くりらじ アクアジャンクション Rapha
 【 平家物語を熱く語る!!一覧に戻る
 投稿番号:100002 投稿日:2000年04月23日 00時53分09秒  パスワード
 お名前:なかにし
文覚上人と「洒水の滝」

コメントの種類 :人物  パスワード

代理質問です。
--------------------------------------
実は今仕事で「洒水の滝」について調べているところです。
そのなかで、文覚上人がこの滝で修行を行ったという記録があるのですが、この「文覚上人」について、何か、トピックスというか伝説みたいな逸話があったりしたら教えてください。
--------------------------------------

 だそうです。情報が何かありましたら、この下にコメントをお願いします。

服部 明子さんからのコメント(2000年04月24日 21時43分22秒 ) パスワード
  

文覚上人でしたら人名辞典でも載ってます。

「もんがく・しょうにん」

生年没年共に不詳。

遠藤盛遠と名乗っていた青年の武士の頃、袈裟御前という人妻に懸想して
夫を殺すつもりが彼女を殺してしまい出家して真言宗の僧・文覚と称した人物です。

吉川英治の「新・平家物語」では平清盛の出世を妬んで源頼朝に近づいたように
描かれていますね。

源頼朝の父・義朝のどくろを持って頼朝に会い、挙兵を勧めたと言われています。
生臭い坊主です。

頼朝の勝利によって神護寺を再興、東寺の修理をした人物でもありますね。
神護寺には源頼朝の端麗なる肖像画があって有名です。

文覚上人のお話は「地獄門」という題名で映画化もされています。

清盛から褒美に何が欲しいと聞かれて袈裟御前との結婚を許して欲しい
と言って満座の嘲笑を買い、映画ではあれが清盛憎し、の原因のように描かれていました。

今でいうストーカーですね。
性格に問題があったのは確かでしょうが
怨みを昇華するのに組んだ相手が源頼朝だったから得な挫を引いたってことですね。

でも現在の表現では「フィクサー」というところでしょうか?
ストーカー行為と言い、フィクサー行為と言い、尊敬される人物とはされませんね。

でも1人の人間として分析にはなかなか面白い存在です。
服部 明子さんからのコメント(2000年04月24日 21時55分27秒 ) パスワード
  

参考になさるには
赤松俊秀の「平家物語の研究」が良いそうです。


源頼朝に近づいた機会というのは
1173年に後白河法皇に寄進を強請した為に
伊豆に流されて出来たのだそうです。

頼朝の死後にも佐渡に流され、対馬に流され途中で客死したそうで
結局は鎌倉幕府にとっても厄介な人物だったのでしょう。

性は激越・行はあれど学無き荒聖人と評された人物だそうです。

伝説も出来、謡曲や浄瑠璃にも取り上げられて、
男としては結構面白い生き方をした人物ですね。
なかにしさんからのコメント(2000年04月24日 23時47分44秒 ) パスワード
  

 どうもありがとうございます>服部さん
なかにしさんからのコメント(2000年04月25日 00時08分17秒 ) パスワード
  

「洒水の滝」というのを知りませんでしたので調べてみました。

 JR御殿場線の山北駅から南西の方角へ約2キロ、足柄上郡山北町平山にある洒水の滝は、関東屈指の名瀑として有名である。足柄道に沿った矢倉岳の北斜面を水源とする酒匂川の支流、滝沢川にかかる三段の滝の総称のことで、山間地の海抜200〜300メートルの間に、下流から順に1の滝69.3メートル、2の滝16メートル、最上段3の滝が29.3メートルとある。

 鎌倉時代の初期、諸国の霊所を訪ねては、自らに苦行を課していた文覚(もんがく)上人が、この滝で百日間の修行をした所として知られ、滝壺右側の崖腹に彫られた不動の石像は、その名残だという。また、滝の近くにある天台宗の寺院、竜王山水(誓)源寺は、滝堂とも呼ばれ、文覚上人が不動明王を安置したと言われている。この洒水の滝では、毎年7月の第4日曜日に洒水の滝まつりが行われている。

なるほど・・・・今でもずいぶんそうげんな雰囲気を漂わせている滝だそうですね。
なかにしさんからのコメント(2000年04月25日 00時10分36秒 ) パスワード
  

