会議室:「下関と日向の伝言板」

平知盛が彦島城を築こうとした場所は??

発言者:なかにし@彦島

(Date: 1997年 6月 26日 木曜日 0:44:02 PM)


 源平の合戦の前、彦島にやってきた知盛が砦として築こうとした彦島城の場所はどこ
だったのか!!

 この会議室も発言が20を越えましたので、これまでの発言を議事録としてまとめて会
議室の軽量化を行いました。これまで同様、長文大歓迎ですので活発に利用してくださ
い。

議事録1はここをクリックしてください

 郷土史家澤忠宏さんの「彦島風土記」によると、彦島にやってきた平知盛は源氏を迎
え撃つ砦として彦島に城を築こうとしましたが、屋島のいが思いのほか早く決着が付い
たために、築城を中断した、という説が記されています。平知盛が彦島城を築こうとし
た場所は、今で言うと場所はどのあたりなんでしょうか?

 これまでの会議の経緯

・位置的には杉田岩刻画のあたりだという説がもっとも有力らしい
・弟子待には山頂になにか遺跡があるし瀬戸内も見渡せるが、当時の地形では麓に船が
 つけられない
・門司の不老というところに平家が臨時の御所を作ったといわれる場所がある
・よしたけさんによる源平の争乱について時間的に整理と門司仮御所に関する考察
・彦島の福浦湾は多くの船が停泊できる天然の良港
・門司の仮御所から死角になる位置が福浦から見渡せる
・ならざきさんによる福浦湾周辺説
・ならざきさんによる門司柳ヶ浦行在所の紹介
・よしたけさんによる源平の争乱についての調査

平家落人の眠る島「彦島」

なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 9日 水曜日 11:55:44 PM)


 なんか、会議室を整理したとたんに静かになってしまった・・・ (^^;)

 よしたけさんから、知盛の彦島城について現地調査のおたずねがありました。よしたけさん、
メールありがとうございました。会議室に引用可とのことでしたので、引用はしませんが、話
題を振らせていただきます。

 私も写真撮影に2週間に1回くらいは彦島を走り回っていますので、近いうちに彦島城関連
も出かけるつもりでしたので、もし、都合のつく方はご一緒していただけると心強いです。

 目的地は彦島と北九州両方攻めたいのですが、まずは彦島の方ということで、清盛塚、杉田
岩刻画、弟子待の巨石遺跡、本村の辰岩、くらいが実際に「物」があるのでよいのではないか
と思います。

 彦島城関連といえば、福浦湾や平家水などがありますが、前者はすでに陸地になっており、
今となってはどこがどこだかわからないですし、平家水も彦島有料道路の工事でなくなってい
ると本で読みました。川口浩探検隊ではないので、あてもなく山の中に分け入るのは・・・(^^;)

 そうそう、田の首の・・・なんでしたっけ? 平家長屋? 三軒長屋?(あと調べときます)
が、今どうなってるかも気になりますが。

 こんな感じで出かけようと思っていますが、「いっしょに行きましょう」という方おられ
ますか? 発言されていない方でももちろん大歓迎ですし、危険なところはないと思います。


よしたけ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 10日 木曜日 2:20:27 AM)

こんばんわ!
ええと、彦島城がらみで考えてみたのですが、平安時代の城ってなんか連想できませんね。
関東武士の館なんていうのは、歴史の教科書なんかに載っているんですけどね。
まあ、関東の武士は開発領主でもあるわけだし館は自分たちを守る城であるわけですよね。
さて、源平合戦当時あった城で関門地域にあるのは、山鹿秀遠の山鹿城、門司の門司城などみたいです。
特に芦屋ボートのある芦屋町にある山鹿秀遠の山鹿城は、平家の一行が太宰府から門司に移るさいにたちよった所だそうです。
それと彦島城を含めた平氏の防衛網を調べてみると面白いかもしれませんね。

今までは源平の争乱について断片的に知っているつもりだったんですが、改めて調べてみると知らないことだらけでした。
ぼくが一番興味をそそられるのは南北朝から戦国時代までの歴史なんですが、やはりいろんな意味で繋がりがあって源平の争乱もおもしろいですね。
源平の争乱について、もうちょっと詳しく調べてみようかな・・・
それと壇の浦にいたるまでの源平の争乱についてのくわしい紹介ホームページをだれか作ってくれないかな。


はまかわです。 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 10日 木曜日 9:27:35 AM)

はまかわです。
僕が毎月読んでる、月間マガジンの”修羅の刻”って格闘マンガがあるんですけど、
それが4カ月に渡って”源義経”をやってるんですけどね・・・
これが今月号は関門船合戦なんですけれど・・・
そのシーンで彦島もどど〜んとでてきます。そこで、平家側のセリフなんですけれど、
”本陣を陸にもたないかぎり、義経は奇襲ができない...海に本陣を構えよう・・・
さすれば、船で正面決戦をせざる得なくなる・・・船で戦う限りは平家に負けはない・・”
ってセリフがありました!!
まあマンガなんですけれど・・・なるほどな〜と思いました!!参考までに。


なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 11日 金曜日 11:20:01 PM)

