会議室:「彦島と日向の伝言板」

平家物語を題材にした文学碑完成

発言者:なかにし@彦島

(Date: 1998年 3月 25日 水曜日 11:53:20 PM)



 下関市阿弥陀寺町の阿弥陀寺公園に平家物語を題材にした文学碑が完成し、24日に除幕式が行われました。下関市では市の委託で彫刻シンポジウム実行委員会が1994年以来、種田山頭火や松本清張などの文学碑の建立を進めていて、この平家物語が7基目となるそうです。

 この平家物語の文学碑、25日の読売新聞によりますと、子を抱きかかえる母が貝に包み込まれた形のブロンズ像で台座の石には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」で始まる一文が刻まれているそうです。

 まぁ、建立そのものはいいんですが、なんで「祇園精舎の・・・」が刻まれているんでしょうねぇ?? 平家物語ファンのわたしとしては首を傾げざるを得ません。確かに、平家物語の中で知られているのはこの一節だけかも知れません。ですから、東京の街の真ん中に建てるならこれでもいいと思います。でも、平家一門の沈んだ壇ノ浦に面した公園に「祇園精舎の・・・」では、あまりに工夫が足りないというか、おもしろみがないというか・・・。

 下関の人間で平家物語を知っている人ならば、このシチュエーションに絶対「祇園精舎の・・・」は採用しないと思うんですよね。じゃ、何と書くかと言えば、それは人それぞれだと思いますが、たとえば知盛の「見るべき程の事は見つ」から戦いが終わって海峡が静かになるまでの一節かもしれませんし、同じく知盛の「戦は今日ぞかぎる。者どもすこしもしりぞく心あるべからず。天竺、振旦にも日本我朝にもならびなき名将勇士とといへども、運命つきぬれば力及ばず。」の一節かも知れませんし、あるいは二位の尼の「御心ざし思ひ参らせ給はん人々はいそぎ続きたまへ」あるいは、ト書きの「山鳩色の御衣にびんづら・・・」から「波の下にも都のさぶらふぞ」の一節かも知れません。

 すくなくとも、「祇園精舎の・・・」を刻んでしまったのは、平家物語の文学碑を建てたものの、下関と平家物語の関わりが十分に理解されておらず、その結果、文学碑が地についていないものとなってしまい、何とも残念です。

 わたしの持っている情報は読売新聞と山口新聞、それに市の配布物がすべてですので、建立に至るまでにどのような議論が行われたかなどは全く知りません。意見のある方はお願いいたします。


なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1998年 3月 25日 水曜日 11:55:34 PM)


 松本清張派が見た松本清張の文学碑、種田山頭火派が見た種田山頭火の文学碑についてのご意見などもぜひ伺いたいです。きちんと納得できる文学碑にできあがっていますか? その他にはどんな文学碑があるんでしょ?