 なかなか書籍などでは詳しいことはわかりませんねぇ。やっぱ、現地に行ってみないと・・・。
服部 明子さんからのコメント(2000年04月25日 06時39分38秒 ) パスワード
  

>「洒水の滝」というのを知りませんでしたので調べてみました。

私も全く知りませんでした。
どうやって読むのかも知りませんし。

今でもお祭りされているなら鎌倉時代の威勢の程が分かろうというモノですね。

「行はあれど」と評されたようですから
荒行をしたのでしょうね。
でも100日ですか。
比叡山の1000日荒行には10分の1であるところが文覚の修行らしいかな?とも
思いますけど。


激情の人ですから
(SMどっちか分かりませんが)
自分を虐げるような修行をしたのは確かなのでしょうね。


神護寺の他、東寺・高野山大塔・東大寺などの修造にも尽力した、そうですから
当時は最高の坊さんの地位を手に入れていたということですね。
服部 明子さんからのコメント(2000年04月25日 06時49分46秒 ) パスワード
  

山北駅を地図で調べてみました。

伊豆半島の沼津と小田原の間に箱根山がありますね。
富士山の東南です。

沼津から北上して御殿場駅に行って
右に箱根山の裾野を回り小田原に下だりますが
足柄や小山を越して
箱根山の裾野では真北辺りに山北駅がありました。


頼朝が流されていた韮山は箱根山の南ですから
なるほど出会ったはずだ。
服部 明子さんからのコメント(2000年04月25日 09時42分16秒 ) パスワード
  

今日まとめて4月の新聞を読んでいたら
4月8日付け朝日新聞(夕刊)に

「炎上車内に男性の焼死体」神奈川・山北、自殺か

という記事がありました。

現場は丹沢湖にほど近い山中、と書かれていました。


ご冥福を祈ります。
服部 明子さんからのコメント(2000年04月25日 10時00分46秒 ) パスワード
  

さて、文覚と西行の違い:

同じく女性をめぐる上での出家でも
文覚は生臭く
西行は世俗を超えた人。

西行の出家はある女性が2度目の契りを拒否したことからだそうで、
「1度だけなら」との条件だったことに人としての自分を否定され
家も妻も子も捨て漂泊の旅に出たそうです。(23歳)

王朝和歌の文学的伝統に揺さぶりを掛け新風を吹き込んだ新しい時代の人ということでしょう。

花と月・旅と草庵の歌人・生得の歌人と評されるそうです。



日本は文化人の方が政治の人より上等とされるから
西行の方が人気が良いのでしょうか?
[10]非文化人代表さんからのコメント(2000年12月05日 00時16分12秒 ) パスワード
  

おや、こんなスレッドがあったのですね。
私、かつて洒水の滝で滝行したことありますよ。
修験者に結界張ってもらって、入水時には気合をかけてもらってね。
とてもあたたかい感じで、気持ちいい滝だったスよ。

以上それだけのコメントでした m(__)m
[11]足立 勗さんからのコメント(2003年10月26日 19時49分26秒 ) パスワード
  

なかにしさん今日は、足立と申します。

服部明子さんの平家物語研究のうち、文覚上人の項で、源頼朝の肖像画が神護寺にあると紹介されていました。そのことについて少し触れたいと思います。

神護寺には頼朝のほかに伝平重盛像と伝藤原光能像があって、現在は頼朝と重盛は国立京都博物館に、光能像は国立東京博物館が収蔵管理しています。ところが神護寺にはこれらのほかに後白河法皇と平業房の像もあって、神護寺再興の恩人として後白河法皇を中心にこの五幅がかけられていたのだといいます。

これらの絵は伝藤原隆信筆と伝えられているのですが、隆信は藤原定家の同腹の兄に当たり、大原三寂の一人藤原為経〈寂超〉の子で為経が出家した後、その妻が藤原俊成に嫁ぎ生まれたのが定家です。そしてその従兄弟に当たるのが藤原光能であるという関係です。

さて、私が問題にするのは神護寺再興に貢献した人として、これらの五人のうち後白河法皇と源頼朝はわかるのですが、重盛、光能、業房がとうしてここに加えられているのかという事です。

光能は『平家物語』にもあるように文覚が「いささかゆかり有り」といって頼朝に対する平家追討の院宣を福原の都まで行って書いてもらった人物で、「いささかゆかり有り」とはすでに周知の間柄であった事をほのめかしています。

