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 投稿番号:100010 投稿日:2000年05月30日 22時29分56秒  パスワード
 お名前:服部 明子
平家物語の雑談 24

コメントの種類 :その他  パスワード

日本経済新聞(夕刊) 5月27日付け11面「プロムナード」より


「寂光院有情」道浦母都子より抜粋



「建礼門院右京大夫集」を通読してみて
この集のクライマックスは
大夫がかつての主(あるじ)徳子を訪ねていく件(くだり)にあると感じた。



徳子を訪ねた大夫は

あんなに栄華をきわめた徳子さまが剃髪され、
かくも寂しい隠れ里に人目を忍ぶようにして生きながらえていらっしゃる。

この現実が夢で、かつてが真実、
いえ、かつての平家一門の栄華こそが夢だったのかもしれない。

そんな思いを託し、



「今や夢 昔や夢とまよはれて いかに思へと うつつぞとなき」
こんな一首を残している。




大夫の恋の相手であった平 資盛も壇の浦で入水している。

彼の死を知り、大夫は


「忘れむと おもひてもまたたちかへり なごりなからむことぞ悲しき」


忘れようとしても忘れられない恋の思い出を歌としている。



徳子も大夫も戦乱の時代、つまり、男たちの時代の裏で、
哀しみを抱えながら一生を終えた女性。

寂光院なる憂い深い名称そのものが彼女たちの嘆きを象徴しているように思えてならない。

[1]服部 明子さんからのコメント(2000年07月03日 22時00分15秒 ) パスワード
  

以下はヨソの掲示板で質問に答えた書き込みです。




さて、林子平は越智刑部少輔通高の裔だそうですね。
豊臣秀頼に仕えた林絵兵衛は4代前の祖だそうで、
伊予の越智・河野グループになるのですねぇ。

伊藤博文も伊予河野氏出身を称しているそうですね。

美濃・稲葉氏は一鉄の父通長が安芸の安国寺に出家したが
武芸を好み伊勢神宮で賊に襲われ退治し勇名を駆せたが
父親の通直は怒って通長を追放。

通長(号は塩塵)は諸国を流浪した後、美濃の土岐家に士官して稲葉氏を称したそうです。

一柳家は通長の弟の宣高が一柳家を興した、とありますが。
[2]服部 明子さんからのコメント(2000年07月03日 22時50分52秒 ) パスワード
  


わたくしの準常連のHPより:



都幾山慈光寺について。

埼玉県内の神社仏閣の中で一番好きなお寺です。お気に入りスポットNo.1です。
慈光寺は、埼玉県都幾川村にあります。

まず、何と言っても国宝一品法華経でしょう。
経典で有名なのは、安芸宮島厳島神社の平家納経と平泉中尊寺の一切経ですが、
三番目は、慈光寺です。

次は、源頼朝の手紙です。頼朝の直筆の本物が見れる数少ない例です。
何と言っても末尾の花押の美しさに惹かれます。

特筆したいのは、境内のそこここにある、般若心経の石盤です。
いろんな高名な書家の書いた写経のコピーです。
中でも観音堂の傍らの真新しい建物の中にあります王羲之書の般若心経です。
王羲之が般若心経を書いたかどうかは不明ですが、此処にあるのは、
王羲之の書き残した書の中から般若心経の文字に該当するものを切り張りして、
仕立てたものです、チョット違和感があるのですが、
なんともこれが見れば見るほど良いのです。

住職のお名前は、佐伯明了師とおっしゃいます。(慈光寺 第107世)

蛇足ですが、埼玉県立歴史資料館をコースの中に加えてはいかがでしょうか。
慈光寺からほど近い処にあります。

ここは、畠山重忠の居館の菅谷館跡の敷地内にあります。
畠山重忠について(秩父氏について)の解説が有ります。
[3]服部 明子さんからのコメント(2000年07月06日 13時40分52秒 ) パスワード
  

レスを頂きました:


1999年の「没後800年記念・源頼朝とゆかりの寺社の名宝」展で、
慈光寺からは「国宝・法華経一品経」五巻、「国宝・法華経筆者目録」、
「県重要文化財・黒漆経箱」が出品されたのは他の出品同様見事なもの。