 郷土史家 富田義弘さんの「彦島あれこれ」(赤間関書房:昭和50年)に、彦島城に関
する考察が数ページ書かれていますね。いま読んでます。


よしたけ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 12日 土曜日 1:06:12 AM)

よしたけです。

「修羅の刻」単行本が出ていたので立ち読みしました。
このごろ漫画読まないしな、また読もうかな。
なんか、お勧めはありませんか。
あっ! すいません脱線してしまいました。

郷土史家の富田さんって僕の近所の文房具屋さんの富田さんでしょうか。
それと、彦島城探検の参加者集まっていますか。
都合がつけば僕は参加したいです。
彦島本村3丁目在住のよしたけでした。


はまかわです。 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 17日 木曜日 5:54:20 PM)

これはもう、皆で実地見聞するしかないですね(笑)
午前中は中西さんに講習会してもらって!!
涼しい夕方からみんなでうろうろして!!

海士郷生まれのはまかわでした!!


よしたけ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 18日 金曜日 1:16:48 AM)

おひさしぶりです。
16日にちょっと用事があったので福岡県の苅田に行ってきました。
源平合戦に関係するところはないのかなと思い、苅田町歴史資料館に立ち寄ってきました。
学芸員だと思うけど資料館の女の人にいろいろお話しを聞いてきました。
苅田町には平清経塚というのがあるそうです。
また、小倉南区の横代のあたりにも安徳天皇陵があるそうです。


近藤栄次郎 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 19日 土曜日 3:58:56 PM)

 平家が彦島城を築いたとしても、また、築いたとしてもせいぜい、簡素な砦程度のものではなかったでしょうか。
それだけに遺構を見つけるのは難しいと思います。
位置の推定ですが、私も福浦湾の奥、杉田も有力だと思います。なぜなら、1200年代は地球温暖化で
海岸線はもっと奥にあったはずです。福浦町や江の浦町、角倉町にかって蓮田が多かったのもそのひとつの
証左だと思います。
 尚、こうした話を彦島第五連合自治会では、8月27日(水)午後7時より下関教育委員会の学芸員、
大濱博之氏を招いて聞くようになっています。お近くの方は是非、おいでください。場所は塩浜町民館です。


はまかわ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 20日 日曜日 1:30:56 PM)

これは聴きにいきたいですね〜。


なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 21日 月曜日 9:15:27 AM)

私も寄らせていただきます。


なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 21日 月曜日 11:21:09 PM)

朝はゆっくり書き込みする時間がなかったのであらためて・・・・

 近藤さん、こんばんは。お仕事ご苦労様です。

 遺構を見つけるのは難しいでしょうね。でも、彦島城のことについて思いを巡らすのはとても楽しい物です。
やはり、杉田説は有力ですね。でも、杉田のあたりは十分郷土史家の方々によって調査されていると思うので
すが何も見つからないというのは・・・・ひょっとすると、全く違うところなのでは・・・・などと想像した
りもします。

 時間的には簡素な砦しか作ることはできなかったようですが、それにしても瀬戸内や九州の水軍を(壇ノ浦
の合戦前のその時点では)味方に付けた知盛ですから、それらの資材や人力を投入すればある程度の形のある
物を作ることも可能だったかもしれないなぁ、とも思います。

 8月27日、まだ先の話で待ち遠しいです。


はまかわです。 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 22日 火曜日 9:42:04 AM)

いいんですよ〜。昔のことなんて、だれも確信をもって”これが正解!!”
なんて言えないんだから。物証も残ってないわけだし・・ここは皆で推理して
ここだけの見解があっても楽しいと思いますよ!!。
歴史を勉強する楽しさは絶対ここからはじまりますから!!


よしたけ さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 27日 日曜日 2:27:07 AM)

8月27日は8時まで仕事なので行けそうにありません。
残念・・・

さて、彦島城はどこにあったのか。
僕も杉田あたりではないのかなと思います。
同じ時期に平氏のよって造られた一の谷城も山の麓に作られていたと言うし。
もしも彦島城が堅固な城なら、壇ノ浦の合戦で平氏は彦島城に逃げて立て篭ったはずでしょう。
壇の浦の合戦に敗れたとはいえ北部九州、山口には平氏側についていた武士団があちこちに点在していたし。
それらの武士団の多くは鎌倉時代になっても生き残り、南北朝、戦国時代に活躍しています。
壇の浦合戦までは肥前の松浦党、芦屋の山鹿透秀、平氏の水軍によって関門海峡の制海権は平氏が握っていました。
そのため、赤間関まで平氏を追ってきた範頼軍や源氏側についた厚東氏は目と鼻の先ある彦島の平氏を攻めることができなかったはずです。
強力な水軍の力で関門海峡を支配していた平氏にとって、彦島城は海の近くに作られた平氏一族の本営だったのではなかったのでしょうか。
そのため、彦島城は立て篭って戦う目的で山の上に造られていなかったと思います。


なかにし@彦島 さんからのコメント
( Date: 1997年 7月 27日 日曜日 6:53:29 AM)