業房は光能と同じく後白河の側近ですが、治承3年11月17日の清盛のクーデターの時に光能と同時に官位を解かれ伊豆に流罪になったが途中から舞い戻り、福原で断罪に処せられたといいます。この業房の妻が後に後白河の寵を得て権力を握り九条兼実をしてその辣腕を嘆かしめた高階栄子でした。

重盛は治承3年7月に病のためなくなります。もしこれらの人たちが神護寺再興に寄与したとすると、重盛が死んだ治承3年7月以前の事になり、文覚が流罪を解かれた治承2年から一年の間の事でしょう。

私は、文覚は流罪にこと寄せて頼朝の真意を探るための、と言うよりも頼朝に謀反を促すための役割を持って伊豆の奈古屋に送り出されたのでは、と推測しています。文覚は承安三年に後白河法皇の住む法住寺に押しかけ、狼藉を働いて源三位頼政に預けられました。当時頼政は伊豆の国主で子息の仲綱が伊豆守でした。文覚は遠藤武者盛遠のころ渡辺党に属しその渡辺党の主家は源頼政の多田源氏だったことと、頼政が保元平治を通して義朝と常に反対の立場をとってきたのは源氏の血を絶やさぬ為の苦肉の策であったと考えれば、成人した頼朝に謀反の意志がないと見極めたら、自らが起たざるを得ない。こうして以仁王の乱が引き起こされたとみるのです。

この乱の目的には二面性があって、あばよくば自分が天下を握り、そうでない場合は清盛は必ず頼朝を攻め、頼朝が起たざるを得ない窮地に追い込んでくれるであろう。そのとき文覚を使って後白河法皇の平家追討の院宣を与えると言う筋書きです。

『平家物語』ではそのとき文覚はまだ流罪中のように書いていますが、実は2年前にそれは解かれ、治承二年には後白河法皇との仲は和解し、法住寺に出入りができる立場にいたと言う事を『四十五箇条起請文』の中で文覚自身が語っているのであり、仏教に深く帰依していた重盛との関係もその時期に生まれたとみるのが妥当と思われます。

それらの事をみていけば光能や業房ら法王側近が法王との和解に尽力したであろう事も自ずから理解できるのではないでしょうか。

以上、文覚と神護寺の似せ絵についての私見を披瀝します。 
[12]小太郎さんからのコメント(2004年02月26日 01時55分41秒 )
  

本人によりコメントは削除されました。 2004年02月26日 02時14分30秒
[13]千太郎さんからのコメント(2004年02月26日 02時20分38秒 ) パスワード
  

源頼朝の父・義朝のどくろを持って頼朝に会い、挙兵を勧めたと言われています。

とありますが、伊豆に流されて、そこで挙兵を勧めたのは纐纈源吾盛安ではなかったでしょうか? 平家物語には、そう書いてありました。

武士たちは一緒に申し上げるには、「今はご出家のことを申し上げて、ご下向なされば、ご安心でございましょう。池殿もよく思われ、平家の人々もその通りだと思われることでしょう」と申し勧めたが、纐纈(こうけつ)源五盛安(註2)だけが(頼朝の)耳に囁き申すには、「人がどのように申し上げましょうとも、御髪を下ろされてはなりませんぞ。ご主君が助かられましたのは、ただごとではございません。八幡大菩薩のご神慮とも思われます」と申し上げたので、そっと頷かれた。

後に、頼朝は「首は故池殿につがれ奉る。本どり(髷)は纐纈源五につがれたり。」とも言ってます。

それとも同一人物でしょうか?
[14]いつも通りさんからのコメント(2004年02月26日 03時04分35秒 ) パスワード
  

いつも通り です。突然乱入

> どくろを持って
つくづく生首の好きな坊主ですね。
 ウワサ(ネット検索)によると(汗)
> 夫を殺すつもりが彼女を殺してしまい出家
するまで彼女のどくろを持って山野をさ迷ったそうぢゃないですか?