残念ながら、直筆の書は東大寺(国宝)、神護寺(国・重要文化財)、鶴岡八幡宮
(国・重要文化財)からの出品があり、他の追随を許さないようである。




慈光寺の所在は、埼玉県比企郡都幾川村西平。
比企郡といえば、例の比企氏。
何やら因縁めいた感じがしてくる。

伊豆に20年の間、絶えることなく物資を送り続けた比企氏。

となれば、慈光寺が頼朝以来の有力祈願寺であったことに、何の不思議さもない。

故に頼朝の書があって、当然と言えるかもしれない。



「何と言っても末尾の花押の美しさに惹かれ」と書く頼朝ファンの気持は、
充分過ぎる程、理解できる。



毎年の年賀状に、自分のサインのように花押を印刷している。

頼朝の花押は、他とは違う魅力があるようだ。
本来なら自分の特徴を出すために、色々考えるようだが、
頼家も実朝も頼朝の花押を変形させただけである。

それだけ、頼朝の花押は「偉大」であり、「魅力」を備えていたものと推測する。




面白い説を拝見した。

「経典で有名なのは、安芸宮島厳島神社の平家納経と平泉中尊寺の一切経で、
三番目は慈光寺」という説。

一方、別の説では「安芸・厳島神社の平家納経、駿河・鉄舟寺の久能寺経、
そして慈光寺の法華経一品経」とある。

これを見た時、厳島神社と慈光寺は両方に入っているからいいが、
中尊寺と鉄舟寺は「わしの方だ」と言い出すのではないかと、変な心配をしている。
[4]服部 明子さんからのコメント(2000年07月06日 14時01分50秒 ) パスワード
  

レスを頂きました:



<系譜>
 室町期の伊予河野氏の系譜は混乱しています。

それは、河野家の特殊な事情によるものです。

混乱というよりは、恣意的に書き換えられたと考えています。
宗庶家の対立が主な原因です。
とくに顕著なのが戦国期で、例を挙げると 
刑部大輔通宣−弾正少弼通直=晴通=左京大夫通宣=牛福丸通直
 (−…実子=…養子)と通説ではなっていますが、
最近の研究では弾正少弼通直−晴通−通宣−通直とすべて実父子関係であると
推測されています。

こうした改竄の背景には河野氏当主層の代替わりに問題があったこと、
とくに周辺諸大名との関連があります。

また、戦国末期に滅亡して史料が散逸したというのも系譜関係を曖昧にした理由でもあります。



<末裔>

 お話の通り、稲葉・林・一柳の各氏は越智姓河野氏の末裔を称しています。
家紋も、当初は折敷に三文字を使用したといってますし、
諱も河野氏の通字「通」を代々(戦国末〜近世)使用しています。
しかし、彼らの存在を純粋な伊予側の史料は数種ある系譜はほとんど記しておりません。

逆に、稲葉氏・一柳氏の系譜には、当然祖先に河野氏を持ってきます。
稲葉氏に至っては父弾正少弼通直と喧嘩して諸国を流浪したという伝承を残していますが、
そのような伝承がこの伊予に一切残っていないというのは、どういう理由でしょうか?

愛媛県歴史文化博物館の石野学芸課長が、そのことについて述べられています。
それによると、鎌倉・南北朝期に有力武士の所領が全国各地に散在するが、
河野氏もその例に洩れず、鎌倉期に美濃国に地頭として土着していた。
稲葉・林・一柳氏らは戦国期に河野氏から直接分かれて美濃へ移住したとするが、
むしろ、美濃の在地勢力である彼ら諸氏が、
美濃へ根を下ろした河野氏と姻戚関係を結び、伊予河野氏の出自を喧伝した可能性の方が高い、
とされています(石野弥栄「鎌倉・南北朝期の河野氏と美濃国−美濃河野氏源流小考−」
『伊予史談』283.1991年)。

 つまり、彼らは直接的な河野氏の子孫ではない、と考える方が妥当であるといえます。
しかし、全く無関係ではなく、ただ戦国期の伊予河野宗家とは直接的に関係はないが、
鎌倉期に分流した河野氏一族の末裔である可能性はないとはいえない、ということです。

簡単ながら、現在の研究状況は以上です。 
[5]服部 明子さんからのコメント(2000年07月07日 11時37分27秒 ) パスワード
  

レスを頂きました:


