡単です。
戸籍謄本を遡って取りまくれば良いのですから。
その代わり時間は掛かりますが。
明治の初め頃でしたら江戸時代に住んでた所からあまり移動してませんから
どの辺りに住んでたかだいたい分かります。
現在お住居の所がご先祖さまの本籍から離れていましたら
ちょっと難しいでしょうね。
時間とお金が掛かってしまいます。
でも今は郵送でしてくれるそうですので
戸籍謄本が必要な理由は「先祖供養」となさるのが良いかと思います。
[28] | 紫虹さんからのコメント(2002年10月19日 01時00分24秒 ) | パスワード |
明子様:
ご丁寧なご指導に感謝いたします。
当家、一人っ子の祖父が学生として東京に出て以来、愛知県には誰も住んでおりませんが、それ以前の親戚の所在地をたどってみることにします。来年3月に帰国し父の17回忌(ちなみに浄土真宗東本願寺です)を行いますので、その際にそれこそ「先祖供養」として、愛知県南西一体の市役所に問い合わせてみます。
本当にありがとうございました。
[30] | 大矢憲一さんからのコメント(2009年07月27日 16時46分12秒 ) | パスワード |
名古屋に多いという苗字 大矢ですが 私は代々(6代)東京です
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