出家前 > 遠藤 盛遠(えんどう もりどお) と名乗っていたそうです。
御所警護の「滝口の武者」だそうで...。

纐纈源五はその首つながりで後白河法皇の命により盗賊「鬼人・関の太郎」
討伐のため東濃・鬼岩温泉あたりで配下のものが討ち取り京都の交告源吾へ
首を届けたが途中首が地面にくっついて「首塚」となった伝説があるそうです。

 余談余談、無視して下さい。
[15]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月26日 12時06分21秒 ) パスワード
  

いつもさん
面白いお話をありがとうございました。


纐纈(こうけつ)源五盛安と文覚上人が同一人物であったかどうかは分かりませんが
源五と幼名があるのを拝見しますと源氏系のようですが。当時はこれで良いと思いますけど。

遠藤さんは藤原氏系と思いますから別人と思います。


頼朝に父の仇を進言した人はもっともっと沢山いらっしゃったと思います。
例えば比企の尼などが「源氏の再興を!」と口を酸っぱくして言ったのでは?と想像します。



足立さん

>藤原隆信

この人は写実的な似せ絵で(変な表現)当時としては画期的な描き方だそうで
それまでの個性の無い引き目鉤鼻の人物絵から飛躍的に生き生きとした人物を描いたとして
有職故実の世界の藤原氏には珍しいですよね。
資盛さまの愛人だった右京大夫の周りの人物という事で記憶していますが
時代が大きく変わった当時、文化面でも大きく発展させたお1人ですね。
歌の世界では定家。

>隆信は藤原定家の<<同腹>>の兄

凄い才能の兄弟ですね。
この兄弟のママだった女性はどんな女性だったのでしょうね。
[16]千太郎さんからのコメント(2004年02月26日 13時38分33秒 ) パスワード
  

ご意見ありがとうございました。
よく読んだところ、頼朝と纐纈源吾の会話は、伊豆に流される途中、滋賀県の建部大社での出来事でした。
失礼しました。
[17]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年02月26日 16時35分55秒 ) パスワード
  

千太郎さん

>滋賀県の建部大社での出来事でした。

では文覚上人より早く叱咤激励してたのですね。
頼朝旗揚げの原因の第1人者かも。

纐纈源五草葉の蔭で泣いて喜んでいるかもですよ。
(笑)
[18]いつも通りさんからのコメント(2004年03月27日 00時49分09秒 ) パスワード
  

> 討伐のため東濃・鬼岩温泉あたりで配下のものが討ち取り京都の交告源吾へ
> 首を届けたが途中首が地面にくっついて「首塚」となった伝説があるそうです。

ところでこの「首塚」て京都の老ノ坂峠にある首塚のことでしょうか?
本当だったら、なかなかの心霊スポットらしいですが

今度、浅田農産船井農場半径30キロ移動制限区域内で
問題となっている鶏卵の廃棄処分施設のひとつが、
ここ
 京都市西部クリーンセンター/京都府京都市西京区大枝沓掛町26
http://www.city.kyoto.jp/kankyo/shisetsubu/shisetsuseibi/07seibucc.html
  タクマ式HC型強制循環型水管ボイラー
   1日当たりの処理能力300トンの焼却炉が2基あるが、
   ごみ量の減少に伴い、現在は1基しか稼働していない。

らしいです。
首塚は源の何とかがどこぞを荒らしまわる鬼を退治してその首を京都に持って帰る最中、
ここで突然首が重くなって持ち運びが出来なくなった為に埋めた、
と言われる場所だそうです。
首から上の病気に霊験あらたからしく詳しくは首塚の横の石碑に
長々と書かれてるそうです。 その先の病院も廃墟らしい。
 偶然でしょうか? ここに引っ張られてるのかなぁ? ゾクッ