博物館やお寺で経典の写経を見る機会が多いのですが、
なんといっても、昔の人は、楷書の字が綺麗なのが感心します。

心を無にして一心に書くとあんなに綺麗に書けるものなのか、
雑念の多い小生としては、理解できません。
国宝に指定されている経典は、
中尊寺一切経、竜興寺法華経、慈光寺一品経・阿弥陀経・
般若心経、東京国立博物館法華経、根津美術館装飾経、浅草寺法華経、
鉄舟寺法華経、太平寺般若経、常明寺般若経、宝厳寺法華経、
極楽寺法華経、智積院金剛経、藤田美術館般若経、近鉄法華経、
奈良国立博物館最勝王経、西大寺最勝王経、長谷寺法華経他、
金剛峯寺一切経(中尊寺経)、厳島神社平家納経。

「国宝」芸術新潮編集部編(新潮社)より。
こんなにいっぱいありました。
この中からお好きなものを3点お選び下さい、
それが、その人にとっての三大経です。

選ぶ前に、全て見てみたいものです。 @_@  半分くらいは、見たこと有るかな!1/3?
[6]服部 明子さんからのコメント(2000年07月09日 09時40分15秒 ) パスワード
  

集英社文庫の柴田錬三郎著「乱世流転記」を読みました。

房総半島は四国の阿波の人々が移り住んで麻を栽培し
安房から北上して開拓されて行ったと書いてありました。

この小説のヒロインは架空である上総国鶴舞城の小須賀甲斐守英吉
(平将門子孫)の娘という設定でした。

時代背景は足利将軍家が没落して下克上が始まった頃という設定です。

ですから主人公伏見剣吾は塚原卜伝に「秘法一の太刀」を授かった、とか。

時代モノとしては面白かったですよ。
[7]服部 明子さんからのコメント(2000年07月09日 09時48分10秒 ) パスワード
  

583頁の記事:

「鈴鹿峠坂路26町、1番険しいところが8町、27曲り、
箱根に次いでの難所なので、この鈴鹿にはいろいろと妖しい化け物の
物語が残されている」

例えば:
御伽草紙には「鈴鹿御前という鬼女が棲んでいた。これを坂上田村麿が征伐して
夫婦になった」とか。


それから:
箱根とは違って京に近いせいか山賊も慈悲を願うせいか坊主は襲わない」とか・
[8]服部 明子さんからのコメント(2000年07月09日 22時29分27秒 ) パスワード
  

池の禅尼:



頼朝の母親の実家、
熱田宮司家の縁者でその関係から
頼朝を救うため動いたといわれています。
(尊卑分脈参照のこと。)

とのメールを頂きました。
[9]服部 明子さんからのコメント(2000年07月22日 23時33分00秒 ) パスワード
  

メールを頂きました:



この暑さの中、バイクで、一目散に三浦半島へ。

走った走った。

頼朝の三御所(唾いや椿之御所、ピンクいや櫻の御所、腿いや桃之御所)を廻ってね。

わざと色気があるように間違えたけど、どうもこれらは側室、言い換えれば妾の館だったみたいだよ。

政子に「ちょっと、三浦まで遠出をする。三日ばかり帰らんぞ。」なんて言って出掛けたんだろうなあ。



そのあとは、前にまわり損ねた、海南神社と三浦義村の墓へ。
海老名に戻って、清水寺の頼朝の頌徳碑を見に。


疲れたー。
[10]服部 明子さんからのコメント(2000年07月23日 00時41分58秒 ) パスワード
  

メール第2弾を頂きました。



>海南神社でしたら三浦半島の先っぽ・城ヶ島のすぐ際ですね?

そうです、先っぽも先っぽ、
三御所も海南神社もその辺にかたまってあります。

海南神社の言い伝えがなかったら、
私の「三浦一族・日和見主義」が立証できませんでした。



>清水寺はどちらに?
>海老名市?国分寺の近く?