水軍といえば

「海と水軍の日本史」 佐藤和夫著 原書房

おもしろいです。源平関連の話題も周辺の水軍の紹介も含めてけっこう細かく書かれています。


HETER/きむら さんからのコメント
( Date: 1997年 11月 18日 火曜日 9:23:34 PM)

私は住んだことがないのですが、祖母の家がちょうど三菱杉田荘とヒエログリフの中間に位置しております。澤のおじさんの近所ですが基礎は築100年ぐらいのおんぼろ屋です。
母が幼少のころ、そこで寝るといつも怖い夢(いつも同じ夢!)をみてしまう部屋があったそうです。どういう夢かと申しますと、大きな3つの岩が現れて、真ん中の岩が一番
大きいのだそうですが、それがぱくっと二つに割れてなかから、古い衣裳をつけた女の人(幽霊なんだそうです)が現れるのだそうです。私は、彦島がかつてピラミッドだった
と信じているひとりなのですが、この家の地中深くになにか大きな秘密がかくされているに違いないと思い込んでおります。私の代になりましたら。全部掘り返して、この秘密
を暴こうと楽しみにしております。何年先になるかもわかりませんが、皆さんどうぞお楽しみにしていてください。
まじめな議論の最中に、まったく根拠のないおバカな飛び入りをお許しくださいませ。
しらなかったこと、色々お勉強させていただいてありがとうございます。


HETER/きむら さんからのコメント
( Date: 1997年 11月 18日 火曜日 9:54:25 PM)

はずかしいまちがいです。
ヒエロでなくペトロですね。
補足ですが、かの岩(母の見た夢)には、文字が沢山かかれていた
そうです。なんだかUFO&彦島のチャットのほうがふさわしい話題
のようですね。もうひとつちなみに、その夢のなかで、時々空に大
きな文字が浮かび上がることもあったと言っていたようにおもいま
す。なんの本だったか、俗に<トンデモ本>といわれる超古代文明
の本でも、彦島ペトログラフのことが取り上げられていました。
なじみ深いところについて書かれていたのでびっくりしました。
今度さがしてみて、あったら書名をおしらせします。次は彦島UFO
の方に参加しますわね。


いさぱっぱ さんからのコメント
( Date: 1997年 11月 19日 水曜日 1:18:30 AM)

きむらさんはじめまして

これって なんかすごい話ですね
もっと聞きたいです お母さんにもっと詳しく。。^_^


きむら さんからのコメント
( Date: 1997年 11月 19日 水曜日 1:10:48 PM)

いさぱっぱ様 はじめまして。

母にどんなことを聞いておけばよいでしょうか?

もうひとつ思いだしたことがあります。
この家には大きな酸だいだいの木があるのですが、住んでいないとは
いえ、年に一度はこのだいだいをとりに行っておりました。
私は小さいころから、昼間も暗がりの濃いこの家が大嫌いでしたので
あまり近寄りたくなかったです。
この家は不吉であるというイメージはどこで創られたのかは定かでは
ありませんが、実際ここに住んでいる間、ろくなことがなかったそう
です。祖父がふぐの毒にあたって大騒ぎになったり、祖母が何度も神
がかりのような状態になって一度に魚を16匹たべたとか、(山伏さん
を呼んできてエクソシストしたそうです。)泥棒がはいったりとか、
お盆にお墓参りから帰ってきたら、仏間に、髑髏のように錯覚させる
モノ(なにかわからないのですが)があったり等、ホンとにいろんな
話しをきています。これらは小さいころきいた話しで、祖母も亡くな
っておりますので、どこまで真実かはわかりません。
とりあえず。


あきもとユウジ さんからのコメント
( Date: 1998年 5月 12日 火曜日 7:13:26 PM)

いやぁ。このページ、偶然に見つけたンですが、面白い話ですね。なんか、卑弥呼の近畿説、九州説みたいで、読んでいるだけで興奮します。自分は昔、福浦湾から見える山の上に住んでいたので、個人的には、福浦説だったら良いなと思います。
確かに、当時の、船の大きさの事を考えれば福浦湾は最高の港だと思います。調査のほう、頑張って下さい。


なかにし さんからのコメント
( Date: 1998年 5月 13日 水曜日 0:13:12 AM)


 HETER/きむらさん、こんばんは。

 HETER/きむらさんの、岩の割れる怖い夢の話を読まれた服部さん(別のタイトルで持論を展開しておられます)から、それは「仏岩」じゃないか? って、メールをいただいたんですが???

 それから、怖い話の続きですが、その家の建っている場所ってひょっとして清盛の墓の上なのでは??

 現在の清盛塚はご存じの通り、ペトログラフの向かい側の山の中にありますが、澤忠宏氏の著書によると、この岩はもともとは山の中にごろんと放置されていて、それを便宜上今の位置に立てたもので、もともとここにあったものではなく、もとはどこにあったかわからないんですよね。で、元あった場所というのが紛れもない清盛の墓なわけですよね。

WS彦島


なかにし さんからのコメント
( Date: 1998年 5月 13日 水曜日 0:15:07 AM)

 あきもとユウジさん、こんばんは。
 ゆっくり楽しんでいって下さいね。