[19]いつも通りさんからのコメント(2004年03月27日 01時09分32秒 ) パスワード
  

 「酒呑童子首塚」(首塚大明神)京都市左京区大江沓掛町

「由緒 平安時代初期。(西暦八百年頃)丹波の国大江山に本拠を構えた酒呑童子が、今日の都へ出て金銀財宝や婦女子をかどわかすなど、悪行の数々を行うので、人々の心に大きな不安を与えていた。天子(天皇)は源頼光等四天王に命じ酒呑童子とその一族を征伐するよう命じられた。源頼光等は大江山の千丈ヶ嶽に分け入り、苦心の後 酒呑童子とその一族を征伐し酒呑童子の首級を証拠に京の都へ帰る途中この老の坂で休憩したが、道端の子安の地蔵尊が「鬼の首のような不浄なものは天使様のおられる都へ持ち行くことはならん」と云はれたが相模の国の足柄山で熊と相撲をとったという力持ちの坂田の金時が証拠の品だから都へ持って行くと言って酒呑童子の首を持ち上げようと力んだが、ここまで持ってきた首が 急に持ち上がらなくなった。そこで一行は止むを得ずこの場所に首を埋めて首塚をつくったと伝えられている。酒呑童子が源頼光に首を切られるとき、今までの罪を悔い、これからは首から上に病をもつ人々を助けたい、と言い残したと伝えられ首塚大明神は首より上の病気に霊験があらたかである。 昭和61年3月 宗教法人 首塚大明神社務所」

とのことです。坂田の金時なんてウソ臭いし、どうなんでしょ?
[20]いつも通りさんからのコメント(2004年03月27日 01時12分38秒 ) パスワード
  

で、同じような話が

首塚大明神 亀岡市篠町王子 0771-22-0691
 首塚大明神例祭
源頼光が退治した酒呑童子を祀る。首から上の病に効くといわれています。

で、ここ亀岡には鶏卵の処理施設のもうひとつ
 亀岡市桜塚クリーンセンター/京都府亀岡市東別院町小泉桜塚6−6
http://www.joho-kyoto.or.jp/~f-machi/206/dekakeyo/005/
があったりして〜〜〜。ギャ〜
[21]いつも通りさんからのコメント(2004年03月27日 01時22分49秒 ) パスワード
  

こちらが酒呑童子の解説

---from エンジョイ亀岡 http://www.eonet.ne.jp/~enjoykameoka/  ---
 伝 説 の 亀 岡 第8話 酒呑童子と首塚大明神
http://www.eonet.ne.jp/~enjoykameoka/page/densetu/densetu8.htm

> 頼光が首を打ち落とすと首は空中に舞い上がり頼光の兜に噛みついた。
> これを振り払うと童子の首は再び空中に舞い上がり、
> 火を噴きながら都の方へ飛んでいき、丹波と山城の境、大枝の坂に落ちた。

舞台は丹波に...。
[22]暇潰しのギャンブラーさんからのコメント(2004年03月27日 01時31分04秒 ) パスワード
  

思わぬところで思わぬ歴史と繋がって現在に行き着きますね。

日本って不思議な国ですよね。
昔がしっかり生きている。
[23]いつも通りさんからのコメント(2004年03月27日 01時41分15秒 ) パスワード
  

それで酒呑童子はというと

「酒呑童子の誕生」―もうひとつの日本文化―(中央公論社 1992)
          神戸大学 高橋昌明教授

によると、通常、山賊、落武者、鉱山労働者、漂着西洋人などだが
 平安京に猛威をふるった伝染病(疱瘡)説

天皇御在の都に流入する災厄から清浄確保の境界が各所に設けられている。
「畿内堺十処疫神」「京城四隅疫神」「道饗祭」「宮城四隅疫神」など
[24]いつも通りさんからのコメント(2004年03月27日 02時15分02秒 ) パスワード
  

で、酒呑童子鬼伝説の大江山と向き合う鬼ヶ城山頂(544m)
 鉱山跡の洞が 茨木童子 (別の鬼)の住処

酒呑童子子分・茨木童子
内藤某を筆頭の狼藉に塩見横山氏(地元豪族)に滅ばされた。
茨木童子の像は茨木市役所前に立ってるとか...。(汗)

天正期には黒井城主赤井悪右衛門直正の弟赤井幸家が城塞を築いて北丹波進出
天正6年(1578)赤井氏、仁木氏は明智光秀が、鬼退治。この舞台が丹波町

その明智光秀も鬼となって京都市東山区三条通白川橋の首塚が...。(大汗)

「鬼」つーのは....。
[25]いつも通りさんからのコメント(2004年03月27日 02時20分13秒 ) パスワード
  

今も昔も伝染病を媒介する「カラス」だったりして...。(汗)

いえいえ、ひょっとして傲慢な「人間」だったりするかも?
[26]足立さんからのコメント(2004年04月06日 12時28分45秒 ) パスワード
  

足立一族の事跡を調べているときに、たまたま今東光の小説『蒼き蝦夷の血』に出会いました。今東光は中尊寺の管長をしていたときに藤原4代の事を小説に書いたのですが、その小説の中で、纐纈源吾盛安は安達籐九郎盛長の父と書かいています。

