会議室:「彦島と日向の伝言板」

平家都落ち

発言者:なかにし@彦島

(Date: 1998年 3月 22日 日曜日 11:17:17 PM)


 吉川英治の「新平家物語」、全16巻のうち、今、9巻を読んでます。12巻の屋島以降はもう読んでいますので、もうすぐ16巻読破になります。半年くらいかかってしまった・・・。

 9巻は平家の都落ちが書かれています。鎌倉の頼朝が兵を起こし、木曽義仲は北陸から都入りを狙っているところから話が始まります。

 一時は互いに相手の台頭をよく思わなかった木曽と鎌倉の味方同士の戦いで時は平家に有利に流れるかと思われましたが、木曽義仲が嫡男(正妻、この場合は巴との間に産まれた子)を鎌倉に養子に出す(人質ですね)ことで両者は結局和睦し、平家は義仲を討つために北陸に惟盛を総大将とした大群を派遣しました。

 ここでは若く見られないように白髪を染めて戦ったという「斉藤別当実盛の最後」が有名ですが、実際、平家は倶利伽羅峠以下の戦いで大敗し、平家方と信じて疑わなかった叡山が義仲と手を結んだことがきっかけとなり、いったん都を落ちて体勢を立て直すことになりました。

 このときのエピソードは詠歌百余首を師の藤原俊成に託し、一門とともに西走、一ノ谷で戦死したもののこのときの歌が俊成によって詠み人知らずとして千載集に入れられた忠度の話をはじめとして、妻や子を残して西へ下る維盛のこと、都に自ら火を放ち呆然と見つめる者のことなど様々ですが、中でも哀れなのは西に下る途中の関守の厠(かわや)が汚いからと、道ばたの草やぶですませる安徳帝の世話をする母徳子(建礼門院)のことば
「先ほどのように、関守小屋の厠はむさいゆえいやじゃなどと仰せられてはいけません。旅路の厠はみな御所のようではございませぬ。厩路(うまやじ)のお宿でも波路なら船の上でも、お嫌いなく遊ばねば・・・」
 もう、これは私たちの想像を超えている状況ですよね。つい昨日までは建築の粋を集めた豪華な館で多くの女官に傅かれて何不自由なく暮らしていた帝も、いまでは小さな駕篭のなかで都を捨てて落ちて行かなければならないわけですから。
 哀れではあるけれど、どうしてこういう状況になるまで、頼朝や義仲、叡山さらには洛中の貧民への対策が後手後手に回ってしまったかなぁ、と思うと残念やら腹立たしいやら・・・。