國分寺跡の北北東に位置しますでしょうか。
地図では、現名、龍峰寺と載っていると思います。

この寺は、湧河寺(平安時代)・清水寺(鎌倉時代)・龍峰寺(江戸時代)と
名前を変えています。

丘の上に建つ、いい寺ですよ。
[11]服部 明子さんからのコメント(2000年07月23日 01時17分24秒 ) パスワード
  

註:


清水寺は<せいすいじ>とお読み下さい。
[12]服部 明子さんからのコメント(2000年07月23日 12時20分36秒 ) パスワード
  

海南神社の頼朝お手植えの銀杏についてのレス:



海南神社に、頼朝手植えの銀杏があるのは知っていた。
では、三浦義明がここで源氏か平家かを決めたのも知っているだろう。

つまり、義明は頼朝が旗揚げした時、まだどっちにつくか決めていなかったのさ。
ずっと源氏に仕えてきたのにだよ。

所詮、ちんけなトップにはなれない、田舎侍。
滅ぼされて当然の報いだったんだよ。

私はこういう、蝙蝠みたいな男は大嫌いなんだ。
私のそういう性格分かるでしょ。

銀杏はあったけど、そんな800年を超すような大銀杏はなかった。
後世に、三浦の嘘つきが言ったに過ぎない。

考えてみてよ。
八幡宮の銀杏が1000年だよ。
800年の銀杏なら、あれと甲乙付け難い太さはある筈。
誰が見たって分かることだよ。



きょうは、この夏一番になるらしい。
暑い、物凄く暑い。
でも、やっぱり夏はいい。
[13]服部 明子さんからのコメント(2000年07月23日 12時31分48秒 ) パスワード
  

ワタクシからのレス:三浦義明について



三浦義明の娘は義朝の長男・義平を生んでいますね。
(自分の叔父になる義賢を殺した人です。義賢の息子が木曾義仲)
でも平治の乱で、結局は斬死。


三浦のじいさんにとって
頼朝は自分には関係無いという腹だったと思います。

自分の孫・義平が挙兵して、じいさんが源氏の味方をするなら当たり前でしょうけど
なんでワシが頼朝の味方をしなきゃいけないのか?
と。

いやいや・しぶしぶ頼朝に?

畠山重忠に自分は源氏方だと思われて攻められたのだから
だったら頼朝に付くより仕方無いじゃないか?と。。。

平家方から自分は源氏方だと思われている、ってことですからね。



なるほど。
[14]服部 明子さんからのコメント(2000年07月23日 23時06分32秒 ) パスワード
  

レスを頂きました:三浦氏の動向




>『三浦は和田も裏切っていますし、
>なかなか信用することの出来ない一族ですから。』

1)だから、「三浦の犬は友を食う」なんて言われたんでしょ。

2)実朝の暗殺でも、失敗したら公暁を裏切った。
3)畠山重忠も、三浦に謀殺されている。



でも、そういう浅はかなことで動いている阿呆は、使われるだけ使われて、
最後は自分が裏切られるのです。

それが読めない武将は、どっちにしてもトップの座は巡ってこないのです。



同じ「裏切る」と言われる行為でも、
頼朝は相手に非がある時しか、成敗していません。



>『三浦のじいさんにとって、頼朝は自分には関係無いという腹だったと思います。自分の孫なら当たり前でしょうけど、なんで頼朝の味方をしなきゃいけないのか?と。』


全く、その通りなのです。

いくら代々源氏に仕えたとはいえ、そこまでワシに義理はあるのかいな、
と思っていたと思います。

それなら、もう一寸様子を見て、形勢が有利な方に付く、というのは
当時では当たり前だった。

義明も一族も、そう読んだでしょう。



ところが、思わぬ方向へ展開していった。
結論を、海南神社なんかの神頼みをしている内に……。



>『いやいや・しぶしぶ頼朝に?
畠山重忠に自分は源氏方だと思われて攻められたのだから、だったら頼朝に付くより仕方無いじゃないか?と。。。
平家方から自分は源氏方だと思われている、ってことですからね。』