盛安は仁明源氏の一員であることは、岐阜県多岐庄中村にある纐纈神社の願文からも明らかで、藤原氏を名乗る盛長と父子関係はありえないし、もちろん文覚と同一人たりえません。

源吾盛安が出家した形跡は無く、頼朝の死ぬ前に岐阜県中村の地半分を「馬でも飼え」といって拝領し、そこの地頭になっています。この地方に纐纈姓が多いのはその子孫でしょう。そして「来年の春、今一度鎌倉に参れ、中村全部を取らせん」と頼朝に言われたのですが、その春を待たずに頼朝はなくなりました。

このように見てくると益々源吾盛安と文覚は別人であることが明らかではないでしょうか。

そもそも、盛安は平治の乱の直後から平家の被官となり、義経の三草山合戦の時は丹波篠山に居たことが『多紀郷土史考』にかかれています。そして丹波地方には安達姓が多いのも事実で、氷上郡春日町に伝わる安達系図にも籐九郎盛長の子孫であると書かれています。

そのご盛安は京都に戻り、宮廷にも出入りして双六に興じていたらしく、文治5年の秋、泰衡討伐に赴いた奥州で「池殿への恩は返せたが、髻を惜しまれた纐纈源吾盛安にまだ恩を返していないのが気にかかる」と頼朝が斎院次官親能に語った、親能がそのことを京都の源吾盛安に知らせたが、盛安はひねもす双六に興じていて、一向に鎌倉に下ろうとしなかった。と平治物語は書いています。
[27]足立 勗さんからのコメント(2004年04月06日 21時01分26秒 ) パスワード
  

凄い才能の兄弟ですね。
この兄弟のママだった女性はどんな女性だったのでしょうね。

暇潰しのギャンブラーさん、こんばんわ

ご存じのように、隆信の父は小倉三寂とも大原三寂とも呼ばれた藤原為忠の3人の息子の末子為経(寂超)で兄弟共に西行法師と親交があり、寂超は大原隠棲後その邸を歌会の場として提供し西行もよく通ったと云います。そのため隆信は和歌にも非凡の才を持ち、家集を残していますが、その父にもママからも絵の感化を受けた様子は見えません。

隆信の母は美福門院加賀で最初美福門院に仕え、そのご門院の娘、八条院に奉仕しました。そして早くに出家した為経と別れ、大恋愛の末俊成と結ばれ定家を含む8人の子を残しています。

このママが子供たちに伝えたのは絵や歌の才能ではなく、それらを受け入れて花開かせる為の能力、洞察力という脳細胞であったのかもしれません。

定家は俊成が90才まで生きて、手ずから歌道のなんたるかを身を以て教えました。

では隆信はどうかといいますと、早くに父に出家され、母は再婚し、一人母方の祖父の元で育ちましたが、絵の素養はどうも妻から得たらしく、妻の曾祖母が待賢門院に仕えた土佐局らしい、これは高階為行の娘です。その夫の清隆の子が『平家物語』に出てくる猫間の中納言光隆になります。

隆信とその妻の間に生まれた実信・右京大夫も画才にたけ、右京大夫は『更級日記』絵巻を描いています。

ようするにDNAは特殊な才能を伝えるのではなく、基本的な処理能力「パソコンで云えばCPU」であるよりよき脳細胞を伝えるのではないかと愚考します。
特殊な才能は後天的な周囲の環境によって花開くものではないでしょうか。
[28]えいちゃんさんからのコメント(2014年02月04日 16時07分55秒 )

本人によりコメントは削除されました。 2015年01月15日 23時07分03秒
この投稿に対する
コメント
注意  HTMLタグは使えませんが、改行は反映されます。
 http://xxx.xxx/xxx/xxx や xxx@xxx.xxx のように記述すると自動的にリンクがはられます。
お名前 (省略不可)
削除用パスワード (省略不可8文字以内)
メールアドレス (省略不可)
URL
 ホームページをお持ちの方のみURLを記入して下さい
◇Copyright(C) 2000 c-radio.net. All Rights Reserved.◇  DB-BBS-system V1.00 by Rapha. WEB design Rapha.