大当たり!正にその通り。


「一寸待ってよ。まだ源氏か平家か決めとらん内に、攻められちゃあ困るじゃん」何て言っても、後の祭です。

「しゃあねーや。頼朝に付くべー」てな感じかなあ。



ですから、三浦が重忠を襲ったのも、義明を殺された恨みがなかったとは言い切れないでしょう。



如何でしたか?
三浦一族の旗揚げ時の「日和見主義」は、功をなさなったのです。

義明は、平家に付くべきでした。



そうすれば、頼朝は鎌倉に入ることもできず、路頭に迷った筈です。

恐らく、三浦が平家方ならあれだけの多くの将兵は頼朝には集まらないですしね。


それで、頼朝を討とうものなら、三浦はどのくらい出世をしたか。
いずれにせよ、それが読めない男は小せーなー。
[15]服部 明子さんからのコメント(2000年07月25日 00時40分19秒 ) パスワード
  

怖いメールを頂きました。




『三浦が最初っから平家に付いていたら 、頼朝の挙兵は結果が違っていただろ
う。』

歴史に、「たられば」は無いって、当たり前のことですが、そういう想像も面白いも
のです。

三浦が平家に付いていたら、この題材で小説が書けますよ。



『思わずうなってしまいました。』

そんな感心をしないで下さい。
日和見で裏切りの三浦を、何とか証明したい。
その過程で、想像しただけなんですから。



昨日メールを送ったあと、38度を超す熱に見舞われました。
三浦の怨念に毒されたか。
或はピッタリ、本当のことを言われて義明が怒ったか。



強烈な解熱剤を飲んで、何とか熱はひきましたが、まだ一寸ふらついています。
会社を休めばよかったかもね。




実は・・・確か去年か一昨年・・・このかたが三浦の屋敷跡にいらっしゃった時も
怪我をしそうな危険な経験をなさっていらっしゃるのです。



ちょっと不思議な話です。
ご本人は忘れているようですが。
[16]服部 明子さんからのコメント(2000年07月25日 23時20分54秒 ) パスワード
  

以下のレスを頂きました。



そう、あの時は危うく滑り落ちそうになったり、足首を捻挫しそうになったり。
足首の上まである、トレッキングシューズを履いていたので助かりました。
そのあとまで、一寸足首が痛かったけど。



何か、あるのかも知れない。
だけど、私は三浦には何もしていない。
嫌いなだけ。
それが、いけないのかな。



三浦が怒っている原因は

1. 本当のことを、見破られて怒っている。
2. 本心から三浦は源氏に付いているのに疑われた。

このどっちかだろうね。





実は、一晩中熱で眠れませんでした。

仕事は無事に終えましたが、能率が上がりませんでした。

今は一応、熱は収まっています。
もう、大丈夫でしょう。



今夜は、季節外れの強い前線のお陰で大雨です。
たまには、こういう涼しい風を送り込んでくれるのもいいでしょう。
被害を受けた方には悪いのですが、暑中の一休みも乙なものです。




三浦の写真を整理している時に、何か起こらなければいいのですが。
[17]服部 明子さんからのコメント(2000年08月06日 23時14分07秒 ) パスワード
  

メールを頂きました:



昨日、鎌倉に行ってきました。



釈迦堂カ谷に行ってきました。

この辺に、時政屋敷跡と唐糸やぐらがあるのですが、
鎌倉で唯一「そこへいけない」場所の一つです。

地図にも載ってる。
どの鎌倉関連の記事にも載ってる。

だけど、その場所に行けない、という不思議な場所です。



実は、私が興味を持っていることがあるのです。
時政の屋敷と唐糸の牢の位置関係です。

第一、 何でこんな所に唐糸の牢を作ったのでしょう。
第二、 普通、罪人の牢を重臣の屋敷の近くには造らないでしょう。



私は、時政が牧の方の目を盗んで、唐糸の元に夜な夜な通っていた、と見たんです。

すぐ行けそうな位置。
暗殺を命じられるくらいの女だから、身体は引き締まっていて、男には堪らないで
しょうね。
牧の方のブヨンブヨンの身体よりは、ずっと抱き甲斐があったと思います。

考え過ぎかなあ?
これでは歴史のロマンじゃなく、歴史の裏ビデオになっちゃうな。
[18]服部 明子さんからのコメント(2000年08月06日 23時19分43秒 ) パスワード
  

木曾義仲の重臣・手塚の妻だった女性ですから
美人だったでしょうね。

暗殺目的に送られたのですから
近くに寄れる美貌だったことは想像が付きます。

昔は人権などありませんでしたから
何があっても不思議はありませんよね。
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